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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

子守神社へ

2019-02-13 23:19:43 | 信州・信濃・長野県

 

 昨日も阿南町の現場を訪れた。等高線を追って行って、このあたりなら隧道が顔を出すのじゃないかと思い、道なき山をかけくだったら、予想通り隧道がほんの少し顔を出していた。これが経験者のなせる技かもしれないが、とはいえ宝探しみたいな賭けであるのも事実だ。沢をひとつ間違えれば落胆は大きい。降りる時は良かったが、もとの場所まで登るつらさはなかなかのものだった。とはいえ、これが見つからなかったら、またまた山の中で独り言を吠えていただろう。

 さて、阿南町富草の恩沢という集落に入った。阿南町はこれまでにも山深いところをあちこち歩いているが、恩沢は初めてだった。すぐそこに天竜川の谷が見えているが、川が望めるところではない。山懐といった感じで、とても静かなところだが、天竜川沿いを走る飯田線の列車の音がかすかに聞こえてくる。

 集落の真ん中に小高い丘があつて、その上に子守神社という社があった。山道から見上げる鳥居と「子守神社」の碑が印象的に冬の日差しをやわらかく浴びていた。見るからに数戸しかない集落だが、ひとつの神社を立派に維持されている。本殿前にある舞台は、足元がだいぶ朽ちていて、地震でも発生したら倒れるのではないかと思うほど不安定さを見せるが、頭上の柱は太かった。本殿もまたちょっと足元が脆弱化している印象があったが、社殿の前に額が掛けられていて、写真額がふたつ掲げられていた。ひとつは平成28年5月1日に修繕工事をした際の記念撮影で、もうひとつは同じ年の9月25日の伐採記念という写真だ。大勢の参加者が写り込んでいて、そこから神社に対する思いが伝わるような気がした。若い人は少ないが、集落に住まう方、あるいは今は遠隔地に住まわれている関係者も参集したのだろうか。

 祭神は「水分神」(みくまりの神)で、雨水または流水を分配することをつかさどる神だという。水を程よく分配し、五穀豊穣を願ったわけだ。「みこもり」を意味し、「こもり」から「子守」、ようは子供を守り育てる意図がある。

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美味しくない“鯖缶”

2019-01-22 23:19:34 | 信州・信濃・長野県

 我が家では、朝食に鯖缶が登場することが多かった。缶詰と言えば保存食であるが、手軽なおかずになるから、忙しい時にサッと出すには都合が良かった。だから妻は、朝食に鯖缶を利用することが多い。

 今日も朝食に鯖缶が出ている。ひとつの缶詰を一人で食べることはないので、半分くらいに壊して自分の皿に盛る。箸で円柱形になっていた山を崩す。「?、?」。いつもの鯖缶とちょっと違う感じ。いつものなら太い鯖が塊になっているのに、今日の鯖缶は細い魚がいくつかに固まっている。こんなのは初めてだ。崩した一部を自分の皿に載せて、妻には醤油はかけるなと言われるが、いつも通り少しかける。口に入れてみて、またまた「?、?」。なんだこりゃ、ていうか美味しくない。昔、子どものころ鯖缶が美味しくない、と思った時のイメージに近い。あの頃は、魚が好きではなかったからそう思っただけかもしれないが、このごろ美味しく頂いていた鯖缶とは明らかに違う。「これっていつものと違うよね」、思わず妻に問いかける。妻が言うには、知人からいただいたものだという。鯖缶人気で品薄になっていて、知人から鯖缶の箱詰めを贈答として送っていただいたというが、その鯖缶も品薄で手になかなか入らないという。それにしてもこんなまずい鯖缶があったんだ、そう思うほど、あまり口にしたくない代物だ。

 我が家では以前から鯖缶を利用していたから、この品薄は大変迷惑なのだ。あげくにこのまずい鯖缶。こんなまずい鯖缶でも品薄だと言うのだから、最近口にされるようになった人たちには、不味くても「鯖缶」なのだろうか。

 こんなブームのせいなのだろうか、年末にある報道から鯖缶について質問があった。すぐに回答できなかったので、知人に聞いてから回答したのだが、お礼の返事もなかった。きっと回答が遅かったので、別口で済ませたのだろう。質問はこうだ。

〇北信地区でサバの缶詰を食べるようになったのはいつ頃からか。
〇なぜ北信地区で多くサバの缶詰を食べる習慣ができたのか。
〇飯山市の方に5月6月に根曲がり竹とサバ缶を使った味噌汁をよく食べるようだが、そのような郷土料理が生まれた背景は。また、そのような料理ができる前は似たような郷土料理があったのか。

というものだった。鯖缶が汎用化したのは昭和30年代あたりのことだろうか。わたしも飯山に暮らした時代、盛んにタケノコ採りに行かされたもの。そしてタケノコ汁にして食べたものだが、当時の汁に鯖缶が使われていたか、はっきりとは記憶していない。その後しばらくして再び北信に働いたことがあるが、そのころは確かに鯖缶を使っていた。なので、当初飯山に暮らしていた時代は、ある程度鯖缶というものも視野に入っていたかもしれないが、鯖缶がなければ味がつかない、というほどのものではなかったのではないだろうか。現在北信に住まわれている方に聞いたところでは、「毎年スーパーにサバ缶が高く積み上げられるのは根曲がり竹や淡竹が旬の時期です」と言う。タケノコに鯖缶、これが北信のタケノコが旬なころの景色なのだ。飯山市の図書館の方にうかがったところでは、いろいろな本を調べていただいたものの、それら記載はあまりないという。そんな中、具体例として“『信州いいやま食の風土記』P132に「昭和30年代には商店に缶詰が置かれるようになった」”という回答をいただいた。さて、この鯖缶ブームで、今年のタケノコシーズンはどうなることか。まずい鯖缶では、きっとタケノコ汁も美味しくないのでは…。

