7/6の月曜日にサントリーホールで行われた読売日響の定期演奏会へ行って来た。指揮はパオロ・カリニャーニで、ラヴェルのピアノ協奏曲とホルストの「惑星」だった。
ラヴェルの独奏は清水和音で、CDも含めて聴くのは始めて。ロン・ティボー・コンクールで優勝して騒がれてた頃からすると、すっかりおじさんになったという印象だ。サティらが好んだ芝居小屋ふうの出だし。ガーシュインっぽいところもある。その辺の色合いの変化を清水はうまくこなしているが、テンポが落ちるところで左手のやや中音部の1つのキイの音程がちょっと変だ。タッチの乱れかなと思ったけれど、同じキイで感じたから調律の問題だろう。さらに、進むとラフマニノフやらプロコフィエフまで聞こえてきて、我ながらおかしく感じる。ラヴェルが影響を受けたのか、その逆なのかは知らないし、どうでもいい。パッチワークのような音楽を器用に書いて、それを清水がうまく表したということで十分だ。
第2楽章はサンサーンスふうで、これは確信犯だろう。音色の変化がいいし、音程も落ち着いたようだ。ピアノに限らず演奏が進まないと楽音がまとまらないのはふつうだ。ただ後半は緊張が途切れたようだった。
第3楽章は第1楽章と似た出だしで、そのまま伊福部昭というか、ゴジラのテーマを髣髴とさせる繰り返しでフィナーレに向かっていく。シンプルなまとめ方はラヴェルらしくてうまいと思わせるが、曲としての魅力は今一つだと思った。そういう意味ではアンコールに「逝ける王女のためのパヴァーヌ」を弾いてくれたのはうれしかった。弱音のニュアンスは見事で、おしゃれな悲しさといったこの曲の魅力をよく表現していた。強音はやや音が割れたが、それは聴く場所にもよるだろうし、大した問題ではない。
休憩後の「惑星」は実演を聴くのは初めてで、CDを含めても久しぶりに聴いた。それで先に全体の感想というか結論を言えば4楽章の交響曲と3楽章の交響詩に分けて聴くのがいいように思った。これはホルストがどのような構想に基づいて、どういう過程で作曲したのかといったこととは無関係で、客観的にどのような音楽として構造的に把握できるかということだ。
「Mars, the Bringer of War」は騎馬兵(三拍子)と歩兵(二拍子)の軍勢が近づいて来る様子と聞いてもいいし、行軍する密集軍団が槍や楯をがちゃつかせているから五拍子だと理解してもいいだろう。「時代の空気が反映している」とよく言われるが、少なくとも20世紀の近代戦が音化されているわけではない。占星術にかぶれたホルストには思いもよらないことだろう。
「Venus, the Bringer of Peace」は戦場の上にヴェールが架かるといったイメージの緩徐楽章、「Mercury, the Winged Messenger」はチェレスタとハープが用いられたスケルツォで、次の楽章に通じるフレーズも聞かれる。ホルストは楽章間のつながりを気にしていたのか、あちこちでこうしたことをやっているが、その辺が安っぽく、軽く見られがちな原因の一つかもしれない。
「Jupiter, the Bringer of Jollity」は田園舞曲があって、その後で有名なアンセムふうのメロディが唄われる。となると豊年満作への感謝の踊りと歌と聞くしかないだろうと思う。夜空にまたたく星を想像した方がロマンティックかもしれないし、「The Planets」だからこそ人気があるのかもしれないが、音楽はとても地上的、俗世的なものだ。それほど標題にこだわることもなく、ベートーヴェンの第6シンフォニーと同じような意味で、シンフォニーとしてまとまっていると考えていいだろう。
「Saturn, the Bringer of Old Age」からは死を主題とした神秘主義的な色彩を帯びていく。老いが近づき、緑の草原がみるみる灰色に変わっていく。警告するような鐘の音。音楽が内省的になって、象徴的な意味合いが濃くなると形式はゆるくなって、生命力に満ちたシンフォニーから死が忍び寄る交響詩へと変わっていく。
「Uranus, the Magician」はもう一つのスケルツォだが、もう残りの時間が少ないことを告げる時計の音がアイロニカルに響く。「Neptune, the Mystic」はオルゴールのような神秘的な冒頭部から女声ヴォカリーズがあの世へと誘う。歌詞がないのはこの世のものではないからに違いない。ちょっと陳腐な連想だが、死の島へと滑るように水面を行くはしけをイメージした。
