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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

伊那谷を拓いた〝道〟②

2020-08-05 23:27:59 | 歴史から学ぶ

伊那谷を拓いた〝道〟①より

 ①では昭和48年12月に発行された『中央自動車道伊那工事の概要』から駒ヶ根工区について触れたが、伊那工区(大田切川から小黒川)については次のように書かれている。

 この工区は、工区両端に客土区間があり、その中間は切盛バランスする。即ち、始点より寺沢高架までが約300,000m3の客土及び北の沢川橋より終点までが約290,000m3の客土となり、その他は道路堀削でバランスする。この道路堀削の土質はローム、土砂、軟岩と多種、多様に分布し、それら相互の関係は複雑である。

 路線のほとんどが山麓部を通過し26河川と交差する。この交差構造物の内訳は6河川(太田切川、寺沢川、藤沢川、犬田切川、北の沢川、小黒川)が橋梁であり、その他はカルバート・ボックスで交差する。橋梁基礎としては地形、地質が複雑なため、直接基礎、くい基礎、ケーソン基礎と多種な基礎を採用している。

 上部路床材は本線と交差する一級河川犬田切川上流の白沢砂防ダムの、堆積砂礫を使用すべく計画している。

というものである。駒ヶ根から北上すると宮田村からは山麓を走る中央道。小黒川手前の伊那市山本あたりまでは切盛が交互に発する険しい区間であることは、走っていて容易にわかる。カーブがきついのもとりわけこの区間である。もちろん北上と言うことは、上り坂ということになるが、小刻みに上ったり下ったりを繰り返すのもこの区間で、山麓に配置したことがその背景にある。このあたりは、山麓から天竜川までの距離が短い区間で、山麓から天竜川までの地形勾配が強いエリアといえる。小黒川を渡るとその景色は一気に変わり、再び盛り土区間へと変化していく。一転、山麓と天竜川までの距離が、伊那谷でも最も広いエリアへ入っていく。

 引き続き箕輪工区についても見ていこう。この工区は前述したような小黒川以北となる。ここから伊北インター南側国道153号交差までをいう。

 管内では当工区のロームが最も多く、箕輪工区全土量1,500,000m3のうち約7割の1,000,000m3を占めている。その特性はつぎのとおりである。
イ 統一分類による土質分類MH又はVH(火山灰質粘性土)
ロ #200フルイ通過率70~90%
ハ 自然含水比70%~100%
ニ PI=30~70%
従ってロームは路体用として利用し、路床土は道路堀削の良質部分を全線に運搬する予定。

 上記地形、地質に関連して、この地区は降雨等が地中に浸透してしまい排水路の要らぬ地形のため既設の排水工がなく路面排水の流沫がない。従って伊那インターチェンジ周辺の開発にからみ長野県、伊那市の各企業間の共同利用可能な排水路を計画している他、農林省の補助事業(伊那西部開発)で計画する用水路に流下させる計画等、排水計画に種々苦慮している。その他、西天竜用水、西部開発等農業団体との関連工事が多いのもこの区間の特徴である。

 土質の専門的数値が示されているが、いずれにしても駒ヶ根工区同様に、意外に“土量”に対して考慮している様子がうかがえる。当然かもしれないが、意外にも映る。また、路面排水の流末がないことに触れている。小沢川以北の扇状地は、西天竜に関して過去に触れてきているように、浸透水が多く、横断する河川も小沢川以南と異なり少ない。畑地帯を突っ切っていく中央道の排水をどうするか、悩ませたことだろう。駒ヶ根工区のような水路橋は少ないものの、大規模用水である西天竜の水路橋が車道上を横切るエリアである。

続く

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伊那谷を拓いた〝道〟①

2020-08-03 23:59:17 | 歴史から学ぶ

 昭和48年12月に発行された『中央自動車道伊那工事の概要』という薄い冊子がある。発行したのは日本道路公団名古屋建設局伊那工事事務所である。伊那工事事務所とは、辰野町から飯島町までの44.4キロを担当していた。現在の上伊那郡域を範囲としており、同工事事務所では辰野、箕輪、伊那、駒ケ根と、「構造」の5工区に工事工区を分割していた。「構造」とは構造物を示すもののようで主に橋梁工事を担当していたようだ。したがって範囲は上伊那郡ではあったものの、高森工区内の片桐松川橋と前沢川橋は伊那工事事務所の「構造」工区が担ったようだ。前沢川から大田切川までの駒ケ根工区についてその特色について、次のように記している。

当工区は七久保、飯島地区において通過する水田地区の約30%を切土区間としたために山側よりの浸透水や伏流水を水源とした横井戸及び田越の用水等を遮断するため各所に水路橋を架設せざるを得ない他、地下水の還元及び新しい水源の確保等現在調査中である。

土量のバランス上、飯島側に発生する約250,000m3の土を駒ケ根側に搬土しなければならないが、ルートと平行する国道153号線は幅員も狭く交通量も約10,000台/日と多く、一般交通に支障を来たすことがあきらかなため本線敷を土運搬路とするため、中田切川橋を先行着手している

