「墓が捨てられる」、お彼岸はもちろん正月にもきっちりと墓参りをしている人たちには衝撃的なフレーズだろう。しかし、こんな時代がやってくることは、わたしたち夫婦はすでに20年近く前に予想していた。NHKのクローズアップ現代の今日のテーマは「墓が捨てられる-無縁化の先に何が-」であった。予想していたとまで断言してよいか微妙なところは、「墓が放置される」をもって捨てられるとしたら正答だが、墓石がゴミのように捨てられることを「墓が捨てられる」と捉えるなら正確には「予想」に値しなかったかもしれない。さすがに番組の中で報じられたように墓石が捨てられる光景までは想像していなかった。墓石にはそれぞれの家の歴史が刻まれているし、それは地域の歴史につながる部分もある。しかしその墓石が遠く離れた地に捨てられるようになると、もはや「歴史が捨てられた」に等しい。それをたどって歴史の糸を探るのは不可能に近いだろう。「墓じまい」という言葉が番組では流れたが、歴史上は辞めて欲しい行為であるが、番組では「放置されるよりはましだ」と報じた。放置されることによっての問題が確かに大きいのだろうが、こと「歴史」という観点では残念な行為である。
それにしてもこれほど墓が邪魔ものにされる時代が早くやってくるとは、それほど急激に高齢化による弊害が顕在化しているということだろう。墓参りをする人たちについて番組のコメンテーターも触れていたが、篤い墓参りをする人たちは先祖に参るのではなく、近親の死者を参るのだと。個人を供養しているわけで、たまたま墓がよりどころとなっているだけのこと。高齢化社会に至って、超高齢で亡くなった人を供養のために参る人は今後減少していくはず。なぜならば、死者との縁が薄いからだ。時代は独り暮らし、あるいは小家族暮らしとなり、そもそも死者と身近に接しながら見送ることは少なくなる。今風の墓の捉え方なら墓参りをする理由がなくなるのである。
さて、以前にも何度か触れたことだが、我が家では「墓は造らない」ということで合意した。この地に住み始めたころのことだから、20年とまではいかないまでも15年は前のこと。それまでは「墓を探さなくては」と真剣に考えていた。ところが「造るとしても慌てることはない」となり、さらにそもそも自分たちのあとはどうなる、と考えると必要性を抱かなくなったわけである。いずれ人口減少するこの社会、加えて地方など墓ばかりではない、管理しきれないモノが急増すると考えた。そもそも「死者は忘れられてよいもの」と考えている。個人供養化した墓ならば、なおさら思いを繋ぎとめてしまうようなモノを残すべきではないと思う。負担になりかねないモノを残さない、人口減少時代の鉄則である。
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