エッシャー展に行ってきました。美術展に行くのは本当にひさしぶりで、昨年末に今年は実物に復帰すると書いたのを早速実践しているわけです。この美術展では160点もの作品を見ることができるだけでなく、DS-liteを使って音声解説と画像によるガイドがあったり、CGを使ってエッシャーの版画を動かすことができたり、なかなかよく工夫されていました。
さて、最初は実は彼の最後の作品「蛇」1969年です。自分の死期を予感したエッシャー(1898-1972)は最後には蛇を描こうと予め決めていたそうです。ヘッドフォンから「この作品では『だまし絵』的な技法は全く使われていません」という説明が流れてきたときに、「あ、わかっちゃった」と思いました。……蛇、特に尻尾を噛んだ蛇は古来からウロボロスとして輪廻や生命力の象徴で、そんなことは彼は百も承知だったはずです。籠のように重なり合った輪がその意味を強調していて、中心と外側に向かって小さくなりながら増殖していく様子は永遠の運動を表しているかのようです。現実にはありえない世界を描き続けたエッシャーとしては確かに例外的にありえないことはないものを描いていますが、現実からは遠く、どう見てもこれは彼の絵に見えると思います。それがなんなのか、その要素を考えてみれば逆にエッシャーのだまし絵的なものにだまされることなく彼の本質が見えるでしょう。
で、それをこれから見ていきましょうというのがふつうですが、面倒だからいきなり結論を言いましょう。最期になって彼は「遊び」の要素を捨てて、ナマのメッセージを発したんだろうと思います。それは「私が死のうとも私は繰り返し存在し続ける」ということです。輪、円、繰り返しといったこの絵の要素が象徴する「永遠の生」という概念、これで彼の絵のほとんどを理解することができると思います。
この有名な「滝」1961年は落ちた水がいつの間にか上がっていき水車を繰り返し回す「永久機関」を描いた典型的なだまし絵ですが、注目すべきは左下の奇妙な植物です。
これは微細なこけを丹念にスケッチしたものが元になっているそうですが、生命力の象徴と考えていいでしょう。また、その横で永久機関を眺めているのは彼の自意識だと思います。
うがちすぎ? では、次の「上昇と下降」1960年を見てください。
左側には同じ格好をした人物が奇妙な階段をぐるぐる回る衛兵たちを眺めていますね。それらに背を向けて階段に座っている人物も右下にいます。ところが、この階段もよく見ると左右がずれています。つまり「現実とは別の真実から目をそむけてもそれに取り込まれていることには変わりない」ということじゃないかと思います。この「永遠の生」についての二つの相反する態度を画家の自意識とみなすのはごく自然でしょう。
この重力の方向が3つ、すなわち「下」が3通りある世界(決してバラバラではありません。恣意的なものは彼は嫌悪したでしょう)を描いた「相対性」1953年にもちゃんと植物が出てきますね。この絵では「繰り返し」は明らかではありませんが、次の奇妙な生物を描いた「階段の家」1951年ではずっとはっきり見ることができます。
この生物はエッシャーがどのように6本の脚で歩くかとか、平坦な道では丸まって車輪となって猛スピードが出せるとかといった詳細な生態や「ペダルテルノロタンドモーヴェンス・ケントロクラトゥス・アルティクロース」という学名まで与えて愛したものです。脚は人間の足と酷似していて、横から見るとかたつむりのようならせんを描いています。
植物のからみではこの「は虫類」1943年を掲げておきましょう。美術展ではワニがエッシャー自身の絵から出てきて、戻るのをCGで見せていました。とてもユーモアを感じる作品で、サボテンの反対側には世界の法則性を象徴しているかのように三角定規(ピタゴラスの定理)と正12面体(黄金比)が置かれています。それ以外にも見るものをからかうようにいろんなものが置かれていますが、エッシャーはスペインの教会の床のタイルを見ていて平面を形の違ったいくつかのタイルで埋め尽くす(平面の正則分割というそうです)技法に魅せられたそうです。それをここでは一種のパロディのように扱っているんでしょう。
平面の正則分割の最も見事な例がこの「円の極限Ⅳ(天国と地獄)」1960年で、円形が悪魔と天使によって無限に分割されています。これと最初に見た「蛇」はとても近いわけですが、ワニと蛇くらいの違いはありますw。蛇の絵の方は中心に向かっても無限になっていてドーナッツ形(トーラス)のようなイメージで、より象徴性が強いのです。