 高速道路は、平面で交差する道路はない。いわゆるインターチェンジのように、合流、分岐は専用の車線からなり、停まる必要などない。故に周囲の道路は地下あるいは天井を立体交差することになる。多くは天井道路として造成されることが多く、都市部ではそもそも高架橋で造成されることが多い。なぜならば土を盛れば用地が必要だし、土も必要。意外にシンプルに土量のことを念頭に入れて計画されたことがここからわかる。南側の飯島は掘り下げ、北側の駒ケ根は天井道路として盛り上げた。顕著なことは、ここにも述べられているように、水路との交差のこと。掘り下げている区間が長いから、飯島町の範囲には道路上に架けられた水路橋が13箇所もある。いっぽう駒ヶ根市の範囲には、飯島町境に近いところに2箇所あるのみ。水路橋の数をみれば状況は容易に想像できる。以前にも記したが、これら水路橋は、地元自治体のものとなっている。したがって老朽化すればそれら対応するのは、もちろん地元なのだ。土を運搬するために中田切川橋を先行施行したというあたりも興味深い。

続く

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「過去の経験は通用しない」という嘘

2020-07-07 20:53:08 | 歴史から学ぶ

 災害が頻発している。とはいえ、降雨量が観測史上最大と言われても、おそらく史上最大の災害ではない、そう思う。人工的にさまざまな整備が行われた背景には、人が住む空間を「安全に」という意図があったからだ。それは行政の役割だと言われればそうかもしれない。昔なら家が集中しなかったようなところに、今は家が立ち並び、「安全」のために防ぐための工事が終わることなく行われる。しかし、あくまでも確率の問題であって、千年に一度などというレベルの整備などできるはずもない。したがって現在生きている人々の数十年、あるいは半世紀余の記憶レベルで「こんな経験は初めて」は、なんら説得力もない。

 テレビのコメンテーターがこの状況下で「過去の経験は通用しない」と言った。だから注意をするようにということらしい。「過去の経験」とは個人の記憶の中にある「経験」を指すのだろうか。しかし、人それぞれの経験などわずかなもの。そもそも個人個人の経験で、命を天秤にかけるなんて無知な仕業だ。「過去の経験」とはその地の人々が、あるいは歴史が刻んできた「経験」とするべきだ。冷静に省みれば、何が起きそうか、はある程度想定できるもの。地震と豪雨は違う。

 わたしの今住んでいるところは、ちょっとやそっとの大雨では、例えば崩壊や浸水を起こすような場所ではない。だから安全だ、というわけではない。この土地に家を建てようとして造成した際、石が山側から川側に傾斜して重なっている姿が、地面を掘れば現れた。大昔、わが家から見える山が大崩落を起こし、その土砂がこのあたりを埋めたという。だから山側から川に向かって石が重なり合ったのだ。数百年レベルの過去に遡るもので、歴史上の「経験」である。狭い国土の日本において、まったく災害を被らない場所は少ないだろう。そもそも地殻変動のように、長い年月を経るものもある。その間、大きな地形の変化を伴った。短期の洪水など小さなものなのだ。しかし、その小さなものにわたしたちは命を奪われる。自らがそうした環境を作り上げてきたし、そうした舞台の上に住まいを求めた。何が起きても不思議ではないと認識した上で、これほど多発する災害を自らの空間にトレースしながら起こるべく事を想像する。けして想定外などあるはずもない。過去の経験は通用するのである。

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90年を経た工作物

2019-12-10 23:51:55 | 歴史から学ぶ

 

 天候の良いこともあって、久しぶりに渡ろうとした深沢川水路橋を撮ってみた。いまだに道路橋として利用されているが、その痛みはなかなかのもの。補修されていないために、橋下から見上げると、その痛みは心情的に「大丈夫たろうか」と思うほど。しかし、コンクリートは意外に丈夫なもので、コンクリートそのものの強度に問題があるほど劣化している例を、それほど見たことがない。放っておいても、凍結融解を繰り返してボロボロになることはあっても、雨だけの仕業で使えなくなるほど劣化することは容易にはない。とはいえ、水路橋の類は水を通すため、浸透して劣化を進めることもある。現在中央自動車道の上伊那エリアで盛んに車線規制を行っている工事は、農業用水路の補修工事によるものが多い。完成したのが昭和40年代なのだから、すでに半世紀、補修が必要なのも無理はない。

 昭和3年に完成した西天竜幹線用水路の工作物で、現在も残存している施設は利用していないものならあちこちに点在している。そして利用されている施設も僅かではあるが残存する。すでに90年を経ているから、当初に完成した部分なら100年に手が届くほどである。文化財行政には自治体の認識差があるため、その価値判断に格差があるが、登録文化財の視線を当てれば、十分に登録可能な施設である。

 かつてはなかった説明板が、橋の袂に立てられている。八乙女区で立てたものであるが、そこに「大戦中は屋根をかけて軍需工場にする計画であったが実現を見ず、今日まで道路として利用されている」とある。劣化の進みは著しく、橋下には入らないように、という看板も立てられている。橋からの落下物(本体劣化によるもの)が落ちないように網をかけて防いでいるが、その網に落下物が溜まっている光景が目に入る。橋はもちろんだが、深沢川左岸側の道路には、かつての水路の一部がそのまま残され、土留工として、あるいは防護壁として利用されている。

参考 「分水工を探る」余話⑤

 

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農休日

2019-10-16 23:26:01 | 歴史から学ぶ

 昨日四賀公民館報の記事を扱った。いつも通り、ローカルな情報取りのために、公民館報をのぞいていた。同じ公民館報の昭和38年10月28日発行43号に「これからも続けてほしい」というタイトルが見え、それは「農休日世論調査」の結果を踏まえてのものだった。記事によると、今までは各分館に応じて農休日をとっていたが、四賀村一斉の農休日実施の声が高まって、7月7日に村内一斉の農休日を実施したのだという。その一斉農休日に対してどのように実施されたか、どのような希望があるかについて世論調査をしたのだという。

