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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

真田幸村終焉の地を訪ねて・後編

2014-10-18 23:43:11 | 歴史から学ぶ

真田幸村終焉の地を訪ねて・前編より

 心眼寺から少し西へ行ったところに円珠庵という寺がある。円珠庵というより鎌八幡と言った方が通りが良いのだろう。「鎌八幡大菩薩を宿すエノキのご神木に、真田幸村は鎌を打ち込んで、真田丸での戦勝を祈願したといわれ」たらしい。「寺に残る言い伝えでは、真田丸で勝ったあと、幸村はお礼に鎌八幡の祠を新しくしました。真田丸は、西の端は当寺、東は三光神社、南は高津高校まで続く大きな砦であったといわれています」とは「真田丸はどこにあったか?」に掲載されている円珠庵住職の話である。さらに次のような話を紹介している。

真田丸を、今の知識でイメージしてはいけません。昔の出城です。野菜や米を運びこんだり、排泄物を外へ出したりするのに、民間の人も自由に出入りしていたはず。そんな中にまじって、鎌八幡の霊木を慕う人々が陣所に入り、手を合わせていた。それを見た幸村が「なぜ信仰しているのか」と聞くと、みんなが「お力のあるご神木なので」と言うので、「それではわたしも祈願しましょう」と、鎌を打ち込んで必勝を祈願した。すると、大いに戦勝をあげたため、幸村はお礼の思いをこめ、くずれかけていた祠をきれいにして、大きく建て替えた。これが、「大坂冬の陣」について寺で言い伝えられてきた話です。

 現在も境内にエノキの大木があって、鎌が何本も打ちこまれている。鎌は祈願者によって打ちこまれるもののようで、柄に「悪縁断」とか「悪縁切」といった文字とともに祈願者の氏名と住所、そして生年月日が書かれている。ちなみに祈祷料は2万5千円以上と書かれていた。エノキの前の覆屋には提灯や絵馬がたくさん祈祷されていて、それらには戦国武将の小早川秀秋の旗印のような絵柄が描かれている。このエノキの大木は大阪空襲で被害を受けたというが、根元から生えた新しい芽が育ってこれまでになったという。その経緯からしてもあらたかな木に違いない。

 さて南下して大阪の陣で豊臣方として活躍した薄田隼人の墓があるという増福寺まで訪れてみた。この寺では今、墓地の整理をしているようで、古い墓石に盛んに墓石の縁故者を探しているという告知が貼られている。先ごろ「墓はいらない」で述べたが、無縁の石塔が溢れ返っている現実がこんなところにも垣間見える。我が家のあたりではこんな古くて立派な墓石はめったにないようなものまでそんな貼り紙がされていて、まさに歴史が消えてしまうのではと危惧するところだ。もちろん大阪あたりではこの手のものはいくらでもあって、歴史価値はそれほどないものなのかもしれないが、これが現代の墓事情である。

終わり


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