夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

6/15読売日響:リヒャルト・シュトラウスの思惑

2009-06-24 | music
6/15の木曜日にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会へ行って来た。指揮は秋山和慶で、リヒャルト・シュトラウスの没後60年ということで、組曲「町人貴族」と「家庭交響曲」の2曲だった。

「町人貴族」はとても小さな編成でぼくの席の前にはヴァイオリンがいないくらいだが、ピアノ(三浦友理枝)とハープがある。冒頭の軽快な音楽が「プルチネルラ」を想起させる。20世紀の調性的な音楽を聴くとストラヴィンスキーとの類似を求めるのは悪い癖だと思うが、新古典主義と言われる音楽が実はハイドンやモーツァルトといった古典主義以前の音楽をパラフレーズしていることが多いのは事実だろう。「展開においてソナタ形式を、音の造りにおいて弦主導なんて散々使い尽くされた手法はとりあえず脇に置いておこうよ」そんな感じだろうか。

とは言え、シュトラウスは簡素な音楽に徹するわけでもない。重い金管の響きにピアノを重ね、クラリネットからフルートに受け渡しながらアリアを唄わせ、田園ふうの間奏曲の後には登場人物がのし歩く……めまぐるしく曲想が変わるのは元が劇伴の音楽だから仕方ないのかもしれないけれど、あの手この手を繰り出したがる彼の趣味もあるのだろう。リュリふうの音楽をモデルにしながらチェンバロをピアノとハープに変え、金管にいろんな打楽器を重ねたところが二管編成以上の迫力を出しながらどこかひんやりした感触、何かが欠けたような印象を残した。

「家庭交響曲」は彼らしい巨大編成で、各パートに難儀を強いる箇所がてんこ盛りになった曲。「どんな家族やねん!」と突っ込みを入れたくなる大袈裟なものだし、作曲家もそれは自覚していたと思うのだが、ユーモアが感じられなかったから腑に落ちない。「英雄の生涯」がたとえ自己陶酔の産物であっても「自我の肥大は芸術家にとって必要な要件でもある」と理解できるのだが、対象が家族では事大主義くらいにしか思えない。

とすればどんなものも目に見えるように描けるという作曲の才の無駄使いなんだろうか。舞台狭しと並んだプレイヤーに大音量で技巧の限りを尽くして、子どものいたずらや夫婦喧嘩といった家庭内の些事を演奏させるというのはほとんど悪趣味のような気がする。交響詩ではなく、交響曲なんだから純粋に音楽として鑑賞すればいいのかもしれないし、この日の秋山はそういうアプローチだったように聞こえた。

しかし、主題もわかって、筋もわかるのに、音楽として何が言いたいのかがぼくにはわからなかった。シュトラウスが内容のない作曲家だとは思っていないけれど、この曲に関しては外面的な表情はあっても内面的な感情がない。そういう苛立たしさがだんだん募ってきて、早く終わらないかなと思うが、なかなか終わらない。フィナーレかなコーダかなと思ってもまだ家族のすばらしさについて大演説をぶっている。細大漏らさず聞こえるからこそ笑いにならない、笑いがこみ上げる。


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