 農休日をとりましたか、という質問に対して、約半数の人々が実施したといい、他に半日とったという人が残りの半数を数え、全体では約7割の人が一斉農休日を実施したのだという。そして実施できなかった人は、仕事の都合だったといい、一斉農休日を設けることで仕事に支障があると答えた人は少なかったとも。昭和38年という時代性もあるだろうが、当時は農業従事者が、家族の中でまだまだ多かった時代と言える。

 この一斉農休日に対する意見として、賛成という人が半数以上を占め、年に2回ないし3回を求める声が多く、若い人たちには毎月1回という意見もあったという。「婦人、青年団が活動し、休日の必要性を理解してもらう」という意見があり、これらから、そもそも農業従事者にとっての「休日」というものは当時ほとんどなかったのか、と思わせる内容である。休みが取りにくかったため、一斉の休日にしてもらえば、大手を振って休めるというわけだ。今では死語になっている「農休み」、「年二~三回が適当」と副題にあるが、これは調査結果での結論とも受け止められる。しかし、この「年二回~三回」とは、年間の休日数ではないと思うのだが、記事からだけではその背景や現実を探ることはできない。

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美篶下川手公民館の佉羅陀山地蔵尊(文政12年)

2019-07-15 23:25:09 | 歴史から学ぶ

 

 

 いつのころからこの石仏が渋谷藤兵衛の作品とされたのかは、わたしも知らなかった。昭和の時代に発行された多くの守屋貞治の石仏を扱った本には、この石仏を守屋貞治の作品と紹介している。それが守屋貞治の弟子であった渋谷藤兵衛の作品と断定された背景は、近年高遠石工に対する注目が高まってからのことなのだろう。一般社団法人高遠石工研究センターのホームページにおいて、本作品は渋谷藤兵衛作として紹介されている。このことについては意外であったので、近年の守屋貞治仏に関する動向を少し追ってみようと思う。

 さて、ではなぜこの作品が守屋貞治の作品だと以前は言われていたのか。もちろん作風によるところが大きい。渋谷藤兵衛は弟子として守屋貞治自筆の「石仏菩薩細工帳」に記載された作品の中にも手がけたものがあるということは、以前から言われていた。したがって守屋貞治と同じくらいの技量を持っていたと言えるのだろうが、実際に渋谷藤兵衛作と断定されていた作品と比較しても、この石仏が特別優品であることは見ればわかること。むしろ守屋貞治作と言っても不思議ではないし、技術的に見ても疑問はわかない。高遠町誌編纂委員会編集で春日太郎氏が執筆した『石仏師 守屋貞治』(昭和52年)において、この作品を守屋貞治の作品とした理由が書かれている。

(「石仏菩薩細工帳」にはのっていないが)

一、三個の果実を配した頭光の手法は貞治の佉羅陀山地蔵尊の特徴である。之と全く同じ手法を用いている地蔵に建福寺、円通寺(長谷村市ノ瀬)、法界寺(箕輪町木下)、温泉寺(上諏訪)等がある。

二、面長な顔、眼、口、耳等美男の相は貞治円熟期の特徴。

三、手の形、衣、膝など全体の像容は一に挙げた各寺の地蔵と全く同じである。

 四、最も有力な証は台座に刻まれている願王和尚の筆蹟及び押印である。願王和尚は貞治以外の石仏師に讃並びに押印を与えた例を知らない。

といった解説をしている。とくに願王和尚に関する押印に詳細に触れて、押印は各地に残る願王和尚の掛軸に使われている印と全く同じとしており、願王和尚がこの石仏の造立にかかわっていることは間違いないようだ。こういった経緯から貞治作と結論づけている。当時発行されたものの中には、「弟子の渋谷藤兵衛と貞治が合作したしたとの説」としているものもある。

 これら春日氏が要因としてあげたもの以上の、決定的理由があって、今は渋谷藤兵衛の作とされているのだろうか。

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山間にあって、林業は栄えなかったムラ-『伊那路』を読み返して⑫

2019-07-09 23:00:19 | 歴史から学ぶ

「僻地の生活」後編-『伊那路』を読み返して⑪より

  中村たかを氏は『伊那路』昭和34年6月号)に「山村と道路問題、一つの試論―杖突の旅から―」を発表している。これもまた、地域の様子をうかがう上で、データが掲載されていて興味深い。舞台となった藤沢村は、旧高遠町の北部、藤沢谷の奥まった地域をいう。杖突峠を越えれば諏訪へと続き、古い時代には伊那谷の入口とも言って良かったのだろう。奥まっているだけに、山村、そして「山」をイメージするわけであるが、中村氏は、面積の90パーセントを示している山林原野の多い藤沢村の生業を次のように記している。

この村の土地台帳登載地積二九四一・八町中、山林わずか一〇六・四町という数字が示すように、山林はいたって少なく、林業も真に振わなかった。昔、ここにはシロキヤという材木屋(製材の生産者)があり、ソマ・コビキ・ヒヨウを使って仕事をしていたが、彼等は御堂垣外に三軒、台に一軒の計四軒があるに過ぎなかった。彼等は山ひとつこえたむこうの谷筋の三義村からソマやコビキを雇い、伐採・製材をさせ、その場で柱や板を作り、地元の人をヒヨウにたのみこれを搬出・運搬させ、ダチンヅケによって諏訪のシロキヤ(材木問屋)に出したという。ここでは筏を使うことが出来なかったので、原木を加工して製品の形で外に出すということが行われたわけである。山元、例えば村内の松倉の人が「ここには昔からシロキヤやソマやコビキや目立ったヤマシ(山師)がいなかった」といっているように、地元の人はヒヨウとダチンヅケの仕事をするだけであった。なお、ヒヨウは明治三七~八年頃一日働いても四〇銭、ダチンヅケは一駄一円、五〇銭とるのはソマかコビキであった。(中略)