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北信濃とは

2019-01-05 23:24:40 | 信州・信濃・長野県

 どうしてもこういうことにこだわってしまうのは、わたしの悪い性格かもしれない。ある投稿文を書きながら引用文の掲載されている『民俗芸能研究』65号(民俗芸能学会)をあらためて見ていて違和感を覚えた。本号には2編の長野県関係の論文などが寄稿されている。双方ともに同じ意味の違和感を抱いた。ひとつの論文は三田村佳子氏の「北信濃の「灯篭揃え」-多様化する燈籠風流-」というもの。もういっぽうは櫻井弘人氏の「南信州における無形文化遺産の継承と活性化の取り組み」である。どちらも地域名称を付している。以前にも「南信州」とはどこだということについて触れたが、地域名称の不明瞭さは、平成の合併以降とくに目につくようになった。合併によってかつての地域の枠を超えて合併が行われたため、こういう現象が起きるのはわかりきっていたことだが、とくに学術誌においては、こうした地域名称があたかも旧来のものという印象を与えてしまい、正当化してしまうこともある。

 前者である「北信濃」と耳にしたとき、当初はかつてよく利用された「奥信濃」地域をイメージした。「灯篭揃え」というタイトルからして、おそらく奥信濃を中心としたエリアを指しているのだろうと捉えたのである。ところか内容を読んでみると、始まりは須坂市や長野市から始まる。そして伝播は奥信濃へ。「北信濃」についてはネット上で検索すると、確かに今は正当化できる名称のようだ。しかし、長野以北に都合8年ほど働いたわたしにとって、当時の印象からすると馴染みにくい単語だ。もともと長野県を指す「信濃」であるが、南北東西を使った「信濃」は、それほど耳にしないものだった。というか、わたしの印象では「北信濃」とは長野周辺のみで、県境地方は「奥信濃」というイメージだ。同じことは「信濃」に代わる「信州」も同様。ところがとりわけ信州を前面に出した名称の比較的先行例は「北信州」みゆき農協だっただろうか。いわゆる飯山市を中心としたエリアの農協が平成10年に発足した。今はながの農協に合併して存在しないが、このあたりから曖昧な新しい名称づけが目立つようになる。ウィキペディアにおいては、北信地方の項で「北信地方(ほくしんちほう)とは、長野県の北部を指す。地方中心地は長野市。」と書いている。そして注釈として「中野・飯山を中心とした「北信地域」とは異なります。」と記す。さらに「長野盆地の俗称から善光寺平(ぜんこうじだいら)と呼ばれたり、北信州(きたしんしゅう)や北信濃(きたしなの)とも呼ばれることも多い。郡名を取る場合には、長野市が属していた上水内郡から水内地方(みのちちほう)と呼ばれる。」とある。この文面からだと、下水内郡や上下高井郡が入らないようにも聞こえる。ウィキペディアでも正確な地域枠を示せていない感じだ。

 こうした曖昧な雰囲気を撒き散らしているのが、広域圏を括る単語を捻出している長野県なのだろう。長野県観光部信州キャンペーン実行委員会のホームページには県内の地域枠を次のように示している。

北信=北信濃
東信=東信州
中信→木曽郡を木曽路、それ以外を日本アルプス
南信→諏訪郡を諏訪、上下伊那(伊那谷)を伊那路

観光関係者が納得した上でこうした名称になっているのだろうが、びっくりするような地域枠だ。

 ということで、今では「北信濃」と言っても納得する人が多いのかもしれないが、民俗で扱う地域名称として「北信濃」が正しいかどうかは、検討して使うべきだと、わたしは思う。

 もうひとつの「南信州」は、おそらく内容の中に登場する南信州広域連合との関係上で利用しているのだろうが、これもまた、伝統的なものを扱う際に正しい利用法なのか、あるいは注釈を入れるべきではないか、そんなことを思う。

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赤地蔵

2018-11-03 23:51:06 | 信州・信濃・長野県

 

 野倉ではもうひとつ、興味深いものがあった。現在の集落中心の四辻(見方によっては五辻かも)に仏龕に納まった赤い地蔵が祀られている。石地蔵と思ってよく見ると、石ではない。木造なのだ。露天に木造の仏像を置いても腐ってしまうが、石の龕に入っているから、一応雨よけになっている。いつごろ造られたものかわからないが、露天に祀られる木造地蔵はとても珍しい。とはいえ、雨が当たらない顔のあたりは塗った当時の光を見せるが、おそらく雨が当たると思われる下体のあたりは、だいぶ色あせている。座像は箱に納められた形で石の室に入っていて、赤い色はどぎついほど、「赤光り」している。聞くところによると、ある時に、誰かがペンキで赤く塗ってしまったという。以来こんな感じに目立った赤さを光らせているわけであるが、だからこそ、余計に信仰篤く見守られてきたのかもしれない。横にある立て看板には次のように書かれている。

 昔、この場所は北側にある瑞光寺(別所安楽寺の末寺)参道の入口であり、ここに地蔵菩薩が祭られた。地蔵菩薩の慈悲は無限であり、庶民のあらゆる悩みごとを聞き入れてくれる仏として崇められ、朱塗りであるため「赤地蔵さん」と呼んで親しまれている。
 日本一降雨量の少ないここ野倉でも毎年旱魃による凶作に苦しみ、この悩みを地蔵さんに託して幾度が雨乞いの行事を行った。日照り続きの時は、この地蔵さんを谷間の産川に運んで入水させ鐘や太鼓を打ち鳴らし「雨降らせたんまいな」と繰り返し唱えて恵みの雨を渇望した。こんなことから、いつの日か雨乞い地蔵とも呼ぶようになった。石造の地蔵さんは多いが、石の仏龕に木造仏を祭る事は極めて希で貴重である。

 野倉自治会と塩田郷土研究会が建てた「由来」書きである。

 先に「赤地蔵さん」と呼ばれていたとあり、雨乞いの対象になったことから「雨乞い地蔵」と呼ばれたとあるから、「赤地蔵」の呼称の方が古いということになるだろうか。とすると、ペンキで塗られる前にも朱塗りされていたということになる。より強いご利益を求めて、赤く塗られたのかもしれない。

