Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「遙南石造美術同好会」のこと

2018-03-01 23:12:49 | つぶやき

 遙北石造文化同好会のことは何度か触れた。かつて、と言ってはいけないのだろう、なぜならば解散したわけではないから、今もってその名の会は幽霊のように存在している。このことは後日触れるとして、この「遙北」という名を冠したのはもちろんわたしである。なぜこの名を冠したかといえば、発会当時、記憶では「遙南石造美術同好会」なるものに入会していて、その会名に由来したからだ。

 これほどネット上にさまざまな情報が流れているにもかかわらず、「遙南石造美術同好会」なるものにヒットはしない。当時まだ10代前半であったわたしが入会していた会が、今もって存在している可能性は低い。それほど広域性のある会でもなかったし、ある個人が中心に編成されていた、わたしが結成した「遙北石造文化同好会」とさぼど変わらない小さな存在だからそう思う。とはいえ、わたしが結成した会よりは内容は濃かったし、経験豊富な方たちがかかわっていたはず。その「遙南石造美術同好会」なるものは、岡山県浅口郡にあった会だ。繰り返すが40年も前のネット時代ではなかった時代の情報は、実はネット上ではヒットしない。もちろんメジャーなものはともかくとして、マイナーな情報は期待しても、ほとんどヒットしないのが実情だ。したがって、現代人が、過去の記憶を呼び起こすようにネット上に記録しない限り、忘れられてしまう事象なのである。以前にも「このくらいヒットするだろう」と期待して検索したものの、まったくヒットしない人物があった。わたしの記憶ではけしてマイナーではなかったのだが、半世紀も前に活躍された地方の人物の名前はヒットしないのだ。

 ということで、当時「遙南」なる名称がなぜ付けられたか、当時文通をしていた会の中心的人物に問いただしたことはなかった。あえてそれらしいものを検索してみて気がついたのは、「遙南」という名称が岡山県浅口郡界隈にかろうじてヒットしたからだ。実は当時送っていただいていた会報のようなものを探してみたのだが、物持ちの良いわたしのはずが、すぐに見つからない。ダンボール箱に入れて物置の奥にでもしまい込んでしまったようだ。そこで「遙南」とウェブ上で検索していて、「浅口市」なる市を知ったことによってかろうじてそういえばと思い出しのが「浅口郡」だったのである。記憶では金光町か鴨方町の方だったと記憶する、会の事務局は。金光町は現在の浅口市の一部だ。この浅口市金光町に「遙南牧場流通センター」なるものがあった。また同じ浅口市の鴨方町には「コスモ遙南」というアパートがあるという。さらに「フジコー 遙南寮」なるものも同市鴨方町にあるらしい。ようはこのあたりに「遙南」という地名とまでいかなくとも略称的な地域名が存在するようなのだ。したがってそのエリアを指して「遙南」と呼ばれていたのではないだろうか。「遙南」は地域名だったということだ。

 もともと「遙北」は「遙南」に対して、長野県という北方にある地域で「遙南」に対して結成したからその名を冠した。そこには地域名なるものは何もなかったわけで、わたしが感覚的に付したものだった。

 会の名に「石造美術」とあるだけに、路傍の石仏というよりは石造美術品を対象にしているという印象があった。したがって長野県内ではイメージしにくい名称であったことも事実。わたしが結成した会も当初は「遙北石造美術同好会」であったが、しっくりこなかったので、その後「遙北石造文化同好会」に改名した。

続く

 

付記 かつて「遙」という漢字は、ワープロでは変換できなかったように記憶する。そのためワープロ時代に入ったとき、わたしの結成していた会の会名には「遥」を使っていた。

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