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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

菊池寛著『二千六百年史抄』院政と武士の擡頭  

2024-05-23 10:15:52 | 作家・思想家


    菊池寛著『二千六百年史抄』 
  目次  
    序 
    神武天皇の御創業  
    皇威の海外発展と支那文化の伝来     
    氏族制度と祭政一致     

    聖徳太子と中大兄皇子  
    奈良時代の文化と仏教  
    平安時代 
    院政と武士の擡頭  

      鎌倉幕府と元寇   
    建武中興  
    吉野時代 
    足利時代と海外発展  
    戦国時代 
    信長、秀吉、家康 
    鎖国 
    江戸幕府の構成    
    尊皇思想の勃興  
    国学の興隆 
    江戸幕府の衰亡 
    勤皇思想の勃興  
    勤皇志士と薩長同盟  
    明治維新と国体観念  
    廃藩置県と征韓論 
    立憲政治  
    日露戦争以後


 

   院政と武士の擡頭   
 
   この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の  
     かけたる事もなしと思へば

 と歌った摂政道長の権勢は、藤原氏の全盛を語ると共に、満つればかくる世の習ひをも示して、
以後藤原氏の頽勢は著るしかつた。
  
 それは藤原氏に御縁故なき後三條天皇が即位ましますと共に、
藤原氏の権勢を抑へ、政治の革新に当られたからである。

 天皇は、才学優れさせ給うた御英明の資を以て、記録所を新設され、
貴族の私有地たる荘園を調査され、その不当なるものを処分された。

 その当時は、大化改新に於ける班田収授の制が廃れ、土地の兼併が行はれると共に、
開墾することに依つて私有を認められる墾田(こんでん)、功労に依って賜はつた功田(こうでん)などに依つて、
荘園は激増してゐたのである。

 朝廷に租税を収めない荘園の激増は、北畠親房もその神皇正統記に於て、乱国の始めだと云つて慨嘆してゐる如く、
当時に於ける国家の大患であり、武士がその勢力を獲たのも、荘園が、その根拠を与へたからである。

  

 後三條天皇は御在位わづか4年にして、御位を白河天皇に譲られたが、太上天皇となり給うた後、
猶ほ政治を親裁あらせられようとする思召(おぼしめし)があったが、御譲位後わづか5箇月にして崩ぜられた。
然し、これが院政の初めだと言はれてゐる。

 

 白河天皇も、又英明の御資質で、藤原氏の権勢など顧慮せらるゝことなく、万機を決し給うてゐたが、
応徳三年、御位を堀河天皇に譲り給うた後、院庁を開いて、おん自から、万機を総攬し給ひ、
次の鳥羽天皇、崇徳(すとく)天皇まで御三代の間は、白河上皇の院政が続いたのである。


 これは、従来の朝廷の高官は、藤原氏の人々で、
必ずしも練達堪能の士ではないので、新らしい人材を抜擢して、実際的な政治を行ふために、
院政と云った形式が案出されたのではなからうか。

 このために、摂政関白の手中に在った政治上の実権が上皇に帰し、
藤原氏は全く雌伏するの外なくなってしまったが、
天皇御親政の理想から云へば、やはり変態であって、保元の乱の一つの原因になつたとも云はれてゐる。

 藤原氏全盛時代から、この時代にかけて、重大なる社会的事実は諸国に於ける武士の擡頭である。

 大化の改新に於ける軍団制度は、第49代光仁天皇の御世に、
東国辺要の地及び三関国(美濃、伊勢、越前)以外は、軍団の必要なしとして、
兵士の大都分を農に帰らしめられた時から、半ば崩解したのである。

 その後、藤原氏が、中央に於ける権勢の維持、栄華の追及に専心して、
国司の遥任(ようにん)が盛んに行はれ、
遥任とは、国守に任ぜらるゝも、自らは任国に赴かず、
目代(もくだい)を差遣して政務に当らしめるものである)従つてその治績が挙るわけもなく、
軍団の廃止とともに諸国の治安は漸く乱れ、群盗所在に横行し、京畿にさへその姿を現はすに至った。


 かうした紀綱の紊乱に連れて、貴族及び豪族の私有地なる荘園は、ます/\激増したが、
これ等の貴族豪族は、各自の荘園の治安を維持するため、各々の子弟もしくは臣従を武装せしめ、
武技を錬(ね)らしめたのである。これが、いはゆる武士の起源である。


 しかも、これらの貴族豪族は、多くは前国司の位置にあつた守(かみ)とか、介(すけ)とか掾(じよう)などで、
その任国に土着したもので、人望も厚く、各地に強力なる武士団を形成したのである。
その強力なるものは、東国に於ける源氏であり、西国に於ける平家であつた。

 而して、その統領と武士との関係は、官制上の関係でなく、人格的で情誼的であったから、
その団結力も強く、後年に於ける武家政治の基礎を築いてゐたわけである。

 

 最初、これらの武士が、中央の政界に於ては、何等の勢力のなかったことは、
平将門(まさかど)(註)が、一検非違使たらんとする希望を拒まれたことが、
彼の後年の叛乱の遠因であると伝へられることに依つても分るが、
その後源氏第二代の源満仲などが藤原氏の股肱、爪牙(そうが)となることに依って、漸くその勢力を扶植し、
源頼義、義家は前九年、後三年の両役に、陸奥守、鎮守府将軍として武勲を輝かすと共に、
東北の武士と親炙(しんしや)し、次第にその統領たる位置を培(つちか)ったのである。


 武士の擡頭と同時に、当時朝廷及び藤原氏等の尊信を得てゐた延暦寺、興福寺などは、
白河上皇の仏教御尊信に依って、いよ/\勢力を加へ、その広大なる寺領を自衛する必要上、武力を養ひ、
僧侶自身武装すると共に、浮浪の徒が之(これ)に加はり、宗門上の争ひにも武力を用ゐるばかりでなく、
朝廷に対する訴願などにも、延暦寺は日枝神社の神輿を、興福寺は春日明神の神木を奉じて、京都に乱入した。


 之(これ)を嗷訴(がうそ)と称して、無理非道の振舞をしたのである。
朝廷は、これらの僧兵を防がしむるに、京都にある源平二氏の勢力を用ゐ給うたため、
武士は、いよ/\中央に於ても、その勢力を伸ばすに至ったのである。


 しかも、白河上皇が、従来藤原氏の爪牙たる源氏に対抗せしめるため、
伊勢平氏たる平正盛(たひらのまさもり)、忠盛(ただもり)父子を御信任遊ばされたので、
忠盛は西海に於ける海賊討伐に功を立て、
瀬戸内海に平家の勢力を扶植すると共に、中央に進出して、鳥羽院の昇殿を許されるに至った。

 かくの如くにして養はれて来た源平二氏を中心とする武士の勢力は、
保元の乱に於て、遂に中央の舞台に躍り出たのである。

 保元の乱は、藤原氏に於ける父子兄弟間の権力争ひが、
皇室をまで、その渦中に引き入れ奉った戦乱であるが、
政権の争奪が、武力に依って左右さるべきものであることを、如実に示したことに依って、
今まで他の勢力の爪牙を以て甘んじてゐた武士をして、
遂に政権に対する野心を懐(いだ)かしむるに至ったのである。 

 されば、この戦ひに於ける殊勲者たる平清盛は、
相つゞく平治の乱に於て、その対抗勢力たりし源義朝を斃すと共に、
その官位はしきりに昇進して、太政大臣となり藤原氏に倣うて、
皇室の外戚となり、政治上の実権を握ったのである。  

 これは制度の上には、何の変革もなかったけれど、
その内容に於ては、平氏の武家政治であり、源頼朝の幕府政治に移る過渡期であつた。 
が、幸運に依って栄達した人々が、その元(もと)を忘れるやうに、
平氏の一門も、殿上人(でんじやうびと)となつて、栄華に耽ると共に、武士たるの本領を忘れたのである。

 武士が武士たるの本領を忘れたる以上、平家の武家政治が、崩解することは当然のことであった。  

 

 平将門は、桓武天皇の後裔平高望(たかもち)の孫に当り、父は陸奥鎮守府将軍平良将である。 
 初め、京都に出て、太政大臣藤原忠平に仕へてゐたが、
検非違使(けびゐし)になることを願つて許されなかったので、不平の余り、所領下総に帰つたと云はれる。

 


菊池寛著『二千六百年史抄』神武天皇の御創業~皇威の海外発展と支那文化の伝来~氏族制度と祭政一致  

2024-05-17 23:58:55 | 作家・思想家


         菊池寛著『二千六百年史抄』    

  目次 

      
   神武天皇の御創業 
   皇威の海外発展と支那文化の伝来   
   氏族制度と祭政一致  

    聖徳太子と中大兄皇子  
    奈良時代の文化と仏教  
    平安時代  
    院政と武士の擡頭  
      鎌倉幕府と元寇   
    建武中興  
    吉野時代 
    足利時代と海外発展  
    戦国時代 
    信長、秀吉、家康 
    鎖国 
    江戸幕府の構成    
    尊皇思想の勃興  
    国学の興隆 
    江戸幕府の衰亡 
    勤皇思想の勃興  
    勤皇志士と薩長同盟  
    明治維新と国体観念  
    廃藩置県と征韓論 
    立憲政治  
    日露戦争以後                

 

      

 今年の初、内閣情報部から発行してゐる「週報」から、最も簡単な日本歴史を書いてくれとの註文を受けた。
多くの史学者に頼まず、僕を選んだのは、なるべく大衆に読ませようとの意図からであらう。

 僕は、史学者でもない、歴史研究者でもない。
しかし、歴史を愛し、歴史上の諸人物に親しみを持つ点に於ては、多く人後に落ちないつもりである。
殊に、僕個人として、2600年を記念する意味で、「新日本外史」といふ小著を執筆中であつたので、
「週報」からの依頼も、喜んで引き受けたのである。 

 

 悠々たる2600年間の出来事を原稿紙にして、わづか156枚で、まとめることは至難中の至難である。
しかし、僕が素人(しろうと)であればこそ、さう云ふ大胆な仕事も、出来るのではないかと思つてゐる。 

 

 この「二千六百年史抄」の本願とするところも、
勿論国体を明徴にし、日本精神を発揚するところにありと思つたから、その点に微力を尽くしたつもりである。 

 

 が、何にせよ、片々たる小冊子である。説いて尽さゞる所が、甚だ多いのである。
読者の中、不満を感ずる方があつたならば、どうかこれを機会として、他の史書を広く渉猟して下さらば、
欣懐この上もないのである。

 日本歴史の智識を充分に持つことは、日本人としての自覚を持つ上に、最も大切なことではないかと思つてゐる。

     昭和15年7月28日

  


  神武天皇の御創業       

 皇孫彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)が、天照大神の神勅を奉じ、
日向(ひうが)の高千穂(たかちほ)の槵触(くしふる)ノ峰(たけ)に降臨されてから御三代の間は、
九州の南方に在って、国土を経営し、
民力の涵養を図ると共に、周囲の者どもを帰服せしめ、
之を化育することに依って、いよ/\興隆の基礎を築かれたのである。

 神武天皇の御世には、その皇化は九州一円に及んで、
皇祖の神勅のまに/\大八洲(おほやしま)を経営すべき自信と力とを獲得されたのであらう。

 

 天皇は、御年15歳にして、皇太子となられたが、御年45歳の時に、

遼邈之地(とほくはるかなるくに)、猶(なほ)未だ王沢(うつくしび)に霑(うるほ)はず、
遂に邑(むら)に君有り、村(あれ)に長(ひとこのかみ)有り、
各自(おの/\)彊(さかひ)を分ちて、用(もっ)て相(あい)凌躒(しのぎきしろ)ふ。
抑又(はたまた)塩土老翁(しほつちのをぢ)に聞きしに曰く、東に美地(よきくに)有り、
青山、四周(よもにめぐれり)
……余(われ)(おも)ふに、
彼地(そのくに)は必ず当(まさ)に以て天業(あまつひつぎのわざ)を恢弘(ひろめのべ)
天下(あめのした)に光宅(みちを)るに足りぬべし、
(けだ)し六合(くに)の中心(もなか)か。
……何ぞ就(ゆ)きて都(みやこつく)らざらむや。」

 と、諸皇兄及び諸皇子に計り給うた。

   

 諸皇族諸臣達、悉く賛同し奉った。即ち、舟師(しうし)を率ゐて、東方へ御進発になつた。

 これは、御東征と云ふよりも、東方への御発展とも云ふべきで、
わが大和民族が、理想の大業へと未知の国土へと、敢然たる大行進を為したことを意味するのだと思ふ。

 

 日向を出発して、大和に達せられる迄、古事記に依れば10数年、日本書紀に依れば、6年の歳月が経つてゐる。
これは、古事記の方が実際に近いのではあるまいか。
 当時は完全なる船があるわけでないから、沿岸づたひに徐々に東進せられたのであらう。

 九州、瀬戸内海、大和地方にかけて、既に御稜威(みいつ)の下に、欣んで帰順する者も多かったが、
事理を解せぬ蛮民も多く、途中に於ても、それらに対する警戒平定に、多くの日時を費されたことと思ふ。

 

 吉備高島には、古事記に依れば、8年御滞在になったとの事であるが、
此の地方に、古墳等の遺跡の多いのを考へても、此処を仮の都として、山陽四国地方の経営に当られ、
武器を整備し、鋭気を養ふと同時に、大和地方の情勢を偵察されたのではあるまいか。

 大和の長髄彦(ながすねひこ)との御対戦は、古事記に依つても、その御苦戦が察せられる。
最初の正面攻撃に、成功せられず、皇兄・五瀬命(いつせのみこと)は、敵の矢に当って戦死遊ばされた。
皇兄が戦死された程だから、日向以来従軍してゐる多くの武士を、失はれたことであらう。

 

 天皇は、これに屈し給ふことなく、紀州の南端を迂廻して、南方より大和へ入る作戦を敢行遊ばしたが、
時利あらず、潮岬の颶風(ぐふう)に遭って、皇兄・稲飯命(いなひのみこと)と三毛入野命(みけいりぬのみこと)を失ひ給うた。

 

 稲飯命は
「あゝ、わが父祖は天神(あまつかみ)、わが母は海神(わたつみのかみ)であるのに、
何故にかくも我を陸でも苦しめ、海でも苦しめるのであるか。」と仰せられて、
剣を抜き持ちて海中に入り給うたとあるが、このお歎きは、天皇のお歎きであつたであらう。

 

 此の海上でも、我々の先祖の多くは、皇兄に殉じた事であらう。

 が、天皇は、此のおん悲しみに堪へ給うて、皇子・手研耳命(たきしみみのみこと)と軍を率ゐて上陸し給ひ、
或ひは敵の毒気に中(あた)り給ひ、
或ひは熊野の原始林中に迷ひ給ふなどあらゆる辛苦を嘗(な)めさせられたのだ。

 

 軍隊を率ゐて群敵の中を、山塊累々たる熊野から大和に入られることなどは、
奇蹟的な難事業であると云つてもよいだらう。

 しかも、漸く辿り着かれた大和も、群敵の巣窟であった。

 頑敵たる長髄彦(ながすねひこ)を初め、八十梟帥(やそたける)、磯城(しき)賊、猾(うかし)賊、土蜘蛛(つちぐも)など、
兇悪な蛮賊が到る処に、皇軍を待つてゐた。


 神武天皇は、御天性の勇武とあらゆる智略とを以て、これ等を次ぎ/\に征服して行かれた。

 しかしながら、寛宏なる皇師は、これらの者どもに対して、決して殲滅的攻略に出ることはなかつた。

 帰服(まつろ)はぬ者こそ、平定したが、天つ神の子孫が、この中つ国を支配すべき名分を信じて帰順したものには、
最大の仁慈を垂(た)れたまうたやうである。

 

 たとへば、天皇は帰順した弟猾(おとうかし)の献策を用ゐさせ給ふばかりでなく、
股肱の臣たる椎根津彦(しひねつひこ)と一しよに、香具山に潜行して、
その土を取ると云ふ大役を命じ給うて居られるのである。

 論功行賞に際しても、さうした降臣をも、日向以来の重臣と同様に、
県主(あがたぬし)などに為したまうてゐるのである。

 

 大和地方を悉く平定せられた後、

「夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随ふ。
(いやしく)も民に利(くぼさ)有らば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。
(ま)た当(まさ)に山林(やま)を披払(ひらきはら)ひ宮室(おほみや)を経営(をさめつく)りて、
(つゝし)みて宝位(たかみくらゐ)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮むべし。

上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ、
下は則ち皇孫(すめみま)の正(たゞしき)を養ひたまひし心(みこゝろ)を弘めむ。

然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、
八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、
亦、可(よ)からずや。
(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)橿原(かしはら)の地(ところ)を観れば、

蓋し国の墺区(もなか)ならむ、可治之(みやこつくるべし)。」

 と詔を下された。

 

 辛酉(かのととり)春正月朔日、橿原宮に即位し給ふ。
此の年を日本の紀元とするのである。

 

 橿原宮の御即位の式には、大伴氏、久米氏、物部氏の祖は、矛(ほこ)を執つて、儀衛に任じ、
斎部(いむべ)氏、中臣(なかとみ)氏の祖(註)は、恭々しく御前に進み出て、
祝詞を言上し奉つてゐる。

いづれも、日向以来歴戦の艱苦を顔に刻みつけた戦場生き残りの士であり、
その盛儀に列した感慨は、どんなであつたであらうか。

 日向を進発した時の男女で、生き残つたものは、果して幾人であつたであらうか。

 

 わが大和民族は、神武天皇の御創業当時、かくも大なる試煉を経たのである。
その間に養はれた如何なる困苦にも屈せぬ精神的骨格、民族としての強い団結力、
宗教的にまで高められた天皇尊崇の信仰は、2600年を通じて、日本国民性の中核を成してゐるのである。

(註)大伴氏の祖は、道臣命(みちのおみのみこと)
   久米氏は、大久米命。物部氏は、可美真手命(うましまでのみこと)
   斎部氏は、天富命(あまのとみのみこと)
   中臣氏は、天種子命(あまのたねこのみこと)


   皇威の海外発展と支那文化の伝来 

 

 神武天皇より開化天皇に至る迄の御9代の間は、大和地方御経営の時代で、
東は皇室に御縁故深き伊勢地方、西は播磨あたり迄、北は敦賀地方あたりまでが、追々皇化に浴して来たが、
他の地方にはなほ多くの土豪が割拠してゐたのである。

 

 然るに、第10代崇神(すじん)天皇は、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称せられ給ふ聖主で、
神武御創業後の偉業を達成せられてゐる。

 日本書紀に依れば、此の御代に四道将軍を派遣せられたとあるが、
当時初めて東海、北陸、吉備、丹波地方への交通が開け、
皇化がこの交通線に沿うて、辺鄙の地に及んだことが察せられる。

 

 この時代には、内政も漸く整ひ、
人民に対し、初めて弓弭(ゆはず)の調(みつぎ)、手末(たなすゑ)の調(みつぎ)を課せられてゐる。

 

 第12代景行天皇の御代になると、
朝廷の稜威(りようゐ)は国内に於ける群小の土豪どもを悉く平定せしめて、
たゞ西に熊襲(くまそ)、東に蝦夷(えぞ)の二族を残すだけになった。(註)

 

 この二族の平定者として、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御名が美しく輝いてゐる。
日本武と云ふ御名は、大和朝廷の武威が、日本全国を圧したことを意味するのではないかと思はれる。

 が、熊襲や蝦夷は一、二度の御征討に依って、屈服するものでなく、
仲哀(ちゆうあい)天皇の御世に又叛いて、神功皇后の三韓征伐の遠因をなしてゐるし、
蝦夷は勢力強大で、東海、東山(とうさん)より奥羽地方にかけて蟠踞(ばんきよ)し、
長く化外の民として、平安時代に至る迄、わが朝廷に背いてゐるのである。

 

 皇威が、中国より九州に遍(あまね)く及ぶに至って、朝鮮から大加羅国(おほからこく)の使が入朝し来つた。
日本書紀では、崇神(すじん)天皇の御代の末、朝貢の使が穴門(あなと)(今の長門)に来ったが、
天皇崩御後なので、垂仁(すゐにん)天皇が父天皇の御名を取って、任那の国号を賜うたとある。

大加羅国は、現在の慶尚南道に在った国であるが、日本が接触した最初の外国であるから、
日本人はカラと云ふ名をその後外国の総称に使ひ、支那大陸まで唐(から)と云ったのであらう。

 

 神功皇后の新羅征伐は、熊襲の背後を成す新羅を伐(う)つと共に、
この任那を新羅の圧迫より救援されるための出師(すゐし)であつたとも云はれる。
 その後、百済もわが国の保護を依頼して、入朝して来たので、わが国威は南朝鮮を掩(おほ)ひ、
任那に日本府を置いて国司を任じ、事あれば将軍を派遣されたのである。

 

 神功皇后の新羅征伐は、わが国威を海外に知らしめたばかりでなく、
以来彼我の交通が開けて、彼地の文物がわが国に輸入され、
わが国の文物制度は一大飛躍を遂げたのである。

 

 当時、先進の文明国たる支那は、動乱の絶間がなく、有能有識の士の朝鮮に避難するものが多かつた。
朝鮮も、高麗(こま)、新羅、百済、任那など互に攻略して、其処も安住の地でないので、
彼等の中には、交通のやうやく開けたのに乗じ、山紫水明にして、
気候温和なるわが国に移住帰化したものが多かつた。
そして、彼等の移住の手土産が、支那の文化であった。

 

 彼等に依って、わが国の建築、造船、裁縫、鍛冶(かぢ)、機織、製陶などの技術は、
全く革命的な進歩を遂げたのである。
 

 しかも、彼等は、もつと大切なる精神的進物を持って来たのである。
それは、漢字と、それに盛られた儒教と、やゝ遅れて伝来した仏教とである。
これらは、わが国民の後代に於ける精神生活の方向を決定したと云つてもよい。


 支那の文字が、わが国に伝はったのは、何時であるか明確でない。
九州地方の豪族は、古くから漢土と交通してゐた様子であるから、漢字も知ってゐたかも知れない。
しかし支那の書物が、正式にわが国に伝来したのは、応神天皇の16年2月

 (註)
  皇紀945
  西暦285   

 博士、王仁(わに)が百済から、「論語」と「千字文」とを持参して、朝廷へ献上したのが最初である。

 

(註)
 景行天皇の御即位後も、九州南部の熊襲が、屡々、不穏な形勢を示したので、
 天皇は、御即位12年7月、熊襲御親征の途に上り給うた。
 斯様(かやう)な大々的御親征は、神武天皇の御東征以来、実に、800年目である。

 天皇は、8年の長きにわたり、九州地方全部を巡られ、熊襲を平げ、民を撫順し給うた。
 ところが、熊襲は、天皇が、大和へお帰りになると、また忽ち、蠢動し始め、横暴、愈々(いよ/\)つのったので、
 27年8月、天皇は、御子日本武尊をお遣はしになつて、これを征伐させ給うた。
 日本武尊は、その後、東北地方の蝦夷が叛いた時にも、御自ら進んで出征を志願された。


 天皇は、いたく喜び給ひ、
「今、朕(われ)汝の人と為(な)りをみるに、身体(むくろ)長大(たかく)
 容貌(かほ)端正(きらきらし)、力能く鼎(かなへ)を扛(あ)ぐ、
 猛きこと雷電(いかづち)の如く、向ふ所かたきなく、攻むる所必ず勝つ。
 即ち知る、形は則ち我が子にて、実は即ち神人(かみ)なり。

 是れまことに天、朕が不叡(をさなく)、且つ国の不平(みだれ)たるを愍(あはれ)みたまひて、
 天業(あまつひつぎ)を経綸(をさ)め宗廟(くにいへ)を絶たざらしめたまふか」

 とまでに仰せられた。尊の無双の御武勇の程が、拝察されるではないか。

  

    氏族制度と祭政一致   

 

 わが国上古の社会制度の特色は、氏族制度と祭政一致である。

 上古は、祖先を同じうする人々が、鞏固(きようこ)に団結して、祖先伝来の職業にいそしんでゐたのである。
中臣(なかとみ)氏、斎部(いむべ)氏が、朝廷の祭祀を司(つかさど)り、物部氏、
大伴氏が武将として兵事に当り、弓削(ゆげ)氏が弓の製造に従事し、
玉造(たまつくり)氏が玉の加工に当つたやうなものである。

 そして、氏(うぢ)中最も正系に属する人を氏上(うぢのかみ)と称して尊信し、他を氏人(うぢびと)と言つたのである。

 一つの氏に、氏人が多くなると、その一部は新らしく土地を求めて、住居を作って、
その地名などに依つて氏を作つたが、それを小氏(こうぢ)と称し、はじめの氏を大氏(おほうぢ)と呼んだ。

 小氏にも氏上(うぢのかみ)があり、その小氏を統一して、その小氏全体は、本家である大氏の氏上を尊敬した。
そして、氏上の先祖を祀って、事ある毎に参拝した。
これが「氏神(うぢがみ)」と「氏子(うぢこ)」といふ関係の発生した一原因である。

 そして、この氏族制度が今日の家族制度の基(もとゐ)をなすのであつて、
皇室より皇族の御分出があり、更に皇室を総御本家として諸氏族が分れてきたところに、
我が国が一大家族国家を形成してゐるといふ所以(ゆゑん)がある。

 従つて国家の繁栄は、国民の繁栄であり、国民の繁栄は、国家の繁栄である。
 国民は、各氏の氏神を祭ると共に、天照大神(あまてらすおほみかみ)をはじめ、天つ神を崇敬し、
同時に天皇を現人神(あらひとがみ)と仰ぎ奉つた。