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文化財の行方

2018-09-26 23:43:03 | 信州・信濃・長野県

 先ごろ文化財に関する会議において、話題になったことがある。それは蚕種業とかかわる施設で、建造物として評価されるべくものだが、業として利用された施設は価値ある建造物として評価できるが、個人で利用していた施設は定期的な部分改修が必要とされて、施設全体を捉えると50年経過しておらず、評価が難しいというものだった。基礎部分(これは建築というより土木構造物と言った方が正しいかもしれない)は昔のままだが、上屋の一部が葺き替えられるため、全体としては無理があるという判断だ。では、基礎部分だけを評価して指定しようか、という話にもなったが、その際に出た話は、別の分野から捉えた指定という視点だった。そもそも対象施設は、蚕種業としては既に利用されていないが、もともとの機能を利用して主旨を変えて利用されている。また、個人で利用されている小規模の施設も、個人によって現在も多様な利用のされ方をしている。もっと言えば、蚕種業が盛んになる以前から個人利用としての施設が存在していたようで、その土地の風土を特徴づける施設でもある。こうした現在も利用されている施設であることから、無形の民俗文化財としての評価ができるだろうという話になったわけである。地域の特徴を表すもので、何より今もって利用されているという意味合いは重いものであり、加えて地域でも保護活用をしていこうていう意識が高い。

 建造物として評価できるものは建造物として、そして習俗として捉えながらそれら施設を保存活用する糸口を選択しようと言う意見が、その場の大勢を占めた。ようは総合的な捉え方であるが、これまでの文化財にはこうした総合的な捉え方はなかったと言ってもよい。

 以前にも歴史文化基本構想に触れながら、関連文化財群のことについて述べたことがあった。聞くところによると、文化財保護法改正(来春4月施行)に伴い、歴史文化基本構想が法定化され、地域計画というものが策定されるようになるという。文化財の保存・活用というところを主旨にした流れが国の導く先のようだ。とりわけ、文化財を単体で捉えるのではなく、自然環境や周囲の景観、そこで行われる人々の伝統的活動などは、それらと関連しているものであって、一体的に捉えて保存・活用していくことが重要だという。まさに前例はモノとしてだけでなく、今もって習俗として活かされているとしたら、トータルな意味で価値あるものとして捉えられるだろう。今後の文化財の進むべき姿として、複合的な視点で評価される枠を設けて欲しいものである。

 

付記 文化財の分類に「重要文化的景観」というものがある。その選定基準には、


1 地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された次に掲げる景観地のうち我が国民の基盤的生活又は生業の特色を示すもので典型的なもの又は独特のもの
(1)水田・畑地などの農耕に関する景観地
(2)茅野・牧野などの採草・放牧に関する景観地
(3)用材林・防災林などの森林の利用に関する景観地
(4)養殖いかだ・海苔ひびなどの漁ろうに関する景観地
(5)ため池・水路・港などの水の利用に関する景観地
(6)鉱山・採石場・工場群などの採掘・製造に関する景観地
(7)道・広場などの流通・往来に関する景観地
(8)垣根・屋敷林などの居住に関する景観地

2 前項各号に掲げるものが複合した景観地のうち我が国民の基盤的な生活又は生業の特色を示すもので典型的なもの又は独特なもの

とあり、これを読む限り指定に向けて敷居は高くないと思いがちだが、とりわけ国の指定地となると、関係機関との調整や、さまざまな条件が付与されて簡単ではないという。その道も探るが容易ならないようで、その選択はしないようだ。しかしながら県内の指定例をみたとき、対象物件はなんら遜色のないものだと思うのだが、素人目なのだろうか。こんなことを言うと批判を受けるだろうが、姨捨の棚田より十分に価値があると思うのだが…。

 

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トイレと庭と

2018-07-11 23:46:38 | 信州・信濃・長野県

 ふだんは弁当持ちだが、現場に行くときなど外出する際は外食となる。そんなときよく思うのは、「もう少し綺麗にできないのか」と思うこと。ようは食べ物やさんもさまざまだが、ちょっとした気遣いでいくらでも印象が良くなるのに、と思うようなことがよくある。お客さんの目に留まるようなところは「綺麗に」と思わないのだろうか、ということ。よそから来た人たちにとってみれば、たまたま入った店でイメージを落とせば、そのまま地域のイメージにもつながる。こうした印象を与えないように、というような基本的事項の横のつながりというか連携は、できないものなのだろうか、と。

 同じようなことはさまざまな施設で垣間見ることができる。今日は長野での会議のため高速に入ったが、時間的に余裕があったので、トイレ休憩のつもりで梓川SAに立ち寄った。このごろのSAのトイレは、確かに綺麗だ。しかし、飲食コーナーの大窓の外に映る生け垣の周囲には、見事に雑草が生える。雑草対策はどこもそうだが、なかなか手が届いていない。トイレにあれほど力を入れるいっぽう、そうではないエリアには、手が入れられているという印象を持てない。「観光」という視線でモノを見れば、こうした事例は数多い。よく日記にも記すが、人は視線の中にある支障物が気になるもの。例えばよそから来た者にとって、映る光景の中に、支障物がない方が良いに決まっている。ある一定の枠の中ではどうしようもできない支障物を、もっと大きな関係者連携の上で対応できないものかと、よく思ったりする。わたしは「観光」には少しも興味はないものの、例えば前例の窓から見えたふとした光景に、「もう少しなんとかすれば良いのに」という、ある食べ物やさんの光景と同じイメージを抱いた。

 以前記したことがあるが、わたしの最寄りの駅のホームは、この季節になると雑草に覆われる。飯田線の活性化がどうのこうのと言うが、そもそも周辺整備〈管理〉という面ではお粗末なもの。多くの駅が草だらけだ。かつてなら「老人クラブ」などといった団体が、奉仕活動で美化活動をしていたものだが、今はそうした活動が廃れた。「老人」はたくさん居るのに、かつてのような老人の姿はまったく見ない。老人に限らず、世の中全体的に「奉仕」と言ってよいかどうかわからないが、活動が低迷している。個人主義のなせる業なのかもしれないが、ひとたび事件なり災害など発生すると、「日本人らしさ」が取り上げられるが、明らかにその背景にある日本人らしさは消滅の方向に向かっている、と思うが、それは間違いだろうか。

