Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

六道の森へ

2021-08-06 23:16:07 | つぶやき

賽の河原

 

右手の杉の木の下に井月の墓はある。左手の森が六道の森

 

井上井月の墓

 仕事で六道の森の脇を通った。今日は8月6日であり、六道地蔵尊の縁日である。まだ新型コロナウイルスが蔓延する前の3年前に訪れており、その際のことは、「六道地蔵尊の祭り」に報告した。今年は美篶上川手の当番年だという。かつての老人クラブ、現在は寿クラブと言うらしいが、高齢者の方がたが今は世話人となって、祭りを運営されている。ようは寿クラブの収入源だとも言う。とはいえ、30年ほど前訪れた際の六道とは、だいぶ様子が違う。ようは参集する人々の数が減った。人が減れば老人クラブの人たちも、収入減となってしまうわけだが、この30年ほどの変化の先、六道地蔵尊はどう人々のこころに残っていくのか、この後も時おりのぞいてみたい。

 わたしが訪れた昼直前には、もうほとんど片付いていた。もちろん森の中だから、日当たりの良いところに比べれば涼しさを覚えるが、今年の暑さはなかなかのもの。日中でも最も暑い時間が訪れる前に片付け終えようと、盛んに片づけをされていた。毎年昼前には片付けているようで、さすがにこの時間帯になると仏様を迎えにくる人はいない。聞くところによると、今年最も早く新盆を迎えに来られた方は、昨夜の午後10時半ころだったという。なるべく早く迎えに行こう、という意識が今もあることをうかがわせる。

 この六道の森の北東500メートルほどのところに俳人井上井月の墓がある。見た目は質素な墓石だが、杉の根元に祀られている。説明版があり、墓石には「降るとまで人には見せて花曇り」と刻まれているというが、実際にその字を読み解くほどではなく、風化が激しくて判読不能である。今でこそここは水田地帯となっているが、美篶地区の段丘上にあたるここは、かつては山林か原っぱのようなところだったのだろう。六道井といわれている用水路の開削によって、この地は水田となった。これは高遠藩によって直営事業としておこなわれたというもので、嘉永3年(1850)から4年に六道井の先に六道堤を建設している。それをきっかけに現在の美篶末広の集落が拓かれる。堤といえば普通は洞のようなところを利用して造られるが、六道の堤は3方が盛土された言ってみれば天井堤のような姿を見せる。その後六道の森周辺は、現在のような水田地帯となった。井月は明治20年に亡くなっているから、ここに埋葬されたころは、すでに水田になっていたのだろうか。


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