Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

送別会

2018-03-29 23:19:37 | つぶやき

 会社の送別会だった。業務量が減るため一人減となっての送別会である。最も若い彼が異動となった。致し方ない人事である。ただし彼は伊那の出身ではないから望むところだったかもしれない。息子とはひとつ違い、比較しようもないが同じ年恰好だから自ずと息子をトレースしてしまう。よその会社にいてわが社に鞍替えして3年、一応一人前と言われてよい経験年数である。息子も民間で2年働いた後に公務員になったので、まさに彼と同じような環境だ。彼の姿は会社で追っていたから、息子とはちがってその姿と様子は見えていた。今どきの若者とすれば、3年では「できる方」とも捉えていたし、周囲もそう捉えていた節がある。息子の体たらくを見ていると羨ましいようでもあった。

 わたしが人のことを言えるような人生を歩んできたわけではない。好き勝手に物言いをして、周囲との軋轢も多々あった。とはいえ、初任地で最も年の近かった今は亡き先輩には、叱られたという記憶がない。思うように実践すると「いいじゃないか、どんどんやってみろ」と後押しをされた。故に、家に帰ってからも夜中まで当時入ったばかりのパソコン以前の計算機でプログラムを考えた。当時のわたしが師と仰ぐ部署のトップには叱られることもあったが、今も会うたびに「〇〇君はよく働いたから」という言葉をもらう。確かによく働いたが、前出の彼ほど会社にはいなかった。そりゃそうだ、当時の会社の出先では、そんなに遅くまで残業はしなかった。そう考えると、今同じ部署にいる若い人たちはよく会社にいる。それをもって「よく働いている」と言ってよいかは微妙だ。だからこそ、わたしはわが師と仰ぐ先輩の年になったとき、今の彼に「よく働いたなー」とは声をかけないだろう。おそらくわたしが「よく働いたなー」と言われる所以は、人のために働いたからだと思う。与えられたものだけをしていたわけではない。だからこそ、わたしは人よりやったという自負が若いころはあった。周囲の誰もが彼を認めたとしても、わたしが言われたような表現を彼には与えられない。

 もちろん彼の送別会だから、出先のトップとして、彼を称える言葉をはなむけの言葉として述べた。そしてそれ以外の言葉を相対する場でおくろうと考えてもいたが、結局彼はわたしにその時間を与えてくれなかった。わたしから投げかける手もあったが、あえてそれはしなかった。自分で考えてほしい、それにつきる。が、今は「言わないと分からない」ということもよく言われる。彼は嫌な場面は敬遠してしまう。すっかり彼への羨望の目は消えてしまった。

 奇しくも今日は息子も送別会だという。たかが2年目なのに、町民の皆が注目している重要課題を背負っていて、日々家に帰ってくるのは遅い。昨日仕事の用事で息子の勤めている役所に顔を出すと、役所の要職の方から「今は大変な時」と労いの言葉をもらった。わたしがもらっても致し方ない。精神的には強いと思っているが、今のままでは「まいってしまわないとも限らない」とも聞いた。前出の彼に羨ましいと思っていたが、今の息子を見ていると、そうでもないようだ。盛んに今日の送別会では、二次会に繰り出して皆がふだんの鬱積を晴らすかのように声を張り上げていた。場面からしてそれは当たり前のことなのだが、人はそれだけで判断するものでもない。息子は一滴も酒を口にしない。そういう人もいる。そんな息子は、送別会の後に仕上げなくてはならない仕事があるといって職場に戻るという。案の定、わたしは終電で帰ったのに、息子はまだ帰っていなかった。

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