 しかも、天皇は天つ神の神意を受けて、大八洲国(おほやしまぐに)に降臨せられた皇孫の御後裔であらせられるから、
常に天つ神を祭り、その神意を奉体せられるのである。

 それは、神武天皇が、御東征の途次、困難に際会される毎に、
天照大神の神意に従はせられた事を見ても分ることである。

 天皇が天つ神を祭り、神意の奉体に努めさせられることは、直ちに国民の日常生活の端々にまで及び、
「氏神」の信仰が深くなってゐるのである。

 天皇は天つ神を祭られ、その神意を奉体して民を治められる。
即ち「政事(まつりごと)」は、「祭事(まつりごと)」で、この祭政一致の思想は、わが国固有の政治の特色として、
現代にも及んで居るのである。   

 


松岡洋右『少年に語る』臥薪嘗胆

2023-12-09 11:02:21 | 作家・思想家

松岡洋右『少年に語る』  

臥薪嘗胆  

話し後に帰りますが、一方日清戦争の結果、遼東半島、今の営口から海城、鳳凰城を経て安東辺迄線を引いて、そこから南を日本が貰う事になったのであります。

 ところが貰ったと思って目が覚めてみたらどうもいかぬ。その中のひとりでさえまだ当時の日本の力ではとても太刀打ちが出来ぬと思って居るのに、恐ろしいおじちゃんが三人も枕元に立って居った。ロシア、フランス、ドイツ、という三人の髭むくの叔父さんが、このにほんというまだ当時は世界の子供だ、その子供が遼東半島という玩具を貰うて、やれ嬉やと思って抱いて寝ていたら、目が覚めてみると恐ろしい顔をして立っていて、この野郎、ひどい奴だ!と拳固を振り上げてしまった。   

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 驚いたのは日本だ。
 その時に日本では、世論が二つに分かれた。我々が血を流してもらった所を、何の因縁もないロシアとフランスとドイツの横やりでこれを取り上げるとなんという事には、屈するわけにはゆかぬ。宜しく戦うべしという論が却々あった。


 ところがその頃の日本の政治家たちは、いやいや、茲は耐えねばならない。
今、日清戦争が済んだばかりで、国民も大変弱っている、それを又、一刻だけでも大変であるのに、三大国が向こうにまわっている、之と一戦を交ふべしという意気は宜しいけれども、ここは堪忍しなければいかぬ。そうして十年後にはこの仇を取ろう、という説が出て、その節で決まった。
 それは大概、貴下方の御祖父さん位の時代じゃろう。お父様が居りましょう。


 私は先ほど言ったように、まだ子供だったが、それから十年臥薪嘗胆と云うものが始まった。
畏れ多くも、明治天皇様以下、女子供に至る迄、十年の間、一生懸命になった。
十年後にこの仇を取ろうという決心で国民が先ず精神的の総動員をやった。


 私は今、茲迄話してくると思い出すが、その頃は十六歳の少年、私が育てられたのはスコットランド人の家庭であった。
茲で子供のように可愛がられて育てて頂いたのでありますが、アメリカの新聞で、三国干渉で日本が遼東半島を返すことになったと、新聞電報を見ますと、子供ながら悲憤慷慨に堪えぬ、其処で、私の育てて頂いたその家の主人公・・・・・ウイリヤム・ダンバーという人でありましたが、おとなしい、実に温厚なスコットランド人でありました。

 この叔父さんに向かって、私は小さい拳を振り上げて「今に見ろ!この仇を取ってやるから、十年経ったら我々はロシアをやっつけてやるぞ」と申しました。そうするとこの叔父さんは驚いた。立って私の顔を見入った。

 こっちは小さい子供、「ハハー、日本人というものは、子供迄どこ迄自惚れの強いやつか知らん。
身の程を知らぬ、支那に勝った(この人は昔支那に来て東洋の事を知っていた)お前支那には勝てたけれども、それは支那が弱かったからだ、身の程も知らん。
ロシアをやっつけるなんて、そんなことは考えたって思いつかぬことだ、もしお前等日本人がロシアと戦ったら、今度こそ地球上日本人というものは一人も残らず追いはらわれてしまうぞ」と云って笑った。この人は故意に言ったのではない。本音でそう思ったのであります。

 もう一遍繰り返すようだが、それは驚いた。日本人と云うものは、子供までどこ迄自惚れている居るか知らぬと驚いていた。

 こういう訳であった。
私が十六歳の時、握り拳しを振り上げて、外国人に向かって十年後は必ずロシアをやっつけるぞ、と言ったのは私が言ったのではない。
その時の日本人の魂の叫びだったのだ。
 当時の三千五百万の日本人を挙げて、女、子供に至る迄、誰云うことなく、誰からの命令でないものが独りでに、皆が一つになって、そうして十年、一生懸命やった。

 果せるかな、十年後の明治三十七年二月にロシアをやっつける火蓋だ切られたのである。

 


菊池 寛著『大衆維新史読本』殉難の諸士、近藤勇の最後

2023-07-01 16:52:16 | 作家・思想家

菊池 寛著『大衆維新史読本』新選組結成、近藤勇、池田屋斬込み (続き)


菊池 寛 著
『大衆維新史読本』 
    殉難の諸士、近藤勇の最後
 

   殉難の諸士  

 飜つて、志士側の当夜の観察は何うか。当時長州藩、京都留守居役、乃美織江(のみおりえ)の手記によれば、形勢緊迫と共に、有志等に軽挙を戒めること痛切であつた。
 桂小五郎、久坂義助など幕吏の追跡頻りなので、長藩としては彼等に帰国の命を下し、邸内の有志等にも外出を慎しませてゐた。
 吉田稔麿(としまろ)に対しても、市中の宿屋に泊らず、藩邸に起臥するやうに、勧告したが、容れられず、宮部鼎蔵等にも外出を極力制止してゐたのである。

 当夜の手記に依ると、

「乃美乃(すなは)ち杉山松助、時山直八をして、状を探らしむ。二人帰り報じて曰く、俊太郎逮捕の為め、或ひは不穏の事あらん。宜(よろし)く邸門の守を厳にすべし、と同夜有志多く池田屋に集ると聞く、其の何人たるを詳(つまびら)かにせず」

「夜に入り杉山松助、窃(ひそか)に槍を提げ、外出すと云ふ。未だ久しからずして、松助片腕を斬られ鮮血淋漓として帰邸し、急変ありと告げ、邸門を閉ざし、非常に備へしむ。乃美、何故に外出せしやと問ふ。池田屋に赴かんとして、途中斯(かく)の如し、遺憾に堪へずと答ふるのみ」
 杉山は、途中で要撃されたのであらう。

「邸の近傍に吉田稔麿の死屍を発見す。宮部は池田屋に死し、其の弟傷を負ひ邸に帰る。池田屋女主即死。桂小五郎は屋上より遁れて、対州邸の潜所に帰る」

 この池田屋事変で、勤皇方にとつて、最も大きな損害は、宮部鼎蔵と吉田稔麿の死であらう。


 吉田稔麿は、脇差をとって力戦し、裏庭で沖田総司と、一騎討ちになった。その腕は相当のものであったが、剣を把つては天才的と云はれた沖田には、敵はない。


 肩先を斬られたまゝ逃れ、隣家の庭前に監視してゐた、桑藩士本間某を斬り、黒川某に重傷を被(かうむ)らせ、馳せて河原町の藩邸に向つた。併しこの時は、門の扉は固く鎖してあり、稔麿は入ることが出来ない。その身は重傷であり、遂に進退谷(きは)まって、門外に自決したのである。この時、年齢24であつた。


 吉田稔麿は松陰門下の奇才で、この時は長幕調停案の一案を劃して、帰国の途中、京都に寄つて殉難したのである。

 この日も、留守居役の乃美織江が頻りに止めると、
「いや直き帰つて来る」
 と云つて、殿様からの下され物の小柄等を乃美に托して、出かけて行つたのである。
  
 この時、自分で髪を結(ゆ)ったが、元結(もとゆひ)が三度も切れたので、

結びても又結びても黒髪の
   乱れそめにし世を如何にせん


 と云ふ歌を詠んで、乃美に示したと云ふ。これが遂に、その辞世となつたわけである。

 宮部鼎蔵は、乱戦の中に池田屋に於て斃れた。
一説には、進退谷まつて階段の下で屠腹して果てたとも云ふ。年は45であつた。


 宮部は肥後の産、吉田松陰とは親友の仲であり、尊攘派の錚々たる一人で、同志からは先輩の一人として推服された人物である。

 松陰嘗て宮部を評して、
「国を憂へ、君に忠、又善く朋友と交はりて信あり、其の人懇篤にして剛毅、余素(もと)よりその人を異とす」
 と云つてゐる。

 三條実美(さねとみ)の信頼篤く、その使命を奉じて四方に使ひし、真木和泉(まきいづみ)と共に年齢手腕共に長者であり、志士の間に最も重きをなした人物であつた。生き残つてゐたら、子孫は侯爵になつたかも知れん。
  
 乃美の手記に依ると、桂小五郎は池田屋から対州の邸へ遁げこんで、危き命を拾つたとなつてゐるが、事実は違ふらしい。
 この夜、小五郎は一度池田屋を訪れたが、まだ同志が皆集らぬので、対州の藩邸を訪うて、大島友之丞と暫く対談してゐると、市中が俄(にはか)に騒々しくなった。

 何事か、と、人を出して様子を探らせると、新撰組の池田屋斬込みだと云ふ。桂が、刀を提げて、その場に馳せつけようとするのを、大島が無理にこれを引止めて、その夜の難を免れたのだと云ふ。

 この時、せめて木戸孝允の命を剰(あま)したゞけでも、長藩のため、引いては明治維新のために、不幸中の幸と云はねばならない。

 桂小五郎も、この事件に就ては、簡単ながら手記を書き、

「天王山に兵を出す、此に基(もとづ)けり」
 と結んでゐる。

 簡潔ながら、流石(さすが)によく断じてゐる。池田屋に於ける幕府方の暴挙が、如何に長州藩士をして激昂せしめたか。8月18日の政変以来、隠忍に隠忍を重ねて来た長藩も、遂に堪忍袋の緒を切つたのである。遂に長軍の上洛となり、天王山に本拠を進め、蛤御門(はまぐりごもん)の戦闘となるのである。

 少くとも、池田屋事変は、禁門戦争の導火線に、口火を切つたと云ふべきであらう。

   近藤勇の最後 

 この外、池田屋で死んだ志士の中には、大高兄弟、石川潤次郎等、有為の勤皇家がゐた。
 いづれも、その屍体は捕方の手に依つて、三條縄手の三縁寺境内へ運ばれて、棄てゝ置かれた。
 何しろ、暑い頃なので、後にはこの屍が何人のものか、判明しない程腐つてしまひ、池田屋の使用人を呼び出して、「これは宮部さん、これは大高さん」と識別させたと云ふ話である。
  
 池田屋事変を期として、新撰組は更に一大飛躍を遂げてゐる。

 隊員も不足なので、近藤は書を近親に寄せて、隊員の周旋を依頼し、「兵は東国に限り候と存じ奉り候」と、気焔を上げてゐる。東国人の近藤勇としては、尤もな言ひ分で、蓋(けだ)し池田屋事変は、当時兎角(とかく)軽視され勝ちの、関東男児の意気を、上方に示したものと云つてよい。
 
 これから、伏見鳥羽の戦までは、新撰組の黄金時代である。

 蛤御門の戦には、先頭に赤地に「誠」といふ字の旗を立てゝ、会津の傑物林権助の指揮の下に奮戦してゐる。

 土佐藩の大立物、後藤象二郎に、或る日、近藤勇が会ふと、象二郎は直ぐに、
「拙者は貴公のその腰の物が大嫌ひで」
 とやった。

 勇は、苦笑しながら、その刀を遠ざけたと云ふ話があるが、多分この頃のことだらう。


 それ程、近藤勇の名は、響きわたつてゐたのである。然(しか)も勇は単なるテロリストとしての自分に飽き足らず、政治的にもぐん/\守護職、所司代、公卿の中へも喰ひ込んで行つたが、順逆を誤つた悲しさ、時勢は日に日に非なりである。


 伏見鳥羽の戦(たゝかひ)は、幕軍に対して、致命傷を与へたと同時に、新撰組に徹底的な打撃を与へた。大部隊を中心とする、近世式な砲撃戦に対して、一騎討の戦法は問題でなく、虎徹は元込銃に歯の立つ道理はないのである。

 江戸に逃げ帰つた、近藤は、その後色々と画策したが、一度落目になると、する事なす事後手となつて、甲州勝沼の戦に敗れ、下総流山で遂に官軍の手に捕へられた。
  
 この時、政敵である土佐藩の谷守部(干城)は、
「猾賊多年悪をなす。
有志の徒を殺害すること不数(かぞふるにたへず)、
一旦命尽き縛に付く。
其の様を見るに三尺児と雖(いへど)も猶(なほ)弁ずべきを、頑然首を差伸べて来る。
古狸巧(たくみ)に人を誑(たぶらか)し、其極終に昼出て児童の獲となること、古今の笑談なり。
誠に名高き近藤勇、寸兵を労せず、縛に就くも、亦狐狸の数の尽くると一徹なり」と思ひ切った酷評を下してゐる。
 
 いかに、近藤が官軍側から悪(にく)まれてゐたかゞ分るし、谷干城の器量の小さいかも知れる。
  
 人間も落目になれば、考へも愚劣になる。

 甲陽鎮撫隊で大名格にしてもらひ、故郷へ錦を飾つた積りの穉気振りなど、往年の近藤勇とは別人の観がある。
然し、これも必ずしも近藤勇丈(だけ)の欠点ではない。
蓋(けだ)し、得意に、失意に、淡然たる人は、さうあるわけはないのだ。

 尤も、近藤勇が五稜郭で戦死してゐたら、終(をはり)を全うした事になるのは勿論である。
  
 真田幸村や後藤基次や木村重成など、前時代に殉じた人々が、徳川時代の民間英雄であったやうに、近藤勇が現代の民間英雄であることは、愉快な事である。大衆と云ふものは、御用歴史の歪みを、自然に正すものかも知れない。
 
 しかし、近藤勇の人気は、映画と大衆文芸の影響で、この両者がなかったら、今ほど有名ではないだらう。
地下の近藤勇も、この点は苦笑してゐるだらう。



初出:「オール讀物」文藝春秋
   1937(昭和12)年8月号


菊池 寛著『大衆維新史読本』新選組結成、近藤勇、池田屋斬込み 

2023-07-01 16:01:33 | 作家・思想家

菊池 寛『大衆維新史読本』 
  新選組結成、近藤勇、池田屋斬込み

  
   新撰組結成  
 新撰組の母胎とも云ふべき、幕府が新に徴募した浪士団が家茂(いへもち)将軍警護の名目で、江戸を出発したのは、文久3年(1863年)の2月8日であつた。
 総勢凡そ240名、23日に京都郊外壬生(みぶ)に着いたがこれを新徴組と云ふ。隊長格は庄内の清河八郎で、丈(たけ)のすらりとした面長の好男子、眼光鋭く人を射る男だったと云ふ。

 幕府は初め、浪士の人員を50名位といふ方針であつた。しかし、実際は、風雲を望んでゐた天下の浪士達が、旗本位にはなれると云ふ肚で、続々集ってきた。甲州の侠客祐天仙之助が、仔分20名を引き連れて、加はり、すぐに五番隊の伍長として採用された事などを見ても、大体この浪士団の正体が判る。

 これが、京都に止ること20日ばかりで分裂し、芹沢(せりざは)、近藤等13人が清河に反き、宿舎八木源之丞の邸前へ「壬生村浪士屯所」の看板を出したのが、所謂新撰組の濫觴(らんしやう)である。


 隊員永倉新八こと、杉村義衛翁(大正4年まで存命)の語り誌すところに依ると、総勢13名の新撰組も、初めはひどく貧乏だった。3月に隊が出来て、5月になると云ふのに、まだ綿入れを着ている者が多かつた。いろ/\考へた末、芹澤が真先に立つて、8名の浪士がわざ/\大坂まで行き、鴻池を脅して二百両借りて戻つた。体のいゝ暴力団だ。


 これで麻の羽織に紋付の単衣(ひとへ)、小倉の袴を新調して、初めて江戸以来の着物を脱いだわけである。しかもその羽織たるや大変なもので、浅黄地の袖を、忠臣蔵の義士の様に、だんだら染めにした。


 これが当時の新撰組の制服になり、後に池田屋襲撃の時も、隊員一同この羽織を着て、奮戦したのである。

 新撰組結成6ヶ月で、近藤勇、土方歳三(ひぢかたとしぞう)は、その隊長芹沢鴨を、その妾宅に襲つて斬つた。

 芹沢は水戸の郷士で、本名を下村継次と云ひ、水戸天狗党の生き残りである。天狗党に居た時は、潮来(いたこ)の宿で、気に食はぬ事があつて、部下3名を並べて首を斬つたり、鹿島神宮へ参詣して、拝殿の太鼓が大き過ぎて目障りだと云つて、これを鉄扇で叩き破つたと云ふ程の乱暴者であつた。


 芹沢亡き後の新撰組は、当然近藤、土方の天下で、幕府の後押しもあり、京都守護職、松平容保(かたもり)の信頼もあり、隊の勢は日ならずして隆々として揚り、京洛に劃策する勤皇の志士にとつて、陰然たる一大敵国を成すに到つた。



   近藤勇


 新撰組隊長、近藤勇と云へば、剣劇、大衆小説に幾百回となく描き尽され、幕末物のヒーローであるが、その実質としては、暴力団の団長以上には評価されない。剣術のよく出来る反動的武士といつた処である。極く贔屓目(ひいきめ)に見ても、三代相恩の旗本八万騎のだらしのないのに反して、三多摩の土豪出身でありながら、幕府の為に死力を竭(つく)したのは偉い、と云ふ評がせい/″\である。
  
 しかし、此等の観方は、近藤その人の全貌を尽してゐないし、彼の為にも気の毒である。

 近藤の刑死は、慶応4年4月25日であるが、此の年6月6日発行の「中外新聞」には――閏4月8日、元新撰組の隊長、近藤勇といふ者の首級、関東より来つて三條河原に梟せられたり。其身既に誅戮を蒙りたる者なれば、行の是非を論ぜず、其の勇に至りては惜む可き壮士なりと云はざる者なし――

 
 とある。この頃賊軍として死刑に処せられた者は、今日の共産党被告以上に見られてゐたのであるから、出版物にこれだけ書くだけでも容易でない。賊軍であつても彼の評判は当時に於て、非常によかつた事は、この記事でも分ると思ふ。


 勇が生れたのは、天保5年で、近藤周斎の養子となり、新徴組に加はつた頃迄は、剣術も学問も、特に目立つて云ふ程のこともなかつた。


 新徴組から分離した時から、勇は漸次頭角を顕して来た。会津藩鈴木丹下の「騒擾(さうぜう)日記」には、

「其内、近藤勇と云ふ者は、知勇(ちゆう)兼備(かねそな)はり、何事を掛合に及候ても無滞(とゞこほりなく)返答致し候者の由」
 とあり、この頃から、智勇兼備と云ふやうな讃辞が捧げられてゐる。
 彼は東州と号して、相当立派な字を書いてゐる。学問は大したものではないが、当時の剣客としては、人後に落ちない位の素養はあつたのであらう。

 その政治上の主義としては、彼の上書に、

「全体我共は尽忠報国の志士、依而今般御召相応じ去2月中遥々上京仕(つかまつ)り、皇命尊戴、夷狄攘斥之御英断承知仕り度存ずる志にて、滞京罷存候(まかりありさふらふ)云々」(文久3年10月15日上書)
 とある。

 また、祇園一力楼で、会津肥後守の招宴で、薩、土、芸、会等の各藩重職列席の会合でも、彼は堂々とその主張を披瀝し、

「熟(つら/\)愚考仕り候処、只今までは長藩の攘夷は有之(これあり)候へども、真の攘夷とは申されまじく候、この上は公武合体専一致し、其の上幕府において断然と攘夷仰せ出され候はゞ、自然国内も安全とも存じ奉り候」(近藤の手紙の一節)
 と述べてゐる。

 近藤の意見では、公武合体、即ち鞏固なる挙国一致内閣で攘夷すべしと云ふのである。勤皇攘夷、公武合体説であつた。
 彼はこの主義の為に、一死報国の念に燃えてゐたのであるから、新撰組が単なる非常警察と考へられるのには、大いに不満でもあつたらしい。

「私共は昨年以来、尽忠報国の有志を御募(おつのりに)相成(あひな)り、即ち御召に応じ上京仕り、是迄滞在仕り候へども、市中見廻りの為に御募りに相成り候儀には御座なく候と存じ奉り候」(元治元年5月3日 上書の一節)


 とある。彼にもまた耿々(かう/\)たる志はあつたのだ。時勢を憂へ、時勢を知ることに於て、立場こそ異なれ、敢へて薩長の志士に劣るものではなかつたのである。


 殊に近藤の光栄とすべきは、宮中第一の豪傑であらせられる、久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)との関係である。親王の日記には、彼の名前も見え、慶応3年9月13日の項には、「幕府の辣腕家、原市之進に替るべきものは近藤である。余自身近藤を召し抱へたい」と、畏れ多くも仰せられてゐるのである。


 暴力団の首領と云ふよりも、時流の浪に乗り損つた志士と云ふべきだらう。 
  

   池田屋斬込み

 新撰組結成の翌年、元治元年6月5日は、彼等にとつて、最も記念すべき日であつた。
 即ち、この為に、明治維新が一年遅れたと云はれる。有名な三條小橋、池田屋惣兵衛方斬込み事件が、行はれた日である。
 
 四條小橋に、升屋喜右衛門と云ふ、古道具屋があつた。
主人は38、9歳で、使用人を二三人使つて、先づ裕福な暮し振りであつた。
余りに浪士風人間の出入が激しいので、新撰組では、予てからその様子に不審を懐き、6月5日に思ひ切つて踏み込んでみると果して甲冑10組、鉄砲二三挺、その他長州人との往復文書が数通発見され、その中には、「機会は失はざる様」との頗(すこぶ)る疑はしい文句があつた。

 取り敢へず、武具類を土蔵に収めて封印して主人喜右衛門を壬生の屯所に引致して、拷問したところ、驚く可き陰謀が発見されたのである。
 
 喜右衛門と云ふのは、仮名でその実は江州の浪人古高(こだか)俊太郎と云ひ、8月18日の政変に就て、深く中川宮と松平容保(かたもり)を怨み、烈風の日を待つて、火を御所の上手に放ち、天機奉仕に参朝する中川宮を始め奉り、守護職松平肥後守を途中に要撃しようとする、計画である。
 而も古高は、三條通り辺の旅宿客は、いろ/\の藩名を掲げてゐるが大抵は長州人であることまで自白した。


 愕然としてゐる新撰組にとつて、続いて、第二、第三の警報が町役人の手に依つて齎(もた)らされた。

「升屋の土蔵の封印を破つて、武具を奪ひ去つた者がある!」
「三條小路の旅宿池田屋惣兵衛方、及び縄手(なはて)の旅宿四国屋重兵衛方に、長州人や諸浪士が集合して何やら不穏の企みをしてゐる」

 京都市中見廻役として、治安の責任の一半を担つてゐる新撰組は、取り敢へず、黒谷なる京都守護職松平肥後守邸に、応急の措置を求むる為速報した。


 守護職は所司代、松平越中守と協力して、遂に会津、桑名、一橋、彦根、加賀の兵を始め、町奉行、東西与力、同心を動員して、祇園、木屋町、三條通り、その他要所々々を戒厳して、その人員無慮三千余人と称された。空前の警戒陣であつた。

 斯くて、会津藩と新撰組は、午後8時を期して、祇園会所に集合する筈であつたが、会津側が人数の繰出しに時間がかゝり、午後10時近くなるのに、約束の場所に参着しない。

 血気の近藤勇は、一刻を争ふ場合と考へ、独力新撰組を率ゐて、検挙に向ふことになつた。

 隊員30名を二分して、近藤勇自ら一隊を随へて、池田屋へ、他の一隊は、土方歳三統率して、四国屋へ向つた。
 恰度、祇園祭りの前の夜で、風はあつたが、何となく蒸す夜であつた。

 その時、池田屋では、長州の吉田稔麿(としまろ)、肥後の宮部鼎蔵(ていぞう)等総勢20余名が集合し、

「今夜は壬生に押寄せて、古高俊太郎を奪ひ還さう」
 と、云ふので酒を飲みながら、夜の更けるのを待つてゐた。
  
 彼等は、粛々としてその身に迫る死の影を知らず、尚も三策の評議に余念がなかつた。
三策とは即ち次の三つだ。

○壬生屯所を囲み、焼討して新撰組を鏖殺(あうさつ)し、京都擾乱に乗じて、長州の兵を京都に入れる。

○成功の場合には、宮中を正論の公卿を以て改革する。

○京都一変の上は、中川宮を幽閉し奉り、一橋慶喜(よしのぶ)を下坂せしめ、会津藩の官職を剥奪し、長州を京都の守護職に任ずる。


   血河の乱闘

 近藤勇は玄関から、
「主人は居るか、御用改めであるぞ」
 と、堂々と声をかけて、上り込んだ。
 主人は直ぐに二階に向つて、
「皆様、来客調べて御座います」
 と、大きな声で叫んだが、もう遅い。
「何だ/\」
 同志でも来たのかと思つて、うつかり一番先に出て来た北副佶摩(きたぞへきちま)の頭を、勇の虎徹がずばりと割つた。
 火の出る様な乱闘が続いた。

 この事件に就ては、勇自身が近親に与へて書いた手紙に、詳しい。

「局中手勢の者ばかりにて、右徒党のもの、三條小橋縄手に二ヶ所屯致(たむろいた)し居候処へ、二手に別れ、夜四つ時頃打入候処、一ヶ所は一人も居り申さず、一ヶ所は多数潜伏し居り、兼て覚悟の徒党故、手向ひ戦闘一時(いつとき)余の間に御座候」

