Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

乳母狩の“お庚申様”

2018-03-04 23:02:49 | 民俗学

庚申への供え物

 

当番の挨拶

 

庚申さんにお参り

 

投げ餅を配る

 

直会

 

 母が亡くなって間もなく半年になるが、四十九日の法要日が大雨だったため、納骨を見送った。そして年末に納骨をと思っているうちに降雪があったりして、段丘崖の日陰にある墓地は凍りついていた。ということで「春になるまで待とう」と言うことになっていて、今日、ようやく納骨となった。墓地前の道に車を止めると、すぐ前にある庚申塔の周囲に榊が立てられ、しめ縄が張られていた。兄がそんな光景を見て、「今日は庚申様だ」と言う。生家のあたりではこの時期に庚申様の祭りを昔からやっていた。初庚申というわけではなく、春先の庚申の日にかつては行っていたのだろう。今は庚申の日にこだわらず、3月の都合の良い日、今なら休日に実施しているというわけだ。午後5時からだと聞いたので、あらためて夕方訪れてみた。

 「庚申講帳」という平成19年3月に新しくされた当番に渡される帳面がある。この中に庚申の祭りについての決め事が書かれている。

       記

一、庚申講の期日は当番にて決める
一、神官又は僧侶を頼む年は六年に一回とする
一、庚申講は午後五時庚申塔の前に集合

 庚申講に準備するもの
神酒
洗米 三合
御供 大小ニケ 但し神官又は僧侶を頼まぬ時は小不用
線香 若干
塩 手塩に少々
榊 四本
中折 十枚
新縄 少々
野菜 三種類
昆布 少々
果物 少々
団子米粉 二升分
御供用米 一戸三合宛

以上のように記されている。後に書き加えられたと思われるメモもあり、「野菜」については「平成26度より講員で均等割りとする」とある。また、庚申塔の建てられている土地の所有者については、講費免除と記されている。神官または僧侶とあることからどちらでも良いと捉えられる。講員に対しての告知用の配布文書には、「庚申祭」と記載されているが、「こうしんさい」とか「こうしんまつり」と聞いたことはわたしとしてはない。通常「おこうしんさま」とこの祭りのことを言っていたと記憶する。講費については毎年その都度集金しているようで、配布文書には「一戸 2500円」と予告されている。

 かつてわたしが子どものころは、当番の家を当屋として回っていた。いつごろからか集会所で行うようになったが、すでにそうなって半世紀近いだろう。乳母狩(めんとがり)と言われる地籍にある庚申塔の前に集まるわけであるが、ここには4基の庚申塔が建てられている。そのうち3基には年銘などは彫られていない。最も新しい庚申塔には「昭和五十五年 三月」と年銘が刻まれている。お庚申様の祭りに合わせて建てられたと思われる。この塔が建てられた時には講員が22戸あったが、現在は12戸と減少している。「庚申講帳」が新しくされた平成19年の記録には、19戸の当主が記されている。近年「休講」扱いにされる家が多くなっているようで、1戸は「退講」と記されている。かつて昭和時代の終わりにもお庚申様の祭りを写真に収めようと訪れたことがあったが、当時は祭りの際に庚申塔の前に30人近く集まっていたと記憶する。当時と同じように今も祭りが行われているが、今は餅投げはされず、配って終える。道路上に餅を投げるというのも衛生上好ましくないということなのだろう。

 午後5時、講員みなが集まったことが確認されると、当番が挨拶をして祭りは始まる。そして、講員が順番に線香を立て合掌をしてお参りをすると、投げ餅と団子を配布する。直会と称しているが、いわゆる月待ちは場所を移して集会所で行う。庚申塔の前の祭りには1軒で大勢参加される方もいるが、直会は1戸ひとり参加という形をとっている。庚申塔の前には「庚申講帳」にある通りの供え物がされており、今年は神官も僧侶も呼ばない年だったので、大きな御供、いわゆるお供えが供えられていた。かつては直会の席で講員の数分に切ったというが、今はお供えにしてもらう店で切り目をつけてもらっているという。今年の講員数である12に分割されるように切り目は付けられていた。

 直会の席には青面金剛の掛け軸が掛けられるが、その前にお供えをするようなこともなく、また庚申の唱えごとをすることもない。わたしが子どものころにも唱えごとをしていたという記憶はないから、ずいぶん以前から唱えごとはしなくなっていると思われる。青面金剛は三面六臂であり、下部に三猿と二鶏も描かれている。いつごろの掛け軸かはわからないが、平成2年に補修されている。

 

 

 

 

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****