さて、こうした調子で見ていくとキリがないので、少し毛色の違ったものを紹介しましょう。彼が生まれたオランダの田園風景が鳥に変化していく「昼と夜」1938年はとても有名で、彼の出世作となったものだそうです。ここでも正則分割に基づいた繰り返しを見ることはできますが、ここまで見てきた作品のような閉塞感がありません。それは円環的な構成ではなく、発散する構成が取られ、は虫類ではなく鳥類がモチーフとなっているせいでしょう。
次のマルタ島の街並みを描いた「バルコニー」1945年はこの美術展のポスターにも使われているもので、建物が風船のように膨張した感じですね。その視覚的なインパクトだけのように一見思えますが、こちらの「写像球体を持つ手(球面鏡の自画像)」1935年と比較すると意味合いがわかってきます。
占いのことを考えればわかるように、水晶玉の中にはもう一つの世界があるわけで、この建物の中にもそうした大きな水晶玉だか別の宇宙だかが充満しているんでしょう。そう考えればやたら窓が多くて、向こうからの視線を意識させようとしている理由も納得できます。
最後に初期のバッハの平均律クラヴィア曲集の最初の曲を図案化した作品(1936年)を見ます。これは一周回るごとに1オクターヴずつ音階を下がっていくようにして旋律や和音を表現しています。
美術展ではバッハの曲に合わせて棒がくるくる表れるCGがあってとてもおもしろかったものです。中心に近いほど高い音程ですから立体化してみれば蛇がとぐろを巻いたようになるわけで、彼が一生かけて追求したものの萌芽を見ることができます。それだけではなく、これは黄金比の記事で紹介したベルヌイらせんになっています。そこでも書いたようにこのらせんに永遠の生命力を見る人は少なくないのです。
さて、最初は実は彼の最後の作品「蛇」1969年です。自分の死期を予感したエッシャー(1898-1972)は最後には蛇を描こうと予め決めていたそうです。ヘッドフォンから「この作品では『だまし絵』的な技法は全く使われていません」という説明が流れてきたときに、「あ、わかっちゃった」と思いました。……蛇、特に尻尾を噛んだ蛇は古来からウロボロスとして輪廻や生命力の象徴で、そんなことは彼は百も承知だったはずです。籠のように重なり合った輪がその意味を強調していて、中心と外側に向かって小さくなりながら増殖していく様子は永遠の運動を表しているかのようです。現実にはありえない世界を描き続けたエッシャーとしては確かに例外的にありえないことはないものを描いていますが、現実からは遠く、どう見てもこれは彼の絵に見えると思います。それがなんなのか、その要素を考えてみれば逆にエッシャーのだまし絵的なものにだまされることなく彼の本質が見えるでしょう。
で、それをこれから見ていきましょうというのがふつうですが、面倒だからいきなり結論を言いましょう。最期になって彼は「遊び」の要素を捨てて、ナマのメッセージを発したんだろうと思います。それは「私が死のうとも私は繰り返し存在し続ける」ということです。輪、円、繰り返しといったこの絵の要素が象徴する「永遠の生」という概念、これで彼の絵のほとんどを理解することができると思います。
この有名な「滝」1961年は落ちた水がいつの間にか上がっていき水車を繰り返し回す「永久機関」を描いた典型的なだまし絵ですが、注目すべきは左下の奇妙な植物です。
これは微細なこけを丹念にスケッチしたものが元になっているそうですが、生命力の象徴と考えていいでしょう。また、その横で永久機関を眺めているのは彼の自意識だと思います。
うがちすぎ? では、次の「上昇と下降」1960年を見てください。
左側には同じ格好をした人物が奇妙な階段をぐるぐる回る衛兵たちを眺めていますね。それらに背を向けて階段に座っている人物も右下にいます。ところが、この階段もよく見ると左右がずれています。つまり「現実とは別の真実から目をそむけてもそれに取り込まれていることには変わりない」ということじゃないかと思います。この「永遠の生」についての二つの相反する態度を画家の自意識とみなすのはごく自然でしょう。