 局中とは新撰組のことだ。一時余りとは、今日では2時間余である。2時間余も入乱れて、戦ったのであるから、その激闘振りも察せられよう。


「打留7人、手疵為負(おはせる)者4人、召捕2人、右は局中の働(はたらき)に候。漸く事済み候跡へ、御守護職、御所司代の人数3千余人出張に相成り、夫より屯所へ被打入(うちいられ)候処、会侯の手に4人召捕、1人打取る。桑侯手に1人召捕。


 翌6日昼九つ時(正午)人数引揚申候。前代未曾有(みぞう)の大珍事に御座候」

 以上の通(とほり)、池田屋襲撃は、殆んど新撰組の独擅場(どくせんじよう)で、彼等が得意になるのは当然だらう。

 近藤の家書は、以下続いてゐる。

「下拙(げせつ)僅かの人数引連れて、出口に固めさせ、打込候者は、拙者始め、沖田、永倉、藤堂、倅周平、右5人に御座候。
 一時余りの戦闘にて、永倉新八の刀は折れ、沖田総司、刀の帽子折れ、藤堂平助刀はさゝらの如く、倅周平は槍を斬折られ、下拙刀は、虎徹故にや、無事に御座候」

 何れも新撰組切つての剣客揃ひである。僅か5人で斬込んだのであるから、その力戦振りも思ひやられる。

 その中に、縄手から引返した土方歳三の一隊が加つて、こゝに稀代の大捕物陣が展開されたわけである。
 
「実に是迄、度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は、稀に覚え候。今度の敵、多数とは申しながらも孰れも万夫の勇士、誠に危き命助かり申候」

 これが勇の欺かざる述懐である。

 新撰組も克(よ)く力闘したが同時に勤皇諸有志が如何に勇戦したか、これで判る。

 人を斬るのに、最も豊富な経験を持つ、近藤勇をして、この嘆声を発せしめたのであるから、殉難の志士も以て瞑すべしだ。公論は常に、敵側より発せられるものである。



〔参考〕
 
  
   

〔続く〕
   菊池 寛著『大衆維新史読本』殉難の諸士、近藤勇の最後






桑原ジツゾウ『シナの宦官』

2022-03-23 22:06:03 | 作家・思想家

 

  桑原隲藏


  
  

 支那の宦官


       
 最近の新聞紙の報道によると、支那の宣統〔前〕帝は、宮廷所屬の宦官の不埒を怒り、彼等を一律に放逐して、爾後永遠に使役せぬといふ諭旨を發布されたといふことである。
 その動機は論ぜず、その理由は問はず、事件そのものが、兔に角一大壯擧たるを失はぬと思ふ。

 宦官は必ずしも支那の專有物でない。
 古代の西アジア諸國、ついでギリシア、ローマにも宦官が使役された。マホメット教國では、一般に宦官を使用した。印度のムガール王家などは、幾千といふ多數の宦官を備へた。此等の宦官は何れも君側に侍するので、時に政治上に相當の權勢を振うたことも稀有でない。我が日本の如く、古來宦官の存在せぬ國は、寧ろ珍しい方である。朝鮮や安南なども、支那の風を傳へて宦官を置いた。

 獨り我が國は隋・唐以來、盛に支那の制度文物を採用したに拘らず、宦官の制度のみを輸入せなかつたのは、誠に結構なことと申さねばならぬ。

 嘗て「支那の宦官」といふ論文を發表した、英國のステント(Stent)は、東洋諸國にしかく普通である宦官の制度が、西洋方面に餘り流行せなかつたのは、全くキリスト教の御蔭であると、提燈を點けて居るが、我が國などは何等宗教の力を待たずに、よくこの蠻風に感染せなかつたので、一層誇負するに足ると思ふ。
 之に就いても私共は、我が國の當時の先覺者の思慮分別に、十分感謝せなければならぬ。

 かく宦官は諸國にも存在したが、支那は宦官の國として、最も世間に聞えて居る。
宦官といへば、直に支那を聯想する程である。
事實世界に於て、支那ほど宦官の重用された國がなく、支那ほど宦官の跋扈した國がなく、また支那ほど宦官に關する多量に且つ連續せる記録を有する國がない。


 支那の宦官が何時代からはじまつたかは、正確に知ることが出來ぬ。
されど周時代には、已に宮刑が五刑の一に加へられて居り、宦官も存在して居つた。
疑問の書物ではあるが、『周禮』にも、

墨者使門。※(「鼻+りつとう」、第3水準1-14-65)者使關。※(「月+りつとう」、第4水準2-3-23)者使囿。宮者使内。
とあつて、罪人をそれぞれ宮廷に使役し、宮者は後宮に使役することになつて居る。

 學者の中には、周は西方から支那に移住して來た異人種の建てた國で、彼等は西方で行はれて居つた宦官の風を、始めて支那に輸入したと主張する人もある。併し支那人は頗る嫉妬心の強い國民である。

 『禮記』等を一讀すれば容易に了解さるる如く、彼等は古く男女の間に於ける疑を避くる爲に、吾人の想像以上に、神經過敏なる種々の禮儀や作法を設けて居る。
かかる氣質の支那人の間に、男女間の嫌疑を避け、嫉妬心を慰安する方便として、中性の宦官を使役するに至るは、寧ろ當然の順序かも知れぬ。
 支那に於ける宦官の起源を、必ずしも西方の風習に關係せしめて説明するに及ばぬかと思ふ。


 宦官の起源は兔に角、春秋戰國時代となると、宦官は已に政治上で可なり勢力を占めて來た。
齊の桓公の死後、齊を亂した豎※(「刀」の「ノ」が横向き、第3水準1-14-58)の如き、晉の文公に信任された寺人の勃※(「革+是」、第3水準1-93-79)の如き、その一例である。
内豎といひ、寺人といひ、又奄人といふは、皆宦官のことである。

 有名な商鞅が秦に重用されたのも、宦官景監の手引により、藺相如が趙に出世したのも、宦官繆賢の推擧によるといふ。
秦時代には遂に趙高の如き、權勢を專らにして弑逆をも行ふ宦官が出て來た。
此等古代の宦官の事蹟は、ほぼ『後漢書』の宦者傳序に備つて居るから、茲に態※(二の字点、1-2-22)紹介するを要せぬ。  

 漢以後に出た重なる歴代の宦官の事蹟は、支那史乘に詳記されて居つて、これも一々紹介する必要がない。
歴代の中でも、東漢・唐・明の三代が、宦官の尤も權力を振ふた時代で、この三代の中でも、唐が一番甚しい。
唐の中世以後は、大臣の任免は勿論、天子の廢立すら宦官の意の儘であつた。
當時宦官を指して定策國老と呼び、之に對して皇帝を門生天子と稱した。

 定策國老とは、試驗官に當る國家の元老といふ意味で、門生天子とは、その試驗官の檢定で、及落を決定せらるる受驗生の天子といふ意味である。
 天子廢立の全權が、宦官の掌裡に在ること、あたかも受驗生の及落が試驗官の自由に在ると同樣なることを申述べたものである。



         


 宦官は天子の後宮に限つた譯でなく、周時代には諸侯、若くは諸侯以下の相當身分ある家の奧向にも、宦官を使役した。
後世宋・明時代まで民間、殊に南支那の民間では、奴隷を割勢して、奧向に使役した事實がある。
併し明以後殊に清朝では、民間に割勢者を蓄養することを嚴禁し、皇室及び皇室より特許された王公大臣の邸宅に於てのみ、宦官を使役した。 


 宦官はもと宮刑に處せられた罪人を以て之を補充した。
 宮刑とは五刑の一で、淫刑とて主として不義者に加へる刑罰であるが、不義者以外の重い犯罪者にも宮刑を施した。
殊に宦官の不足する場合には、死刑に處すべきものを、一等減刑して宮刑に處し、若くは謀反者の遺族を宮刑に處して、之を補充するのが普通であつた。
又稀には自宮とか私白とか申して、無罪の者が自分で割勢して、宦官を志願する場合に、之を採用したこともある。
 
 隋時代以後宮刑が廢止となると、宦官の供給が種切れとなる。
從つて隋唐以後の宦官は、志願者で補充するのが原則となつた。
しかし必要の場合には、從前同樣に、死罪の者を輕減し、割勢して宦官に採用したこともある。

 また時には四川や嶺南の如き、邊裔の蠻民を捕獲して宦官とすることもある。
唐の玄宗時代の有名な宦官の高力士の如き、廣東南邊の蠻僚出身である。
明の英宗時代に、貴州方面の苗族を征伐して捕獲した、小童千五六百人を宦官とした事實もある。
また元・明時代には、高麗・女眞・安南出身の宦官が、尠からず支那宮廷に奉仕して居つた。
此等の宦官は何れもその本國から、支那の宮廷へ貢進したものと想はれる。

 現に朝鮮の記録を見ると、明の永樂元年(西暦一四〇三)に、朝鮮では明の皇帝の聖旨を奉じ、容姿閑雅、性質悧發な火者三十五名を選拔して、支那へ貢進し、その後も再三同樣の貢進をして居る。


 この火者とは、もと印度語ヒンドスタニのコヂヤ(Khojah)を訛つたもので、印度の囘教徒は割勢者を指して、普通にコヂヤといふ。
元時代から明時代にかけて、印度から割勢した奴隷を南支那に輸入した樣で、この奴隷の輸入と共に、コヂヤといふ印度語が南支那に傳はり、支那人はコヂヤに火者の字を充て、宦官を意味することとなつたものと解釋される。

 『明律』や『清律』に、閹割火者とあるが、こは單に火者と稱しても可なれど、外國語の音譯にて、意義不明なるを恐れ、かくは注解的に閹割の二字を添加したものであらう。
 元時代には蒙古の政府は高壓的に、高麗(朝鮮)から宮婢や宦官を貢進させて居る。
故に元時代の宦官に、高麗出身が尠くない。
元の順帝時代に、高麗出身の祁皇后と共に、尤も後宮に權勢を振うた宦官の朴不花の如きも、高麗出身であつた。
 故に隋・唐以後に於ける宦官の出身を檢すると、
(一)志願者、
(二)死罪輕減者、
(三)蠻人の捕虜(外國産の奴隷)、
(四)外國人の貢進と、大體四種に區別することが出來る。

 就中主要なものは勿論第一の志願者で、十の八九まではこの出身であつた。

 自分から進んで宦官を志願するなど、常識では考へられぬが、利慾に目のない支那人のこと故、將來の富貴出世を目當に、存外志願者が多い。兩親が行々宦官に仕立てる目的で、その子供を幼少の時に割勢するものが中々多數である。
中年者が賦役を逃がれ富貴を夢みて、割勢する者も尠くない。

〔割勢する際には、無論之が爲に生命を喪ふ場合もある。
マホメット教國に於ける經驗によると、割勢者の約半數以上は死亡するといふ。
故にマホメット教國では、割勢した奴隷の價格は、普通の奴隷より二倍若くば三倍高い。
 支那に於ける割勢者の死亡率は不明であるが、
マホメット教國のそれほど高率でないらしい。
それでも明時代に苗童を割勢した場合には、五分の一以上の死亡者を出したといふ。
かかる危險を冒してまで、割勢して宦官を志願するのである。〕



 支那の宮廷には、多い時は一萬二三千人、少き時も三千人位の宦官が居る。
その宦官の或る者は、罪科によつて免職されることもある。
或る者は老衰して退隱するものもある。或る者は病氣に罹つて死亡するものもある。
故に絶えず補缺を必要とする。

 明の天啓元年(西暦一六二一)に、宦官の補缺三千人を募集した時に、應募者の實數二萬餘人に達した。
餘り志願者が多いから、政府は俄に豫定額に一千五百人を増して、すべて四千五百人の宦官を、一時に採用したといふ。
眞に驚くべき事實でないか。
 併しこの事實は『皇明實録』にも記載されて居り、又當時支那に在留した、耶蘇宣教師の記録にも見えて居るから、殆ど疑ひを容れる餘地がない。


 支那の政治は孝道を第一に置く。
 從つて父母の遺體を傷け、子孫の蕃殖を絶つ如き行爲は、尤も嚴重に取締らねばならぬ。
故に歴代の政府は、表面上自宮者を禁止して居る。
 明時代にも政府は可なり嚴重な制裁を設けて、民間の自宮者を禁止して居るが、それは看板若くば一時だけのこと、實際に於ては殆ど※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)行されなかつた。
 宮刑が廢せられ、宦官の存する以上、宦官の供給は、大體自宮者に待たねばならぬ筈故、自宮者の跡を絶つ譯がない。
自宮者を禁止する政府自身が、その實自宮者にとつて第一の、もしくは唯一の需要者であることは、大なる皮肉と申さねばならぬ。

 清朝では明時代に比して、概して自宮者の取締規則を嚴重にし、また宦官補充の人數も僅少であつたから、明末の如き自宮者の濫出はなかつたらしい。

         

 政府で宦官を採用するには、第一に身體試驗を行ふ。
 應募者が完全に割勢されて居るや否やを審査する。
次にその年齡・容姿・性質・擧動・言語・音聲等を檢査する。
年齡の若く容姿秀で、擧動閑雅、言語明晰、美聲で悧發な者が選に入る譯である。

 入選者はその伎倆に應じて、相當の職業に從ふ。或る者は内外の取次に從事する。
或る者は小間使となる。
或る者は司法官となつて、仲間の者の非行を懲戒する。
或る者は僧侶となつて、後宮の佛事を行ひ、又は女官達に慰安を與へる。
或る者は音樂家となり、或る者は俳優となる。

 内廷に戲園(舞臺)があつて、ここに時々演藝が試みられるが、その出演者は皆宦官に限る。
或る者は料理人に、或る者は理髮者に、或る者は苑丁となる。
降つては洗濯人・水汲人・掃除夫となるものもある。
その他夜警に當る者、護衞に當る者もある。
内廷一切の雜務は、宦官で處理するのである。
彼等を取締る首領として、總管や副總管を置く。 
 


 割勢者は首尾よく宦官に採用されて、入内の素懷を達し得るのは一小部分で、その大部分は不合格者として、郷里に蟄居せなければならぬ。彼等の餘生ほど悲慘なものはなからう。

 明・清時代の宦官の本場は、直隷省殊に河間地方である。
皇室直屬の宦官は、殆ど直隷出身に限る。
明末に權勢を專らにした魏忠賢、清末に勢力を振うた李蓮英ら、皆河間出身の宦官であつた。

 明末の『野獲編』を見ると、當時河間地方には、入内に失敗せる幾多の自宮者が、自暴自棄の餘り、團結して往來の人馬に對して劫略を行ふ。
故にこの方面の旅客車馬の遭難するもの夥しいが、實情を知悉せる官憲は、彼等の境遇を斟酌して、其狼藉に放任したといふ。



         


 歴代朝政之失、半由官寺と支那人が評した通り、宦官は支那歴代の禍源をなした。

 東漢の袁紹や唐の朱全忠は、宦官を殲して、その勢力を殺いだこともあるが、久しからずして彼等は復活して、依然國權を弄した。
 明の太祖は歴代の成敗に鑑みて、宦官の處置に意を用ゐ、その數も百人以下に止め、禄を輕くし位を低くし、内臣の政事に干渉する者は斬罪に處すべしといふ、嚴しい掟を鐵板に刻り付けたる、所謂十字の鐵牌を官門に樹てたが、その鐵牌の未だ銹を生ぜざる間に、宦官の員數も勢力も驚くべく増加して、明の天下は半ばは宦官に滅ぶ結果に至つた。


 滿洲から起つた清朝は、宦官の處置に就いて、一層周到なる注意を拂ひ、嚴重なる防禁を設けたのみならず、その諸天子もよく綱紀を緊縮したから、宦官の弊害が歴代の中で尤も尠かつた。
 それでも同治以後、西太后の時代となると、次第に宦官が政治舞臺に現れて來る。
最初西太后の信任を得た宦官を安得海といふ。
彼は同治八年(西暦一八六九)に、年二十七歳の頃に、西太后の密旨を受けて、山東地方へ出掛けたが、宦官の皇城外へ出るのは法規違反であるから、山東巡撫の丁寶※(「木+貞」、第3水準1-85-88)に拘抑せられ、遂に殺戮に遭つた。

 此事件の際に、東太后や恭親王が、丁寶※(「木+貞」、第3水準1-85-88)を指嗾して、強硬手段を執らしめたといふので、西太后と東太后との間柄が圓滑を缺き、また西太后と恭親王との間柄が、一層不和となつたと傳へられて居る。

 安得海の後を承けたのが、彼の有名なる李蓮英である。
彼は同知の末頃から光緒年代にかけて、約四十年間西太后の信任を受け、大なる勢力を振うた。
彼に關する種々芳しからざる噂が、支那人や歐米人の著書に傳へられて居るが、茲には紹介すまい。
李蓮英は明治四十四年に、丁度西太后の崩後二年半ばかりで、六十九歳を以て世を辭した。
彼は支那に於ける最後の歴史的宦官である。



         


 宦官は割勢して居るから、勿論情事の關係ない筈である。
 併し割勢手術の不完全なる故か、又は他の理由によるか、古來の歴史を見ると、宦官宣淫の事實が尠くない。
後魏の孝文帝の皇后馮氏は、宦官の高菩薩と密通した。
 唐の高力士は帶妻せし上に、他の貴婦人とも通じたと傳へられて居る。
中世の宦官に、妻妾を有せし者が多い。
殊に明時代を甚しとする。
明代の有力な宦官は、帶妻を普通とした。
宦官として遊郭に出入し、若くは宦官同志の間に、婦人を爭奪するなど、醜穢なる事實が、明代の記録に疊見して居る。


 併し宦官の情事は變態である。
 彼等は色情を制限されて居る結果、利慾心が一倍強い。
從つて勢力ある宦官の納賄得利の程度は、吾人の想像以上である。
常に君側に左右して、傳達を掌どる彼等は、その一言一行によつて、他人に大なる影響を與へることが出來る。
 嘗て或る大官が、皇室へ見事なる品物を獻上した時、宦官への心附け十分でなかつた爲、彼等は故意にこの獻上品に毀損を加へ、是に由つてその大官は主君の御不興を蒙つたといふ。

〔又嘗て太后や皇帝が地方巡幸の際、その地方の長官の心附け不足に不滿を懷いた宦官達は、長官の調進した心盡くしの料理に、中間で勝手に多量の鹽を加へて、その長官を失敗せしめた實例もある。〕


 兔に角宦官の歡心を買うて、位置の安全を圖るのが、支那官場の常態となつて居る。
殊に天子が宴樂に耽る場合や、太后が垂廉の政を行ふ場合には、宦官に對する心附けの必要なること申す迄もない。
宦官が發財致富の根源はここに在る。

 明の宦官王振の家産を沒收した時、金庫銀庫併せて六十餘棟に及び、珊瑚樹の高さ六七尺のもののみにても、二十餘株あつたといふ。同じく劉瑾の家産を沒收した時は、黄金二百五十萬兩、銀五千萬兩、他物之に副ふといふ有樣であつた。

 清の李蓮英も隨分蓄財して、その額五千萬圓に達すると噂されたが、義和團の亂に、北京を後に西安へ出奔した際、已むを得ず莫大なる金銀を土中に埋沒して置いた。
この埋藏金銀は不幸にして、蛙にも化けずにその儘、北京占領の外國軍隊に發見沒收された。

 明治三十五年の春、彼は西太后・光緒帝と共に、西安より北京に歸ると、この埋合せに盛に收賄して、爾後七年間に約二千五百萬圓の蓄財をしたと傳へられて居る。
宦官の弊竇は實にここに在る。



         

 多數の宦官の中には、勿論忠義の人、正直の人もないではない。
中には東漢の蔡倫の如き、始めて紙を發明して、世界の文化に大なる貢獻をなした宦官もある。
又明の鄭和の如き、遠くアフリカの東海岸近くまで航行して、國威を輝かした宦官もある。
併し此の如き宦官は、曉天の星と一般、誠に寥々として、明の太祖のいはゆる千百中不一二見もので、彼等の大多數は、もともと權勢利慾を目的に入内したのであるから、その國家を蠧毒すべきは、冒頭より豫期せなければならぬ。


 所が不思議なことは、支那の政治家や經學者などに、殆どこの秕政の根源たる宦官の廢止を主張した人がない。
尚古思想の強い支那人は、『書經』や『詩經』に宦官を是認してあるといふ理由で、又嫉妬心の強い彼等は、婦女監視には中性の宦官が必要であるといふ理由で、宦官の弊害を知りつつ、矢張りその保存を主張する。

『資治通鑑』の作者たる司馬光の如き達識家でも、宦官は全廢すべからず、但しその位置を低下し、その取締を嚴重にすべしといふに過ぎぬ。
『大學衍義補』の著者丘濬の如き、『明夷待訪録』の著者黄宗義の如き、政治評論を以て聞えた學者でも、宦官に對する意見は、格別司馬光のそれと相違する所がない。

 如何に位置を低下しても、取締を嚴重にしても、宦官の存する以上、長い年月の間に、必ず弊害を生ずることは、明・清の實例に由つて明白でないか。
宦官を全然撤廢して、源を塞ぎ本を拔かねば到底無效である。
支那人の間に、宦官全廢論の起つたのは、恐らく二十餘年前に、孫詒讓等の創唱以來のことであらう。
その孫詒讓の論據は、世界の列強は宦官を置かず、宦官を存するのは、トルコの如き弱國に限るといふにあつたと記憶する。

 兔に角その當時餘り有力でなかつた宦官全廢論が、今日に至つて始めてその現實を見得た譯で、民國成立後宦官は無勢力で、その存廢は政治上格別の影響なしとしても、兔に角かかる野蠻な制度の撤廢されただけでも、支那の爲に祝福すべきことと思ふ。

桑原隲藏 「黄禍論」一 黄禍論の由来

2022-01-06 20:06:42 | 作家・思想家

  黄禍論 
     桑原隲藏 

 


一 黄禍論の由来

 黄禍即ちYellow peril 又はGelbe:Gefahrとは黄色人種より来る危険という意味である。世界の競争部隊に於いて黄人が白人を迫害圧倒すべしといふ議論は大体日清戦役の頃から世界の注意を惹くこととなった。勿論その以前から一部の識者(?)の中には或いは日本或いは支那の将来の興隆を予想して白人の前途を悲観した人もないではないが、全体から言えば此の如き意見を有った人は甚だ少数で又彼等の議論はさして当時の注意を惹かなかったようだ。

 黄禍論が一般の注意を惹くに至ったのは独逸皇帝が「黄禍」と題した一幅の写真畫を作って以来のことである。日清戦役に終期、三国干渉の起らんとする前後に独逸皇帝は一の寓意畫を工夫された。その畫の一端にには龍に駕した仏陀が炎々たる火焔を掲げつつ西方に突進せんとするに対して欧州諸国代表せりと想はるる幾多の女神は各自に相応せる武器をとり、大十字架の保護の下に之を逆撃せんとして居る。独逸を代表せりと思はれる女神は先頭に立ち、露西亜、仏蘭西等を代表せる女神は之に続いて居る。
  
 この畫の意味は日本の勃興を意味したか、将た支那の覚醒を意味したかは不明であるが、兎も角も耶蘇教國が一致して仏教信者である東洋民族の発展を阻碍防圧せざるべからずといふ意を寓したことは明白である。独逸皇帝はこの寓意畫に宸翰(註:シンカン、天子の自筆の手紙や文書)を添えて露西亜に贈ったと伝えられて居る。

 一言一行世間の注意を惹く独逸皇帝の意匠に成った此の奇抜な寓意畫は頗る当時の耳目を聳かしめた。所謂黄禍と言ふ文字もこの時以来盛んに使用されることとなったが、実際の所、当時の日本は三国干渉の為に大挫折を受けて居る。支那は日清戦役の失敗に続いて列強から要害の地を租借せられたのみならず、或いは瓜分の厄にすら罹らんとする形成であった。黄禍といふ文字こそ、新聞・雑誌又は書籍の上で流行して居れ、当時真面目に黄禍の実現を信じた人は甚だ多くなかった様である。

 比較的早く日本の将来に目を向け屬け亜細亜の覇者となる者は、支那にあらずずして日本なるべしと明言した英國有数の政治家ですら黄禍論などは一種の杞憂に過ぎぬと信じて居た。所が明治37年、38年の日露戦役後から黄禍論は初めて世界的問題となり欧米人も真面目にこの問題に耳を傾くることとなった。

 日露両国は種々なる点に於いて奇妙なる対称を有して居る。従って此の両国の戦役の結果は種々なる方面に影響を及ぼして居るが、中に就いて亜細亜の一小國がその幾十倍もある欧州の大強国と戦ひ見事にこれを打ち破ったといふ事實は全亜細亜人に餘程深刻なる印象を輿へた。
 欧人東漸以来絶えず其の圧迫―或はその王家を滅され或はその土地を奪われてーを受けながら到底これに抵抗は不可能と断念して居つた黄人が彼等も努力如何いよって随分白人の圧迫を離脱することが出来る。否更に一歩を進め白人に対して痛快なる復讐をも成し遂げ得るといふ実例が示されたのである。

 日露開戦の少しく以前から活動写真が次第に世間にもて囃されて来た。
日露戦役はこの活動写真にとって好箇の映写物となった。日露戦役の当時から爾後三四年間はこの戦役の活動写真が亜細亜大陸到る處で空前の歓迎を受けた。興行主はその懐具合から頻にこの活動を映写する。印度人、緬甸人・暹羅人・安南人・支那人・南洋人等は何れもこの活動写真を見物して、年来の留飲を下げた。
 活動写真によって無様な露軍の敗走を見ると自然彼等の脳裏に白人の威光が薄らいで行く。白人も不可敵でないと知ると、之に対する反抗心が頭を擡げてくる。かくて亜細亜人の亜細亜といふ新思想が東洋の天地に彌蔓して来た。

