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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

蚕神のこと

2021-08-03 23:58:04 | 民俗学

この繭額は本堂向かって右側に掲げられているもの

 

 真光寺の本堂に入ったところに個人の名前ごとに繭が並んだ標本のような額が二面奉納されていて、眼を引く。「繭額」と呼ぶらしく本尊向かって左側に掲げられる繭額について次のように解説されている。

養蚕家百十人が繭玉を五つずつ貼り奉納した絵馬。十年以上豊作であった者には赤丸、五年以上豊作だった者には黒丸を付けてある。養蚕業の盛んであった信州ならではの絵馬である。

というもので、明治38年に奉納されたもののよう。こうした額が奉納されているということは、ここの庚申さんは養蚕の神様でもあったのだろう。実は仲間から、南信と違ってこのあたりでは蚕神に代わって祀られた神様があったという。したがって南信ほど「蚕玉大神」とか、あるいは桑を手にする女神を象った蚕神は少ないという。ふだん伊那谷で多くの蚕神の石造物を目の当たりにしていると、それがあたりまえのように思ってしまうが、それは伊那谷特有のもの、ということになる。ちなみに『梓川村誌自然・民俗編』(平成5年 梓川村誌編さん委員会)を紐解くと、そもそも蚕神に関する記述はなく、また養蚕に関する記述も多くない。巻末にある石神仏所在一覧に蚕神を追うと、

上立田立田坂「蚕玉神」大正9年
上立田三太夫屋敷「蚕玉大神」
下立田中荒井北水田内「蚕魂神」大正14年
下立田上荒井権現「蚕霊神」昭和2年
上角神社境内「蚕玉大神」
下角十五社境内「蚕玉神」明治25年
小室諏訪神社境内「養蚕大神」明治23年
北北条大宮境内「蚕玉神社」明治27年
北北条天狗岩頂上 北条唯一講嶽明行者 昭和4年
大久保上耕地「蚕魂神」明治21年
横沢東下「蚕玉神」明治24年
横沢十二区「蚕玉神」大正13年
横沢お宮南「蚕玉神」昭和2年
横沢西下「蚕玉神」昭和18年
岩岡岩岡神社境内「蚕玉神」昭和7年

以上15例掲載されている。ない集落もあれば横沢のように集落の中のさらに小単位で蚕神が祀られているところもある。伊那谷では横沢のように集落内にもいくつもの蚕神が祀られる。掲載されているもの以外にもおそらくあるだろうから、けして少ないわけではない。やはり石の蚕神はある程度存在することがわかる。とはいえ、南信ほど蚕神に「頼る」ことはなかったのかもしれない。ちなみに長野県民俗の会が発行した『長野県中・南部の石造物』ではたくさんの石造物が紹介されているが、タイトルに「蚕玉様」とか「蚕神」を見るのは南信のみで、他地域には登場しない。しいていえば、中信において大黒様を蚕の神様として祀る例を文中に探すことができる程度。けして養蚕が南信だけではなかったことを考えると、なぜ南信は蚕神だったのか、考える必要があるのだろう。


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