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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

めっつり、はなっつり

2018-03-12 23:02:28 | 民俗学

 “「遙北石造文化同好会」のこと 後編”で述べたように、マイナーな存在であり、公開されなかった同会の発行物は、そもそも情報提供、あるいは交換という目的で会員に配布していたもので、ウェブ上では「遥北通信」に掲載している14編のみ公開してきた。ここでは、公開することに意味があるという観点で、非公開の短文の記事をとりあげてみる。

 先ごろ辰野町飯沼沢のことを触れたが、かつては二月八日に行われていたという数珠回しも、実施日が変わり、また担い手の変化もあって、「二月八日」という単語すら忘れられているような状況にあった。そもそも「二月八日」いわゆる「コトヨウカ」は存在しているのか、疑問符すら浮かぶほど、実施日の変化はかつての姿を見失わせている。そう考えると、日本中の数多い行事から、その意図が忘れられていく例を見たことになるのだろう。上伊那地域では二月八日に対する認識が薄いことを感じたわけであるが、次にあげる「遙北通信」95号(平成2年4月15日発行)に掲載した「めっつり、はなっつり」も二月八日に行われたと言われる行事であった。かつて「コト八日を探る⑥」において、松本市入山辺の二月八日に行われる道祖神への餅の塗りつけと共通していることを触れている。


めっつり、はなっつり     本ページ管理者 (「遙北通信」95号 平成2年4月15日発行)

 二月八日の事八日を道祖神の祭りとしてお参りし、餅を供えこの餅を道祖神に塗ったり、交換し持ち帰り子供に食べさせる風習は各地で行なわれていた。長野県小県(ちいさがた)郡真田町戸沢の藁馬引きや、中野市小沼の餅替えなどの行事は著名なものである。
 伊那谷においても、藁馬に餅を付けて道祖神にお参りした所が報告されている。伊那市手良(てら)や富県(とみがた)新山、東春近沖、長谷村非持(ひじ)、高遠町芝平などで行なわれていた(『長野県上伊那誌・民俗篇』第6章第3節)という。
 藁馬引きとは別に、事八日に行なわれている道祖神行事で上伊那地方特有の風習に「めっつり、はなっつり」がある。その事例報告は次のようなものである。

・つきたての餅を二つつとっこへ載せて行って道祖神へちぎって付ける。「めっつりはなっつりのお方(妻君)をよぶように」と言う。めっつりはなっつりは醜い女ということだ。道祖神は意地が悪いから、そう言うと器量の良い嫁を世話してくれるのだ。二つ餅を持って行って一つはちぎって付け、一つは食べてしまう。(辰野町伊那富-『伊那路』第16巻第12号)

・道陸神その他神様へ「めっつりはなっつりを付けてくる」といって、つきたての餅を二つちぎって丸くして、一升桝へ米粉を敷き、餅を入れて行く。そして並んでいる地蔵でも馬頭観音でも全部の神仏へ、顔やその至る所へちぎって付ける。風邪をひかないといって子供は先の人の付けた餅を取って食べる。二つのうち一つは付け、一つは残して来て家中で食べた。風邪をひかないというお護符だ。めっつりはなっつりの意味は、道陸神様はあまのじゃくだで、縁結びを頼むのに「器量の良い人を」というと贅沢だという。それで逆に「目吊り、鼻吊り」というと良い人を世話してくれるのだ。(辰野町川島源上-『長野県上伊那誌・民俗篇』第6章第3節)

 これらの事例でもわかるように、お事の餅をついてそれを道祖神の碑へ付けて良縁を願う行事は上伊那北部を中心に各地で行なわれていた。中には「めっつけ、はなっつけ」とか「めっつき、はなっつきいい嫁様世話してくれ」といった唱え言葉もあるが、「めっつり、はなっつり」というのが本来のようである。

 

 写真の万五郎の道祖神の口もとに白いものが付いている。まぎれもなく餅である。これは今年二月に、辰野町の道祖神を回った折に見付けたもので、現在でもこの風習が残っていることを知った。必ずしも本来の意味で行なわれているかは確認せずわからないが、風習が残っていることは確かである。
 ちなみに万五郎の道祖神であるが、「万延元庚申年 万五良村中」の銘文がある。頭上には一羽の鶴が羽を一杯に広げて舞い、基壇には大きな亀が尾を長々と曳いている。『朝日村史』によるとこの碑は同じ村内の鴻之田から嫁入らせてきたものであるという。ある朝、万五郎の人たちが起きてみると、道祖神が見当たらない。代わりに「御祝儀」と書いた紙包みが置いてあった。御祝儀の紙を封じる糊の代わりに使った飯に粟が沢山混じっている。その頃一番粟飯を食べていたのは、北大出の三ツ谷だということになった。三ツ谷の人たちは「高遠様へ訴える」と言われてやっと白状した。万五郎では後任に鴻之田の道祖神を選んで運んできた。そして、「実は……」と鴻之田へ御祝儀を持って挨拶に行き、皆で快く酒宴をして帰った。そして二度と嫁に行かぬように「万延元庚申 万五良村中」と彫ったという(『伊那谷の石仏』竹入弘元著)。

 

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