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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

富蔵山

2020-03-16 23:50:42 | 信州・信濃・長野県

「橋二ケ所供養」と「富蔵山」

 

血取り場の馬頭観音

 

 富士見町に目立つものに「富蔵山」という石碑である。富蔵山は「とくらさん」と読み、東筑摩郡旧坂北村(現筑北村)にある天台宗岩殿寺(がんでんじ)の山号である。なぜ坂北村というかけ離れた、それもそれほど知られていない岩殿寺が富士見にかかわってくるのか、詳細は調べていないが、室町時代末期に武田信玄の帰依を受け、寺紋を武田菱としたあたりとかかわっているのかも。本尊が馬頭観世音ということで、馬の信仰が篤いという。乙事の東はずれの丘陵地は山林となっており、ここを「富蔵の森」と称している。西側はくぼ地となっており、農業用水路がその低地を流れている(下流は「矢の沢川」)。乙事から高森へ向かう道がうねるように曲がる西側低地り交差点に、「橋二ケ所供養」の石碑が立つ。「富士見町の道祖神②」でも橋供養碑を紹介したが、富士見町には橋供養の石碑が多いようだ。ちなみにこの橋供養碑は、「文化十癸酉二月」と銘文があるように、1813年建立のもの。隣に並んで立っている「南無阿弥陀仏」は寛延3年(1750)造立である。おそらくこの用水路を跨ぐ位置に橋がかつてあったのだろう。

 この交差点から富蔵の森はすぐそこに見えるとともに、その口元に石碑が立っているのもよく見える。それが「富蔵山」である。上部円形の中に梵字が刻まれている。

 ちょうどこの富蔵の森を訪れた後、『長野県民俗の会会報』の最新号(42号)が届いた。本号に下平武氏が“「狼落とし」(いぬおとし)についての一考察”を発表されていた。この「富蔵山」の近くに伝承されているのが「次郎兵衛狼合戦」である。下平氏の文より引用させていただくと、

吉右衛門という村人が、朝早く田んぼの見回り中に、オオカミに襲われました。ちょうど草刈りにいく途中だった次郎兵衛と数人の若者が、助けに向かいました。最後までオオカミと戦ったのが次郎兵衛です。身体中に傷を負いながらも、オオカミを組み伏せ、退治したのです。吉右衛門は、残念ながらこと切れてしまいましたが、このことで、次郎兵衛は諏訪藩の家老茅野氏の屋敷に呼ばれ、たいへん褒められ、帯刀を許されたということです。オオカミと戦った場所には供養の祠が立ち、村には、このお話が伝わっています。

という話である。実際供養塔が今も現存するという。

 「富蔵山」の向いている低地の対岸にやはり丘陵地があり、そこに血取り場がある。独特な空間で、いかも血取り場という感じだ。血取りについては、かつて「牛の爪切り場」で触れた。「血下げ場」とも言われた。


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