Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

2040年への不安

2018-03-13 23:32:06 | 民俗学

 3月4日に「乳母狩の“お庚申様”」を記したが、実は参加された方々の口から盛んに発せられたのが、次の「庚申」年(2040年)のことだった。前回の庚申年は昭和55年だった。一昨年「昭和庚申から36年・後編」を記した。その中に上伊那地域における昭和庚申年にちなんで建立された庚申塔の数を示した。366基というとてつもない数が郡内で建立されている。上伊那では道端に「庚申」塔が見えれば、必ず「昭和五十五年」銘の庚申塔が並んでいるといってよいほど、庚申講のある地域のほとんどが造塔に進んだといっても過言ではない。わたしもよく聞いた話であり、実際にその伝承に沿って昭和55年に庚申塔が建てられたと実感されるのは、「庚申塔は以前に建てたものより大きな物を建てる」という言い伝えだ。確かに60年毎に建てられる「庚申」塔は、あちこちで徐々に大きな物へという意識が見られる。とりわけ1860年、万延元年あたりからの造塔では、次へ次へと石の大きさが大きくなっている傾向がある。もちろんどこもかしこもというわけではないが、その流れは確実に並んでいる姿からうかがえる。そしてそれが顕著なのが昭和55年なのである。それまでより、より大きな石で建立するという印象が強く、上伊那郡内でも、これ以上ないのではと思えるほど巨大な「庚申」が、伊那市美篶芦沢にある。実はここでは安政7年、大正9年と巨大な「庚申」塔が建てられているものの、昭和55年にはそれを一気に上回る超巨大な「庚申」塔が建てられた。碑高2.4メートル、碑幅も2.4メートルというもので、厚みもそれに比して厚いものだ。伊那の街から高遠に向かう旧道沿いの辻に建てられているが、旧道というくらいだから道は狭い。その狭い道に、どうやってこの巨大な石を運び入れたのかと思うほど、周囲の環境から想像すると、まだ半世紀も経っていないというのに、現代の土木工事屋さんではおそらくこんなことは請け負わないだろう、そう思わせるほど難儀であったに違いない。碑面には「昭和五十五年一月吉日」とともに、「芦沢区中 徹恩書」とある。背面に近く「石工中山石材」と刻銘がある。

 

 

左端は大正9年のもの。安政7年のものは昭和55年の背後に隠れてしまっているが、それも大きい。

 

伊那市美篶芦沢の昭和の「庚申」

 

 この芦沢の庚申塔については、昭和庚申から36年・後編でも少し触れた。松村義也氏が「石屋さんの話」と題して『伊那路』第24巻第11号に書かれており、その「石屋さん」がここに刻銘されている中山さんなのである。「中山弥蔵さんという大正5年生まれの石屋さんの話では、昭和庚申で最初に彫ったのは昭和53年だったという。伊那市美篶芦沢の庚申がそれにあたり、「ちょっと早いけれど、ちょうど石が見つかったで。」と依頼されたというのだ。その石は三峰川にあったものを建設省から払い下げてもらったという。かなり大きな石だったこともあり、「大きくて機械に据えつけることができないので、石を寝かしたまま全部手彫りで彫った」と昭和庚申から36年・後編で触れた。この巨大な石は三峰川の川の中にあったものだという。いかにしてここまで運んで来たのか、想像できないほどのもの。「庚申」の彫り込みも手彫りだという。

 とまあ、芦沢の例を見ても解るように、あまりに昭和55年に大きな「庚申」塔を建立してしまったお陰で、次の「庚申」年が大変なことになるというわけだ。冒頭の飯島町本郷乳房狩での話題は、こうした次にやってくる「庚申」年への悩みなのである。写真を見ても解る通り、4基並んでいる「庚申」塔のうち、過去の3基は見た目はそれほど大きさに差はない。ところが昭和55年のものは明らかに「大きい」。芦沢ほどのものではないので、「この程度なら」と思うが、奮発したに違いない。口々に庚申年の度に「大きくするもの」と言われる。庚申信仰の詳細や、唱えごとは知らなくても、「石を大きくする」という意識だけはみなさんの記憶に染みついているようだ。おそらく38年前となると、ここに集まった人たちの中でその建立に中心的に携わった方はほとんどいない。先代が力を入れすぎたお陰で、「困った話」になりかねない状況なのだ。もちろんまだ22年先のこと。ここに集まった世代ではなく、次世代が考えることになるのだろうが、そもそも限界集落どころか消滅寸前集落もあって、もはやそのような悩みを口にする段階は通り過ぎてしまうに違いないが…。

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