この重力の方向が3つ、すなわち「下」が3通りある世界(決してバラバラではありません。恣意的なものは彼は嫌悪したでしょう)を描いた「相対性」1953年にもちゃんと植物が出てきますね。この絵では「繰り返し」は明らかではありませんが、次の奇妙な生物を描いた「階段の家」1951年ではずっとはっきり見ることができます。
この生物はエッシャーがどのように6本の脚で歩くかとか、平坦な道では丸まって車輪となって猛スピードが出せるとかといった詳細な生態や「ペダルテルノロタンドモーヴェンス・ケントロクラトゥス・アルティクロース」という学名まで与えて愛したものです。脚は人間の足と酷似していて、横から見るとかたつむりのようならせんを描いています。
植物のからみではこの「は虫類」1943年を掲げておきましょう。美術展ではワニがエッシャー自身の絵から出てきて、戻るのをCGで見せていました。とてもユーモアを感じる作品で、サボテンの反対側には世界の法則性を象徴しているかのように三角定規(ピタゴラスの定理)と正12面体(黄金比)が置かれています。それ以外にも見るものをからかうようにいろんなものが置かれていますが、エッシャーはスペインの教会の床のタイルを見ていて平面を形の違ったいくつかのタイルで埋め尽くす(平面の正則分割というそうです)技法に魅せられたそうです。それをここでは一種のパロディのように扱っているんでしょう。
平面の正則分割の最も見事な例がこの「円の極限Ⅳ(天国と地獄)」1960年で、円形が悪魔と天使によって無限に分割されています。これと最初に見た「蛇」はとても近いわけですが、ワニと蛇くらいの違いはありますw。蛇の絵の方は中心に向かっても無限になっていてドーナッツ形(トーラス)のようなイメージで、より象徴性が強いのです。
さて、こうした調子で見ていくとキリがないので、少し毛色の違ったものを紹介しましょう。彼が生まれたオランダの田園風景が鳥に変化していく「昼と夜」1938年はとても有名で、彼の出世作となったものだそうです。ここでも正則分割に基づいた繰り返しを見ることはできますが、ここまで見てきた作品のような閉塞感がありません。それは円環的な構成ではなく、発散する構成が取られ、は虫類ではなく鳥類がモチーフとなっているせいでしょう。
次のマルタ島の街並みを描いた「バルコニー」1945年はこの美術展のポスターにも使われているもので、建物が風船のように膨張した感じですね。その視覚的なインパクトだけのように一見思えますが、こちらの「写像球体を持つ手(球面鏡の自画像)」1935年と比較すると意味合いがわかってきます。
占いのことを考えればわかるように、水晶玉の中にはもう一つの世界があるわけで、この建物の中にもそうした大きな水晶玉だか別の宇宙だかが充満しているんでしょう。そう考えればやたら窓が多くて、向こうからの視線を意識させようとしている理由も納得できます。
最後に初期のバッハの平均律クラヴィア曲集の最初の曲を図案化した作品(1936年)を見ます。これは一周回るごとに1オクターヴずつ音階を下がっていくようにして旋律や和音を表現しています。
美術展ではバッハの曲に合わせて棒がくるくる表れるCGがあってとてもおもしろかったものです。中心に近いほど高い音程ですから立体化してみれば蛇がとぐろを巻いたようになるわけで、彼が一生かけて追求したものの萌芽を見ることができます。それだけではなく、これは黄金比の記事で紹介したベルヌイらせんになっています。そこでも書いたようにこのらせんに永遠の生命力を見る人は少なくないのです。
息を詰めて見ちゃうようなスキのない絵ばかりのように見えて、どこかに呼吸の感じられる部分があるのがいいですね。
中でも「昼と夜」はラク~に息ができてああよかったって感じです。
現代の作曲家がやったようなことをエッシャーは絵でやったってことかな?(感覚で言ってるだけなので気にしないよう…)
最後の絵の音はカデンツですね、おじぎの音の、頭下げてから戻す部分w
見た感じ、わかるような気もしますが、ちょっと物足りない感じもありますね、やっぱり調律が平均率だからかなw
「自然」に依拠するんじゃなくて、自分で決め事を作って描いてるところは現代音楽と一脈通じるでしょうね。
バッハを素材にしたものは「作品」というよりは一種のお勉強かな。それだけに彼の根っこのところがあらわになっていて、カデンツにされちゃったってことでしょうw。
じれったい、じれったい♪……中森明菜の歌を思い出してしまいましたw<ふるーー