 明治37年38年に亘って印度のベンガル州のムケルジーといふ詩人が、『日露戦役の詩』と題する長篇を公にした。この詩は前後五冊より成り、戦役の発展と共に漸次追刊したもので徹頭徹尾日本に厚い同情を寄せ、当時の印度人一般の気分を代表したものである。

 彼等印度人も開戦の当初は日本の健気な振舞に同情しつつ何分世界第一の大強國の露國が相手では大人と小児との角力同様―彼等はdeath struggle between pigumy and giant と詠じて居るー最後の勝利気遣はしとて、態々印度の神々に日本の冥加を祈願して居る。されど海に陸に日本の勝利が確実になると彼等はこの勝利を自己の勝利の如く歓喜した。

 白人の圧政に痛快な復讐を遂げた日本を祝福し崇拝すると共に彼等は印度の現状に暗涙を流し英國の処置に不満の意を表して居る。この『日露戦役の詩』に現れて居る思想が、やがて亜細亜人全体の思想でもあった。

 この新思想の勃興には亜細亜に領土を持って居る白人一同に閉口した。彼等は日本がやがて黄人種の先達となつり黄人種の大同団結を作つて白人駆逐を試みるのであらう。
 多数の黄人に少数の白人ではその結果恐るべきものがある。過去に於て白人が黄人に圧倒征服された場合が多い。支那歴史で有名な匈奴はフンネンと
して欧州に現れ西暦4世紀から5世紀にかけて大いに白人を迫害した。13世紀に蒙古人の侵入を受けた白人は防御の術盡き、ひたすら祈祷によって、この悪魔の退散を待ったといふ事実もある。

 更に降って14、15、16世紀にかけては土耳古人の為に白人一同散々な目に遭つて居る。
 白人等は日本の勃興によって、此等過去に於る恐怖を新たにして自己の前途を心配し出す。此の如くしてゴルツ男爵の『歴史上より観たる黄禍』が歓迎され、ベーツ氏の『欧羅巴歴史に於る黄禍』が公にされたのは最近5、6年来の出来事である。
白人等は今迄黄人を見縊り過ぎた反動で、実際以上に黄人に対して警戒を加へることとなった。

 

 亜細亜人の中で日本人は別としてそれ以外では支那人が一番覚醒して来たらしい。土地の廣大と人口の多数によってかねて眠れる獅子として欧米諸国から窃に憚れて居た支那人、その支那人の間に巳に日清戦役以来、変法自強といふ新機運が開けかけて居つたが、日露戦役に於ける日本の成功を見た支那人は一層変法自強の急務成ることを自覚した。

 日露戦役後に於ける支那の革新は、随分目覚ましいもので制度・文物・教育・兵制百般に渉って改善を計り、然も此等の計画は直間接に日本人の援助を受けたものであるから、欧米人は痛くその其視線を聳し黄禍論者は之によって一段と其論拠を強くした。

 此の如くして日露戦役以来黄禍論は世界的問題となって来た。或は日本を黄禍の中心とするものもある。或は支那を中心とするものもある。軍事の方面以外に、或は殖民の方面より黄禍論を主張するものもある。或は経済の方面より黄禍を主張するものもある。

 立論の仕方は必ずしも一様ではないが、この問題の重大視さるるに至ったのは、争うべからざる事実である。

 露西亜に対する日本の戦勝は、徒に英国に於る印度人の反抗心を助長せしめたに過ぬ。  

 日英同盟は果たして英人の利益であったであろうかと同名の価値に就いて疑惑を挟む者が出来、甚だしきは日本の勃興に助力した英人は白人に対する謀叛人であるとまで激語する者さへ現れて来たのも、仏蘭西人が南亜細亜に於ける位置の不安を感じて、後印度所領の備防を喧し立てたのも、皆日露戦役後の現象である。
 殊にこの戦役後従来黄禍論に餘り関係のなかった亜米利加方面でこの問題が一層重大視されることとなつた。

 米國は元来モンロー主義を執り、東洋問題にはさして重きを置かなんだが、明治31年にフィリピン群島を領し、布哇を併せて以来、太平洋問題に深き関係を有することとなり、従って日本の勃興によって、尠からず不安を感ずることとなった。

 又米國はかねて支那貿易に重きを置き、支那を米国の好箇の市場と認めて居た。米國が率先して清國の領土保全・門戸開放を唱え出したのはこの故である。
然るに日露戦役後、日本が南満州をその勢力範囲に加え、ここにその商権を擴張するを見て、甚だ面白からざる感情を起こした。明治42年の末に、米國が列強に通牒して、満州鉄道中立問題を提出したのもこの故である。


 上述の如き理由で米國は日露戦役後、軍事上でも、経済上でも我が日本と利害が異にすることとなつた。米國の新聞や雑誌を見ると日米関係に関する議論が頗る多い。彼等は太平洋の制海権を争わんが為に、この二國は近き将来に於て開戦せねばならぬと信じて居る。
 海軍の一士官の如きは、日米開戦の暁には、三週間以内に日本の二十五萬の陸軍がカリフォルニヤ州に上陸し、
太平洋裏の米國領土は日本の手に落ち、その沿岸一帯は日本に封鎖さるべしと公言して居る。甚しきは日米戦争記などといふ物騒千萬な表題の書物すら出版されて居る。


 米人殊に太平洋に面せるカリフォルニア人が亜細亜人殊に日本人を恐れるのは、かかる理由からである。明治39年にサンフランシスコに起こった日本学童の離隔問題を手始めとして、殆ど年毎に排日運動が太平洋沿岸の諸州で起こって来た。

 今春来天下の注意を惹きつつあるカリフォルニア州の土地所有権禁止案も亦、黄禍論と関係して、人種問題が重なる原因の一たること疑ふべくもない。米人は支那人排斥に成功したから、同一の筆法で、日本をも太平洋沿岸から駆逐しさらんと欲するのである。


桑原隲藏『黄禍論』二 黄禍か白禍か

2022-01-06 19:58:34 | 作家・思想家

   黄禍論     
      桑原隲藏
 

  

二 黄禍か白禍か

 以上は欧米に起こった黄禍論の由来の大略を述べたのであるが、翻って黄禍そのものの事実の有無を論ずることとなると曟(註、サキ)にも一寸申し述べて置いたが、等しく黄禍論といふ條、その論旨を大別すると、――已に二十年も以前に、英人ピアルソン氏がその著『国民的生活及品性』中に論評したるが如くーー軍事・殖民・経済の三方面に分かれる。

 軍事方面より論ずるものは、黄人――主として日本人及び支那人――は蛮的勇気を備へて、軍人に適した素質を持って居る。彼等にして最新の軍事教育を受け、最新の武器を使用し得るに至らば白人は到底之に抵抗することが出来ぬ。今日白人が占領している亜細亜の土地は遠からず黄人の手に取り返えされるであらうと予想する。

 殖民方面より論ずる者は、黄人は如何なる気候風土にもよく適応していく。この点に於て黄人は遥かに白人に立ち優って居る。耐忍・勤勉・倹素なる黄人は到る所の殖民地で労働者としても、資本家としても、優に白人を圧倒し得る見込みがあると観測する。

 更に経済方面より論ずる者は東亜殊に支那は、あらゆる産物が無尽蔵で、而も未だ少しも開發されて居らぬ。支那及び日本は尤も石炭に富み又水運の便利を備へて居る。この豊富なる石炭を利用し、便利なる運搬力を利用し、殊に低廉なる賃金に満足する日本・支那の労働者を使役して文明的の生産工業に力を用ふるに至らば廉価なる東亜の生産物工芸品が世界の市場に跋扈するに至るべしと主張する。

 殖民経済の方面のことは、やや複雑に渉り且つ紙数の制限もあれば、姑く之を措き.専ら軍事方面から論ずると、黄禍などといふ事実は決して有り得ぬ事と思ふ。少なくとも欧米の黄禍論者が主張するが如く、日本人や支那人が攻撃的態度をとって、白人に迫害を加へ世界の平和を撹乱するやうなことは、過去に於てもかかる事実は存在せず、将来に於いてもかかる事実は起らぬ事と思ふ。
  

 第一支那人は世界無比な戦争嫌ひな平和的(?)人種である。彼等は軍人として尤も不適当なsる性質を有して居る。支那人の間には好鐵不打釘好人不當兵といふ諺がある。軍人を賤しむこと支那人の如きは類稀である。彼等は他國を征服するよりも、他國に征服さるべき人種である、吾輩は今春京都帝國大学記念日の講演に、歴史上より十分この点を証明して置いた。

 講演の大意は当時一二の新聞にも記載されたが、遠からずその全体の筆記を発表する積りである。かかる戦争嫌ひな支那人が、白人を迫害することは思ひも寄らぬ。

 日本人は支那人程平和的でないかも知れぬ。併し決して理不尽に白人を迫害する気遣ひがない。日清日露の戦役によって、日本を交戦國と評するのは、事実を誣(註、シーいる。ないことをあるように言う。)ふること甚だしきものである。

 もと米國のウイシコンシン大学の教授で、近頃駐箚支那公使に任命されたラインシュ氏は、極東の亜細亜人に就いて、大略次の如き評を下して居る。

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 日本人は亜細亜民族の中で最も好戦的に見えるが、彼等の理想として憧憬する所は平和であって戦争ではない。
 亜細亜の詩歌には,尤も平和の思想が現れて居る。亜細亜の宗教は尤も平和的である。実際世界の大宗教の中で、仏教程人の血を流さずに伝搬して来た宗教は他にない。亜細亜の歴史には他国の土地を併合した場合が比較的に少ない。
 亜細亜人程その生まれ故郷に執着する者はない。亜細亜人は尤も厚くその祖先を崇拝し又尤も厚くその墳墓を尊敬する。
 此等の点から推論すると、自然の発達に任せば、亜細亜人は尤も平和なる種族で、決して西洋の文明を迫害する筈がない。

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 古き歴史を見ると、匈奴とか蒙古とかは、一時亜細亜方面から欧州へ侵入したこともあるが、此等は砂漠の漂泊種族で四隣を攻略するのを一つ職業の如くして居った蛮民で日本人や支那人とは人種も相違して居る。決して彼此同一視すべきでない。又白人は歴史上・宗教上・社会上一大団結をなし易いが、黄人間にかかる大団結を起こすことはまず不可能である。

 黄人が一致団結して白人を迫害することは、容易に現実さるべきものでない。黄人は白人を迫害せぬが、白人は過去の於ても、現在においても、絶えず黄人を迫害して居る。白人が初めて東亜に出かけて来た頃には、馬来半島以東の南洋諸島は、多く支那人の勢力範囲であつた。併し支那人は新来の白人を排斥せず、通商の自由を与えた。所が白人が勢力を得るに従ひ支那人を邪魔にする。

 

 マニラやバァタヴィアで、一時に幾萬という支那人が、白人の為に虐殺されたことがある。彼等は更に白人の豪州とか白人のフィリピンとか、勝手な口実の下に、黄人の移住を禁止する。随分虫の好い話ではない哉。白人は又通商を開く為には兵力に訴えても強請する。日本も支那も脅迫されて開港し、開港後は絶えずその脅迫に苦しんだ。


 『東亜に於ける独逸の利害関係及び黄禍』の著者リグニッツ氏の所謂、支那は約六十年間、日本は約四十年間、(十九世紀の終わりまでの計算)烈しい白禍に難渋したのである。されば黄禍論の起る以前に、早く白禍論が起こるべき筈である。脅迫された黄人が白禍論を唱へえずに(白禍といふ言葉は黄禍の後に出来たもので、黄禍の如く普通瀬ではない)脅迫する白人が黄禍論を唱へるとは実に怪奇至極の現象ではあるまいか。

 

 白人は今日でも自分勝手に世界の最優等人種で、世界を支配すべき特権あるが如く信じて居る。この偏見からすべての事を判定する。黄人が彼等の言う儘に、なす儘になって居る間は、苦情も出ぬが、黄人が覚醒して、幾分彼等の自由にならぬと直ちに黄禍論を唱へ、甚だしきは黄人に対して謀反呼りをする。それ程黄人が危険なら黄色人の土地に近寄らぬがよい。無理に出かけて来て、極東に通商を開き、或はその土地を占領しながら黄人の危険を説くとは、一つの滑稽と言わねばならぬ。

 今より二十年許り前まで英國牛津(オックスフオルド)大學の教授として、支那學の講座を持って居た有名なるレッグといふ人が、儒教と耶蘇教とを比較して次の如き批評を下したことがある。
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 孔子は 己所不欲 勿施於人(『論語』顔淵十二)といふ。これを基督が己の欲する所を人に行へといふ教訓と比較すると基督の方が積極的で、孔子の方が消極的である。基督は正義を行えと命じ、孔子は不正を行うふなかれと禁ずるので、両者に大きな差別がある。
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 随分、孔子の學説を抑えて居る。

  又或る人が孔子に怨ある者に恩徳を施すは如何にと尋ねた時、孔子はかくては恩ある人と怨みある者とを同一視する恐ありとて、之に反対して、

  以直報怨、以徳報徳(『論語』憲問十四) と教えて居る。

 即ち孔子は明に恩ある者と怨ある者とを区別して同一視せぬのであるが、レッグ教授は、之を『聖書』の馬太傳かに、
爾曹の敵を愛み、爾曹を詛(註、ノロう)う者を祝し、爾曹を憎むものを善視し、虐遇迫害する者の為に祈祷せよ。

とあるに比較して、孔子は博愛を解せぬ。その道徳観念は低いと抑へて居る。

 

 此の儒教と耶蘇教との比較論に対して、吾が輩は別箇の意見を持って居るが、茲には姑くレッグ教授の意見に従うこととし、耶蘇教の主義は如何にも立派のものと認める。併し白人は果たしてよくこの立派な主義を実行して居るえあろう歟(註、か。疑問・推測・反語・感嘆の語気を表す。)。彼等は果たして宗教や種族の区別を超脱して、一視同仁に博愛を実行して居るであろう歟。


 白人東漸の事実を観ると必ずしも左様ではない様に思ふ。彼らはその欲する所を人に施さざるのみならず、その欲せざる所も遠慮な他人に施して居る。道光年間の阿片戦争の如きをおの一例である。英人はその本國及び殖民地に阿片の使用を禁止しながら支那には盛んに輸入する。阿片戦争の大立者である有名な林則徐が『擬諭英吉利王檄』を作って、有害と知って自國に禁止せる毒品を金儲の為めとはいへ、他國に輸入して人命を害するを顧みぬとは、良心ある者の敢えてし得る業ではない。英人は果たして良心を有して居るや否やと試問天良(天の賦与せし良心)安在と詰問している。

 レッグ教授の本國に関係あること故、同教授が若しこの文を一読したらーーこの文『林文忠政書』乙集に収められて居るが、レッグ教授は果たして之に寓目したか否や不明であるーー必定その背に汗せなければならぬ筈である。


 レッグ教授と阿片問題に関して面白い因縁話がある。レッグが支那滞在中に、さる支那の大官――多年英國公使として駐在して居た大官――と會同した。その大官は極めて打ち釋けた態度でレッグ教授に向ひ、貴下は西洋人とはいへ、中國に住むこと三十年に近く、中國の経書にも通達して居らるるが、中國と西洋と比較して何れが果たして文明國である歟、忌憚なき御意見を承りたいと申出た。
 レッグが之に対して遺憾ながら西洋の方がと答へると、大官は抑へて、自分の尋ねたるのは軍艦や鐵道や汽船などの多寡を指すのではない、精神的方面殊に道徳の優劣であると付け足した。之に対してレッグは、それも勿論同様と答へると、大官は解しかねる顔色をして、徐にそれ程道徳の優れたる貴國人が、何が故に阿片を強売させるる歟と反問したから、流石のレッグも返答に窮して、冷汗を流したといふ。

 レッグはやがて英國に帰り、オックスフォルド大學の支那學講座担任の教授となると、真面目な彼はその滞支中の実験を基礎として阿片の流毒の激甚なることを説き、一日もこの不名誉な貿易を中止せしむべく輿論を喚起する目的で一大論文を起稿して、ロンドンのタイムス新聞へ寄書した。

 所が折角の教授の論文も没書されて、遂に新聞紙上に発表されない。レッグ教授が真面目な紳士であっただけ、曾て孔子教を抑へて基督教を掲げた因縁があるだけ又曾て支那の大官と中西の道徳の優劣を論じた責任あるだけ、更に公平無私なタイムス新聞ならばと信用を置いただけ、この出来事によって博愛なるべき基督教徒が、存外博愛を解せぬ事実を痛切に感取したに相違あるまい。


 黄人の白人に対する反感は、大抵の場合、白人が黄人に対して何等の同情を有たずに、無遠慮な我儘勝手を行ふから起るのである。久しく福建地方で支那人教育に従事して居つたスミス氏は、西洋の東洋に対する不正行為が東人の西洋憎悪の重なる原因であると公言して居る。

 『極東に於ける白禍論』の著者ギュリック氏は、その書中に、
 今は世界の平和を脅かすのは黄禍でなくして白禍である。即ち白人の跋扈である。黄白人種の衝突を避け、世界の平和を永遠に保持するには、先づ白人をして、凡ての人類は同一の価値と権利を有するといふ、根本真理を會得せしむる必要がある。英・米・獨・佛人に対すると同一の標準を以て日本人及び支那人に対するのが、世界平和の第一歩である。

 と主張して居る。

 

 明治四十一年に当時駐箚米国公使であった伍廷芳氏は紐育の市民會堂に招待されて、『支那の覚醒』といふ題で、一場の講演をした時、一米人が質問した。

 支那の覚醒は誠に結構であるが、併し我々米人は現に支那人を虐待し排斥して居る。若し支那が十分富強になった暁には、この不当待遇の仕返しに、我が米人に対して入國禁止を行ふ様の事起こらざる歟。この点が誠に懸念に堪へぬ。

 

 之に対して伍廷芳氏は、

 否、決してさる懸念に及ばぬ。米人は支那人を排斥しても、支那人はその復讐を好まぬ。我々は四海同胞主義である。宗教や種族によって区別を設けぬ。米人も勿論我が兄弟姉妹と見做し、決して排斥を行わぬ。

 

 と答へて大喝采を博したことがある。喝采した米人は耶蘇教信者である。彼等は平素異教徒として排斥もし、侮辱もして居る黄人の口から徳を以て怨に報いる馬太傳その儘の博愛的宣言を聞き、彼等自身の行為と引き較べて赤面せなんだであらう歟。喝采したことだけは、講演筆記に載せられて居るが、赤面したかせぬかは記載されてないから知ることが出来ぬ。

 

 支那人は伍廷芳のいふ如く白人より排斥され白人より迫害されても、大人気しく、徳を以て怨に報いて行くかも知れぬが、日本人の気質は、或はそれ程寛容であるまいと思われる。愛国心の強い日本人にとっては、国家の体面といふことが、尤も重大なるものと考えられて居る。名実とも獨立国の体面を毀損せぬといふ精神が建国以来の歴史を一貫して居る。

 我々日本人は國の在らん限り。この精神を尊重せねばならない。又他国の人々にも、之を尊重して貰わねばならぬ。若し白人にして、よく我が国民性を理解して、我が国家に圧迫さへ加えねば、我々日本人は決して白人を圧迫せぬ。正当防御の場合を除き我々日本人から攻勢を取って白人を圧迫する気遣ひはない。されば日本を中心として
畫いた荒誕なる黄禍論は、煙の如く消失すべき筈である。

 

 白禍は存在するが、黄禍は豪も存在せぬ。黄禍の發頭人と目差されて居る日本人や支那人でも各自の権利を保護するに力足らざる憾がある。白人を迫害する餘裕がある筈がない併し世間には嘘から誠の出来る例も多い。
 白人が餘りに黄禍、黄禍と囃立てて漫に黄人を抑へ付けると、それこそ黄人の大反抗を惹き起して黄禍の実現を見るに至るかもしれぬ。黄白両人種の衝突の実現の有無遅速は、全く白人の黄人に対する圧迫の有無緩急如何によって決するともへる。
 吾が輩は白人がその責任に大なることを自覚し、過去に於ける傍若無人の態度を改善して、世界の平和を維持するに努力せんことを切望する。


    (大正2年11月「新日本」第三巻第十壹號所載)



桑原隲藏 東洋史上より見たる明治時代の發展

2021-12-28 22:26:34 | 作家・思想家


  東洋史上より見たる明治時代の發展 
 

    桑原隲藏

  


         

 

 歳月流るるが如く、明治天皇の後登遐後、早一年を經た。去る者は日に疎しといふが、千古の大英主たる明治天皇の御鴻徳のみは、深く我が國民の腦裡に印して、決して忘るることが出來ぬのみか、却つて時を經る儘に、愈々(いよいよ)景仰の念を増すばかりである。私は茲に明治天皇の御一週年祭に際し、東洋史上より觀たる明治時代の發展を述べて、聊かその御鴻徳の一端を偲びたいと思ふ。

〔明治以前の歴史〕
 一體わが日本國は神武天皇御即位以來、二千五百餘年の長い歴史をもつて居るが、その割合に歴史の内容は豐富とはいへぬ。神功皇后の三韓御征服とか、豐太閤の朝鮮征伐とかいふ、大陸發展の場合が甚だ尠い。

 さらばとて平和の方面を觀ると、一層寂寞たるものがある。制度・文物・學術・宗教等あらゆる文化は、支那より傳はり、若くは支那を經て、我が國に傳はつたもので、その反對に日本固有の文化、若くは他國の文化でも日本を經て、支那・朝鮮の大陸に傳はつたといふ場合は、殆ど見當らぬ。

 

 要するに明治以前に於ける、我が二千五百餘年の長き歴史を振り返つて見ても、戰爭の場合といはず、平和の場合といはず、我が日本が原動力となつて、支那や朝鮮の局面に大變化を來したといふ場合は、極めて稀有である。


〔明治の御代〕
 所が明治の御世となると、頗るその趣を異にして居る。明治の御世殊に日清戰役後の十七八年の間に、わが國は非常なる發展を遂げた。この間に東亞の方面に起つた大事件は、一として直接若くは間接に、我が日本國の發展の影響を被らぬものはない。
 此の點より考察すると、明治以前の二千五百餘年の歴史より、明治の御世、殊に最近十七八年間の歴史の方が、遙に内容豐富ともいへる。
 明治年間に於ける我が國の發展は、多方面に渉つて居るが、東洋史の立場から觀ると、大要左の五項に概括し得ることと思ふ。


         二 朝鮮の併合

〔朝鮮の併合〕
 朝鮮は過去に於て、我が國と隨分深い關係があつた。殊に神功皇后の御世から、欽明天皇の御世にかけて、三四百年間は、我が國の勢力の下に立つたこともあるが、併し大體上支那の保護國といふ有樣であつた。朝鮮といへば、直に事大思想を連想する。

 事大とは『左傳』の大不レ字レ小、小不レ事レ大(哀公七年)や、『孟子』の以レ小事レ大者畏レ天者也、畏レ天者保二其國一(梁惠王下)から出た文句であるが、朝鮮人は昔から、尠くとも高麗時代から、大國の支那に服事するを以て天則を奉ずるものと心得て居つたのである。

 所が明治27、28年の日清戰役の結果、支那は始めて朝鮮から手を引くこととなり、續いて日露戰役で、日清戰役後一時朝鮮に勢力を振うた露國も手を引き、かくて朝鮮は完全に我が國の保護の下に立つこととなり、遂に明治43年の併合といふ運命に歸したのである。日本は隨分古くから朝鮮と關係があつたといふ條、その勢力は寧ろ微々たるものであつた。

 神功皇后御征韓後と雖ども、その勢力は廣さに於ても深さに於ても、勿論明治の御世のそれに比すべくもなかつた。要するに朝鮮の併合は、國史あつて以來の偉業で、東洋史の上からいうても、尤も注意すべき大事件の一つと數へねばならぬ。


         三 東亞の霸國

〔東亞の霸國、支那〕
 過去幾千年の間、支那は東亞の霸國であつた。東亞諸國の間に在つては、習慣上支那の君主のみが獨り皇帝と稱して、自餘の君主はこの稱號を遠慮した。
 彼等は皆一等下つた王といふ稱號に滿足して、支那の皇帝から封册を受くるを以て名譽として居つた。勿論我が日本のみはその例外であつた。愛國心強く、國權擁護の念厚き日本人は、常に支那に對して同等の位置を要求した。

 推古天皇の御世、初めて日本の朝廷から隋へ國書を差出した時にも、日出處天子、致二書日沒處天子一とか、東天皇敬白二西皇帝一とか、對等の文句を用ゐて居る。されど支那の方では、殆どすべての場合に於て、日本に對して同等の待遇を與へなんだ。支那と日本と長い通交の割合に、彼此往復した國際文書の多くなかつたのは、かかる障碍があつた結果とも見るべきである。

 歐米諸國と交通が開けてから、第三者たる彼等も、矢張り支那と日本との待遇に就いて、多少區別を設けて居つた。

〔日清戰役〕
 所が日清戰役を界として、日本の位置が高く、その反對に支那の位置が低くなつた。下關條約によつて、二國間の條約は改正せられ、支那は日本に對して、歐米諸國同樣の待遇を與へることとなつた。即ち不對等條約を結ぶこととなつた。第三者たる歐米諸國も亦、次第に日本を支那以上に待遇することとなつた。
 過去幾千年間、東亞の霸國であつた支那は、茲にその位置を日本に讓ることとなつたのである。これも東洋史上より觀て、稀有の大事變といはねばならぬ。


         四 世界の一等國

〔東亞の霸者〕
 日清戰役によつて、東亞の霸者となつた我が國は、日露戰役によつて、更に世界の一等國に列することとなつた。過去に於てあらゆる世界の問題は、歐米列強のみによつて決定された。東亞問題に就いても、日本や支那は、殆ど何等の發言權を有することも出來ず、すべて英露諸國の意志の儘に決定されたのである。

