Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

家の近くなのに荒れ放題の田んぼ

2021-07-19 23:41:50 | 農村環境

 一昨日、妻の実家の畔草刈後に、少し暗くなりかけたころ、シロを連れて散歩に出かけた。この集落は外で働くのは我が家ばかりで、とりわけ薄暗くなったころ、野で働く者はいない。ようは人と会うこともない時間帯なので、気安く散歩にも出かけられる。いろいろあるから、ご近所の人と顔を合わせるのは、ストレスが溜まる。

 ふだんはあまり足を進めない道を歩いて気がついたことがあった。ふだん我が家から見える空間は、確かに荒れている水田もあるが(そもそも我が家の水田も荒れているが)耕作している水田もあって、「荒れ放題」という印象はない。山の中にしては、まだまだ耕作されている方、という印象があった。しかし、よく考えてみるとそれは見えている空間であって、家の裏側の方にある畑や水田で作業をしていると、住んでいるのに屋敷周りの水田を荒れ放題にしている家も珍しくはなかった。だから、空間的には、そこそこ耕作放棄地が見られる空間、ということになるだろうか。もちろんわたしが妻の実家に通い始めたころは、こんな光景ではなかった。見えている耕地は、ほぼみな耕作されていたと記憶する。我が家も、当時は地目上の「田」は、ほとんど耕作していたようだ。しかし、奥まった道もないような場所にある小さな水田は、先に耕作放棄するようになり、しだいにそれは膨らんでいき、いまや道端の「田」も、耕作放棄している土地がある。周囲の見た目もあるし、家が隣接していたりすると、視線が厳しいため、そうした水田はいわゆる肥培管理をしているが、奥まったところにある「田」には、ほとんど手を入れなくなっている。とはいえ、ため池の草を刈った際にその処理に困ったりするような「田」は、手を加えたくないほど荒れているが、草刈は年に2度ほどするようになった。すべて、周囲の人々との絡みがあってのこと。しかし、だからといって感謝されることはない。

 さて、我が家から見える空間はそんな状況だが、散歩ではふだん家から見えない空間にも及んだ。すると、久しぶりに見た空間は、「荒れている」を強く印象付けた。この地域は、単純に手がないからとか、耕作しづらいから、という理由だけではなく、耕作していない土地がある。我が家もそうだが、水利に課題がある。ムラづきあいは、とても仲のよい人たちで「まとまっている」と思っているようだが、実は問題を孕んでいる集落。根本的な構造上の問題を解決できる人間関係が、築かれていないのである。わたしの研究課題でもあって、集落の記録簿や、水利上の記録簿を、本日記でもいろいろと調べてきたところ。家と家の間にあるような、いってみれば身近な耕作地でありながら、耕作放棄が多いのである。この実情は、また後日触れてみたいところだが、こういうケースは、たくさん見てきている山間の集落でも、よほど山の中のすでに空き家ばかりの空間でなければ見ない光景だ。ところがこの地域、空き家はほとんどない。なぜこのような構造、構成、そして暮らしが営まれてきたのか。やはり、究明しなければならないムラの一事例と言えそうだ。


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