ラヴェルの独奏は清水和音で、CDも含めて聴くのは始めて。ロン・ティボー・コンクールで優勝して騒がれてた頃からすると、すっかりおじさんになったという印象だ。サティらが好んだ芝居小屋ふうの出だし。ガーシュインっぽいところもある。その辺の色合いの変化を清水はうまくこなしているが、テンポが落ちるところで左手のやや中音部の1つのキイの音程がちょっと変だ。タッチの乱れかなと思ったけれど、同じキイで感じたから調律の問題だろう。さらに、進むとラフマニノフやらプロコフィエフまで聞こえてきて、我ながらおかしく感じる。ラヴェルが影響を受けたのか、その逆なのかは知らないし、どうでもいい。パッチワークのような音楽を器用に書いて、それを清水がうまく表したということで十分だ。
第2楽章はサンサーンスふうで、これは確信犯だろう。音色の変化がいいし、音程も落ち着いたようだ。ピアノに限らず演奏が進まないと楽音がまとまらないのはふつうだ。ただ後半は緊張が途切れたようだった。
第3楽章は第1楽章と似た出だしで、そのまま伊福部昭というか、ゴジラのテーマを髣髴とさせる繰り返しでフィナーレに向かっていく。シンプルなまとめ方はラヴェルらしくてうまいと思わせるが、曲としての魅力は今一つだと思った。そういう意味ではアンコールに「逝ける王女のためのパヴァーヌ」を弾いてくれたのはうれしかった。弱音のニュアンスは見事で、おしゃれな悲しさといったこの曲の魅力をよく表現していた。強音はやや音が割れたが、それは聴く場所にもよるだろうし、大した問題ではない。
休憩後の「惑星」は実演を聴くのは初めてで、CDを含めても久しぶりに聴いた。それで先に全体の感想というか結論を言えば4楽章の交響曲と3楽章の交響詩に分けて聴くのがいいように思った。これはホルストがどのような構想に基づいて、どういう過程で作曲したのかといったこととは無関係で、客観的にどのような音楽として構造的に把握できるかということだ。
「Mars, the Bringer of War」は騎馬兵(三拍子)と歩兵(二拍子)の軍勢が近づいて来る様子と聞いてもいいし、行軍する密集軍団が槍や楯をがちゃつかせているから五拍子だと理解してもいいだろう。「時代の空気が反映している」とよく言われるが、少なくとも20世紀の近代戦が音化されているわけではない。占星術にかぶれたホルストには思いもよらないことだろう。
「Venus, the Bringer of Peace」は戦場の上にヴェールが架かるといったイメージの緩徐楽章、「Mercury, the Winged Messenger」はチェレスタとハープが用いられたスケルツォで、次の楽章に通じるフレーズも聞かれる。ホルストは楽章間のつながりを気にしていたのか、あちこちでこうしたことをやっているが、その辺が安っぽく、軽く見られがちな原因の一つかもしれない。
「Jupiter, the Bringer of Jollity」は田園舞曲があって、その後で有名なアンセムふうのメロディが唄われる。となると豊年満作への感謝の踊りと歌と聞くしかないだろうと思う。夜空にまたたく星を想像した方がロマンティックかもしれないし、「The Planets」だからこそ人気があるのかもしれないが、音楽はとても地上的、俗世的なものだ。それほど標題にこだわることもなく、ベートーヴェンの第6シンフォニーと同じような意味で、シンフォニーとしてまとまっていると考えていいだろう。
「Saturn, the Bringer of Old Age」からは死を主題とした神秘主義的な色彩を帯びていく。老いが近づき、緑の草原がみるみる灰色に変わっていく。警告するような鐘の音。音楽が内省的になって、象徴的な意味合いが濃くなると形式はゆるくなって、生命力に満ちたシンフォニーから死が忍び寄る交響詩へと変わっていく。
「Uranus, the Magician」はもう一つのスケルツォだが、もう残りの時間が少ないことを告げる時計の音がアイロニカルに響く。「Neptune, the Mystic」はオルゴールのような神秘的な冒頭部から女声ヴォカリーズがあの世へと誘う。歌詞がないのはこの世のものではないからに違いない。ちょっと陳腐な連想だが、死の島へと滑るように水面を行くはしけをイメージした。