例えば明治五年栗田には農三五、農兼工四、農兼大工職一、農兼馬口労一、農兼桶結職二、農兼紺屋職二、農兼酒造二、医者一、また同じ水上上では農三六、農兼水車一、農兼鍛冶一、農兼九六鍬三、農兼工二というように、この頃わずかながらも商い物や職人を農間渡世とする者があり、また、機織りや養蚕寒天製造なども行われていたし、質屋、穀商、雑貨商などを兼ねるものも現れた。こうしてみると、この村は山村といいながら、生活の中心は農業、殊に水田耕作におかれ、生活の一年が米作りを中心にして営まれており、米作は駄賃附けとうらはらの関係にあり、これらの営みを通じて馬の使用が目立った特徴となっていたことがわかる。

こう記している。ようは山間でありながら、水田耕作が主たるものだったという意外な姿である。なぜ山林が少なかったかについて、原野が六一三町もあり、それらは共有地だったという。そのため林業が栄えなかったというわけだ。原野はいわゆるかつての耕作のための肥料を求めるために必要だった。

秋十月、共有山のほし草山の口があく。今日はどこその山のクチがあくぞというと、夜中十二時頃に起き、チャノコをくい、馬をつれて山につくと三時。前の日、予めカリバをみておいたオジイが「まだダレモカッテネエぞ」と喜びの声を上げる。後から登ってきたものがいった。「アリャどこのウチのコマだ」クサをかる人、それを束ねる者、馬につける者、皆手分けをして働き、やがて東駒に日の出る頃きりあげた。

という。馬がどこの家にも飼われていた時代のことで、馬の効用は駄賃付けであったともいう。こうした馬の存在が変わるのが、科学肥料の導入である。明治末年には使用され始め、マヤゴエの使用が減る。さらに、明治末から大正はじめにかけての伊那電(現飯田線)の開通によって、高遠の町は伊那の町に商いの場を譲ることになり、駄賃付が姿を消していくことにより、馬が必要となくなっていく。生業を取り巻く様子は、世の移り変わりととともに、随時変化していったわけである。

続く

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下生野東部の庚申塔

2019-06-17 23:34:30 | 歴史から学ぶ

享保元年(1716)

 

寛延四年(1751)

 

 国道19号、生坂村の下生坂東部の旧道沿いに、いくつかの石仏が並んでいる。それは、国道19号からも見え、立ち止まってみた。「東部の石造物群」の案内板には「川手街道筋で下生坂の中心地への入口であるため、各種の古い石造物が建てられた。」と書かれている。

 ここにある最も古い石造物は籃塔の享保元年(1716)のもの。次いで古いものが写真の青面金剛である。「享保二十一年丙辰三月吉日」と刻まれており、1736年造立である。その15年後に建立されたものも青面金剛で、「寛延四年未三月吉日」(1751)と刻まれている。いずれも六臂で、下部に三猿が刻まれているが、前者には二鶏はない。また、いずれの塔にも寄進者の名が刻まれている。1700年代の造立ではあるものの、頂部の笠の張り出しがあるためか、雨よけとなって、風化を少なからず防いだのかもしれない。生坂村には、笠を載せた青面金剛が多い。生坂村で最も古いものは、元禄時代のもので、1700年代前半に多くの青面金剛が建立されている。

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「七つの感情」-『伊那路』を読み返して⑦

2019-05-19 23:50:49 | 歴史から学ぶ

「七つの感情」-『伊那路』を読み返して⑥より

 樺島正二氏は、「七つの感情」を5回に分けて昭和33年の『伊那路』に寄稿している。読むほどに直接ダム建設に関わったトップとしての苦労が滲むが、公に出来ない言葉の裏を読めずに、意味不明なわだかまりも読み手には生まれる。なぜこの年の『伊那路』にこれほど多くの美和ダム関連の記事が多いかといえば、それほどこの地域にとって衝撃な事象だったと言えるのだろう。試験湛水の始まったダムが、この年、今のような水を湛えた姿に変わりつつあった。まさに生に動いていた今だからこその歴史である。「七つの感情」の第3章にあげられた池上義明さんのことは、池上さんの娘さんが昭和30年2月6日の毎日新聞夕刊に投稿された「ダム工事をやめてください」という訴えに関することを記したもの。池上さんは病気で静養のため東京から長谷に戻っていたが、工事現場に近く暮らしていたため、せっかく回復していた病が悪化してしまったようで、悲痛な子どもさんの訴えが、周囲からの責めに変わった。樺島氏の「七つの感情」の最終記事となった10月号は、ちょうど「三峯川総合開発特集号」にあてられ、池上さんの娘さんが当時新聞に投稿された内容も併載されている。今なら個人情報といって隠すわけではなくとも伏せられるようなやり取りが、生々しく公開されていることに時代をうかがわせるとともに、そのいっぽうで、それほど公開されていた時代のことなのに、現代史には解らないことが多いと実感するとき、現代の歴史は、これほど情報がたくさん垂れ流されているのに、意外に半世紀もすると、解らないことばかりになるのではないか、と考えさせられたりする。