〔三國干渉、そして日英同盟〕 
 日清戰役によつて、我が國の位置の高まつたといふ條、これは東亞諸國に對してのこと、三國干渉の發頭人なる露國が、わが國の遼東還附後3年ならざるに、厚顏にも支那に迫つて旅順・大連を租借した時、わが國からは抗議すらなし得なかつたのである。

 明治35年に結ばれた日英同盟によつて、我が國の位置の高さを加へたことは申す迄もない。世界の大國で、しかも久しく名譽の孤立を守つて居つた英國が、異人種異宗教の日本と同盟を結んだことは、隨分當時の世間を驚かしたものである。
これは勿論我國にそれだけの實力あつたからではあるが、率先してその實力を認めてくれた英國の好意は、十分感謝すべきことと思ふ。

〔列国との条約締結〕
 日露戰役後は、英國以外の列強も、流石に日本の實力を度外視する譯にはいかぬ。東アジアに領土を有する大強國は、何れも日本と好意を通じ、各自の植民地又は領土の安全を圖ることとなつた。かくて日佛協約(40年6月)、日露協約(47年7月)、日米覺書(41年11年12月)が、相前後して締結された。

 これは我が國を除外しては、東亞の平和の保障の出來ぬ證據で、現在及び將來列強の活動舞臺たるべき太平洋方面では、日本國の發言權が最も尊重されることとなつた。從つて世界の國際上でも、一等國の待遇を受けることとなつた。有色人種で、國際上白人種の大國と同一の待遇を受くることは、勿論過去の世界の歴史に於ても、稀有の事實である。

 

         五 文化の輸出 

〔支那の革新は日本を手本〕
 我が國が支那と通交して以來、支那の文化を輸入するのみで、一度も日本から支那へ文化を輸出したことがない。所が日清戰役後は、この天荒を破つて、あらゆる文化が日本から支那へ輸出されることとなつた。流石さすが因循姑息の支那も、日清戰役の大打撃に目を覺まし、變法自強の語が朝野を風靡し、すべての革新は日本を手本とすることとなつた。

 制度・文物・學術・教育等、皆日本のそれを輸入する。たとひ歐米の文明や文化でも、一度同文同種の日本を經由したものを採用するのが、歐米から直接輸入するより、危險少くて便益多しといふのが、支那人多數の意見であつた。

〔留学生の来日、漢字の逆輸入〕
 そこで夥多(註、カタ、おびただしく多い。)の留學生をも送れば、幾多の日本教習をも迎へる。一時わが國へ來た支那留學生の數は萬を超え、彼地に傭聘(註、ヨウヘイ、礼を尽くして雇う。)された日本教習の數は、五百以上もあつた。

 漢字すら日本から逆輸入した方が歡迎される。團體・代表・膨脹・舞臺・社會・組織・機關・犧牲・影響・報告・困難・目的・運動等の文字は、支那の新聞や雜誌に普通に散見するが、此等の熟字は何れも日清戰役後に、日本から輸入されたものである。

 保守的な支那人は、かかる雅馴(註、ガジュン、ことば使いが正しいこと。)ならざる熟字を排斥せんと計畫したこともあるが、すべて無效であつた。支那人の中には更に進んで、株式とか手續とか、組合とか取締とか黒幕などいふ、恐れ入つた熟字迄も使用する者がある。
 此等の所謂新名詞は、最初日本から歸つた留學生などが輸入したのであらうが、當世振る支那人は、頻(シキリ)に之を歡迎して、新知識顏をするのである。近頃出來た新字典などには、從來支那では曾て使用されたことのない、日本の漢字までも網羅して居る。

 支那の御國自慢には必ず出て來る孔子、その孔子を尊崇することすら、日本の影響で、日本維新の鴻業は儒教に負ふ所が多い。故に日本は盛に孔子の學を講じて居る。日本の強大にならはんには、必ず孔子の學を尊ばざるべからずといふのが、心ある支那人の意見であつた。

 そこで明治39年に、從來中祀とて、二等祭祀の待遇を受けて居つた孔子の祭典を、急に大祀に昇格させ、天地・宗廟と同等の待遇をすることとなつた。

〔大和魂まで輸入した支那〕
 ずつと變つた方面では、日本から大和魂まで輸入して居る。日本が往古盛に支那の文明を輸入した時代でも、和魂漢才とて、國魂だけは決して支那の厄介にならなかつたが、支那ではその國魂までも日本から輸入して居る。支那の先覺者の中には、日本の強大なるは大和魂の御蔭である。
 中國の衰弱不振は中國魂なきによる。中國今日の急務は中國魂を製造するに在ると絶叫した者もある。國魂といふ文字も、勿論日本から輸入した新名詞である。


         六 アジア人の覺醒 

〔白人種の跋扈、圧迫〕
 我が國の發展が世界に及ぼした影響の尤も顯著なるものの一つは、アジア人の覺醒を促したことである。一體この三百餘年間は、白人種の得意跋扈時代であつた。
 彼等は到る處に占領地を作り、殖民地を建て、全世界を擧げて彼等の勢力の下に置き、白人種にあらざれば、殆ど人間にあらずといふ有樣を呈した。アジアの如きも、印度・ビルマは英國に、シベリア・中央アジアは露國に、後印度の大部は佛國の手に落ち、餘す所の支那やペルシアやシャム等も、白人種の壓迫に苦しんで居る。唯一の例外たる我が日本と雖ども、全くはその壓迫から離脱し得なかつたのである。

 アジア人も白人の壓迫に對して、萬斛(註、バンコク、非常に多くの量。)の不平を抱いて居るが、然し彼等は到底白人には抵抗不可能と信じて、その自然の運命に服從いたし、白人は又劣等と信ぜるアジアの黄人種を支配するのは、その當然の權利の如く心得て居つた。
 かかる事情の下に、僅少なる白人が、多數の黄人を容易に統治して行くことが出來たのである。所が日露戰爭は從來のレコードを破つた。

〔日露戦役の勝利〕
 日露兩國は種々なる點に於て、奇妙なる對照を有して居る。從つてその戰役の結果は、種々なる方面に影響を及ぼして居るが、中に就いて、アジアの一小國が、その幾十倍もある白人の大強國―數ある白人の強國の中でも尤も跋扈を極めた大強國―と戰ひ、見事之を打ち破つて、兜を脱がしめたといふ事實は、全アジア人に餘程深刻なる印象を與へた。

 黄人も努力如何によつては、隨分白人の壓迫を脱することが出來る。否更に一歩を進め、白人に對して痛快なる復讐をも成し遂げ得らるるといふ、實例を目前に示されたのである。

〔活動写真〕
 日露戰役の數年前から、活動寫眞が次第に世間に持て囃されて來た。日露戰役はこの活動寫眞にとつて、好箇の映寫物となつた。日露戰役の當時から、爾後三四年間は、この戰役の活動寫眞が、アジア大陸到る處で空前の歡迎を受けた。
 印度人・ビルマ人・シャム人・安南人・支那人・南洋人等は、何れもこの活動寫眞―實際以上に露軍敗亡の有樣を映寫してある―を見物して、數十百年來の溜飮を下げた。

 活動寫眞によつて、不樣な露軍の敗走を見ると、自然彼等の腦裡に、白人の威光が薄らいで行く。白人も不可敵でないと知ると、之に對する反抗心が頭を擡げて來る。かくて汎アジア主義が、次第に東洋の天地に彌蔓して來た。

〔インド人の獨立思想〕
 英人の管下にある印度人の獨立思想も、この時から一層熱列を加へ、英人も之を抑壓するに頗る困難を感じた。
 そこで日英同盟によつて、日本の勃興を助けた英國の政策は、果して英人の利益であつたであらうかと、同盟の價値に就いて疑惑を挾む者も出來た程である。
 佛領後印度にも、同樣不安の状態が起つた。フランスがこの地方を占領して以來、日露戰役直後ほど、安南人の人氣の荒立つたことはないと傳へられて居る。

〔アジア人のアジアといふ思想の勃興〕
 このアジア人のアジアといふ思想の勃興には、アジアに領土を持つて居る白人一同に閉口した。
彼等は日本人がやがて黄人種の先達となり、黄人種の大同團結を作つて、白人驅逐を試みるであらう。多數の黄人に少數の白人では、その結果恐るべきものがある。過去に於て白人が黄人に壓迫征服された場合が多い。かかる時代が或は再出するかも知れぬとて、今迄見縊り過ぎた反動で、實際以上に黄人に對して警戒を加へることとなつた。

〔支那人が一番覺醒〕
 アジア人の中でも、支那人が一番覺醒して來たかの如く思はれた。日清戰役後支那人の間に、變法自強といふ新機運が開けて、事毎に日本を模範とすることとなつたといふ條、彼等は未だ十分に日本の實力を理會せなんだ。
 日本は東洋でこそ強國であるが、世界の舞臺に出ては、とても歐米列強と肩を並べられぬもの、まして露國に對しては、足許へも寄られぬものと信じて居つた。

 所が日露戰役で、日本が彼等支那人の間に、世界第一の強國と確信されて居つた露國を打ち倒したのであるから、彼等は今更ながら、日本の國力の強大なるに驚嘆し、愈々 變法自強の急務なることを自覺した。日露戰役後に於ける支那の革新は、隨分目覺しいものであつた。日本は立憲國で勝ち、露國は專制國で負けた。

 中國も日本の如く立憲制を採らねばならぬとて、やがて立憲の準備にかかる。 日本は國民一致して勝ち、露國は國民雜多にして一致を缺きし故敗れた。中國も滿・漢の區別を撤廢せなければならぬとて、やがて均平滿漢の上諭―滿漢の區別を撤廢せんとする試は、日露戰役前から幾分行はれて居つたが―が發布された。
 其他學校教育の普及とか、新式陸軍の増加とか、すべて此等の革新的計畫は頗る大袈裟で、然も直間接に多く日本人の補助を受けたのであるから、尠からず歐米人の耳目を聳かさせた。
彼等はアジア人の覺醒を重大視する餘り、盛に黄禍論を唱へ出した。

〔黄禍論の勃興〕
 黄禍論は勿論日露戰役以前から、已に白人間に唱道されて居つた。黄禍といふ文字も、日清戰役の頃から使用されてをつた。日清戰役の終期、三國干渉の起らんとする前後に、ドイツのカイゼルからロシアのツアールに贈つた一幅の寓意畫――東洋の佛教國の前進を、耶蘇教國が一致して防禦せんとする――の標題が黄禍であつた。

 この時以來黄禍といふ文字は、盛に使用されることとなつたが、實際の處當時日本は三國干渉の爲に大頓挫を受けて居る。支那は日清戰役の敗亡に續いて、列強から要害の地を租借せられ、或は擧國瓜分の厄に罹らんとする形勢であつた。
 黄禍といふ文字こそ新聞・雜誌又は書物に疊見すれ、當時眞面目に黄禍の實現を信じた人は、甚だ多くなかつた樣である。

〔世界史上稀有の大事件〕
 黄禍論は畢竟一種の杞憂に過ぎずと見做されて居つた。所が明治37、38年の日露戰役後から、黄禍論は始めて世界的問題となり、歐米人も眞面目にこの論に耳を傾くることとなつた。
 等しく黄禍論といふ條、或は日本を問題の中心とする者もある。或は支那を黄禍の中心とするものもある。或は經濟の方面より觀察を下すものもある。或は軍事の方面より觀察するものもある。
 解釋の仕方は一樣ではないが、そは兔に角、アジア人の覺醒と共に、黄禍論の重大視さるるに至つたのは、爭ふ可らざる事實である。而して此等の事實は、東洋史は勿論、世界史の上より觀ても、稀有の大事件といはねばならぬ。


 以上數へ來た五項のうち、どの一項をとつても、國史上空前の大事業で、又東洋史上、否或者は世界史上より觀ても、稀有の大事件である。然るに此等の大事業大事件が、明治一代、殊に最後の20年の間に、成し遂げられたのであるから、世界を擧げて、明治時代に於ける日本の發展を神業とし、奇蹟とするのも、無理ならぬ次第である。

 

         七 
 

〔二つの國民性〕
 我が日本人は顯著なる二つの國民性をもつて居る。一つは皇室に對する忠義心の厚いこと、即ち忠君、今一つは國權擁護若くは擴張の念の強いこと、即ち愛國である。忠君・愛國の二精神は、わが建國以來の歴史を一貫して居る。

 愛國の方は對外硬の精神となつて表はれて居る場合が多い。名實共に獨立の體面を毀損せぬことが、立國第一の必要條件となつて居る。先づ支那に對しては既に申述べた如く、隋・唐と交通開始の當時から、對外硬といふ主義を發揮して居る。

 我が國と外國との間に往復すべき、國際文書に關する慣例を書いたものに、異國牒状事といふ文書がある。前田侯爵の所藏で、史學會から發行された『征戰偉蹟』の中に收められ、和田英松氏がこの文書に解説を附けて居る。

 これは朝廷の御威光の衰へ切つた、足利時代の初期に出來たものであるさうだが、これにも支那から、天子又は皇帝等同等の稱號を用ゐてある文書を送れば、受取るけれど、國王など書いた文書は、決して受附けぬ。受取つても返事を出さぬが慣例となつて居る。世界を統一せん勢あつた蒙古に對してすら、我が國では對等の位置を固守して、一歩も讓らない。弘安の役は之が爲に起つたともいへる。

〔乃木大將と共に有名になつた『中朝事實』〕
 乃木大將と共に有名になつた『中朝事實』といふ書物があるが、之は山鹿素行先生の著で、中朝とは我が日本を指したものである。又水戸藩で編纂した『大日本史』には、支那を諸蕃傳に列してある。

 古來支那以外の東亞の國で、中朝と稱したものはない。支那を諸蕃扱にしたものは、尚更見當らぬ。併し日本人の立場からいへば、支那が中國と稱する以上、日本も中朝と稱すべきである。支那の歴史に日本を東夷傳に入るる以上、日本の歴史に支那を諸蕃傳に列して、不思議はないのである。
一寸とした書物の標題や體裁にまで、對外硬の主義を發揮して居る。

〔對朝鮮、征韓論〕
 朝鮮に對してはさきに述べたるが如く、神功皇后の御雄圖も、欽明天皇の御世前後に衰へて、朝鮮に於ける我が宗主權は一旦失はれたけれども、以前の關係から、我が國では決して朝鮮と同等の交際はいたさぬ。
 例の異國牒状事に據ると、朝鮮と日本との關係が絶えた後でも、日本の君主は天皇、朝鮮の君主は王と稱すべき慣例で、この慣例を無視した文書は、我が國で受取らぬこととなつて居る。この考が始終日本人の腦裡に殘つて居る。

 徳川時代に國學が盛になつてから、日本の古代の歴史が研究されると共に、この考が一層強きを加へる。明治維新後、朝野の大問題となつた征韓論も、ここに間接の關係を有することと思ふ。

〔不對等條約の改正〕
 歐米諸國に對しても、徳川幕府の訂結した不對等條約は、その當時から國論を沸騰せしめた。明治の御世に入つても、この不對等なる條約を改めて、國權を擁護することは、擧國一致して熱望した所で、維新以後の外務卿、若くは外務大臣にとつて、條約改正問題は、常にその暗劍殺となつて居つた。

 所が明治の發展によつて、此等新舊の懸案は、皆立派に解決されて居る。日清戰役を界として、日本と支那との位置は轉換し、支那はわが國の下風に甘ずることとなり、日露戰役後は、我が國は世界の一等國に列し、幕末以來引繼いで來た、不對等條約も、この二大戰役の間に於て、大體我が國人の希望の如く改正せられ、朝鮮は明治43年8月に、わが國に併合された。
 建國以來我々の祖先が絶えず心に掛けて來た、國權の擁護又は擴張は、ここに完全に實現された譯で、祖先の神靈も定めて滿足を表して居るに相違ない。

〔開闢以來の果報〕 註、開闢:カイビャク、天地の明けはじめ。天地創造)
 尚又我々が國史を讀んで、神功皇后の御世や、豐太閤の時代に、我が國力の大陸に發展したことを想ふと、實に愉快に堪へぬが、此等の發展に幾十百倍した明治の御世の大發展を、我々の子孫が、遙か後世から如何に愉快に眺めるであらう乎。
 明治の發展は、ただに現代の我々のみに幸した許りでなく、我々の祖先もその慶に頼り、我々の子孫もその徳に浴する譯である。是の如く考へると、我々明治時代に遭逢した者は、實に開闢以來の果報者といはねばならぬ。


         八 

〔日本、新時代の困難〕
 明治時代の發展に遭逢すべき幸運を持つた我々は、同時にこの折角の發展を挫折せしめざるべき、否一層之を助長せしむべき大責任を有することは申す迄もない。然もこの責任を果すことの容易でないことも亦自覺せねばならぬ。

 明治天皇御崩御後間もなく、英國の『タイムス』は、その紙上に、日本の新時代の困難といふ論文を掲載して、主として將來我が國民の精神問題に關して、容易ならざる困難の横たはれることを指摘した。
 ただにこの精神問題ばかりでなく、我が國民の前途には、種々の困難の存することを知らねばならぬ。


〔ルーズヴェルト氏のことば、太平洋問題が二十世紀の大問題〕
 米國の前大統領ルーズヴェルト氏は、嘗て次の如きことをいうた。

 「地中海は曾て列國競爭の舞臺であつたが、新大陸發見と共にその時代は過ぎ去つた。之に代つた大西洋時代は、今日已にその絶頂に達し、やがて、衰微すべき運命を持つて居る。
 次に來るのは太平洋時代で、今や列國の競爭はこの新舞臺に移りつつある。この競爭は前二者に比して、遙に激烈であらう。」

 太平洋の近く世界の競爭場となるべく、太平洋問題が20世紀の大問題たることは、識者の多く一致する所である。太平洋裡に國して居る日本人は、大發憤をせなければならぬ。

〔明治天皇の御製〕
   明治天皇の御製に、
     四方の海皆同胞と思ふ世に、など風波の立騷ぐらん。

 とある如く、我々は平和主義を尊重し、四海同胞主義を固守するとしても、何時風波が起らぬとも限らぬ。
一旦風波が起れば、必ずその中心に當るべき太平洋裡に國して居る我々日本人は、不斷の用意だけはして置かねばならぬ。

 吾が輩は大正の年號について、一個の解釋を有して居る。今囘もこの大正の年號の解釋を其儘、我が國民將來の方針に應用したいと思ふ。
 大正の字面は『易』の大畜の卦から出て居る。
  大畜の卦に、
    大畜剛健篤實、……日新二其徳一、……能止健、大正也。
  とある。

 大畜の卦は元來乾下艮上大畜とも、山天大畜ともいひ、天を代表する乾と、山を代表する艮との二單卦を重ねたものである。乾の卦は陽爻(註、爻:コウ、易の卦を組み立てているもの。)のみより成立して居る故に、至健至剛である。乾は又健と通ず。乾の象は天である。天は四時の別なく絶えず運行して居る。故に天行健といふ。乾は要するに一日も油斷なく進取する義がある。日新二其徳一といふのはこの事である。

 大畜艮の卦は弱柔な陰爻の上を、剛健なる陽爻が抑へ付けて居る。從つて内に抑へて外に出ささぬから、艮に止とどむるの訓がある。
 艮の象は山である。山は萬物を貯藏する處である。艮は要するに物を保存する義をもつて居る。乾と艮とを合せた大畜の卦には、他の善き所を採り、我が善き所を守りて、實力を蓄積すべき意味が含まれて居る。
 是故に大正とは、一面力めて世界の新知識新文化を求めて、これ日も足らざるが如く努力しつつ、一面では我が國古來の善美なる國體・國粹を保存し、此の如くして大に國力の充實鞏固を圖る意味である。

〔和魂漢才、和魂洋才〕 
 我が國粹を保存しつつ、外國の文化を採用することは、わが國過去千幾百年の長い歴史を通じて、絶えず實行されて居つて、決して新しい主義でない。そこで和魂漢才といふ言葉がある。
 菅公の頃から始まつた言葉であるが、この主義は菅公以前から夙に實行され、明治の御世となつては、同じ和魂洋才主義が實行された。
 國家も生物と同じく、適者が生存するのである。我が國が建國以來連綿として今日に至るまで、常に適者の位置に立つことが出來たのは、和魂漢才若くは和魂洋才主義の御蔭である。大正の新時代も、やはりこの主義を遵奉するのが安全である。
 我が國の過去の歴史を觀れば、將來採るべき方針も、自然に理會されるのである。歴史を鑑といふのは是處のことで、温故知新は此の如くして活用すべきである。

〔小成に安ずるなく、不斷の努力〕
 要するに我が國民は、決して小成に安ずるなく、不斷の努力によつて、明治の發展を一層向上せしめねばならぬ。これが尤も明治天皇の御心にも協ひ、又今上陛下に對して、尤も忠義なる所以であらうと恐察するのである。

   (大正二年八月『太陽』第十九卷第一一號所載) 


津田左右吉 『日本歴史の特性』

2021-12-26 09:31:51 | 作家・思想家

   


 津田左右吉 『日本歴史の特性』

 日本の歴史の特性ということを話そうとすれば、つまりは日本の歴史そのものを話さねばならぬことになる。日本の歴史の特性は、全体としての日本の民族生活の歴史的発展の上にあらわれているものであり、そうして、その民族生活にも、その発展のすがたにも、いろいろの方面があって、しかもそれらが互にはたらきあって一つの生活となりその発展となるものだからである。
 
 けれども、ここでそういう話をするわけにはゆかないから、日本の民族生活の発展のありさまにおいて大切だと思われること、著しく目にたつことの、二つ三つをとり出して話してみるより外にしかたはあるまい。しかし、だれにもよく知られていることは、ことさらにいうには及ぶまいから、ここでは、大せつなことでありながら世間ではわりあいに重く見られていないというようなことがらを述べてみようと思う。
 ここに述べることだけが特性であるというのではない。なおここでいうのは主として文化史の側面においてであることをも、あらかじめおことわりしておく。

〔日本の歴史は
   日本民族全体のはたらきによって発展して来た〕
 そこで、第一に考えられるのは、日本の歴史は日本民族全体のはたらきによって発展して来たということである。それには、中央の権力者に対する意味での地方人のはたらきと、上流人に対する意味での民衆のそれと、の二つにわけて考えることが一ととおりはできると思うから、まずはじめの方のからいってみることにする。


 遠いむかしに日本の民族が一つの国家として政治的に統一せられた後も、地方にはクニノキミ(国造)アガタヌシ(県主)などといわれていた豪族が、それぞれ土地と民衆とをもっていたので、富は地方に蓄わえられていた。またナカトミ氏とかオオトモ氏とかモノノベ氏とかいうようなトモノキミ(伴造)の家、またはそれと同じような地位にある朝廷の貴族も、あちこちの地方にそれぞれ領土人民(部)があって、そこから入って来る租税などによって生活していたから、経済的の根拠はみな地方にあった。 

 トモノキミの部下となって地方地方の領土人民をあずかっていたものは、それぞれの土地の豪族であって、かれらにはクニノキミやアガタヌシと肩をならべるほどの力があったように見える。(国造伴造と書かれたことばはクニノキミとトモノキミとであって、クニノミヤツコまたトモノミヤツコという風にこの文字を読んで来たのは、まちがいだろうと思われる。氏々のカバネとしての造もまたキミの語を写したものであろう。)


 地方の豪族はこういうようにして富をもち経済力をもっていたと共に、むかしはツクシ(筑紫)人が朝鮮半島のシナの領土(楽浪郡または帯方郡)へゆききして持って帰った工芸品の類をいろいろのしかたで手に入れていたし、ヤマトの朝廷がクダラ(百済)から、またそこをとおしてシナの南朝方面から、工芸品や技術や知識やをとり入れるようになると、それらもまた次第に彼らの間にゆきわたっていったらしい。

 どこの地方にも大きな古墳があることは、彼らの富と文化とを示すものであろう。いわゆる大化の改新によって中央集権の制度がまだうちたてられなかった前とても、中央と地方とは、朝廷のトモノキミなどの貴族とその領民及びそれを支配していた豪族とのつながりを中心として、かなり固くむすびつけられていたのと、地方の豪族が経済力をもっていたのと、この二つの事情のために地方の文化も中央にひどく劣ってはいなかったのである。
 そうして、そういう富と文化とをもっていた地方の力が全体としての日本民族のはたらきのもととなっていたのである。


 大化の改新によって糸口が開かれ、令(いわゆる近江令など)がきめられたことによって、ひととおりできあがった政治上の新しい制度は、大体から見ると、いわゆる中央集権であるし、そういう制度が定められたにつれて、シナの学問や技芸やシナ化せられた仏教がますます多くとり入れられ、そうしてそれのどれもが先ず朝廷とそのまわりとに根をおろしたのであるから、これから後は、政治上経済上の力もまた文化も中央に集まり、従って中央がすべての民族のはたらきのもとになったように見える。

 事実、一ととおりは、そういってもよいありさまとなった。けれども、むかしからの地方の豪族ははじめのうちは新しい制度での郡司などになって、ほぼその地位を保っていたので、よしそういう家には長い間に地位や勢力を失ってゆくものがあったとしても、衰えるものがあれば新しく興るものも生じたに違いないから、豪族のようなものがあるということは、さして変らなかったであろう。


 また後にいうように、シナのを学んだ制度は日本の民族生活にはあてはまらないことが多かったので、それがために、年がたつにつれていろいろの方面から、事実上、制度をくずしてゆくようになり、その一つのあらわれとして、中央の貴族も地方に多くの領土人民をもつことになって、普通に荘園といわれているようなものがおいおいできてゆき、それにからまって新しい豪族の地方に生れて来る道が開かれもした。

