Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

割込み意識と初庚申

2018-03-05 23:48:16 | ひとから学ぶ

 ある国道バイパスを走っていた。その先、数百メートルで2車線から1車線に収束する。したがっていつも通っている車は、どちら側の車線に収束するか知っている。そしてほとんどの車はいつも通っている車だと思う。したがって収束する側の車線に手前から車線変更していくのが「ふつう」のドライバーだ。それをしないドライバーは収束手前で右折するといった、目的があるのも「ふつう」だ。

 ところが右折するでもなく収束しない側の車線を走る車も少なくない。ようは収束する側の車線は比較的車が繋がっているから、収束間際に間に入り込む目的で収束しない側の車線を走る。もちろん知らないでそういう行為をするドライバーもいるだろうが、見た感じはそうは見えない。

 収束する側は左車線。いってみれば走行車線を左とすれば、右側は追越車線。こういうケースでは、追越車線を走っている車は、割り込むのは当たり前のように走ってくる。そして収束手前には信号機があって、停止することも多い。ようは信号が青になって発車するからそれほどスピードが出ていないから、割り込みやすいというこもある。この日もわたしは信号機で停止した。もちろん収束側の車線に身を置いていた。右側には若い女性が運転している軽自動車が止まっていたが、青になるものの、前に車が数台いるから、自分の思うようなスピードでは発車できない。信号機で停止するたびに生まれる模様だ。幾分控えめな彼女はわたしの後ろに入ろうとしたが、わたしの後ろにつけた車がやけにわたしに接近していて、とても入る隙間がない。ということで彼女はわたしの後ろの後ろに割り込むことに。そもそもわたしの後ろについた車が、「入れてやるか」みたいにわたしとの車との車間を詰める。それがよくわかるのは、収束後はわたしの後ろについた車はそれまでのわたしとの車間が嘘だったかのように車間をとって走る。意図は簡単だ。「絶対入れさせない」という意志が見え見え。そうした雰囲気を避けたいと思うから、繋がっていても事前に収束側の車線に自らを移すのが「ふつう」のドライバーなのだが、その「ふつう」の選択をしない人も多い。

 生家のある地域でのお庚申様の話をしたが、そんなこともあって「初庚申」と検索していたら面白い話を拾った。「残念なこと」に出くわした筆者は、初庚申のお参りにいったら「何やら、女性と男性が口論している。しかも、女性は大声を張り上げ、何やら男に食い掛っていたのだ。内容を聞くと、どうも男性が並ぶ順番をごまかしたのか?ズルをしたのか?」という場面に出くわしたという。そして「私は8回目の今日までいろいろな人を見てきた。とにかく、目立つのは順番をごまかす人達だ。これには本当に残念に思うが、そんな小さなことを気にしてはいけないということもある。結局、そういう人達は自分に跳ね返ってしまうことがこの猿田彦神社の庚申祭にあたることも事実だ。」と言う。何といっても筆者のこの言葉に感心してしまった。「「立って動かずにその場で2時間近く待っている」ことが解ると思う。体験したことがある人はこれがかなりきついことが解るだろう。これが何を意味するか?簡単に言えば、自分の試練と思うか?否か?・・・そんな類のものだ。」という部分。「ここに深い意味があり、その振る舞いが1年の方向付けをしてくれる。」と言うように、お参りに行って何を求めているかということだろう。したがって順番が少しくらい前後したってそこにたどり着くまで待つ時間もお参りの内なるものということだ。

 もちろん車のやり取りはお参りとは異なるが、残念な光景であることは確かだ。

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