 樺島氏の記事の中で最も目に留まった部分が、第4章に記載された次の記述である。

 終戦後、私が暫くお附合いをしていたアメリカの一将校が、嘗つて私に言ったことがある。

 「日本に来てからいろいろの部面で日本人のやることを見てきましたが、戦時中、あれ程我々を悩ました大和魂なるものに一向にお目にかからない。貴下方は、戦争華やかなりし頃の特攻精神を一体何処へ置いてきてしまったのですか?日本人が、あの頃の気持ちで現在の仕事をやっていたなら、大抵のことが容易に出来たことでしょうに……。日本に来て、私が一番不思議に思っていることはこの事ですよ」と。

 なかなか進まないダムの補償交渉のさなかで思い浮かべた、樺島氏の仕事への特攻精神を表そうとしたものなのだろう。時代錯誤と言われればその通りなのだろうが、アメリカ人に見えていた日本の怖さのようなものが、実際の日本から見えなかった言葉に樺島氏はあらためて日本人の変化も悟ったのだろう。そもそも特攻精神なる言葉を使うと戦争と繋げられて捉えられる上に、批判の的になる時代である。が、しかし確かにかつての日本人は違うものを持っていたことも確か。数年前のこと、ある村の村長さんが「特攻」という単語を使われた。ある用水路の隧道が落盤で水が流れなくなった。小さい隧道のため、もぐって行くのも命懸けだったかもしれない。その隧道に地元の方なのだろうがもぐっていって、仮設パイプを通してかろうじて水が流れるように細工した。このことを村長さんは「特攻隊がもぐってなんとかした」という表現をされたのだ。もちろん公に宣伝できるような内容ではないが、どうにもならない時に起こりうる、例えば災害時はまさにそんなケースなのだろうが、これまでの遺産の中には、たくさんの特攻精神が詰め込まれているのも事実だ。

 さて、三峯川総合開発特集号には、さまざまな方面からの寄稿がある。あらためて読んでいて気がついてのは、伊那市藤沢川左岸の、かつての国道153号藤沢橋から少し遡ったところにある谷間の空間に展開する集落が、美和ダムによって湖底に沈んだところから移転された人々の集落だということ。

続く

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「七つの感情」-『伊那路』を読み返して⑥

2019-05-17 23:55:18 | 歴史から学ぶ

「わが家の年中行事」-『伊那路』を読み返して⑤より

 もう9年ほど前のこと、“「川」と呼ばれた水路のこと”の中で、「雑誌『伊那路』に探してもほとんど「西天竜」というタイトルはなく、文中に記載があるかどうかという程度。西天竜よりは新しい時代に開発された三峰川総合開発に関わるものはあるものの、西天竜はほとんど対象にされてこなかった」と記した。ここに記した三峰川総合開発に関する記事が、昭和33年の『伊那路』にはたくさん掲載されている。とりわけ10月号において特集号を組んでいる。

 その計画とはどのようなものだったのか、2月号に当時の建設省美和ダム工事事務所長の樺島正二氏が「総合開発について」と題して概要を報告している。昭和25年に国土総合開発法が制定され、その目的は「国土を総合的に利用し、開発し、保全し、産業立地の適正化を図り、合せて社会福祉の向上資するにある」と記している。その目的として造られたのが天竜川の支流、三峰川に造られた美和ダムなのである。もちろんダムを造っただけではなく、これに関連したさまざまな事業が展開されたが、ダムを造ることによる関連事業であって、ダムを造らなければほかの事業も成し得なかったわけである。その主たる計画は治水、発電、灌漑という三つの計画であった。樺島氏はこの項の最後に「本事業における最大の難関だった、美和ダム水没地の保証内容を…」とその内容を記した上に、「又の機会を与えられるなら、美和ダム裏面史と云ったものを本誌の為に書き綴ってみたい」と綴り筆を下ろしている。そしてこれに応じるように、同年5月号に「七つの感情」を記している。その副題には「あるダム・エンジニアーの手記」とある。ようはよそからこの仕事のためにやってきて、まさに現場で苦労され、思ったことを手記として残されたわけである。そもそもこうした事業を郷土史誌としてとりあげ、多様な記事を掲載しようとした、当時の上伊那郷土研究会の姿勢があったからこそ、今に記録として残されたと思う。もともと教員が主たる活動の構成員であったといっても間違いではなかった会が、多様な記事を掲載しようとしたところに感心させられる。裏を返せば、かつてのような構成員ではなくなった会が、では今はどうなのか、と問われることだと私的には思う。

 それはさておき、樺島氏の「七つの感情」には気になる記述が多い。とりわけ現場の声が、あるいは裏話ともいえる話が、それほど時をおかずに掲載されたという事実に、当時のおおらかさといおうか、公の方たちの発信しようとする思いが通じて、現代とは違う姿を見るような気がする。

 一つ目の「感激」の冒頭にこう記している。「高遠に来る迄、東京で所謂標準語なるものばかりしゃっべっていた四人の子供達が、今では「そうずら」とか、「へい!!行ったに」とか、この土地の言葉をお互いの間で平気に使うようになっているのだから、私としては誠に驚きに堪えないと同時に、私が一番に考えていた、家族諸共土地の人になりきらねば、到底満足な仕事はなし得ないという私の予てからの信念なるものがいくらかでも実現されたような気がして満足を覚えている」と。その背景にあるのは、前述したような水没による保障のさまざまな声に裏打ちされているのだろう。水没し移転せざるを得ないある青年の気持ちを記す。反対が当然のように強かったこの地で、国家の事業だからと納得せざるをえないなか、青年はこう口にした。

