Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

虚像

2017-11-01 23:34:38 | 

 気がつくと「それっておかしいんじゃないの」と思うことは度々あるが、それを追求する間などあるはずもない。世の中にはそういうことだけを追求する人もいるようだ。それを暇などとは言わないが、そういう人も必要だという与論はたくさんある。でも、合理性から考えると、そして人の意識から照らし合わせると、とても人間的な発想だとは、わたしは思わない。なぜならば、今のわたしたちは、日々そうしたことの繰り返しの中で暮らさざるを得ないからだ。「共感」という視線なら、絶対に気がついたことを「忘れ」、そしていつしか「あたりまえ」と思いながらも、支障のない社会に適合していく。

 とはいうものの、そうした「どうでもよいじゃないか」と思うようなことをことさら突き詰めて、揚げ足を取るような人もいるし、気がつけばそうした視線が常識だと与論になって跳ね返ることも度々ある。なんと「住みにくい世になったものだ」そう思うのはわたしばかりではないだろうが、それもまたごく一時の疑問符として忘れ去られていく。芸術とか、音楽とか、いわゆる文化とは、そうした世界から隔絶したものなんだと、そんなときは思う。どんなにわたしたちを明るい世の中に導こうとしても、それが虚像だと悩む人も多い。世の中に発生する意味不明の事件も、理解しがたい行動も、そうした日常の歪みの心理の現れだと思う。綺麗事は言ってみても、それを捻じ曲げる常識もたくさん転がっている。

 平等と問われる空間に、果たして今何があるのか、たとえば教育の現場はそんな矛盾ばかりで埋め尽くされていないのか、無知なわたしたちには何も見えない。そう、カモフラージュされた虚像に象徴だけが拡大していく。こころ痛む人々が吐く言葉は、遠く及ばない未来に跳ね返されるばかり。


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