Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

不安定な空間

2009-04-10 12:33:44 | つぶやき
 境界域というのは不自然な姿を見せる場所だと何度も触れてきた。わたしは「不安定な空間」と表現するが、それを意識してみる人は少ないかもしれない。箕輪町と辰野町の境界線上で見たものも、視点を変えてみるとこの社会の構図を考えさせられるものとなる。

 境界線を境にして片方は高く片方は低い。ちょうどその境界線は小さな洞になっていて遠目では気がつかない程度に山に向かって谷が続く。ふだんはほとんど水の流れていない水路は、農業用の用水路となって下流域の水田につながっている。ふだんはそれでよいのだが、ひとたび雨が降ると、用水路では飲み込めないほどの出水となるときもある。当然のように高い側の雨が窪んだところに流れ落ちてくるわけで、用水路で飲み込めなければ溢れた水は低い方の土地へ流れて行く。それが境界線上のことでなければこんな考え方はわたしはしなかったが、境界線であるからこそこんな不安定な心配事をすることになる。溢れ出た水が宅地などに被害を与えれば当然土地の低い側で対応しなくてはならない。しかし極端なことを言えば、高い側だけの雨が流れてくるとすればの水はよその水ということになる。しかし対応せざるを得ないのは低い側を管理している者であって、例えば悪習を放っているとか騒音を発しているという具合に明確に害の発生源として相手にできるものならともかく、不可抗力的な現象に対して、誰が対応するかは被害を受ける側ということになる。

 今回のケースが必ずしもすべて土地の高い側から流れて来るものではないことから極端なケースにはならないが、境界域とは責任の所在も曖昧な空間となる。これを自治体の境界域に限らずさまざまな境界に当てはめてみると、結局被害を被るような場所に自らを置かないということが安全な、そして安定した空間を形成することになる。隣地とのトラブルなども同様に、自らが発生源になることも、また自らが被る側としても、それぞれに信頼関係は結べない可能性がある。だからこそ抑制すべき条件というものが学習される。しかし土地というモノはそう簡単に意図通り修正できるものではない。自然のなした空間でどう秩序を形成していくかということが、条件の異なる境界域では最優先されなくてはならなくなる。もちろんこうしたどちらともいえない空間を調整するために、広域管理する人たち、例えば県とか国とかが存在することになるのだろう。こんなことは当たり前のことではないか、と言われそうであるが、それが当たり前であったなら、境界域での不安定さはとっくに解消されてしかるべきなのに、相変わらず境界域に不思議な空間が存在している。逆に捉えれば、そうし不安定さを見せる空間に身を置かないというのが策であって、だからこそ境界域に身を置いたのは仕方の無いこと、ということになるのかもしれない。わたしはよく境界域に生まれ育った意識の問題を取り上げるが、そもそも中央に身を置く者が、周縁部のことを見下すのは当たり前の認識ということになるかもしれない。

 害を被る側が行動を起こさなければならないという構図は、人間社会に日夜繰り広げられる営みの証だと、この不安定空間は教えている。

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