「都会生活者には到底分らないことでしょうが、我々山に生活する者にとっては、この山、あの川、そして其処に住んでいる人々の総てが我々の身内であり、其処にいてこそ我々には力があり、又その生活に楽しみと喜びを感ずることが出来るのです。これが補償金を貰って他村に出た時を考えると、物質的には例え損得なしとしても、その土地で、当坐にしろ、他国者といった取扱いを受けることは避けられず、そこには言うに言われぬ淋しさがあり、それが精神的に大きな圧迫となり、又並々ならぬ影響を与えることをよくよく理解して頂きたいのです。この淋しさに堪えること、これがよそに出て行く者にとって、金銭的にどんなに補償されようが、絶対に金にはかえられぬところの苦痛なのです」と。

 保障は金銭で納得できるものではない、余所者として他所に移り住む人の身になって欲しいという青年の気持ちである。この言葉を傍らで聞いていた別の青年は、移転を余儀なくされる身ではないものの、

(おたくの事務所にせわになっているY君)「水没農家として移住をしなければならないことになっていて、六道原(水役者の移住希望地)に一度見に行きたいと言っているんですが、お父さんは亡くしたし、本人が身体が弱いので、他所に出て行って百姓が出来るかどうか、わしは危ぶんでいるのです。こっちに一緒に居れば、いくらでもお互いに助け合って面倒も見てやれるんですが、他所に出ていったら、困ったって誰も今迄のように世話してくれるものは居らず、どんなにか、つらい淋しい思いをすることかと、わしは想像しただけで他人事ならず可愛想で可哀想でたまらないのです。どうか所長さん、こういう風ですから、彼が六道などを見に行きたいと言う時には、積極的に世話して応援してやって下さい。頼みますよ」こう言ったらしい

と言う。

 この裏話の前段に樺島氏はこう記す。「私自身としても、毎日会っている中に、美和村の人々の、心を本当の自らの心にする気持になっていることを感じないではいられない」と、日々村の人びと会っているうちに、親しく交際できるようになったと触れ、「心と心とが触れ合って、そこに、、感激的なシーンも繰り拡げられるというもの」と言い、「“人間樺島”として痛く胸打たれたものである。一つその日の日記からありの儘を抜き書きしてお目にかけることゝしよう」と紹介したものが前述の若者の言葉である。実は樺島氏が『伊那路』に発表されたのはすでに「元」所長になられた昭和33年のこと。「感激」の冒頭で子どもたちのことについて記したのは、「高遠に本拠を構えてから今日丁度百十日」のこと。3ヶ月ちょっとといったところだ。過去を振り返っての記事であって昭和33年の春に異動されたようだ。「七つの感情」の中で着任されたのが昭和29年12月だったと記しており、「七つの感情」の末尾に昭和30年4月3日とあることから、当時書かれたものをそのまま寄稿されたようだ。とはいえ、文中に「その日の日記からありの儘を抜き書きしてお目にかけることゝしよう」と記しているから、別に公開したものを転載したものなのかもしれない。裏話と言うよりは、公開を前提とした日記だったのかもしれない。

 編集後記の中でも「正規な報告等では窺うことの出来ない貴重の資料となることであろう」と記している。こうした生の手記が地元に残されたことは大きい。

続く

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生きるための“水” 後編

2019-04-05 23:31:14 | 歴史から学ぶ

生きるための“水” 前編より

山越えの尾根で望むこの集落へ、生きるための〝水〟は導水される

 

 取水から約3キロほど下ったところに、旧国道をまたぐ水管橋がある。その径200mmほどとけして大きなものではない。かつてはここまで水道施設と共用していたため、山の中下ること3キロは、農業用水を利用している人々はほとんど管理しなかったエリア。もちろんそれは当初からではなく、この水路が完成してしばらく後のこと。

 水管橋のある高台から少し下った町道の脇に、大きな石碑が立っている。「完成記念碑」と大きく刻まれた碑の背面には、この水路を造った経緯が記されている。古来よりこの地域では水が枯渇し、苦しんでいたという。そして山を越えたところにある二つの沢から水を引くのが願いだったのだが、難工事のため実現できなかった。昭和19年、国の緊急食糧増産事業を取り入れ水路開発組合を設立。昭和20年2月に工事契約を結び、いよいよ念願の事業を始めるまで至ったが、折しも第二次世界大戦下であっため、工事資金、建設資材、食糧などが不足し、頓挫の危機に陥ったという。人夫の出役や米、野菜などを受益者が負担し、「血の滲む努力を重ね」5年あまりの歳月と2名の犠牲者を出しながら隧道11箇所、延長1282メートルの工事が完成したという。昭和25年5月21日の通水式で、水が「横手まで到着したときは一同狂喜乱舞して抱き合い感激にむせび泣いた」という。ちなみにこの碑は後世にこの功績を継承したいと願い、平成になって建てられたものだが、建碑に至った理由は刻まれていない。完成後40年余経て建てられた背景に、この水路にかかわっている人々の、今の思いがあったに違いない。

