写真1 大鹿村引ノ田
写真2 大鹿村上蔵
写真3 大鹿村文満
これまで①から③に掲載した写真は、参考に掲載した木曽福島黒川谷のもの以外はすべて10月10日に撮影したものである。そして同日大鹿村も訪れている。大鹿村においても残っている稲ハザは少なかったものの、大河原の3か所で稲ハザの写真を撮ってみた。まず上青木の引ノ田である(写真1)。標高は950メートル近い所であるが、比較的西日の当たるところである。八の字に交差した支柱が連続したもので、1段掛けである。次の写真2は上蔵の中でも標高の高いところ(1020メートル付近)にあったもので、引ノ田のものと同じ作りであるが、引ノ田のものより支柱間隔が広いようだ。我が家のハザは義父がハザを指導していた時代は糸を張ってまっすぐになるように意識していた。そうこうしているうちに妻の叔父さんが作業の中心的立場になると糸は引かず感覚で杭を打つようになり、わたしの時代になってからは、杭棒がほぼ同じ長さで削ってあることからその杭棒を物差し代わりにして支柱間隔を決め、ハザ杭の八の字の間隔も杭棒の長さに等しくとるようにしている。ようはいかに揃った杭棒に削っておくかということになるのだろう。さまざまなハザを見ていると杭棒の長さがばらついていると思われる例も少なくない。上蔵の例を見ると支柱間隔がばらついていることが解かる。それに比べると引ノ田のハザの支柱はきれいに揃っていることが解るだろう。
写真3は昭和36年の通称三六災と言われている災害で大崩落が発生した大西山の麓にある文満のハザである。標高はずっと下がって700メートル付近。こちらは木の支柱の間に鉄パイプの支柱が混ざっているという、飯田市近郊で見たものと似ている。3か所とも1段掛けで、大鹿村という谷あいでありながらも多段掛ではない。
写真4 泰阜村明島
写真5 泰阜村三耕地
さて、翌週の15日に訪れた泰阜村で撮影した例をあげておこう。泰阜村でも比較的日当たりの良い田本を訪れたので、ハザを探したものの見ることができなかった。飯田市から田本までの途中の明島では固定式のハザが幾例か見られた(写真4)。ここの場合売木村とは異なり、明らかに日当たりが悪いがために多段掛けにして日照時間を求めていると思われる。標高は大鹿村文満の写真3とほぼ同じである。泰阜村でもこのような固定式多段掛けというのは稀で、ほとんどは臨時のハザで1段掛けである。そんな例が三耕地のハザである(写真5)。標高は600メートル弱で、ここのものも鉄パイプの支柱と木の支柱を混在して利用しているが、木の支柱の材料は広葉樹のようである。やはり天端にブルーシートを掛け雨除けとしている。
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