 以前から駅のホームにあった植木が、剪定もされず、ひどい姿をしていたから「なんとかならないものか」と以前記したことがあったが、近ごろ駅に行くと、すっかり伐られてしまって跡形もなくなっていた。かろうじて株が残っている。なんと申して良いものか、「観光」と目立つことをする以前に、意識の醸成や連携といったところからの策もあるのではないだろうか。

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「昭和の道祖神」の始まり

2018-05-16 23:08:50 | 信州・信濃・長野県

富士見町御射山神戸の双体道祖神より

 平出一治氏が、「昭和の道祖神」と題して初めて『遙北通信』(遙北石造文化同好会)に報告文を掲載されたのは、わたしが同誌へ何度となく道祖神関係の行事を報告するようになってからの、昭和63年3月20日発行の第57号であった。諏訪地域に昭和建立の道祖神が多いことに気づかれて報告いただいたもので、以後平成6年5月1日発行の第141号まで、48回に渡って諏訪地域の昭和の道祖神を紹介いただいた。最初に投稿いただいたものが、下記のものであった。

 

昭和の道祖神1
富士見町富原の双体像 (『遙北通信』第57号 昭和63年3月20発行) 平出一冶

 諏訪地方の道祖神を見て歩き、昭和建立の道祖神の多いことに驚いている。それらを順次紹介してみたい。

 諏訪那富士見町の富原は戦後に開拓された地区で、道祖神は公民館の庭に祀られている。安山岩の前面を平らに研磨し、二神をレリーフしたもので、同質の台石上に鎮座している。二神の上には横書きで「道祖神」と刻まれている。古い双体像にはみられない手法である。

 大きさは高さ105cm、幅32cm、厚さ38cm。男女二神とも同じ大きさで像高は46cm。台石の高さは62cmを計る。

  銘文 (表面)  道祖神
             昭和五十七年十月吉日
                    富原区建之

 

 次いで「昭和の道祖神2」は前回の「富士見町御射山神戸の双体道祖神」で紹介したもので、第3回は第59号へ投稿いただいた下記のものであった。

 

昭和の道祖神3
富士見町南原山の双体像 (『遙北通信』第59号 昭和63年4月17日発行) 平出一冶

 諏訪那富士見町の南原山は戦後に開拓された地区で、道祖神は公民館近くの県道払沢-富士見線の路傍に祀られている。鉄平石(平板状)の自然石に二神をレリーフしたもので、安山岩の台石上に鎮座している。二神の彫りは極めて良いものである。二神の下には横書きで「道祖神」と刻まれているが、古い双体像にはみられない手法である。なお、女神の唇には紅がみられる。

 昭和五十五年に庚申塔建立に関する調査の折に、富士見町の植松石材店を訪れたとき、この道祖神を建てた話を聞いている。

 大きさは高さ130cm、幅126cm、厚さ38cm。像高は男神が43cm、女神が41cmである。台石の高さは58cmを計る。

 銘文(表面) 道祖神 (横書き)
    (裏面) 昭和五十三年十二月吉日
                南原山区建之

 

 これら昭和の道祖神のうち、とりわけ戦後に建立されたものは、いわゆる各市町村などが発行した石造文化財調査報告書には、未掲載のものが多い。もちろん報告書の調査がされた以降に建立されたものが未掲載のことは当然のことだが、そもそも「文化財」と銘打った報告書に、こうした新しいものを掲載することの是非も問われたのだろう。しかしながら前回も触れたように、すでに戦後半世紀以上を経過しており、気がつけば世の中は大きく変わり、建立後100年を迎えるのもそう遠くないことになる。「現代」であってもその変化は著しく、またその時々の人々の建立への思いは異なっていく。そう遠くない過去の時代のことであっても、実際の建立動機や、建立時の様子は、記録されていたとしても忘れられてしまう傾向がある。こうした報告が、後に意味あるものとして捉えられればありがたいことである。

 ※「遙北石造文化同好会」のこと 後編に触れた通り、「平出一治氏のこと」について回想録として掲載している。

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伊那生田飯田線から

2018-04-13 23:27:56 | 信州・信濃・長野県

 桜が散り始めると、「今年も終わったなー」、そう思う人も少なくないのではないだろうか。そろそろこの景色を見られるのも「あと何回だろう」、そう考えるカウントダウンに入る年齢が近づいている。だからこそ、こころに余裕なくこの季節を迎え、落下する花びらの光景を見ていると、後悔のようなものがくすぶる。一本桜をここ数年紹介してきたように、桜にはことかかない長野県では、まだまだ山桜が段丘崖に淡い色を魅せ、桜ゆく季節をわたしたちは見送っている。しかしながら、よそからやって来る余裕ある人々に惑わされながらも、指折り勘定する時がきっとやってくるのだろう。この季節ほど、淡い後悔が燻ることはない。とりわけ天候に惑わされるほどに、それは高まるもの。

 仕事で中川村に向かった。このごろ伊那市から中川村へ向かう際には、主要地方道の伊那生田飯田線をよく利用する。このことは昨年も何度か記した。今日はあまり深く考えていなかったため、天竜川右岸の段丘上を走って南下していたが、途中で昨日顔を出していただいたお客さんのところに寄ってみようと天竜川河畔まで下ったついでに、その後は例の如く天竜川左岸に渡り、伊那生田飯田線を中川まで南下した。駒ヶ根市吉瀬から中川村までの険しい道を走る地元の車はもの好きで、今はほとんどいない。ところがそんな険しい道に対向車がやってくる。みればすれ違う車は、ことごとく県外ナンバーの車。この日も近ごろあったであろう落石を、取り除いたばかりという光景があった。それほど険しい道だ。あえてリスクを抱えて通る道ではないのだろうが、そうした道を県外車が走る。もし落石による事故があったら、管理者であるお役所の責任が問われても不思議ではない。にもかかわらず落石を注意するような表示はほとんどない。県外車通行お断りにしても不思議ではない道なのだが、道は公のものだから、そんなこともできない。しかし、自己責任であるくらいの注意書きはあってもおかしくないほどの道であることは、通ってみた人はわかるはず。

