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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

陰石

2018-03-18 23:09:00 | 民俗学

 

 伊那市長谷中尾の中原入口に石仏が10基余並んでいる。その右端に写真のような変わった石造物がある。「陰石」である。陽石、いわゆる男根系のものはよく見ることはあるが、陰石が、それも単独である例は珍しい。平成9年に長谷村石造文化財調査委員会が編集した『長谷村の石造文化財』の中では「陰石」と表していて、これを道祖神とは扱っていない。同様によく引用させてもらっている『長野県上伊那誌 民俗編』(昭和55年)においても道祖神一覧に記載はない(備考欄に「半加工陰石あり」と書かれているが、1基として勘定はされてない)。いっぽう同じ中尾の下中尾才の神の丸石道祖神のある辻の石仏群の中には、奇石があり、同様に『長谷村の石造文化財』の中では「陽石」、『長野県上伊那誌 民俗編』の中では一覧になく、中原入口の陰石同様に備考欄に「陽石あり」と記載されている。長谷村には石仏群の中に奇石(陽石とも陰石ともはっきりしないものも含め)がある例が多い。それらを単独で「道祖神」として扱っている例は『長野県上伊那誌 民俗編』にはいくつか見られる。それしかない場合で、「道祖神」と呼ばれている例があれば1基としてみなされて紹介されているが、極めて道祖神としての扱いは曖昧である。前掲書はいずれも竹入弘元氏が記述されており、奇石の類も道祖神の一種という捉え方はされているが、明確に「道祖神」という認識がされていない限り、あえて「道祖神」とは判断していないようだ。

 とりわけ奇石の類は、別のはっきり「道祖神」と明記された石碑、あるいは双体道祖神の影に隠れてしまい、自ずと文字碑や双体像にその座を奪われた形になる。以前も述べた通り、人々が「道祖神」とは「これだ」と認識するようになると、それ以外の道祖神ともはっきりしない類は、記憶から消されていくのも事実。今となってはその形から「陽石」あるいは「陰石」と捉えて単独の石造物として扱われているが、当初はどのような意図で置かれるようになったかは、もはやはっきりすることはできない。そして地域の人々の伝承も途絶えてしまって、このよく分からない石造物の存在すら忘れられてしまうわけである。たとえば信仰のようなものが残存していればその存在は認識されようが、今となってはその形から判断せざるを得ない状況である。

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