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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

そう遠くない“終焉”を前に

2019-02-23 23:53:34 | 歴史から学ぶ

 「古城」と書いて「ふるじょう」と言う。阿南町富草にある地名で、下条氏が甲斐の国下条からこの地に来て初めて城を築いた場所である。甲斐源氏には諸族があり、とくに武田、小笠原両氏は著名な一族という。そして下条氏はそのどちらからも出ているが、この地の下条氏の出自について明確なものはないという。応永7年(1400)大塔の合戦に小笠原長秀に属して戦った下条伊豆守は、少なくとも室町時代初期にはこの地に来往していたもの(『阿南町誌上巻』516頁)という。同書によると、現在「古城」と呼ばれている「大爪」に下条氏が城を置いたのは応永元年(1394)から文明2年(1470)までの5代76年だったという。この地が狭かったためか、現在の下條村吉岡へ城を移し、その後ここを「古城」と言うようになった。現在「古城」には八幡社が祀られている。『阿南町誌上巻』には「この辺りの地質は第三紀層であり、水による侵食の影響を受けて直立的な山が多く、特に古城の地はその点甚だしく、谷はあくまでも深い。そのためいずれの地からも望むことのできる地形にあり、天然の要害の地である」と記されている。

 さらに同書にはこうも書かれている。

 下条郷には、古代より七野七原といわれた平地があり、農業が盛んなところであったことが知られるが、中世の下条郷も地形は複雑な城域ではあるが、米その他農産物が豊かで、このほか山間地特有の焼畑農業による、陸稲のほか、粟・稗・蕎麦・大豆など主食に代わる食糧も豊かであった。

と。下条氏が吉岡に移った後にかかわり、「下条康氏の没落後には、城地の東岸字稲葉に邸を構えて帰農土着し、その後その家が二つに分かれて、上稲葉・下稲葉といわれた。」と記している。この稲葉こそ、以前触れた庚申堂のある場所なのである。庚申堂についても記載があり、「下条氏の墓所の跡に建てられたとの伝えがある」(同書522頁)としている。稲葉の地が600年も前に拓かれた場所と言うことは、おそらく「嘘のようなハナシ」に記した井水もそれに近い時代に引かれたものなのだろう。その歴史の深さに、あらためて思い知らされるが、いっぽうでその現在地について複雑に思う。

 そして、「嘘のようなハナシ」を上回る水路に遭遇した。その名は同書に「古城井水」とある水路である。前述したように「古城」の周囲は険しい。とりわけ南側の町道下の崖は、急峻にして基盤である岩盤の上に薄い表土が被っている状態で、降雨の度にそれが流され、崩壊を繰り返してきたに違いない。この急峻な崖部に古城井水は開けられたのである。地元の方も「600年前から」と口にされた(『阿南町誌』には、「古城井水開設碑」の写真が掲載されており、それには「天保13年」とあるから今の井水とは異なるかもしれない)。確かに井水のあったであろう平がわずかながら見せるところもあるが、ほとんどそれらしい姿を見せない。ようは古い時代から掛け樋で導水されていた可能性が高い。同書には時代は下るものの、樋について「これら資材を取る山を「樋山」として、各村で留山にし、その山木も太さを規定して、一定の大きさのものだけを切ることにして維持管理に当たり、みだりに切ることが許されなかった」と記している(同書794頁)。「古城」南側崖下に、用水路があるとは、想像だにしないだろうが、この井水を管理するために、途方もない苦労をされているとわたしなりに推測する。そして「もうわたしの代で終わり」と聞き、長い歴史の終焉が、そう遠くないと悟った。

 古城井水の導水された先に、この馬頭観音が祀られていた。「享保十八」と見える。1733年である。頭上の彫りから馬頭と捉えたが、禅定印を結び、薬壺を持っているようにも見える。定印の下部に朱塗りの跡も見える。1733年の馬頭観音は、かなり古い類である。

 


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