 

 南下しながら、ポイントで写真を撮ってみた。まず駒ヶ根市中沢から見た木曽駒ケ岳から空木岳にかけて。3月上旬に「すでに“島田娘”現る」を記したが、その後に降った雪で、島田娘は再び真っ白に戻ったが、間もなくまたその姿を表すところまできている。段丘崖に山桜が点在して咲いているのが、この季節の典型的光景である。

 

 同じ中沢の中の吉瀬は、少し離れたところにある独特な空間をもった集落。集落西側は急峻な崖を経て天竜川に落ち込んでいるため、木々に遮られることなく、右岸が見渡せる。1枚目は南駒ヶ岳を望み、2枚目は宝剣岳を望む。見晴らしの良さではここほどのところは他にない。国道153号の中田切川橋も、そう遠くないうちに完成する。

 

 同じ南駒ヶ岳を中川村飯沼から撮影したもの。南駒ヶ岳はこのあたりまで南下したほうが稜線の格好はいい。やはり段丘崖に山桜が点々と…。いずれも写真ではあくまでも雰囲気に過ぎず、実見するのが一番。これら写真はいずれも伊那生田飯田線から撮ったもの。里山に手が入っていた時代なら、どこからでもこうした光景が望めたのだろうが、今は木々に遮られて、なかなか見渡す限り、という場所は少なくなった。

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すでに“島田娘”現る

2018-03-07 23:35:10 | 信州・信濃・長野県

 

 先ごろある土地改良区を訪れたとき、「今年は水路に流れている水の量が少ない」という話になった。もちろん冬期間であるから、かんがい期間のような水量は取水していない。それでも例年なら水路のどの位置まで水位があるとわかっているのだが、それが今年は例年と違うと言うのだ。今年のかんがい期間を占う話になった際に、「山の雪がどうだろう」ということになった。そのときはとくに気にもしていなかったのだが、今日木曽駒ケ岳の「駒形」の雪形が綺麗に見える伊那市富県を訪れていて、ふと木曽駒ケ岳を眺めると、すでにその「駒形」が浮かんでいる。雪形としてはまだもう少しというところだろうが、まだ3月に入ったところ。「早い」と思ったのは言うまでもない。

 そして午後、今度は仕事で飯島町に向かった。駒ヶ根市に入ってふと農道から宝剣岳を望むと、なんと「島田娘」が完璧に現れている。「島田娘」の左側に出る雪形は「稗まき小僧」といわれるようだが、これもまた黒々と現れている。「島田娘」の現れ方は、以前に触れた“比較「駒形」と「島田娘」”と比較してみても、遜色ない現れ方だ。当時のものは5月初旬のもの。2ヶ月も早い「島田娘」と言える。

 こう考えると、かつて農事の暦として雪形を利用したと言うが、年によってこれほど違うと農作業をする目安にはならない。というよりも雪形の発生する時期で、その年の水を占うことができるのかもしれない。ということは、今年は水不足になるのではないか、と。

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上伊那の道祖神

2018-01-05 23:52:50 | 信州・信濃・長野県

箕輪町漆戸道祖神

 

 『長野県道祖神碑一覧』の口絵写真について、地域ごと担当者が12月いっぱいに撮影する、という約束が昨年の11月に確認されたものの、年内は仕事に追われて準備ができなかった。状況は年を明けてもそれほど変わっていないが、わたしだけ間に合わないではいけないと思い、1月中には揃えようと思っている。「雪が降る前に」という合言葉だったわけだが、幸いにもこの地域は県内でも雪は少ない。

 写真については「地区の一般的な道祖神碑、特殊な道祖神碑、自然石・陽石・陰石にも目配りする」とされている。地区の一般的というのはなかなか難しく、そもそも伊那谷では文字碑が多い。したがって一般的というと文字碑となるが、どこにでもあるようなものを掲載しても「面白くない」ことは言うまでもない。したがって選択肢としては「特徴ある道祖神」ということになるだろうか。今もって選別してないが、地区で12枚程度となると、南信の場合は「諏訪・上伊那・下伊那」と3地域あるから、それぞれ4枚程度か。とはいえ道祖神そのものは北寄りにその数は多い。そのあたりも考慮すると下伊那は少し少なくても良いのかも、と考えながら選択している。

 上伊那ではやはり辰野町の道祖神が代表的と言える。いわゆる高遠石工の彫った美品も多く、極めつけは日本最古の銘文を持つ双体道祖神もある。とはいえ前述したように地区4点程度となると、何をもって代表的とするか難しい。地区4点では選択が難しいといって何点も選んで編集担当に任せるというのも気が引けるので、結果的に上伊那では下記7点の中から選択予定。

①辰野町上辰野堀上荒井 双体像 
②箕輪町漆戸 双体像
③伊那市高遠町長藤塩供 文字碑
④伊那市高遠町山室宮沢 箱入道祖神
⑤伊那市長谷中尾 丸石神
⑥駒ヶ根市中沢下割 双体像
⑦飯島町岩間 単体像

とはいえ、この中に自然石、いわゆる奇石の系統がない。上伊那では自然石の道祖神もかつては多かった。ところが盗難や紛失によってその数は減少していて、今は自然石そのものを道祖神として意識している地域は少ない。この中で②は「巻物を持った道祖神」を選択して欲しいという編集担当よりの意図があってのもの。おそらくそう言われなければ選択していなかったもの。辰野町や箕輪町には巻物を手にした双体道祖神が何基か見られる。どんど焼きの起こりとして『長野県上伊那誌民俗篇上』には次のような伝承がある。

道祖神は、今年の村人の誰それはどの程度の病気にする、予定を閻魔帳に付けておく。それを焼いてしまえば、いかな神様でも病気に出来まいというので帳面を焼いたものだという。(三義中屋、北原もとや氏談 『長野県上伊那誌民俗篇上』P-963)