 碑に記された「横手」とはどこなのか、そんなことを思いながらそこを目指してさらに水路を伝って行くのだが、この地域特有の暗渠となっていて、その先を探るのは簡単ではなかった。ときおりある管理用の水槽を探し当てながら下っていくが、しばらく後、行き先がまったくわからなくなった。近くにおられた老人に聞くと、わたしが想定してきた道が違っていることに気がついた。もちろん住宅があれば、水田もあり、どこかで分水されこうした地に導水されているのだろうが、主たる導水管の位置は、もっと高いところにあると教えられる。老人はこんなことも口にされた。「今の組合の人たちはろくに管理しない」「わたしももう年だから口には出さないが…」と言いながらその背景を少し口にされた。ようは地すべり地帯ということもあって、これまで水路の整備にそれほど負担がなかったことが、逆に地域では水への思いが希薄化しているというのだ。ここでいう水路とは、戦後完成した水路ではなく、そこから下流の枝となってそれぞれの地域に導水されている水路のことを言っている。地すべり対策で整備された水路は、その性格から地元負担はなかった。さらに前述したように、戦後完成した水路も、後に水道施設と共用したことから、管理に手をかけることなく、数十年という歳月を経てしまっていた。ようは当初の水路を造った時の苦労と、その後には天と地ほどの差があったために、世代交代とともに、水路への思いが希薄化してしまった、ということなのだろう。老人は水田を耕作するほど、水はもともとたくさんこなかった、と目の前にすでに湛水された水田を見て話しをされた。むしろ生活のための水だったと言う。当初から管で導水し、管理のために水槽をいくつも造ったが、そのせいで利用者が多くなって、より水は尊くなってしまったようだ。そのむ当時はまだ水道も整備されていなかった。確かに国道を渡る際の水管橋の径は小さく、それほどたくさん水田が耕作できる水はやってこない。貴重な水は、まさに〝生きるための水〟だったといえる。

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生きるための“水” 前編

2019-04-03 23:20:40 | 歴史から学ぶ

 2月初頭に「再び“命懸け”」を記した。そこで、

かつて「命懸けの水」を記した。さらに「“命懸け”」を記し、その半年後にそう思った現場で「穴の中で思うこと」を記した。いずれもある井水(用水路)で思ったことだ。当時怪我をした左手の薬指は、処置が良かったのか、運が良かったのか、お医者さんには「うまく爪が生えてくるかわからない」と言われたが、幸運にも元通りの綺麗な爪を今は見せてくれている。が、若干であるが、指先を意図的に触ると、今もって違和感はある。きっとわたしの記憶から隧道での危険さを忘れさせないための、神のお告げなのかもしれないと、触る度に思い出させる。

と記した。

 その際に入った隧道現場に、今日久しぶりに訪れた。2年余ぶりである。当時と何が変わったかといえば、隧道内を流水させることが叶わず、過去の施設を利用して用水を供給している。当初に比べれば些少な水であるが、ゼロよりは良いという判断である。隧道内が落盤によって塞がれていたところへ水を流していたから、上流側は水と泥が溜まって、入るのも容易ではなかったが、余水吐けに水を流すようになって、だいぶ水位は下がったが、とはいえ、泥は溜まったまま。もちろんかつてのことがあるから、中にもぐり込むつもりもなかったが、あの日を思い浮かべながら、近くまで入ってはみた。余水を払っているため、上流側の隧道はかつてよりずっと入りやすくなっていた。意外にも上流側はコンクリートで巻き立てられていて、数十メートル潜ってみたが、意外なほど良好だった。先は延々とコンクリートで巻き立てられた闇が続いていたが、きりがなかったので、引換した。

 当時と何が最も違っているか、そう思い返すと、「人の足跡が減っている」ことだろうか。一応当時の課題はクリアーされて、その後現場を訪れる人がいなくなった、とも言える。3年以上前、初めてこの現場に案内してもらった際には、初夏だったこともあって、葉も濃かったから歩く道が見えなかったということもあるだろうが、地元の案内される方も道を誤るほどだった。獣道のような山道を枝をかきわけて下っていった。当時何度となく現場を訪れ、さらに尾根越えの測量もしたし、怪我をした現場だから、わたしの記憶からはそう簡単には消えない。だから今訪れても、間違いなくその道を選択できる。おそらく誰よりも現場の道に詳しいかもしれない。ほとんど人の足が入っていない現場だったから、尾根から沢へ折れるところにビニールテープで目印をかつてつけた。その目印が、今もって檜の枝に結ばれたままになっていた。もちろんわたしにはもう必要ない目印であるが、そこを右折して急な山を下ると目的地に着く。年に何人がこの場所を訪れるものなのか、当時の道に比べると、明らかに雑木が道を塞いでいて、人の気配がないことを教えてくれる。

 当時はこの水を伝って、水田のある場所まで行くことはなかったが、この日、初めて水田のある場所まで山の中をかいくぐって進んだ。歩いて進むには山越えをいくつもしなければならないので、一旦車を使って迂回した場所もあるが、そもそも車のより付ける場所はわずか。これほどまでして水を引きたかった人々の思いは、とうてい今の人々には理解できないかもしれない。そして、その理解を阻む事実が、この水路にはある。

続く

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富草大島の一石三十三観音

2019-03-01 23:03:33 | 歴史から学ぶ

阿南町富草大島

 

 一石三十三観音についてはこれまでにも何度か記してきた。そもそもそれらは下伊那南部のものがほとんどで、この地域に一石三十三観音が多く建てられてきたことがわかる。そして井戸寛氏により『日本の石仏』(日本石仏協会)118号と130号に掲載された一石三十三観音のデータについては、「一石三十三観音」に記した。また、一石多尊仏を扱われた「ようこそ一石多尊仏廻りへ」のページについても以前ここに紹介した。その中の一覧にないものを見つけた。天竜川にある泰阜ダムの右岸側に大島というところがあり、その山際に墓地があり、近くにこの三十三観音は祀られていた。下から横6列5段に観音様が彫られ、その上に3体の観音が彫られて合計三十三体である。その上部に「寛保三癸亥天 十月十八日」と彫られている。寛保3年というと1743年であり、近くでは雲雀沢に享保10年(1724)のものがある。300年近く前のものなのであるが、銘文が読み取れるのはありがたい。

 