〔武士の勃興〕
 それと共に、中央集権の制度は中央の文化を地方の豪族などの間にひろげてゆくはたらきをしたので、地方の文化もだんだん進んで来た。これらの点では大化改新の前のに似よったありさまが次第に現われて来たのである。もっとも地方の富は半ばは中央の貴族の生活の経済的根拠となったのであるが、地方にそういう根拠があるということは、地方そのものに力があるということであるから、時勢の動きかたによっては、地方が中央を動かすようなありさまともなり得る力がそこに潜んでいたのである。

 ところが、別の事情から武士というものが地方に興って来て、彼らの武力が、中央政府の政権をはたらかせるためにも、貴族の地位と勢力とをささえてゆくためにも、なくてはならぬものになってゆき、そうしてそういう武士のはたらきと上に述べたような経済上のありさまとは互にからみあっていたので、武士の首領だったものは地方の豪族であった。 

 こういう武士が長い年月の間にだんだん勢力を得て、しまいにはそのうちから全国の武士の首領となるものが生じ、それが政権を握るようになったのが、いわゆる武家の政治であるが、その政権の基礎は各地方の武士であり、武士の領土、従ってその富の力であった。だから、武家政府の地方武士に対する統率力が弱くなると、武士がそれぞれ自由の行動をとることになり、その勢のおしつまったのが戦国の世である。そうしてその戦国割拠のありさまをそのまま固定させたのが、江戸時代になってできあがったいわゆる封建制度、即ち多数の大名が地方においてそれぞれ世襲の領土民衆を与えられている制度、である。


 この封建制度は、自由な行動のできないように巧なしかたで諸大名をしばりつけておいたところに、徳川幕府の強い権力のはたらいているものではあったが、大名はそれぞれの領地に富と武力とをもっていたし、その城下はおのずから地方的文化の中心ともなっていたのであるから、幕府の置かれた江戸にすべての力とはたらきとが集中せられていたのではない。
 特に大阪をはじめとして各地方に純粋な商業都市さえもあって、富と経済力とがそこに蓄えられ、または盛さかんなはたらきをしたし、また名高い学者がそれぞれ郷里にいて、そこへ全国からの学生をひきよせたような例もある。

 だから、江戸時代の日本の民族的のはたらきは、全国的に行われたのである。もともと封建制度は一方では民族の力を地方的に分散させるものではあるけれども、それと共に他方では、一つの大名ごとにそれぞれの団結を作らせ、まとまったはたらきをさせるものであるから、一つの意味においては、全民族の団結を作りあげる下地ともなるものである。

 全民族の団結ができる一つの事情として、地方的団結の精神が全民族におしひろげられるということが考え得られるからである。明治の国家的統一にはこういう事情のあったことに気をつけねばならぬ。

 封建制度には、よくないはたらきをする一面もあって、それはその制度のなくなった後までも残っているが、よいはたらきをする一面のあることをも忘れてはならぬ。(ここに封建制度ということばを用いたのは、上に述べたような意味でのことであって、それがこの言葉のもとの意義である。近ごろは或る特定の社会組織または経済機構を封建制度の名でいいあらわすことが多いようであるが、それは実は封建ということばにはあてはまらぬことである。)

〔民衆のはたらき〕
 次には民衆のはたらきである。民衆の力が著しく現われたのは、武士が働くようになってからのことであって、一般の武士は政治上の地位からいうと、民衆の側にあるもの、あるいはむしろ民衆なのである。武士の重だったものは地方の豪族であったが、それはやはりその土地土地における民衆の首領ともいうべきものであった。

 だから、この意味においては、武士の働きは即ち民衆の働きなのである。武士のしごとである戦いは、いろいろの仕方においてではあるが、つまるところこういう民衆の力によって行われたといってもよい。

 のみならず、戦いがしばしば起り、身分の低い武士が手柄をたてて身分を高めることがあると共に、農民から武士の身分になりあがるものも多く、そうしてまたそれがてがら次第で高い地位を得てゆく。 戦国時代になるとそういうことが一般に行われたらしい。

 戦国時代は、一面では、武士が城下に集っ
て生活するようになったことに伴って、彼らと農民との身分の違いが明かに立てられた時であるが、それは既に武士となっているものの身分についていわれることであって、武士でなかったものが武士になる場合はいくらでもあり、そこにこういう他の一面もあったのである。

 江戸時代になって世の中が固まると、武士の身分もまたはっきりときめられ、いわゆる百姓町人との区別が明かにせられたけれども、やはりその百姓町人から武士になる道はいろいろあって、実際そういうものがかなり多かった。そうして幕府や大名のために役にたつ仕事をしたものには、そういう経歴をもった武士が少なくなかったのである。

〔民衆のはたらきが  歴史の発展と共に次第次第に強くなり、
  彼らみずからの文化が生み出されて来た〕

 さてこれは、武家によって世の中が支配せられていた時代に、政治上社会上の勢力の中心であった武士のしごとにおいて、いかに民衆の力が働いていたか、ということをいったのであるが、一般の文化について、また広い社会のことについていうと、民衆のはたらきが歴史の発展と共に次第次第に強くなって来て、江戸時代になると、その文化は民衆の文化であり、社会を動かす力のもともまた民衆にあった、といってよいありさまになった。

 
 日本全体の経済が商人、即ちいわゆる町人、の手によって動かされていたことはいうまでもなく、大名の財政も商人によってとりまわされた場合が甚だ多かった。従ってまた富の力が町人に集まり、その教養も進み、文芸とか学問とかいう方面も、そのはたらきには町人のあずかるところが多く、特に文芸においては町人が主となっていたといってもよいほどである。

 農民、即ちいわゆる百姓、もまたこの方面に少なからぬ働きをしたのであって、特に学問に志をむけるものは彼らの間に多かった。それは、概していうと、彼らのうちの資産のあるもののことであったが、そういうものとても、政治的地位また社会的職分においては、農民に違いなかったのである。
  昔から日本の文化には民衆のはたらきが少なくなかったので、『万葉』に防人の歌や東歌がのせてあるのでも知られる如く、奈良朝時代でも上流階級の文化が民衆の間にいくらかずつしみこんでゆくようすのあったことは、別問題としても、仏教の僧侶に民衆から身を起したものが多く、そういうありさまがずっと後までもつづいていたことは、見のがすわけにゆかぬ。

 これは、民衆がその力をのばし高い地位を得るには、仏門に入るのがよい方法であったからであり、武士の幅をきかせた世に武士になろうとしたのと同じである。
 江戸時代に農民が学問に志したのも、一つはそれらと同じ理由からでもあるが、しかしこの時代になると、商人はいうまでもなく資産のある農民とても、彼らみずからに社会的の力のあることが自覚せられて来たので、彼らの地位にあり彼らの職分をもちながら、その生活を高めてゆこうとするようになり、そこから彼らみずからの文化が生み出されたのである。


 百姓町人には百姓町人の道徳もあり誇りもある、ということの考えられたのも、武士とは違って百姓町人は権威には屈せぬものだ、ということのいわれたのも、このことと関係がある。彼らのこういう生活の展開は、一面では、封建制度や武士の権力の下において行われたのであるが、他面では、この制度や権力が彼らの生活を抑ええつけ彼らの力を伸ばさせないようにするはたらきをもっていたので、彼ら民衆の働きはおのずからそれらに反抗する精神をもつことになった。
 事実、封建制度と武士の権威とが長い間にだんだんその内部からくずれて来たのは、主としてこういう民衆のはたらきの故であった。そうしてそれによって明治の維新が行われたのである。

〔低い身分の者も力があれば高い地位に上ることができた〕 

 明治になってから貴族や武士とは違った地位にある民衆というものがなくなり、日本民族全体の力とはたらきとによって民族の活動が行われていることは、いうまでもあるまい。
 いわゆる資本主義経済の世になっても、日本にはヨウロッパの社会にあるような階級的対立感が強くならなかったのであるが、これには、低い身分の者も力があれば高い地位に上ることができたというむかしからのならわしが、階級の区別のはっきりしていたヨウロッパのありさまと違っているということが、主な理由であろう。身分が固定しないということは、江戸時代の社会的秩序が維新の変動によって急にくずされたからばかりではない。

 

 民衆が社会的にも文化の上にも大なる働きをしたということは、人が人としてはたらくことができたことを示すものであり、従ってその根本には、人間性ともいうべきものが政治的社会的または宗教的権威によって抑えつけられなかった、という事実がある。そうしてそれは日本の民族生活の長い歴史を通じていつの世にも見られることである。

〔むかしから人間性がひどくおさえつけられるようなことがなかった〕
  日本歴史の特性として第二にいおうとするのは、このことである。日本民族には、われわれに知られるようになった時代においては、むかしから人間性がひどくおさえつけられるようなことがなかった。家族生活においては、子どもが愛せられて、親の自由になるもちもののようには考えられず、女が男と同じ地位をもち、婚姻は概して自由であった。社会制度としても、品もののようにとりあつかわれる奴隷というものがなく、ヤッコ(家つ子)といわれた奴婢はあっても、ヨウロッパにあったような奴隷ではなかった。

 これらは、概していうと、人間がほぼ平等にとりあつかわれていて、権力のあるものがないものをひどくおさえつけるようなならわしのなかったことを示すものであり、そこにいかなる人も人として重んぜられたしるしがある。もっとも、呪術宗教的な信仰として、例えば見知らぬ人を邪霊のついているものとして恐れるような、ならわしのあった点において、人に対する同情というこころもち、従って人を人として重んずる気分、の発達が抑えられていたことを示す一面もあるが、スサノオの命(みこと)のヒノカワカミの物語のように、人を生かすためには宗教上の儀礼をこわしてしまうという他の一面もある。(オロチはこの場合には神である。)

 宗教上の禁忌を犯しても旅人に宿をかしたり思いびとを家に入れたりした話が、『常陸風土記』や『万葉』にあるのも、同じ意味のこととして考えられる。(勿論これは、一般のならわしとして、神を祭り呪術を行うことが重んぜられていたことを、否定するものではない。)

 仏教が入って来ても、人生を苦と観じて解脱を求めるような思想は一般にはうけ入れられず、概していうと、仏は現世の、即ち人間としての、幸福を祈る神として見られていた。また儒家の教が知識としては学ばれても、人間性を抑えつける傾向のあるその一面は、実践的には、全くしりぞけられた。

 具体的に人の行為を規定する儒教の「礼」というものの用いられなかったのも、それとつながりのあることである。例えば、婚姻というものを家に子孫のあるようにし血統をたやさないようにすることを目的とする方法として見るような儒教の思想とそれにもとづいた礼とは、少しもうけ入れられなかった。 

 儒教の婚姻の礼というものを学ぼうとしなかったのは、葬祭の礼が学ばれなかったことと共に、家族制度、家族生活の風習、及びそれに伴うこころもちや考えが、シナ人とは全く違っていたからではあるが、人間性の一つの現われとして両性の間がらを見ていた日本人には、その意味からも儒教の思想と礼とをとり入れることはできなかったのである。

 平安朝の貴族の生活には、すべての方面において特殊の教養があったが、その教養は人間性をゆがめたりおさえつけたりするものではなかった。「あわれ」を知るということが教養の精神であったといってもよかろうが、それは、とりもなおさず、ゆたかな人間性の一つのあらわれである。 

 その「あわれ」を知るにも、貴族的であるということに伴ういろいろの欠点もあったし、また全体に彼らには男性的のつよさやほがらかさやが乏しかったということもあるが、その代り、こまかい感受性をもち、世に立ってゆくについてはかなりに鋭い慧智のはたらきをも具えていた。

 理性は割合に発達せず、呪術としての仏教やいろいろの迷信にとらわれていて、それが人間の道徳性を弱めるはたらきをしたという一面もあるが、それとても上に述べた教養を甚しく妨げるようなことはなかった。

 いろいろのものがたり、特にそれらのうちで最もすぐれた作である『源氏ものがたり』が、人というものをあらゆる方面からこまかく見こまかく写しているところに、人間性を尊重する精神が強くあらわれていることを、考えねばならぬ。

 『大鏡』などに見える人物の描写や批判にも同じ精神が潜んでいる。源平時代から後の武士には、武士の生活によっておのずから養われた特殊の気風があり、戦争という武士のしごとに伴って生じた情を抑えるならわしもその一つであって、これは平安朝の貴族にはなかったことであるが、同じく戦争のならわしから生じたこころもちとして武士の「なさけ」ということが尊ばれ、その点では「あわれ」を知ることを重んずる平安朝貴族の修養と或るむすびつきがあり、いくらかはそれからうけつがれたところもある。

 武士の一面には、その生活と社会的地位とから生ずる粗野なところもあり、特に下級武士、もしくはそれから成り上がったものにおいてそうであるが、その代り、その粗野は、矯飾が伴いがちの修養のない点において、素朴といわるべき半面をもつものであり、そこに却って自由な人間性の新に育て上げられる地盤がある。

 戦乱が長くつづいて古い文化と古い秩序とをうちこわすはたらきの強くなった戦国時代になると、一般に武士の気風のこの一面が著しくなり、それがいくさをするというしごとと戦国という社会情勢とによって、特殊の色あいを帯びながら、あるいは歪められた形となりながら、力強く浮かび上がって来るので、いわゆる桃山時代前後の武士の気風の一面とそれから生まれ出た文芸とは、その最もよき現われである。


 いろいろの俚謡や新しく起った歌舞伎や、さまざまの風俗画などが、その例であって、人としての欲求や情緒が自由なこころもちで表現せられ、従ってまたそれが肯定せられている。こういう気風が、江戸時代になってだんだん固められて来た平和の生活によって精錬せられ、一つの形を具えるようになったのが、元禄の文芸に現われている人間性の高揚である。

 もっとも武士には、いのちをすてて戦場ではたらかねばならぬという、そのしごとの上から来るいろいろの気風があり、特に江戸時代になると、平和の世に戦国武士のこの気風を保たせようとするところから、むりなならわしや道義観念も養われて来たので、それはこういう人間性を抑えつけるものであった。近松の戯曲などに力強く写されているいわゆる義理と人情との衝突がここから生じたのであって、いわゆる義理は武士の道義とせられたものをいうのである。

 しかし、その義理には人情によって緩和せられる一面もあったので、武士の道義は人間性をいじけさせてしまうものではなかった。また道義が宗教の権威によって人に臨むものではなく、社会的風尚によって養われもし保たれもしたということが、一つの意味においては、道義そのものの含む人間性をよく示すものであるともいわれよう。

 日本人の道義観念は、概していうと、宗教とはかかわりがなく発達したものであるので、それは一つは宗教そのものに道義的意義が少ないからのことであるが、武士の道義とてもまた同様であった。

 

 日本民族の人間性とそれを重んずる思想とが、歴史の発展と共に次第にその内容と意味とを豊にし深めも高めもして来たとは、必しもいいがたいかも知れぬが、生活の歴史的変化につれて時代時代に変った姿を現わして来たとは、いい得られよう。いつも何らかの形でそれがはたらいていたのである。

 日本の歴史にはルネサンスのような思想運動の起ったことはなかったが、それも実は、そういう運動の起らねばならなかったようなありさま、人間性をひどく抑えつけた時代がなかったからだ、といってもよかろう。
 仏教が、その教理はともかくも、事実において人間生活を肯定しているものであったことも、考えらるべきである。さて近い時代になって人間性を重んずることがヨウロッパの文化とその精神とを理会することによって大なる助を得たことは、いうまでもあるまい。特に、理性のはたらきの重んぜられも強められもするようになったことにおいて、そうである。

 

〔ほかの民族の文化によって造り出され、とり入れた、ものごととの関係が
    日本の歴史の展開には大なるはたらきをしている〕

 第三にとりあげねばならぬのは、ほかの民族の文化によって造り出された、従って外からとり入れた、ものごとと民族生活とのいろいろの関係が日本の歴史の展開には大なるはたらきをしている、ということである。

 この外からとり入れられたものごとは、むかしにおいてはシナ及びシナをとおしてシナ化せられて入って来たインドのであり、近ごろにおいてはヨウロッパのであるが、シナのとインドのとでは、そのとり入れかたも日本の民族生活におけるそのはたらきも違っているし、むかしのそれらのものと今のヨウロッパのものとの間には、なおさら大きな違いがある。
 
 むかしシナからとり入れたものについていうと、はじめのうちは、それをそのまま学びとろうとする風があったけれども、もともと風土、人種、民俗、そのほか、あらゆる生活のしかたが日本とはまるで違っているシナに起りシナで発達したものごとは、日本の民族生活にはそのままにうけ入れられるものではないから、それが日本の民族生活の内部に何ほどかのはたらきをするようになると、それは既にこの民族生活そのものによって形がかえられ、はたらきがかえられている、というありさまであった。

 あるいはまたそれが民族生活を外からおさえつけるはたらきをした場合には、むしろそれをおしのけて生活の自由を保とうとした。おしのけるについても、おしのける力と働きとには、上に述べたようにして形をかえてしまったシナ伝来のものごとが役に立ってはいるが、ともかくもこの二とおりの筋道があったことは考えられねばならず、それが日本の歴史の展開の大事な姿となっている。

 シナからとり入れたものの第一は文字であるが、シナの文字は音をうつす文字ではなくして、シナのことばのしるしであるから、シナとはことばの性質もくみたても、ことばそのものも、全く違っている日本の言葉を、それでうつすことはできないものである。ところが日本人は、そういう文字を使って日本のことばをうつすことを考えだした。


 その使い方には二つあるので、一つは、日本のことばをくみたてている音と同じ音または似よった音のある文字をとって、それによって日本のことばをうつすのである。これがいわゆる仮名であって、文字の意義をすてて音だけをとった、いいかえるとシナの言葉のしるしである文字を音のしるしとして用いたのである。日本とシナとのことばは違うが、言葉をくみたてる音には似よったものがあるから、こういうことができたのである。ハルということばを波留と書くようなのがそれである。

 次には日本の言葉と似よった意義をもつシナの言葉をうつした文字をつかうことであって、ハルを春と書くようなのがそれである。これは文字の音をすて意義だけをとったのであって、その意義を日本の言葉でいいあらわすことを訓といっていた。

 こういう二つの仕方で、シナの文字を用いて日本の言葉をうつしたのである。そうしてこの第一の仕方からカタカナ及びヒラガナ、即ち日本の音をうつした日本の文字、が作り出されるようになったのである。そこで日本の言葉をうつすには、シナの文字の必要がなくなったはずであるが、しかしシナの文字を訓によってつかう昔からのならわしもなくなりはせず、また単語としてはシナの言葉をそのままにとり、従って音と意義との両方を併せ用いるシナ文字の使い方も行われたのである。

 けれども、ともかくもシナの文字から日本の文字をつくり出し、それによって日本の言葉をうつすようになったことは、明かであり、そうしてそれによって日本の文学がはじめて大に発展することができるようになった。いわゆる漢文や漢詩を作ることも行われたが、それとても口にいい耳にきくシナの言葉で文をつづり詩を作るのではなく、文字に写されたシナの文や詩によって、言葉、むしろ文字、のならべかたを真似たのみであり、作るにも読むにも、ほぼ日本の言葉になおしてするのであるから、それは見た目にシナの文や詩のような感じがするのみであって、ことばとしては漢文でも漢詩でもない。

 本当の日本の言葉にはなっていないにしても、シナの文や詩では決してない。こういうようなシナの文字シナの文や詩の取り扱いかたは、どの民族にも類のない日本人だけのことである。

 カナ文字を作ったことは、日本民族がシナからとり入れたものを材料として、日本人の生活を発展させるに必要な、そうしてもとの材料とは全く違ったものを新に作り出した一つの例であるが、美術または工芸などの方面にも、これに似たことがある。

 例えば日本の画はシナの画の技術を学ぶことから出発したものながら、もとのシナの画とははるかに違った、日本人でなければ作られない、画になっている。いわゆる大和絵とか、宗達光琳などの作品とか、そういうものは、シナ人には作り得られないものである。しかし、シナからとり入れたものがあまりに現実の民族生活にあてはまらないものは、一とたびそれを学んでも、しまいにはとりのけてしまうし、あるいは知識としてもっているだけで実生活には入りこませない。

 令できめられた制度において唐令から学ばれたものは、前の例であって、儒教道徳の教の如きは、後の例である。これらのことについては、『支那思想と日本』のうちにも述べておいたから、今それをくりかえさなくてもよかろう。

 また日本に入って来た仏教は、シナ化せられてはいるけれども、その根本に世界性があるのと、寺院があり仏像がありいろいろの儀礼が行われるのとで、シナに特殊な民族生活から離れることのできない儒教の思想がただ知識として学問として書物によってのみ伝えられたのとは違い、だんだん日本の民族生活に入りこんで来て、それにいろいろのはたらきをするようになった。

 けれども、日本の民族生活に入りこんで来ると、仏教そのものがインドのともシナのとも違ったものとなり、そこに日本の仏教が形づくられるようになって来た。仏教によって民族生活が変化をうけるよりも、民族生活によって仏教が変化したというべきであろう。

 外からうけ入れたものごとと民族生活との関係には、こういういろいろの筋道があったが、いずれにしても外から入って来たものがそのままの形では大きな働きをしなかった。日本の民族生活はそれらからいろいろのものを受け入れつつ発展して来たのではあるが、生活そのものはインドのはもとよりのこと、シナのとも同じところがあるようにはならず、全く独自の生活を発展させて来たのである。 

 これはもともと日本の民族生活とシナ(またはインド)のそれとが全く違ったものであり、それと共に日本人はシナ人(またはインド人)とは離れて日本人だけの世界で生活をしていたためであろう。日本にとり入れられたシナの物事がシナの民族生活に特殊なものであって世界性をもっていないことも、またこのことについて大きな意味をもっている。


〔日本民族は近代に至ってヨウロッパに発達したものごとをいろいろ受け入れた〕 
 ところが、こういう歴史をもっている日本民族は近代に至ってヨウロッパに発達したものごとをいろいろ受け入れた。その最も著しいものは自然科学とその応用とであって、これは今日の日本の民族生活のあらゆる方面にゆきわたっている。それによって昔とは違った生活が展開せられ、その生活から新しい精神も道徳も形づくられてゆく。これがなくては日本の民族生活が忽ちとまるか くずれるかしてしまう。のみならず、同じ科学的な、即ち論理的実証的な、ものごとの考えかたから生じたいわゆる人文科学が自然科学と並んで今日の日本の学問となっているし、現実の民族生活を批判しそれを導いてゆくのも、またこの科学的方法によって形づくられる思想なのである。

 そうしてこの科学、特に自然科学とその応用とは、世界性をもっているものであるから、その点では日本人の生活と日本人のはたらきとは世界に共通なものである。学問の世界においても、科学とその方法とには或る限界のあることが考えられねばならず、現実の生活を支配するものが科学のみでないことも明かであるが、科学が大きい働きをしていることはいうまでもなく、そうして日本の民族生活はどの方面でもそのはたらきをうけていないものはない。


 科学とは反対な性質をもっている文芸とても、同じことである。そうしてその科学はもともとヨウロッパからとり入れられたものである。さすれば、近代になってヨウロッパからとり入れたものごとは、日本の民族生活そのものを変化させたのであり、それによって変化したのが今日の生活である。これは現代において世界が一つになって来たと共に、日本民族の生活が世界性をもって来たからである。むかし別の世界のシナからシナ民族の生活に特殊ないろいろのものをとり入れたのとは、その意味が全く違う。
(外からとり入れたというだけのことでこの二つの場合を同じように見てはならぬ。)


〔内部に民族のちがいとか征服、被征服がなく
  生活を発展させるために必要なものを外からとり入れることを怠らなかった〕

 もっとも一方では、科学を取り扱う仕方に日本の民族性が働くのであるが、それは科学そのものの性質をかえることではない。またこういう意味で日本の民族生活が世界性をもって来たということは、日本の民族の生活がすべての方面においてヨウロッパのいろいろの民族のそれと同じになったというのでないことは勿論であるが、ヨウロッパからとり入れたものが、今日の日本の民族生活のすべての方面に大きな働きをしていることは、疑いがない。

そうしてそこに、日本の民族が世界に向ってはたらきかけることの根拠がある。これは日本の歴史においてはじめて現われたことである。

 日本の歴史において著しく目にたつことは何であるかと考えてみて、これまで述べて来た三つが思いうかべられたのであるが、これらはもともと別々のことではなく、いずれも日本の民族生活のあらわれであり、その生活の発展の三つのすがたともいうべきものである。

 三つの間の互いの関係は、上に述べたところによっておのずから知られたであろうと思うが、そのすべてをつらぬくもの、三つの姿となって現われたそのもととなるものは、日本民族が絶えず自らの生活を豊にしてゆき高めてゆこうとし、妨げをするものがあればそれと戦ってそれをうち破り、役に立つものがあればそれをとり入れそれを用い、そうすることによって、絶えず生活を新にしてゆこうとして来た生活そのものの力であり、はたらきである。
 ただ昔においては、民族全体がそのときどきの情勢に応じて、全体としての生活の或る目じるしをもち、或る方向を定めて動いてゆくというようなことはなく、多くの場合では、一人一人が一人一人の生活についてはたらかせる上に述べたような力が、おのずから結びあわされ、自ずからはたらきあうことによって、全体の民族の力と働きとになったのであるが、これはむかしにおいては日本民族の働きが今日のように世界的でなく、多くの民族の間にたって日本人全体が一つの民族として働くということがなかったため、従ってまた民族意識が今日ほど強くもはっきりもしていなかったからである。

 しかしすべてが民族みずからの生活の力でありはたらきであることは、明かである。こういう生活の力の強く、はたらきの盛んであるのが、日本民族であり、日本民族の歴史はそれによって展開せられて来たのである。 日本民族がたえず現在のありさまにあきたらず、自分らの生活を抑えつけたりしばりつけたりするものをうち破って、その間から新しい生活の道を見いだし新しい生活を造り出してゆこうとしてはたらいた、その働きによって日本の歴史が形づくられて来たのである。

