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遠ざかる記憶 “ほ場整備” ⑨

2018-06-27 23:20:44 | 農村環境

遠ざかる記憶 “ほ場整備” ⑧より

竣工祈念誌より

 

 飯島町で行われた3地区のほ場整備における補助残についてどれほどあったかについては、町誌はもちろん、竣工祈念誌の中にも記載がないことについて「遠ざかる記憶“ほ場整備”①」で触れた。手元にある竣工祈念誌の中に、補助について記載のあるものがあったので、ここで触れてみよう。

 飯島町3地区は昭和49年度着工、昭和60年度竣工と、約10年間で1064ヘクタールという大規模なほ場整備をなしとけだ。当時のほ場整備では珍しいことではなかったのかもしれないが、いわゆる換地という権利関係の処分まで含めてこの機関でこなしたというのは、今の関係者の方たちには「信じられない」と思うだろう。100パーセント不可能だと言える。もちろん時代背景がそこにはあるが。手元にある竣工記念誌は、「澤底地区竣工記念」というもの。平成12年に発行されたもので、土地改良総合整備事業という、団体営で行われたほ場整備である。これも、今では「ありえない」事業かもしれない。というのも、今はこの規模でも県営で実施される。澤底とは、上伊那郡辰野町の東部にある地区。澤底川沿いに展開する谷地地形の水田地帯である。事業規模は37.4ヘクタール。平成3年度に始まり、平成11年度に換地処分まで終了している。9年を費やしており、この間に澤底川の付け替え工事や、埋蔵文化財調査が行われている。総事業費約5億1千2百万円のうち、国・県費約3億7百8十万、町費約8千4百万であり、残りが地元負担である。ようは23パーセントにあたる1億2千万をは地元が支払っているということになる。反当32万円にものぼる。現在だったら、誰もこうした事業をやろうと思わないだろう。平成1桁時代までが、こうした負担があってもほ場整備をするという気持ちがあった最後であろう。その後は採択要件が緩和されたり、さまざまな目的別ほ場整備が仕組まれていき、負担額は軽減されていく。もちろん採択要件という敷居が高くなって、単純にほ場整備をすれば良いというものではなくなっていく。それまでも転作割合などの要件はあったが、それほど敷居が高いと思うようなものではなく、また、自然と転作に対しての抵抗感はなくなっていった。それらの背景にも政治的施策が絡んだ。冷静にこれまでの農村を見てみると、こうした政治的背景によって今が仕組まれてきたと言えよう。それを「翻弄された」と一言では片付けられないほど、地域ごとの差異も大きい。

 余談であるが、写真の右側で谷が二股に分かれる。この付け根に銘文上日本最古と言われる、澤底の双体道祖神が祀られている。

続く


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