具体的なこうした伝承は少ないが、どんど焼きに歌われる歌にそれらしいものが多い。たとえば

ホンヤリホウホ ホンヤリ殿は馬鹿で、出雲の国へよばられて、あとで家を焼かれた ホウホ(松川町上片桐『長野県上伊那誌民俗篇上』P-684)

といったもの。道祖神が記した閻魔帳を焼いてしまおうという考えとも捉えられる。巻物を持った道祖神を掲載したいと言われ、わたしの頭に浮かんだのは伊豆地方のこと。静岡県に巻物を持った道祖神があるという記憶があったからだ。ところが意外と辰野町や箕輪町にそうした道祖神の例が見られる。このことは神野善治氏の著作『人形道祖神』の中でも触れられていて、このふたつの地域に特徴的に見られる道祖神だという。

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曖昧な地域

2018-01-03 23:13:38 | 信州・信濃・長野県

 今の子どもたちにどう教えられているか知らないが、子どものころ教えられた「中部地方」といえば、新潟県、富山県、石川県、福井県、山梨県、長野県、岐阜県、静岡県、愛知県の9県をいった。それは今も変わらないようだが、意外に思う人は多いだろう。「三重県て中部じゃないの」という具合に。北海道はともかくとして、東北、関東、中国、四国、九州といった地域に該当する県を間違える人はそうはいないだろう。しかし、三重を含む近畿はまだしも、中部ほどイメージが一致しない地域は他にない。

 「新潟県って何地方? 県・市・NHK・市民に見解を聞いてみた」という記事がYAHOOニュースに昨日掲載された。確かに新潟はよく言われる「地方」の枠組みに当てはめようとすると、難しい位置にある。三重県と同格だろうか。「「新潟県って何地方ですか?」と聞かれたら、あなたはなんと答えますか。東北、関東、甲信越、関東甲信越、北陸、北信越、中部、信越、上信越など、さまざまな地域に分類され、新潟県民でさえ答えに悩む」と記事にはある。「東北」という枠組みもあるのか、と人ごとのように思ったが、何といっても長野県と組まれることが多いのは既知のこと。ということは新潟以上に長野県の曖昧な立ち位置も厄介なところにある。もちろん位置的に捉えれば新潟よりも明確さがあるかもしれないが、何といってもいろいろな分野で分割された枠組みにあることは事実。とりわけ分断が著しいのが鉄道だろう。東日本、東海、西日本が関係している。飯田線が辰野までという認識の人は少なく、どちらかというと岡谷までという感じ。ところが辰野駅で分断されるから、以南から乗っていくと、必ずあと駅にしてふたつというところの辰野で乗務員が交替する。もちろん時間的ロスが生じるのは言うまでもない。複雑怪奇なのは電力だろうか。県内すべて中部電力でありながら、河川に造られている発電用ダムは関東や関西のダムが混在する。また、河川の管轄が混在しているのもよく知られていて、江戸時代以来の虫食い状態は現代にまで通じている。そういえば先ごろ民俗学的にみたとき、飯田下伊那に特徴がない、といった福田アジオ先生に答えるなら、大きな力を持った権力者がなかったから、多様に適応してきた地域、だからこそ特徴が無いのではないか、ということになるだろうか。それでいて山岳地帯のため空間的分断は当たり前。峠越えしなければよその地域に行けない環境は、自ずと地域分断を育んだ。

 このことは以前に道州制の問題で触れたことだが、長野県ほどどっち付かずに分断されがちな県はないだろう。このことは新潟県以上の悩ましいこと。たとえば静岡県であっても、東は関東、西は中部、という具合にせいぜい意識分断があっても二つ。ところが長野県は空間認識で二つに別れることはない。もっと多様だということ。新幹線の開業とともに、少なからず同一空間意識が新幹線沿線に育まれているだろうが、それ以外の地域にまで波及していない。リニアという化物が誕生したとしても、空間を結びつける道具には成りえず、もっと地域意識を向上させてしまうかもしれない。かつて長野県ですき放題にやった田中康夫が、唯一長野県民に対して確実な眼差しを持っていたのは、この分断に対する対策だったかもしれない。その現れが道州制が実行されても長野県はひとつだという表明だった。戦国時代の様相が、県民性を育んだといっても言い過ぎではない。

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県内一遠い伊那谷のスタンダード

2017-11-15 23:01:50 | 信州・信濃・長野県

 予算獲得行動のため、永田町を訪れた。今年2回目である。「生業」で記したように、行政に頼らざるを得ない予算は、自ずと紐付きにならざるを得ない。その世の中が「間違っている」という言葉もあるだろうが、与野党が逆転していた時代にも同じことが行われていたのだから、どうにもならないわたしたちの構造だ。

 午前5時代の高速バスに乗って新宿へ。県内のあちこちからお世話になっているお客さんたちに加わってもらっての行動。伊那谷は相変わらず東京に地図上では近いはずなのに、アクセスは悪い。予定ではあと10年ほどでリニアができるというから、わたしも10歳若かったらその恩恵に預かったかもしれないが、まだまだ未知のもの。飯田からなら同じバスは5時前に出る。そして新宿には時刻表どおりに着かず、ほぼ毎日のように遅れる。10時近くになることもあるという。飯田からなら5時間近いこともあるということ。この日のわたしはほぼ定刻にやってきたバスに乗って、渋滞に入って場合によっては10時ころになるかもという運転手の放送を耳にしながら、意外にも15分遅れくらいの9時半に新宿に着いた。それでも4時間。遅れることを予想してバスを選定するから、目的の時間より場合によっては1時間くらい前のバスに乗る。県内からは最も遠い伊那谷なのである。もちろん伊那と飯田では1時間以上さらに異なるが…。伊那谷からは駒ヶ根から発する高速バスト飯田から発する高速バスがある。駒ヶ根から発するバスは伊那インターまで国道を走る。とはいえ30分ほどの所要時間だから、お客さんの利用を考慮すると、この方がニーズが高いのだろう。その理由は、前述したように、伊那と飯田では1時間以上違うというところにある。伊那あたりからなら、JRを利用すると高速バスと同じくらいの時間で新宿に着く。こ存じの通り、高速バスは空間としては「狭い」。同じ時間なら鉄道の方が良いと思う人は多い。もちろん安さから考えると高速バスの方が安価ではあるが。そんなこともあって、飯田-新宿線に比較すると駒ヶ根-新宿線の方が空いている。ニーズとしては飯田-新宿線の方が高い。もちろんバス停が多いのだからそうした面で利用者が多くなるのも事実。事実帰りのバスでは、駒ヶ根までの間に降りる客が多く、わたしが降りる際には、すでに残っている客はわずかだった。鉄道を利用して東京に向かう人はとても少ない、それが伊那谷のスタンダードなのである。