 日本の歴史は、その主体が日本民族という一つの民族である点において、一つの生命の展開であると共に、それが展開である点において、生活の姿はたえず新しくなりたえず変ることを意味するものである。日本民族のみに限らず、すべて歴史が一つの歴史であるということは、歴史のはじめにおいて形づくられていたものが後の後までもそのままの形で残っている、というようなことではない。

 もしそこに変らない何ものかがあるとするならば、それはたえず変ってゆく生活に順応してそのはたらきが変ってゆくからであり、そう変ってゆくところに歴史の展開があるのである。そうして日本においては、日本人が一つの民族であって、その内部に民族のちがいとか征服したものとせられたものとの区別とかいうことから生ずる争いというようなものがなかったと共に、生活の力が盛んであって、その生活を発展させるために必要なものを外からとり入れることを怠らなかったところに、かかる歴史の展開の意味と精神とがある。

 上に述べた三つのことがらも、それから生じたこと、またはその精神のあらわれである。

 

    初出:「学生と歴史 第二版」日本評論社 1946(昭和21)年11月 



津田左右吉 『日本精神について』

2021-12-25 19:51:40 | 作家・思想家

津田左右吉 「 建国の事情と万世一系の思想」 二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情  

2021-12-25 19:50:37 | 作家・思想家

  


  津田左右吉 「 建国の事情と万世一系の思想」 
                   上代における国家統一の情勢
の続き

 

二 万世一系の皇室という観念の生じ、
          また発達した歴史的事情 


〔天皇はおのずから「悪をなさざる」地位にいられたこと〕

 さて、こういうようないろいろの事情にも助けられて、皇室は皇室として長く続いて来たのであるが、これだけ続いて来ると、その続いて来た事実が皇室の本質として見られ、皇室は本来長く続くべきものであると考えられるようになる。
 皇室が遠い過去からの存在であって、その起源などの知られなくなっていたことが、その存在を自然のことのように、あるいは皇室は自然的の存在であるように、思わせたのでもある。


 (王室がしばしば更迭した事実があると、王室は更迭すべきものであるという考が生ずる。)
 従ってまたそこから、皇室を未来にも長く続けさせようという欲求が生ずる。この欲求が強められると、長く続けさせねばならぬ、長く続くようにしなければならぬ、ということが道徳的義務として感ぜられることになる。

 もし何らかの事態が生じて(例えば直系の皇統が断えたというようなことでもあると)、それに刺戟せられてこの欲求は一層強められ、この義務の感が一層固められる。六世紀のはじめのころは、皇室の重臣やその他の朝廷に地位をもっている権力者の間に、こういう欲求の強められて来た時期であったらしく、今日記紀によって伝えられている神代の物語は、そのために作られたものがもとになっている。


 神代の物語は皇室の由来を物語の形で説こうとしたものであって、その中心観念は、皇室の祖先を宗教的意義を有する太陽としての日の神とし、皇位(天つ日つぎ)をそれから伝えられたものとするところにあるが、それには政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質があるという考と、皇位の永久という観念とが、含まれている。

 なおこの物語には、皇室が初からこの国の全土を統治せられたことにしてあると共に、皇室の御祖先は異民族に対する意味においての日本民族の民族的英雄であるようには語られていず、どこまでも日本の国家の統治者としての君主となっているが、その政治、その君主としての事業は、殆ど物語の上にあらわれていない。



 そうして国家の大事は朝廷の伴造の祖先たる諸神の衆議によって行われたことにしてある。物語にあらわれている人物はその伴造の祖先か地方的豪族のそれかであって、民衆のはたらいたことは少しもそれに見えていない。
 民衆をあいてにしたしごとも語られていない。宗教的意義での邪霊悪神を掃蕩せられたことはいわれているが、武力の用いられた話は、初めて作られた時の物語にはなかったようであり、後になってつけ加えられたと思われるイズモ平定の話には、そのおもかげが見えはするが、それとても妥協的平和的精神が強くはたらいているので、神代の物語のすべてを通じて、血なまぐさい戦争の話はない。


 やはり後からつけたされたものであるが、スサノオの命《みこと》が半島へ渡った話があっても、武力で征討したというのではなく、そうして国つくりを助けるために海の外からスクナヒコナの命が来たというのも、武力的経略のようには語られていないから、文化的意義のこととしていわれたものと解せられる。
 なお朝廷の伴造や地方的豪族が、その家を皇室から出たものの如くその系譜を作り、皇室に依附することによってその家の存在を示そうとした形跡も、明かにあらわれている。


 さすれば、上に述べた四・五世紀ころの状態として考えられるいろいろの事情は、そのすべてが神代の物語に反映しているといってもよい。こういう神代の物語によって、皇室をどこまでも皇室として永久にそれを続けてゆこう、またゆかねばならぬ、とする当時の、またそれにつづく時代の、朝廷に権力をもっているものの欲求と責任感とが、表現せられているのである。

 そうしてその根本は、皇位がこのころまで既に長くつづいて来たという事実にある。そういう事実があったればこそ、それを永久に続けようとする思想が生じたのである。神代の物語については、物語そのものよりもそういう物語を作り出した権力階級の思想に意味があり、そういう思想を生み出した歴史的事実としての政治‐社会的状態に一層大なる意味があることを、知らねばならぬ。

 

 皇位が永久でありまたあらねばならぬ、という思想は、このようにして歴史的に養われまた固められて来たと考えられるが、この思想はこれから後ますます強められるのみであった。時勢は変り事態は変っても、上に挙げたいろいろの事情のうちの主なるものは、概していうと、いつもほぼ同じであった。六世紀より後においても、天皇はみずから政治の局には当られなかったので、いわゆる親政の行われたのは、極めて稀な例外とすべきである。

 タイカ(大化)の改新とそれを完成したものとしての令の制度とにおいては、天皇親政の制が定められたが、それの定められた時は、実は親政ではなかったのである。そうして事実上、政権をもっていたものは、改新前のソガ(蘇我)氏なり後のフジワラ(藤原)氏なりタイラ(平)氏なりミナモト(源)氏なりアシカガ(足利)氏なりトヨトミ(豊臣)氏なりトクガワ(徳川)氏なりであり、いわゆる院政とても天皇の親政ではなかった。

 政治の形態は時によって違い、あるいは朝廷の内における摂政関白などの地位にいて朝廷の機関を用い、あるいは朝廷の外に幕府を建てて独自の機関を設け、そこから政令を出したのであり、政権を握っていたものの身分もまた同じでなく、あるいは文官でありあるいは武人であったが、天皇の親政でない点はみな同じであった。

 そうしてこういう権家《けんか》の勢威は永続せず、次から次へと変っていったが、それは、一つの権家が或る時期になるとその勢威を維持することのできないような失政をしたからであって、いわば国政の責任がおのずからそういう権家に帰したことを、示すものである。
 この意味において、天皇は政治上の責任のない地位にいられたのであるが、実際の政治が天皇によって行われなかったから、これは当然のことである。天皇はおのずから「悪をなさざる」地位にいられたことになる。皇室が皇室として永続した一つの理由はここにある。 



皇室に精神的権威があったのは、皇位の永久性が確立して来たため
 しかし皇室の永続したのはかかる消極的理由からのみではない。権家はいかに勢威を得ても、皇室の下における権家としての地位に満足し、それより上に一歩をもふみ出すことをしなかった。そこに皇室の精神的権威があったので、その権威はいかなるばあいにも失われず、何人もそれを疑わず、またそれを動かそうとはしなかった。これが明かなる事実であるが、そういう事実のあったことが、即ち皇室に精神的権威のあったことを証するものであり、そうしてその権威は上に述べたような事情によって皇位の永久性が確立して来たために生じたものである。


 それと共に、皇室は摂関の家に権威のある時代には摂関の政治の形態に順応し、幕府の存立した時代にはその政治の形態にいられたので、結果から見れば、それがまたおのずからこの精神的権威の保持せられた一つの重要なる理由ともなったのである。

 摂関政治の起ったのは起るべき事情があったからであり、幕府政治の行われたのも行わるべき理由があったからであって、それが即ち時勢の推移を示すものであり、特に武士という非合法的のものが民間に起ってそれが勢力を得、幕府政治の建設によってそれが合法化せられ、その幕府が国政の実権を握るようになったのは、そうしてまたその幕府の主宰者が多数の武士の向背によって興りまた亡びるようになると共に、
 その武士によって封建制度が次第に形づくられて来たのは、一面の意味においては、政治を動かす力と実権とが漸次民間に移り地方に移って来たことを示すものであって、文化の中心が朝廷を離れて来たことと共に、日本民族史において極めて重要なことがらであり、時勢の大なる変化であったが、皇室はこの時勢の推移を強いて抑止したりそれに反抗する態度をとったりするようなことはせられなかった。


 時勢を時勢の推移に任せることによって皇室の地位がおのずから安固になったのであるが、安んじてその推移に任せられたことには、皇室に動かすべからざる精神的権威があり、その地位の安固であることが、皇室みずからにおいて確信せられていたからでもある。

 もっとも稀には、皇室がフジワラ氏の権勢を牽制したり、またショウキュウ(承久)・ケンム(建武)の際のごとく幕府を覆えそうとしたりせられたことがありはあったが、それとても皇室全体の一致した態度ではなく、またくりかえして行われたのでもなく、特に幕府に対しての行動は武士の力に依頼してのことであって、この点においてはやはり時勢の変化に乗じたものであった。
(大勢の推移に逆行しそれを阻止せんとするものは失敗する。失敗が重なればその存在が危くなる。ケンム以後ケンムのような企ては行われなかった。)


 このような古来の情勢の下に、政治的君主の実権を握るものが、その家系とその政治の形態とは変りながらも、皇室の下に存在し、そうしてそれが遠い昔から長く続いて来たにもかかわらず、皇室の存在に少しの動揺もなく、一種の二重政体組織が存立していたという、世界に類のない国家形態がわが国には形づくられていたのである。

 もし普通の国家において、フジワラ氏もしくはトクガワ氏のような事実上の政治的君主ともいうべきものが、あれだけ長くその地位と権力とをもっていたならば、そういうものは必ず完全に君主の地位をとることになり、それによって王朝の更迭が行われたであろうに、日本では皇室をどこまでも皇室として戴いていたのである。


 こういう事実上の君主ともいうべき権力者に対しては、皇室は弱者の地位にあられたので、時勢に順応し時の政治形態に順応せられたのも、そのためであったとは考えられるが、それほどの弱者を皇室として尊重して来たことに、重大の意味があるといわねばならず、そこに皇室の精神的権威が示されていたのである。


〔日本の国家の政治的統治者としての権威〕

 けれども注意すべきは、精神的権威といってもそれは政治的権力から分離した宗教的権威というようなものではない、ということである。それはどこまでも日本の国家の政治的統治者としての権威である。ただその統治のしごとを皇室みずから行われなかったのみであるので、ここに精神的といったのは、この意味においてである。

 エド(江戸)時代の末期に、幕府は皇室の御委任をうけて政治をするのだという見解が世に行われ、幕府もそれを承認することになったが、これは幕府が実権をもっているという現在の事実を説明するために、あとから施された思想的解釈に過ぎないことではあるものの、トクガワ氏のもっている法制上の官職が天皇の任命によるものであることにおいて、それが象徴せられているといわばいわれよう。

 これもまた一種の儀礼に過ぎないものといわばいわれるかもしれぬが、そういう儀礼の行われたところに皇室の志向もトクガワ氏の態度もあらわれていたので、官職は単なる名誉の表象ではなかった。


 さて、このような精神的権威のみをもっていられた皇室が昔から長い間つづいて来たということが、またその権威を次第に強めることにもなったので、それによって、皇室は永久であるべきものであるという考が、ますます固められて来たのである。というよりも、そういうことが明かに意識せられないほどに、それはきまりきった事実であるとせられた、というほうが適切である。

  神代の物語の作られた時代においては、皇室の地位の永久性ということは朝廷における権力者の思想であったが、ここに述べたようなその後の歴史的情勢によって、それが朝廷の外に新しく生じた権力者及びその根柢ともなりそれを支持してもいる一般武士の思想ともなって来たので、それはかれらが政治的権力者となりまたは政治的地位を有するようになったからのことである。
 政治的地位を得れば必ずこのことが考えられねばならなかったのである。

 


津田左右吉 「 建国の事情と万世一系の思想」 上代における国家統一の情勢

2021-12-25 16:39:04 | 作家・思想家
 今、世間で要求せられていることは、これまでの歴史がまちがっているから、それを改めて真の歴史を書かねばならぬ、というのであるが、こういう場合、歴史がまちがっているということには二つの意義があるらしい。

 一つは、これまで歴史的事実を記述したものと考えられていた古書が実はそうでない、ということであって、例えば『古事記』や『日本紀』は上代の歴史的事実を記述したものではない、というのがそれである。これは史料と歴史との区別をしないからのことであって、記紀は上代史の史料ではあるが上代史ではないから、それに事実でないことが記されていても、歴史がまちがっているということはできぬ。

 史料は真偽混雑しているのが常であるから、その偽なる部分をすて真なる部分をとって歴史の資料とすべきであり、また史料の多くは多方面をもつ国民生活のその全方面に関する記述を具えているものではなく、或る一、二の方面に関することが記されているのみであるから、どの方面の資料をそれに求むべきかを、史料そのものについて吟味しなければならぬ。

 史料には批判を要するというのはこのことである。例えば記紀において、外観上、歴史的事実の記録であるが如き記事においても、こまかに考えると事実とは考えられぬものが少なくないから、そこでその真偽の判別を要するし、また神代の物語などの如く、一見して事実の記録と考えられぬものは、それが何ごとについての史料であるかを見定めねばならぬ。

 物語に語られていること、即ちそこにはたらいている人物の言動などは、事実ではないが、物語の作られたことは事実であると共に、物語によって表現せられている思想もまた事実として存在したものであるから、それは外面的の歴史的事件に関する史料ではないが、文芸史思想史の貴重なる史料である。 こういう史料を史料の性質に従って正しく用いることによって、歴史は構成せられる。

 史料と歴史とのこの区別は、史学の研究者においては何人も知っていることであるが、世間では深くそのことを考えず、記紀の如き史料をそのまま歴史だと思っているために、上にいったようなことがいわれるのであろう。


 いま一つは、歴史家の書いた歴史が、上にいった史料の批判を行わず、またはそれを誤り、そのために真偽の弁別がまちがったり、史料の性質を理解しなかったり、あるいはまた何らかの偏見によってことさらに事実を曲げたり、恣ほしいままな解釈を加えたりして、その結果、虚偽の歴史が書かれていることをいうのである。


 さてこの二つの意義の何いずれにおいても、これまで一般に日本の上代史といわれているものは、まちがっている、といい得られる。然しからば真の上代史はどんなものかというと、それはまだでき上がっていない。という意味は、何人にも承認せられているような歴史が構成せられていない、ということである。上にいった史料批判が歴史家によって一様でなく、従って歴史の資料が一定していない、ということがその一つの理由である。従って次に述べるところは、わたくしの私案に過ぎないということを、読者はあらかじめ知っておかれたい。ただわたくしとしては、これを学界ならびに一般世間に提供するだけの自信はもっている。

 


  一 上代における国家統一の情勢 

 日本の国家は日本民族と称し得られる一つの民族によって形づくられた。この日本民族は近いところにその親縁のある民族をもたぬ。大陸におけるシナ(支那)民族とは、もとより人種が違う。チョウセン(朝鮮)・マンシュウ(満洲)・モウコ(蒙古)方面の諸民族とも違うので、このことは体質からも、言語からも、また生活のしかたからも、知り得られよう。

 ただ半島の南端の韓民族のうちには、あるいは日本民族と混血したものがいくらかあるのではないか、と推測せられもする。また洋上では、リュウキュウ(琉球)(の大部分)に同じ民族の分派が占居したであろうが、タイワン(台湾)及びそれより南の方の島々の民族とは同じでない。本土の東北部に全く人種の違うアイヌ(蝦夷)のいたことは、いうまでもない。


 こういう日本民族の原住地も、移住して来た道すじも、またその時期も、今まで研究せられたところでは、全くわからぬ。生活の状態や様式やから見ると、原住地は南方であったらしく、大陸の北部でなかったことは推測せられるが、その土地は知りがたく、来住の道すじも、世間でよく臆測せられているように海路であったには限らぬ。

 時期はただ遠い昔であったといい得るのみである。原住地なり、来住の途上なり、またはこの島に来た時からなりにおいて、種々の異民族をいくらかずつ包容し、またはそれらと混血したことはあったろうが、民族としての統一を失うほどなことではなく、遠い昔から一つの民族として生活して来たので、多くの民族の混和によって日本民族が形づくられたのではない。

 この島に来た時に、民族の違うどれだけかの原住民がいたのではあろうが、それが、一つもしくは幾つかの民族的勢力として、後までも長く残ってはいなかったらしく、時と共に日本民族に同化せられ包容せられてしまったであろう。



 こういう日本民族の存在の明かに世界に知られ、世界的意義をもつようになったことの今日にわかるのは、前一世紀もしくは二世紀であって、シナでは前漢の時代である。これが日本民族の歴史時代のはじまりである。それより前のこの民族の先史時代がこの島においてどれだけつづいていたかはわからぬが、長い、長い、年月であったことは、推測せられる。


 先史時代の日本民族の生活状態は先史考古学の示すところの外は、歴史時代の初期の状態から逆推することによって、その末期のありさまがほぼ想像せられる。主なる生業は農業であったが、この島に住んでいることが既に久しいので、親子夫妻の少数の結合による家族形態が整い、安定した村落が形づくられ、多くのそういう村落のを包含する小国家が多く成り立っていたので、政治的には日本民族は多くの小国家に分れていたのである。
 この小国家の君主は、政治的権力と共に宗教的権威をももっていたらしく、種々の呪術じゅじゅつや原始的な宗教心のあらわれとしての神の祭祀やが、その配下の民衆のために、かれらによって行われ、それが政治の一つのはたらきとなっていた。

 地方によっては、これらの小国家の一つでありながら、その君主が附近の他の幾つかの小国家の上に立ってそれらを統御したものもあったようである。君主の権威は民衆から租税を徴しまたはかれらを使役することであったろうが、小国家においては、君主は地主としての性質を多分に具えていたのではないか、従ってまた君主は、政治的権力者ではあるが、それと共に配下の民衆の首長もしくは指導者というような地位にいたのではないか、と推測せられもする。

 農業そのことの本質に伴う風習として、耕地が何人かの私有であったことは、明かであろう。この日本民族は牧畜をした形跡はないが、漁猟は到るところで営まれ、海上の交通も沿海の住民によって盛さかんに行われた。しかしこういうことを生業としたものも、日本民族であることに変りはなく、住地の状態によってそれに適応する生活をしていたところに、やはりこの島に移住して来てから長い歳月を経ていたことが示されている。用いていた器具が石器であったことは、勿論である。


〔特に建国というべき時はないとするのが、当っていよう〕
 日本民族の存在が世界的意義をもつようになったのは、今のキュウシュウ(九州)の西北部に当る地方のいくつかの小国家に属するものが、半島の西南に沿うて海路その西北部に進み、当時その地方にひろがって来ていたシナ人と接触したことによって、はじまったのである。
 彼らはここでシナ人から絹や青銅器などの工芸品や種々の知識やを得て来たので、それによってシナの文物を学ぶ機会が生じ、日本民族の生活に新しい生面が開け初めた。青銅器の製作と使用との始まったのは前一世紀の末のころであったらしく、その後もかなり長い間はいわゆる金石併用時代であったが、ともかくもシナの文物をうけ入れることになった地方の小国家の君主はそれによって、彼らの権威をもその富をも加えることができた。

 キュウシュウ地方の諸小国とシナ人とのこの接触は、一世紀二世紀を通じて変ることなく行われたが、その間の関係は時がたつにつれて次第に密接になり、シナ人から得る工芸品や知識やがますます多くなると共に、それを得ようとする欲求もまた強くなり、その欲求のために船舶を派遣する君主の数も多くなった。鉄器の使用もその製作の技術もまたこの間に学び初められたらしい。

 ところが三世紀になると、文化上の関係が更に深くなると共に、その交通にいくらかの政治的意義が伴うことになり、君主の間には、半島におけるシナの政治的権力を背景として、あるいは附近の諸小国の君主に臨み、あるいは敵対の地位にある君主を威圧しようとするものが生じたので、ヤマト(邪馬台、今の筑後の山門か)の女王として伝えられているヒミコ(卑弥呼)がそれである。当時、このヤマトの君主はほぼキュウシュウの北半の諸小国の上にその権威を及ぼしていたようである。



 キュウシュウ地方の諸君主が得たシナの工芸品やその製作の技術や、その他の種々の知識は、セト(瀬戸)内海の航路によって、早くから後のいわゆるキンキ(近畿)地方に伝えられ、一、二世紀のころにはその地域に文化の一つの中心が形づくられ、そうしてそれには、その地方を領有する政治的勢力の存在が伴っていたことが考えられる。この政治的勢力は種々の方面から考察して、皇室の御祖先を君主とするものであったことが、ほぼ知り得られるようであり、ヤマト(大和)がその中心となっていたであろう。

 それがいつからの存在であり、どうしてうち立てられたかも、その勢力の範囲がどれだけの地域であったかも、またどういう径路でそれだけの勢力が得られたかも、すべてたしかにはわからぬが、後の形勢から推測すると、二世紀ごろには上にいったような勢力として存在したらしい。

 その地域の西南部は少くとも今のオオサカ(大阪)湾の沿岸地方を含んでいて、セト内海の航路によって遠くキュウシュウ方面と交通し得る便宜をもっていたに違いないが、東北方においてどこまでひろがっていたかは、知りがたい。
 この地域のすべてが直接の領土として初めから存在したには限らず、あるいは、そこに幾つかの小国家が成立っていたのを、いつの時からかそれらのうちの一つであったヤマト地方の君主、即ち皇室の御祖先、がそれらを服属させてその上に君臨し、それらを統御するようになり、更に後になってその諸小国を直接の領土として収容した、というような径路がとられたでもあろう。


 三世紀にはその領土が次第にひろがって、西の方ではセト内海の沿岸地方を包含するようになり、トウホク(東北)地方でもかなりの遠方までその勢力の範囲に入ったらしく、想像せられるが、それもまた同じような道すじを経てのことであったかも知れぬ。しかし具体的にはその情勢が全く伝えられていない。

 ただイズモ(出雲)地方にはかなり優勢な政治的勢力があって、それは長い間このヤマトを中心とする勢力に対して反抗的態度をとっていたようである。さてこのような、ヤマトを中心として後のキンキ地方を含む政治的勢力が形づくられたのは、一つは、西の方から伝えられた新しい文物を利用することによって、その実力が養い得られたためであろうと考えられるが、一つは、その時の君主の個人的の力によるところも少なくなかったであろう。

 いかなる国家にもその勢力の強大になるには創業の主ともいうべき君主のあるのが、一般の状態だからである。
そうして険要の地であるヤマトと、豊沃で物資の多いヨドガワ(淀河)の平野と、海路の交通の要地であるオオサカの沿岸とを含む、地理的に優れた地位を占めていることが、それから後の勢力の発展の基礎となり、勢力が伸びれば伸びるに従って君主の欲望もまた大きくなり、その欲望が次第に遂げられて勢力が強くなってゆくと、多くの小国の君主はそれに圧せられて漸次服属してゆく、という情勢が展開せられて来たものと推測せられる。


 しかし三世紀においては、イズモの勢力を帰服させることはできたようであるけれども、キュウシュウ地方にはまだ進出することはできなかった。それは半島におけるシナの政治的勢力を背景とし、九州の北半における諸小国を統御している強力なヤマト(邪馬台)の国家がそこにあったからである。
 けれども、四世紀に入るとまもなく、アジヤ大陸の東北部における遊牧民族の活動によってその地方のシナ人の政治的勢力が覆くつがえされ、半島におけるそれもまた失われたので、ヤマト(邪馬台)の君主はその頼るところがなくなった。

 東方なるヤマト(大和)の勢力はこの機会に乗じてキュウシュウの地に進出し、その北半の諸小国とそれらの上に権威をもっていたヤマト(邪馬台)の国とを服属させたらしい。四世紀の前半のことである。そうしてこの勢の一歩を進めたのが、四世紀の後半におけるヤマト(大和)朝廷の勢力の半島への進出であって、それによって我が国と半島とに新しい事態が生じた。

 そうして半島を通じてヤマトの朝廷にとり入れられたシナの文物が皇室の権威を一層強め、従ってまた一つの国家として日本民族の統一を一層かためてゆくはたらきをすることになるのである。ただキュウシュウの南半、即ちいわゆるクマソ(熊襲)の地域にあった諸小国は、五世紀に入ってからほぼ完全に服属させることができたようである。

 東北方の諸小国がヤマトの国家に服属した情勢は少しもわからぬが、西南方においてキュウシュウの南半が帰服した時代には、日本民族の住地のすべてはヤマトの国家の範囲に入っていたことが、推測せられる。それは即ちほぼ今のカントウ(関東)からシナノ(信濃)を経てエチゴ(越後)の中部地方に至るまでである。


 皇室の御祖先を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が、ほぼこういうものであったとすれば、普通に考えられているような日本の建国というきわだった事件が、或る時期、或る年月、に起ったのでないことは、おのずから知られよう。

 日本の建国の時期を皇室によって定め、皇室の御祖先がヤマトにあった小国の君主にはじめてなられた時、とすることができるかもしれぬが、その時期はもとよりわからず、また日本の建国をこういう意義に解することも妥当とは思われぬ。

 もし日本民族の全体が一つの国家に統一せられた時を建国とすれば、そのおおよその時期はよし推測し得られるとしても、たしかなことはやはりわからず、そうしてまたそれを建国とすることもふさわしくない。日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられて来たものであるから、特に建国というべき時はないとするのが、当っていよう。

