モラーレス(ca.1500-1555)は、ルネサンス期のスペイン生まれの作曲家ですが、教皇パウルス3世の下で活躍し、次の世代の巨匠パレストリーナ(1525-94)にも大きな影響を与えました。スペイン生まれの作曲家と言えば、私見ではヴィクトリア(1548-1611)が最高峰ですが、モラーレスの音楽は彼のような見上げるばかりのスケールの大きさを持ってはいませんし、直接的影響を聴き取ることもできません。また、パレストリーナのような何を手がけても完璧に仕上げる器用さもないようです。
ましてや後世のモーツァルトやヴェルディのようなオペラ的な華やかさやダイナミズムもありませんし、ベルリオーズやフォーレのように個性と感情を前面に打ち出すことなど及びもつきません。
しかしながら、オルガンの控えめな伴奏と各部一人ずつ5人の独唱者だけで演奏されたこのCDを聴いていると、深い悲しみと死に対する省察が感じられます。レクイエムは、カトリックの死者のためのミサ曲であり、したがって日本流に言えばお葬式や法事のための儀式曲(典礼曲)ですから、私はその意味での実用性がなくてはならないと思っています。シンフォニーやピアノ・ソナタとは(どっちが上とか下とかではなく)、違った聴き方、評価の仕方があってしかるべきではないかということです。これはラテン語のテキストと音楽との関係(例えば「怒りの日」をどう作曲するかといった問題)と近い面はありますが、ここでは触れません。
ともかく音楽史的には、声楽曲が先で器楽曲が後ですし、実用音楽が先で純粋音楽(曖昧な言葉ですが、art pour artくらいの意味です)が後です(前回取り上げた「トゥルバドゥールの音楽」のようなものを視野に入れると、実用音楽の定義なり範囲なりがややこしくなりますが、「音楽史」はそういう歴史的展開が叙述しにくいものは相手にしないのです)。ですから、器楽曲的な書法があるか否かとか、純粋音楽との距離感みたいなもので評価するのは簡単ですが、粗雑です。
そういう意味で、この作品は作曲家の個性が少し芽生え始め、しかしバロック期以降のようなこれ見よがしのところのないところがかえって、遺族が葬儀の典礼や神父のお説教の合間に聴く音楽として、泣ける曲ではないかと思います。泣くことは癒し効果wがあり、死者と別れるのに必要なことです。
このCDが好きな理由は、もう一つあります。ご覧のとおりジャケットがとても美しいのです。全身で表わされた悲しみは、顔が見えないだけによけいに深く、ほのかなエロティシズムも漂い、すべてが相まって美しいのです。プラケースでなく、紙のジャケットなので尚更です。
ましてや後世のモーツァルトやヴェルディのようなオペラ的な華やかさやダイナミズムもありませんし、ベルリオーズやフォーレのように個性と感情を前面に打ち出すことなど及びもつきません。
しかしながら、オルガンの控えめな伴奏と各部一人ずつ5人の独唱者だけで演奏されたこのCDを聴いていると、深い悲しみと死に対する省察が感じられます。レクイエムは、カトリックの死者のためのミサ曲であり、したがって日本流に言えばお葬式や法事のための儀式曲(典礼曲)ですから、私はその意味での実用性がなくてはならないと思っています。シンフォニーやピアノ・ソナタとは(どっちが上とか下とかではなく)、違った聴き方、評価の仕方があってしかるべきではないかということです。これはラテン語のテキストと音楽との関係(例えば「怒りの日」をどう作曲するかといった問題)と近い面はありますが、ここでは触れません。
ともかく音楽史的には、声楽曲が先で器楽曲が後ですし、実用音楽が先で純粋音楽(曖昧な言葉ですが、art pour artくらいの意味です)が後です(前回取り上げた「トゥルバドゥールの音楽」のようなものを視野に入れると、実用音楽の定義なり範囲なりがややこしくなりますが、「音楽史」はそういう歴史的展開が叙述しにくいものは相手にしないのです)。ですから、器楽曲的な書法があるか否かとか、純粋音楽との距離感みたいなもので評価するのは簡単ですが、粗雑です。
そういう意味で、この作品は作曲家の個性が少し芽生え始め、しかしバロック期以降のようなこれ見よがしのところのないところがかえって、遺族が葬儀の典礼や神父のお説教の合間に聴く音楽として、泣ける曲ではないかと思います。泣くことは癒し効果wがあり、死者と別れるのに必要なことです。
このCDが好きな理由は、もう一つあります。ご覧のとおりジャケットがとても美しいのです。全身で表わされた悲しみは、顔が見えないだけによけいに深く、ほのかなエロティシズムも漂い、すべてが相まって美しいのです。プラケースでなく、紙のジャケットなので尚更です。