 この日県内から集まった人々は、もちろん伊那谷から向かった人たちよりも遅い時間に家を出ている。したがって帰りも最も遅く家に着くのは伊那谷の人々。リニアにかつて期待したのも理解できるだろう。現実的にリニアができれば、伊那から高速を利用して飯田駅に向かって、リニアに乗れば、時間的には長野から東京に行くのに要す現在の新幹線利用の所要時間と同じくらいになる。もちろん最も遠くだった飯田の人々が長野を下に見ることになる。この逆転現象に優越感を求める人々も少なからずいるのだろう。

 2度目のバスタ新宿。1度利用しただけで、なんとなく位置情報を記憶に留められ、すんなりと目的の場所に行けた。より高速バスで行きやすくなった「新宿」、そんな今のわたしのイメージである。

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『辰野町の石造文化財』を手にとって

2017-08-24 23:10:35 | 信州・信濃・長野県

 先日久しぶりに本屋に寄ってみる。すっかり巷から消えた本屋。いわゆるチェーン店も目立たなくなったが、それ以外の本屋もだいぶなくなって趣味レベルの本屋しか存在しない。今日もお年寄りが商っている本屋に立ち寄ってみると、かつての賑わいはもちろんのこと、店の中も別の階は閉鎖して、狭いスペースで営業している。もちろん本も限定的。そう遠くないうちにこの店も姿を消すのだろう。

 先日立ち寄った本屋で郷土本が並ぶ棚にあまり例を見ないような本が並んでいた。『辰野町の石造文化財』という辰野町教育委員会が発行したB5版の550ページにものぼる本。こうした本がふつうの書店に並ぶ例は珍しい。なぜかと思うといわゆる郷土本の発行を担っている県内の民間の書籍会社が扱っているからなのだろう。とはいえかなりマイナーな本だから、書店にふつうにならぷことはない。箱に記された値段をみて思わず「安い」と思った。これはわたしは「安い」と思うが大方の人はそうは思わないだろう。そもそもこんな本を買う人はまずいない。そして、まずいないはずなのに、わたしは購入した。1800円にぷらす税という本書。550ページもある本で1800円はないだろう。もともと儲けるために発行された本ではないから、「安い」のも当然かもしれない。今年の3月末日に発行されたという本書、いわゆる「石造文化財」と銘打った本は県内でもたくさん発行されている。どこの市町村にもあるという本ではないのだが、少なくなはない。わたしもこの手の本はそこそこ持っている。そしてこうした本は昭和後期から平成一桁時代にかけてある程度発行された。。近年県内でこうした本が発行されたということは聞かない。ということでこの真新しい「石造文化財」本を、少し紐解いてみよう。ちなみに、その後立ち寄ってみた本屋のほとんどにこの本が並んでいた。「こんな本、買う人いるのだろうか」と思うのは、わたしだけではないだろう。

 本書は地区ごとに石造文化財を紹介しているもので、ほかの「石造文化財」本と構成は違わない。地区ごとの中身は、まず⑴主要な石造文化財を写真で紹介し、⑵悉皆的にすべての石造文化財を一覧化、そして⑶位置図を示しており、訪問するには十分な位置を示している。ついで「特徴ある石造物」を紹介しており、⑴種類別、⑵石工別、⑶揮毫者別という3種の視点でまとめている。石工別、あるいは揮毫者別という分類は特徴的と言える。

 残念ながら行事や信仰といった民俗的記述はほとんどなく、モノとして捉えてまとめた資料と言える。今回まとめるにあたりコンピュータによるデータ化が行われたと言うし、1体1体台帳化した上に地図情報システムによって管理されているともいう。なるぼと現代のデータ処理に即した取りまとめがされているのだろうが、といって本書にそれらをデータ処理した形跡はなく、考察面では乏しいものとなっている。ページ数が多いということは基数の多さがうかがえるわけだが、故にこうしたデータをどう取り扱うのか、応用する課題が残されていると言えるのだろう。

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消極的な理由とは?

2017-08-11 23:39:49 | 信州・信濃・長野県

 妻の実家のある地域の飲み会の席で話題にしたのは、多面的機能支払交付金のはなし。長野県農業農村多面的機能発揮促進協議会のページより制度の概要を用いると、地域の共同活動により保全管理されている農地や水路、農道などの地域資源や農村環境の保全活動を支援するのが、「多面的機能支払交付金」である。もちろん国の補助金である。農地維持支払交付金というものと、資源向上支払交付金というものがあり、前者は地域資源の基礎的な保全活動 あるいは地域資源の適切な保全管理のための維持活動にあたる。簡単に言えば、施設の点検に限らず草刈や道普請、あるいは井浚いといった共同管理作業に対して交付金が交付されるというもの。水田なら10アールあたり3000円、畑なら2000円と些少な単価ではあるが、もともとまったく補助金のなかったところへ、維持作業をしただけで補助金が交付されるというのだから、まさに補助になることは言うまでもない。また、後者は地域資源の質的向上を図る共同活動(施設の機能診断や補修に対する技術的研修)や施設の長寿命化のための活動(長寿命化に対する実際の補修・更新という工事)に対して交付金が得られる。いってみれば、地域が自分たちで考えて、必要なところに手を加えていくという、自発的な活動への補助金と言える。