青面金剛

 同じ場所に丸彫りの珍しい像が建っていた。腕がいくつもあることから、濃青面金剛かもしれない、とその時思ったのだが、あらためて家に帰って『阿南町誌』で調べると、確かに庚申さんとして紹介されていた。ほとんどの人はこり像を見てお地蔵さんだと思うだろう。

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これもまた道路開通記念の「道祖神」

2019-02-27 23:47:18 | 歴史から学ぶ

 

 このところ「道祖神」に出会うことが多い。これもまた道路の開通を記念した「道祖神」である。阿南町の富草に別当というところがあり、その集落入口の少し道路よりは高い斜面に立っていた。碑文は「道祖神」の下に次のように刻まれている。

別當農道
延長 七〇〇メートル
工事金三三六万円補助金一六八万円
着工 昭和四十五年一月十七日
開通 昭和四十五年四月十二日
   阿南町長 関勝夫
    区 長 木下正司
    副区長 木下栄徳
    小林幸雄 小林寿美男
    藤井てる
施工者 金本建設
   昭和四十八年七月建之

 別当は富草粟野から天竜川の方に向かって奥まったところにある。おそらくもともとあった道を拡幅したものと思われるが、「別当農道」とあるように、当時は「農道」として拡幅されたものと思われる。もちろんそれは「農道」ではなく、粟野から別当に行くための生活道路であって幹線道路でもある。

 この道祖神例の『長野県道祖神碑一覧』に記載はない。基礎資料は飯田風越高等学校郷土班がまとめた『風越山』30号だったわけであるが、発行は昭和60年であるから、調査された際にはすでにこの道祖神は建立されていたわけだが、漏れたようだ。別当にこのほかに道祖神はない。

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そう遠くない“終焉”を前に

2019-02-23 23:53:34 | 歴史から学ぶ

 「古城」と書いて「ふるじょう」と言う。阿南町富草にある地名で、下条氏が甲斐の国下条からこの地に来て初めて城を築いた場所である。甲斐源氏には諸族があり、とくに武田、小笠原両氏は著名な一族という。そして下条氏はそのどちらからも出ているが、この地の下条氏の出自について明確なものはないという。応永7年(1400)大塔の合戦に小笠原長秀に属して戦った下条伊豆守は、少なくとも室町時代初期にはこの地に来往していたもの(『阿南町誌上巻』516頁)という。同書によると、現在「古城」と呼ばれている「大爪」に下条氏が城を置いたのは応永元年(1394)から文明2年(1470)までの5代76年だったという。この地が狭かったためか、現在の下條村吉岡へ城を移し、その後ここを「古城」と言うようになった。現在「古城」には八幡社が祀られている。『阿南町誌上巻』には「この辺りの地質は第三紀層であり、水による侵食の影響を受けて直立的な山が多く、特に古城の地はその点甚だしく、谷はあくまでも深い。そのためいずれの地からも望むことのできる地形にあり、天然の要害の地である」と記されている。

 さらに同書にはこうも書かれている。

 下条郷には、古代より七野七原といわれた平地があり、農業が盛んなところであったことが知られるが、中世の下条郷も地形は複雑な城域ではあるが、米その他農産物が豊かで、このほか山間地特有の焼畑農業による、陸稲のほか、粟・稗・蕎麦・大豆など主食に代わる食糧も豊かであった。

と。下条氏が吉岡に移った後にかかわり、「下条康氏の没落後には、城地の東岸字稲葉に邸を構えて帰農土着し、その後その家が二つに分かれて、上稲葉・下稲葉といわれた。」と記している。この稲葉こそ、以前触れた庚申堂のある場所なのである。庚申堂についても記載があり、「下条氏の墓所の跡に建てられたとの伝えがある」(同書522頁)としている。稲葉の地が600年も前に拓かれた場所と言うことは、おそらく「嘘のようなハナシ」に記した井水もそれに近い時代に引かれたものなのだろう。その歴史の深さに、あらためて思い知らされるが、いっぽうでその現在地について複雑に思う。

 そして、「嘘のようなハナシ」を上回る水路に遭遇した。その名は同書に「古城井水」とある水路である。前述したように「古城」の周囲は険しい。とりわけ南側の町道下の崖は、急峻にして基盤である岩盤の上に薄い表土が被っている状態で、降雨の度にそれが流され、崩壊を繰り返してきたに違いない。この急峻な崖部に古城井水は開けられたのである。地元の方も「600年前から」と口にされた(『阿南町誌』には、「古城井水開設碑」の写真が掲載されており、それには「天保13年」とあるから今の井水とは異なるかもしれない)。確かに井水のあったであろう平がわずかながら見せるところもあるが、ほとんどそれらしい姿を見せない。ようは古い時代から掛け樋で導水されていた可能性が高い。同書には時代は下るものの、樋について「これら資材を取る山を「樋山」として、各村で留山にし、その山木も太さを規定して、一定の大きさのものだけを切ることにして維持管理に当たり、みだりに切ることが許されなかった」と記している(同書794頁)。「古城」南側崖下に、用水路があるとは、想像だにしないだろうが、この井水を管理するために、途方もない苦労をされているとわたしなりに推測する。そして「もうわたしの代で終わり」と聞き、長い歴史の終焉が、そう遠くないと悟った。

 古城井水の導水された先に、この馬頭観音が祀られていた。「享保十八」と見える。1733年である。頭上の彫りから馬頭と捉えたが、禅定印を結び、薬壺を持っているようにも見える。定印の下部に朱塗りの跡も見える。1733年の馬頭観音は、かなり古い類である。

 

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