 実は関係の仕事に携わっているのに、つい先ごろまで市町村ごとの交付金への実施状況がウェブ上に公開されていることを知らなかった。わたしが日ごろ苦労している妻の実家のある地域の維持作業。もちろんわたしは住人ではないので、その地域がどのように組織を編成するかによって無縁となるが、とはいえ、妻の実家の実際の農業にかかわっている限り、家の代表者としてまったく関わらないとは言えない状況にある。したがって、もしそうした交付金を受けるべく組織ができていれば、何らかのアプローチもあっただろうが、これまでそういうことはまったくなかったわけで、この地域がそうした交付金を受けるべくアプローチをしていないことは承知していた。その通り、ウェブ上に公開されている活動組織のエリア図を見てみると、妻の実家のある村は、ある広域農業水利施設(土地改良区)の受益地には活動組織の色が塗られているのだが、ほかの地域にはそうした活動組織がひとつも存在しないのである。とりわけ山間地域は無色透明といったところ。それは山間だから該当しないのか、といえばそうではない。例えば隣の同じような地形環境にある村は、山間地域まで活動組織が編成されている。同様に上伊那郡に至っては、ほとんどの耕作地が着色されていて、その交付金への積極性が垣間見える。ひとつの指標かもしれないが、わたしが暮らしている地域も比較的活動組織の編成に対して積極性が見られない。ようは畑作地帯での消極性である。これは「共同」という視線で捉えると個人重視の意識が強いと考えられる。とりわけ古い時代に果樹が展開された地域の特徴とも言える。同様のことは下伊那ぢゅうで見られるのかもしれないが、とはいえ、なぜ取り組まないのか、そう思わざるを得ない地域が目立つ。この地域の中心でもある飯田市が、そもそも消極的である。

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中央自動車道初期予定ルート

2017-07-27 23:20:13 | 信州・信濃・長野県

 もう10年以上も前、「夢の弾丸道路」においてわたしはこう記している。

 わたしはこの地図と『阿智村誌』を見ているたけで、他の資料には目を通していないので、あくまで想像ではあるが、こう考えた。実は名古屋東京間の地図を広げて見るとわかるが、八王子から山梨に入った中央自動車道は、大月から河口湖まで富士吉田線が分岐している。この河口湖と中津川を結ぶと、まさしく天竜峡や、木沢を通るルートが想定される。昔から富士吉田線は富士山への観光客のために造られた道路なんだと思っていたが、実はこの精進中津川を結ぶための道路だったのではないだろうか。

 みればそこにも記しているが、てもとにあった地図と『阿智村誌』を見ただけの想像であった。さきごろ中央自動車道のことを探っていると「南アルプスを越えられなかった中央自動車道」というページを見つけた。日経コンストラクションというところで公開しているもので、その2010年12月28日の記事である。冒頭こう綴っている。

 国土交通省の交通政策審議会で、JR東海が計画しているリニア新幹線のルートが南アルプス経由に内定した。あてが外れたのは長野県。1989年以来、迂回(うかい)しても経済効果が見込めるとの理由で、対案の伊那谷ルートを推進してきた。これが覆った。

 逆に、いったん南アルプス経由と決まったものの、後に伊那谷経由へと覆ったのが中央自動車道だ。ルート変更を巡る逆転劇があったのは半世紀前のこと。

 そのうえで歴史を振り返っている。ここに登場してくるのが田中清一(1892-1973年)が1947年に日本政府に提出した計画である。「夢の弾丸道路」にも記した田中プランのことである。南アルプス経由で決まった中央道の建設計画が覆る出来事が、1963年に起きたという。中央道の早期着工・完成を推進するため、関係する自治体の首長などが構成する「中央自動車道建設推進委員会」が1963年5月17日に開催した第6回総会において、長野県出身の国会議員であった委員長の青木一男(1889-1982年)が突如、ルートを北回りに変更する方針を明らかにしたという。周辺自治体の多くが北回りを望んだため、反対者もあったが結局北回りで建設されることに。記事はまだ中央リニアのルートが決定される前のもの。中央自動車道と同様に北回りと直線ルートの間で揺れた上で、記事にもあるように「国家的なプロジェクトでは大局に立った判断」が優先されたのだろう、直線ルートに決定した。「中央自動車道を再び」というわけにはいかなかったわけである。

 「夢の弾丸道路」に記したように、わたしの手元には印刷された財団法人田中研究所の作成した「精進中津川間縦断面図」の「第四案」というものがある。ここには現況地盤と実際の計画ラインとともに、トンネルと橋の位置や長さが示されている。かなり具体的なものを描いたものといえる。これとともに私の手元には国土地理院の図を貼り合わせた上で、手書きでルートを示した図がある。そこにはおおよそ3ルート、そのうちのひとつを少し修正を加えたもの1ルートを加えた4本の線が引かれている。縦断図に4案とあるから、手書きのもののように4ルートが示されていたのかもしれない。「夢の弾丸道路」にも記したように、ルート図の中では縦断図に示されたものは青いラインで引かれていて、とくにトンネルについては位置が示されており、長大トンネルにあたる易老嶽トンネル(8.15キロ)と神坂峠トンネル(7.65キロ)についてルート図に示されたトンネル部分を図測すると、たしかにそれに近い長さがトンネルと表示されている。このルート図は誰が手書きしたものか不明であるが、田中研究所の人なのか、それともわたしがこの図を入手したと記憶する高校のクラブ顧問の先生だったのんはわからない。いずれにしてもとうじ地域で唯一の土木科を有す高校の先生だったこともあって、この世紀の大工事プランに興味を抱いていても不思議ではないし、もしかしたら田中研究所と何らかの関わりがあったのかもしれない。

 さて、4案に示されたルートをおおよそGoogleマップに落としてみた。とりわけ三遠南信自動車道と重なる部分があることに注目である。それと、直線ルートとは言うものの、実際は大きく、そして細かい部分も曲がっているところが、当時の土木技術とリニアを建設しようとしている今の土木技術の違いだろうか。

 

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