 要するに、皇室のはじめと建国とは別のことである。日本民族の由来がこの二つのどれとも全くかけはなれたものであることは、なおさらいうまでもない。むかしは、いわゆる神代の説話にもとづいて、皇室は初から日本の全土を領有せられたように考え、皇室のはじめと日本全土の領有という意義での建国とが同じであるように思われていたし、近ごろはこの二つとこの島における日本民族のはじめとの三つさえも、何となく混雑して考えられているようであるが、それは上代の歴史的事実を明かにしないからのことである。


歴代の天皇の系譜については、
   ほぼ三世紀の頃と思われるスシン(崇神)天皇から後は、歴史的の存在

 さて、ここに述べたことには、それぞれ根拠があるが、今はそういう根拠の上に立つこの建国史の過程を略述したのみであって、一々その根拠を示すことはさしひかえた。ところで、もしこの歴史的過程が事実に近いものであるとするならば、ジンム(神武)天皇の東征の物語は決して歴史的事実を語ったものでないことが知られよう。それはヤマトの皇都の起源説話なのである。

 日本民族が皇室の下に一つの国家として統一せられてから、かなりの歳月を経た後、皇室の権威が次第に固まって来た時代、わたくしの考えではそれは六世紀のはじめのころ、において、一層それを固めるために、朝廷において皇室の由来を語る神代の物語が作られたが、それには、皇祖が太陽としての日の神とせられ、天上にあるものとせられたのであるから、皇孫がこの国に降ることが語られねばならず、そうしてその降られた土地がヒムカ(日向)とせられたために、それと現に皇都のあるヤマトとを結びつける必要が生じたので、そこでこの東征物語が作られたのである。

 ヤマトに皇都はあったが、それがいつからのことともわからず、どうしてそこに皇都があることになったかも全く知られなくなっていたので、この物語はおのずからその皇都の起源説話となったのである。

 東征は日の神の加護によって遂げられたことになっているが、これは天上における皇祖としての日の神の皇都が「天つ日嗣」をうけられた皇孫によって地上のヒムカに遷され、それがまた神武天皇によってヤマトに遷されたことを、語ったものであり、皇祖を日の神とする思想によって作られたものである。だからそれを建国の歴史的事実として見ることはできない。


 それから後の政治的経営として『古事記』や『日本紀』に記されていることも、チュウアイ(仲哀)天皇のころまでのは、すべて歴史的事実の記録とは考えられぬ。ただ歴代の天皇の系譜については、ほぼ三世紀のころであろうと思われるスシン(崇神)天皇から後は、歴史的の存在として見られよう。

 それより前のについては、いろいろの考えかたができようが、系譜上の存在がどうであろうとも、ヤマトの国家の発展の形勢を考えるについては、それは問題の外におかるべきである。
 創業の主ともいうべき君主のあったことが何らかの形で後にいい伝えられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何ごとかがはじめて文字に記録せられたと考えられる四世紀の終において、既に知られなくなっていたので、記紀には全くあらわれていない。


 ところで、ヤマトの皇室が上に述べたように次第に諸小国の君主を服属させていったそのしかたはどうであったかというに、それはあいてにより場合によって一様ではなかったろう。武力の用いられたこともあったろう。君主の地位に伴っている宗教的権威のはたらきもあったろう。しかし血なまぐさい戦争の行われたことは少かったろうと推測せられる。
 もともと日本民族が多くの小国家に分れていても、その間に断えざる戦争があったというのではなく、武力的競争によってそれらの国家が存在したのではなかった。 
 
〔農業民は本来平和を好むものである〕
 農業民は本来平和を好むものである。この農業民の首領であり指導者であり或る意味において大地主らしくもある小君主もまた、その生存のためには平和が必要である。また、ともすれば戦争の起り易い異民族との接触がなく、すべての国家がみな同一民族であったがために、好戦的な殺伐な気風も養われなかった。

 小国家が概して小国家たるにとどまって、甚だしく強大な国家の現われなかったのも、勢力の強弱と領土の大小とを来たすべき戦争の少かったことを、示すものと解せられよう。キュウシュウ地方においてかのヤマト(邪馬台)が、附近の多くの小国を存続させながら、それらの上に勢力を及ぼしていたのも、戦勝国の態度ではなかったように見える。かなり後になっても、日本に城廓建築の行われなかったことも、またこのことについて参考せらるべきである。

 皇室が多くの小国の君主を服属させられたのは、このような一般的状態の下において行われたことであり、皇室がもともとそれらの多くの小国家の君主の家の一つであったのであるから、その勢力の発展が戦争によることの少かったことは、おのずから推測せられよう。

 国家の統一せられた後に存在した地方的豪族、いわゆる国造県主など、の多くが統一せられない前の小君主の地位の継続せられたものであるらしいこと、皇居に城廓などの軍事的設備が後までも設けられなかったこと、なども、またこの推測を助ける。皇室の直轄領やヤマトの朝廷の権力者の領土が、地方的豪族の領土の間に点綴して置かれはしたので、そのうちには昔の小国家の滅亡したあとに設けられたものもあろうが、よしそうであるにしても、それらがどうして滅亡したかはわからぬ。



 統一の後の国造などの態度によって推測すると、ヤマトの朝廷の勢威の増大するにつれて、諸小国の君主はその地位と領土とを保全するためには、みずから進んでそれに帰服するものが多かったと考えられる。

 かれらは武力による反抗を試みるにはあまりに勢力が小さかったし、隣国と戦争をした経験もあまりもたなかったし、また多くの小国家に分れていたとはいえ、もともと同じ一つの日本民族として同じ歴史をもち、言語・宗教・風俗・習慣の同じであるそれらであるから、新におのれらの頭上に臨んで来る大きな政治的勢力があっても、それに対しては初から親和の情があったのであろう。

 また従来とても、もしこういう小国家の同じ地域にあるいくつかが、九州における上記の例の如く、そのうちの優勢なものに従属していたことがあったとすれば、皇室に帰服することは、その優勢なものを一層大きい勢力としての皇室にかえたのみであるから、その移りゆきはかなり滑かに行われたらしい、ということも考えられる。
 朝廷の側としては、場合によっては武力も用いられたにちがいなく、また一般に何らかの方法による威圧が加えられたことは、想像せられるが、大勢はこういう状態であったのではあるまいか。



 国家の統一の情勢はほぼこのように考えられるが、ヤマト朝廷のあいてとしたところは、民衆ではなくして諸小国の君主であった。統一の事業はこれらの君主を服属させることによって行われたので、直接に民衆をあいてとしたのではない。

 武力を以て民衆を征討したのでないことは、なおさらである。民衆からいうと、国家が統一せられたというのは、これまでの君主の上にたつことになったヤマトの朝廷に間接に隷属することになった、というだけのことである。皇室の直轄領となった土地の住民の外は、皇室との直接の結びつきは生じなかったのである。
 さて、こうして皇室に服属した民衆はいうまでもなく、国造などの地方的豪族とても、皇室と血族的関係をもっていたはずはなく、従って日本の国家が皇室を宗家とする一家族のひろがったものでないことは、いうまでもあるまい。


 〔続く〕
 津田左右吉 「 建国の事情と万世一系の思想」 二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情

津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」(二) 

2019-12-22 21:00:20 | 作家・思想家

 

「建国の事情と万世一系の思想」(二)
    津田左右吉  



二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情 
 

 ヤマトに根拠のあった皇室が日本民族の全体を統一してその君主となられるまでに、どれだけの年月がかかったかはわからぬが、上に考えた如く、二世紀のころにはヤマトの国家の存在したことがほぼ推測せられるとすれば、それからキュウシュウの北半の服属した四世紀のはじめまでは約二百年であり、日本の全土の統一せられた時期と考えられる五世紀のはじめまでは約三百年である。

 これだけの歳月と、その間における断えざる勢力の伸長とは、皇室の地位をかためるには十分であったので、五世紀の日本においては、それはもはや動かすべからざるものとなっていたようである。何人もそれに対して反抗するものはなく、その地位を奪いとろうとするものもなかった。そうしてそれにはそれを助ける種々の事情があったと考えられる。

 その第一は、皇室が日本民族の外から来て
  この民族を征服しそれによって君主の地位と権力とを得られたのではなく、
 民族の内から起って次第に周囲の諸小国を帰服させられたこと、また諸小国の帰服した状勢が上にいったようなものであったことの、自然のなりゆきとして、皇室に対して反抗的態度をとるものが生じなかった、ということである。もし何らかの特殊の事情によって反抗するものが出るとすれば、それはその独立の君主としての地位と権力とを失った諸小国の君主の子孫であったろうが、そういうものは反抗の態度をとるだけの実力をもたず、また他の同じような地位にあるものの同情なり助力なりを得ることもできなかった。
 こういう君主の子孫のうちの最も大きな勢力をもっていたらしいイズモの国造が、完全に皇室の下におけるその国造の地位に安んじていたのを見ても、そのことは知られよう。 

 一般の国造や県主は、皇室に近接することによって、皇室の勢威を背景としてもつことによって、かれらみずからの地位を安固にしようとしたのである。皇室が武力を用いて地方的豪族に臨まれるようなことはなく、国内において戦闘の行われたような形跡はなかった。この意味においては、上代の日本は甚だ平和であったが、これはその根柢に日本民族が一つの民族であるという事実があったと考えられる。


 また皇室の政治の対象は地方的豪族であって、直接には一般民衆ではなかったから、民衆が皇室に対して反抗を企てるような事情は少しもなかった。わずかの皇室直轄領の外は、民衆の直接の君主は地方的豪族たる国造(及び朝廷に地位をもっている伴造)であって、租税を納めるのも労役に服するのも、そういう君主のためであったから、民衆はおのれらの生活に苦痛があっても、その責を皇室に帰することはしなかった。
 そうして皇室直轄領の民衆は、その直轄であることにおいて一種のほこりをもっていたのではないかと、推測せられる。


 第二は、異民族との戦争のなかったことである。
 近隣の異国もしくは異民族との戦争には、君主みずから軍を率いることになるのが普通であるが、その場合、戦に勝てばその君主は民族的英雄として賞讃せられ、従ってその勢威も強められるが、負ければその反対に人望が薄らぎ勢威が弱められ、時の状勢によっては君主の地位をも失うようになる。
 よし戦に勝っても、それが君主みずからの力でなくして将帥しょうすいの力であったような場合には、衆望がその将帥に帰して、終にはそれが君主の地位に上ることもありがちである。

 要するに、異民族との戦争ということが、君主の地位を不安にし、その家系に更迭の生ずる機会を作るものである。ところが、日本民族は島国に住んでいるために、同じ島の東北部にいたアイヌの外には、異民族に接触していないし、また四世紀から六世紀までの時代における半島及びそれにつづいている大陸の民族割拠の形勢では、それらの何れにも、海を渡ってこの国に進撃して来るようなものはなかった。
 それがために民族的勢力の衝突としての戦争が起らず、従ってここにいったような君主の地位を不安にする事情が生じなかったのである。


 ただ朝廷のしごととして、上に述べたように半島に対する武力的進出が行われたので(多分、半島の南端における日本人と関係のある小国の保護のために)、それには戦争が伴い、その戦争には勝敗があったけれども、もともと民族的勢力の衝突ではなく、また戦においてもただ将帥を派遣せられたのみであるから、勝敗のいずれの場合でも、皇室の地位には何の影響も及ぼさなかった。

 (チュウアイ天皇の皇后の遠征というのは、事実ではなくして物語である。)そうしてこの半島への進出の結果としての朝廷及びその周囲におけるシナの文物の採取は、文化の側面から皇室の地位を重くすることになった。
 また東北方のアイヌとの間には民族的勢力としての争があったが、これは概おおむねそれに接近する地域の住民の行動にまかせてあったらしく、朝廷の関与することが少く、そうして大勢においては日本民族が優者として徐々にアイヌの住地に進出していったから、これもまた皇室の勢威には影響がなかった。これが皇室の地位の次第に固まって来た一つの事実である。


 第三には、日本の上代には、政治らしい政治、
   君主としての事業らしい事業がなかった、
 ということであって、このことからいろいろの事態が生ずる。天皇みずから政治の局に当られなかったということもその一つであり、皇室の失政とか事業の失敗とかいうようなことのなかったということもその一つである。多くの民族の事例について見ると、一般に文化の程度の低い上代の君主のしごとは戦争であって、それに伴っていろいろのしごとが生ずるのであるが、国内においてその戦争のなかった我が国では、政治らしい政治は殆ほとんどなかったといってよい。従ってまた天皇のなされることは、殆どなかったであろう。

 いろいろの事務はあったが、それは朝廷の伴造のするしごとであった。四世紀の終にはじまり五世紀を通じて続いている最も大きな事件は、半島の経営であるが、それには武力が必要であるから、武事を掌つかさどる大伴氏や物部氏やはそれについて重要のはたらきをしたのであろう。
 特にそのはたらく場所は海外であるから、本国から一々それを指揮することのできぬ場合が多い。そこで、単なる朝廷の事務とは違うこの国家の大事についても、実際においてそれを処理するものは、こういう伴造のともがらであり、従ってそういう家がらにおのずから権威がついて来て、かれらは朝廷の重臣ともいうべきものとなった。


 そうしてこういう状態が長くつづくと、内政において何らかの重大な事件が起ってそれを処理しなければならぬようなばあいにも、天皇みずからはその局に当られず、国家の大事は朝廷の重臣が相謀ってそれを処理するようになって来る。従って天皇には失政も事業の失敗もない。
 これは、一方においては、時代が進んで国家のなすべき事業が多くなり政治ということがなくてはならぬようになってからも、朝廷の重臣がその局に当る風習を開くものであったと共に、他方においては、政治上の責任はすべて彼らの負うところとなってゆくことを意味するものである。
 いうまでもなく、政治は天皇の名において行われはするが、その実、その政治は重臣のするものであることが、何人にも知られているからである。そうしてこのことは、おのずから皇室の地位を安固にするものであった。


 第四には、天皇に宗教的の任務と権威とのあったことが考えられる。
 天皇は武力を以てその権威と勢力とを示さず、また政治の実務には与あずかられなかったようであるが、それにはまた別の力があって、それによってその存在が明かにせられた。
 それは、一つは宗教的の任務であり、一つは文化上の地位であった。政治的君主が宗教上の地位をももっているということは、極めて古い原始時代の風習の引きつづきであろうと考えられるが、その宗教上の地位というのは、民衆のために種々の呪術や神の祭祀を行うことであり、そのようなことを行うところから、或る場合には、呪術や祭祀を行い神人の媒介をする巫祝ふしゅくが神と思われることがあるのと同じ意味で、君主みずからが神としても考えられることがある。

 天皇が「現あきつ神かみ」といわれたことの遠い淵源と歴史的の由来とはここにあるのであろうが、しかし今日に知られている時代の思想としては、政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質がある、いいかえると天皇が国家を統治せられることは、思想上または名義上、神の資格においてのしごとである、というだけの意義でこの称呼が用いられていたのであって、「現つ神」は国家を統治せられる、即ち政治的君主としての、天皇の地位の称呼なのである。天皇の実質はどこまでも政治的君主であるが、その地位を示すために歴史的由来のあるこの称呼が用いられたのである。


 これは、天皇が天皇を超越した神に代ってそういう神の政治を行われるとか、天皇の政治はそういう神の権威によって行われるとか、いうのではないと共に、また天皇は普通の人とは違って神であり何らかの意義での神秘性を帯びていられる、というような意味でいわれたのでもない。

 天皇が宗教的崇拝の対象としての神とせられたのでないことは、いうまでもない。日本の昔には天皇崇拝というようなことはなかったと考えられる。天皇がその日常の生活において普通の人として行動せられることは、すべてのものの明かに見も聞きも知りもしていることであった。

 記紀の物語に天皇の恋愛譚や道ゆきずりの少女にことといかわされた話などの作られていることによっても、それは明かである。「現つ神」というようなことばすらも、知識人の思想においては存在し、また重々しい公式の儀礼には用いられたが、一般人によって常にいわれていたらしくはない。シナで天帝の称呼として用いられていた「天皇」を御称号としたのは六世紀のおわりころにはじまったことのようであって、それは「現つ神」の観念とつながりのあることであったろうが、それが一般に知られていたかどうか、かなりおぼつかない。
 そういうことよりも、すべての人に知られていた天皇の宗教的な地位とはたらきとは、政治の一つのしごととして、国民のために大祓のような呪術を行われたりいろいろの神の祭祀を行われたりすることであったので、天皇が神を祭られるということは天皇が神に対する意味での人であることの明かなしるしである。

 日常の生活がこういう呪術や祭祀によって支配せられていた当時の人々にとっては、天皇のこの地位と任務は尊ぶべきことであり感謝すべきことであるのみならず、そこに天皇の精神的の権威があるように思われた。何人もその権威を冒涜ぼうとくしようとは思わなかったのである。

 政治の一つのしごととして天皇のせられることはこういう呪術祭祀であったので、それについての事務を掌っていた中臣氏に朝廷の重臣たる権力のついて来たのも、そのためであった。


 第五には、皇室の文化上の地位が考えられる。
 半島を経て入って来たシナの文物は、主として朝廷及びその周囲の権力者階級の用に供せられたのであるから、それを最も多く利用したのは、いうまでもなく皇室であった。
 そうしてそれがために、朝廷には新しい伴造の家が多く生じた。かれらは皇室のために新来の文物についての何ごとかを掌ることによって生活し、それによって地位を得た。のみならず、一般的にいっても、皇室はおのずから新しい文化の指導的地位に立たれることになった。

 このことが皇室に重きを加えたことは、おのずから知られよう。そうしてそれは、武力が示されるのとは違って、一種の尊とさと親しさとがそれによって感ぜられ、人々をして皇室に近接することによってその文化の恵みに浴しようとする態度をとらせることになったのである。


 以上、五つに分けて考えたことを一くちにつづめていうと、現実の状態として、皇室は朝廷の権力者や地方の豪族にとっては、親しむべき尊むべき存在であり、かれらは皇室に依属することによってかれらの生活や地位を保ちそれについての欲求を満足させることができた、ということになる。
 なお半島に対する行動がかれらの間にも或る程度に一種の民族的感情をよび起させ、その感情の象徴として皇室を視る、という態度の生じて来たらしいことをも、考えるべきであろう。皇室に対する敬愛の情がここから養われて来たことは、おのずから知られよう。

 

 さて、こういうようないろいろの事情にも助けられて、皇室は皇室として長く続いて来たのであるが、これだけ続いて来ると、その続いて来た事実が皇室の本質として見られ、皇室は本来長く続くべきものであると考えられるようになる。
 皇室が遠い過去からの存在であって、その起源などの知られなくなっていたことが、その存在を自然のことのように、あるいは皇室は自然的の存在であるように、思わせたのでもある。(王室がしばしば更迭した事実があると、王室は更迭すべきものであるという考が生ずる。)

 従ってまたそこから、皇室を未来にも長く続けさせようという欲求が生ずる。この欲求が強められると、長く続けさせねばならぬ、長く続くようにしなければならぬ、ということが道徳的義務として感ぜられることになる。もし何らかの事態が生じて(例えば直系の皇統が断えたというようなことでもあると)、それに刺戟せられてこの欲求は一層強められ、この義務の感が一層固められる。
 六世紀の六世紀のはじめのころは、皇室の重臣やその他の朝廷に地位をもっている権力者の間に、こういう欲求の強められて来た時期であったらしく、今日記紀によって伝えられている神代の物語は、そのために作られたものがもとになっている。

 神代の物語は皇室の由来を物語の形で説こうとしたものであって、その中心観念は、皇室の祖先を宗教的意義を有する太陽としての日の神とし、皇位をそれから伝えられたものとするところにあるが、それには政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質があるという考と、皇位の永久という観念とが、含まれている。
 なおこの物語には、皇室が初からこの国の全土を統治せられたことにしてあると共に、皇室の御祖先は異民族に対する意味においての日本民族の民族的英雄であるようには語られていず、どこまでも日本の国家の統治者としての君主となっているが、その政治、その君主としての事業は、殆ど物語の上にあらわれていない。

 そうして国家の大事は朝廷の伴造の祖先たる諸神の衆議によって行われたことにしてある。物語にあらわれている人物はその伴造の祖先か地方的豪族のそれかであって、民衆のはたらいたことは少しもそれに見えていない。
 民衆をあいてにしたしごとも語られていない。宗教的意義での邪霊悪神を掃蕩せられたことはいわれているが、武力の用いられた話は、初めて作られた時の物語にはなかったようであり、後になってつけ加えられたと思われるイズモ平定の話には、そのおもかげが見えはするが、それとても妥協的平和的精神が強くはたらいているので、神代の物語のすべてを通じて、血なまぐさい戦争の話はない。

 やはり後からつけたされたものであるが、スサノオの命みことが半島へ渡った話があっても、武力で征討したというのではなく、そうして国つくりを助けるために海の外からスクナヒコナの命が来たというのも、武力的経略のようには語られていないから、文化的意義のこととしていわれたものと解せられる。

 なお朝廷の伴造や地方的豪族が、その家を皇室から出たものの如くその系譜を作り、皇室に依附することによってその家の存在を示そうとした形跡も、明かにあらわれている。


 さすれば、上に述べた四・五世紀ころの状態として考えられるいろいろの事情は、そのすべてが神代の物語に反映しているといってもよい。こういう神代の物語によって、皇室をどこまでも皇室として永久にそれを続けてゆこう、またゆかねばならぬ、とする当時の、またそれにつづく時代の、朝廷に権力をもっているものの欲求と責任感とが、表現せられているのである。

 そうしてその根本は、皇位がこのころまで既に長くつづいて来たという事実にある。そういう事実があったればこそ、それを永久に続けようとする思想が生じたのである。神代の物語については、物語そのものよりもそういう物語を作り出した権力階級の思想に意味があり、そういう思想を生み出した歴史的事実としての政治‐社会的状態に一層大なる意味があることを、知らねばならぬ。

 

 皇位が永久でありまたあらねばならぬ、という思想は、
 このようにして歴史的に養われまた固められて来たと考えられるが、この思想はこれから後ますます強められるのみであった。時勢は変り事態は変っても、上に挙げたいろいろの事情のうちの主なるものは、概していうと、いつもほぼ同じであった。六世紀より後においても、天皇はみずから政治の局には当られなかったので、いわゆる親政の行われたのは、極めて稀な例外とすべきである。

 大化の改新とそれを完成したものとしての令の制度とにおいては、天皇親政の制が定められたが、それの定められた時は、実は親政ではなかったのである。そうして事実上、政権をもっていたものは、改新前の蘇我氏なり後の藤原氏なり平氏なり源氏なり足利氏なり豊臣氏なり徳川氏なりであり、いわゆる院政とても天皇の親政ではなかった。

 政治の形態は時によって違い、あるいは朝廷の内における摂政関白などの地位にいて朝廷の機関を用い、あるいは朝廷の外に幕府を建てて独自の機関を設け、そこから政令を出したのであり、政権を握っていたものの身分もまた同じでなく、あるいは文官でありあるいは武人であったが、天皇の親政でない点はみな同じであった。

 そうしてこういう権家けんかの勢威は永続せず、次から次へと変っていったが、それは、一つの権家が或る時期になるとその勢威を維持することのできないような失政をしたからであって、いわば国政の責任がおのずからそういう権家に帰したことを、示すものである。
 この意味において、天皇は政治上の責任のない地位にいられたのであるが、実際の政治が天皇によって行われなかったから、これは当然のことである。天皇はおのずから「悪をなさざる」地位にいられたことになる。皇室が皇室として永続した一つの理由はここにある。

 しかし皇室の永続したのはかかる消極的理由からのみではない。権家はいかに勢威を得ても、皇室の下における権家としての地位に満足し、それより上に一歩をもふみ出すことをしなかった。

 そこに皇室の精神的権威があったので、その権威はいかなるばあいにも失われず、何人もそれを疑わず、またそれを動かそうとはしなかった。これが明かなる事実であるが、そういう事実のあったことが、即ち皇室に精神的権威のあったことを証するものであり、そうしてその権威は上に述べたような事情によって皇位の永久性が確立して来たために生じたものである。


 それと共に、皇室は摂関の家に権威のある時代には摂関の政治の形態に順応し、幕府の存立した時代にはその政治の形態にいられたので、結果から見れば、それがまたおのずからこの精神的権威の保持せられた一つの重要なる理由ともなったのである。

 摂関政治の起ったのは起るべき事情があったからであり、幕府政治の行われたのも行わるべき理由があったからであって、それが即ち時勢の推移を示すものであり、特に武士という非合法的のものが民間に起ってそれが勢力を得、幕府政治の建設によってそれが合法化せられ、
 その幕府が国政の実権を握るようになったのは、そうしてまたその幕府の主宰者が多数の武士の向背によって興りまた亡びるようになると共に、その武士によって封建制度が次第に形づくられて来たのは、一面の意味においては、政治を動かす力と実権とが漸次民間に移り地方に移って来たことを示すものであって、文化の中心が朝廷を離れて来たことと共に、日本民族史において極めて重要なことがらであり、時勢の大なる変化であったが、皇室はこの時勢の推移を強いて抑止したりそれに反抗する態度をとったりするようなことはせられなかった。

 時勢を時勢の推移に任せることによって皇室の地位がおのずから安固になったのであるが、安んじてその推移に任せられたことには、皇室に動かすべからざる精神的権威があり、その地位の安固であることが、皇室みずからにおいて確信せられていたからでもある。

 もっとも稀には、皇室がフジワラ氏の権勢を牽制したり、また承久・建武の際のごとく幕府を覆えそうとしたりせられたことがありはあったが、それとても皇室全体の一致した態度ではなく、またくりかえして行われたのでもなく、特に幕府に対しての行動は武士の力に依頼してのことであって、この点においてはやはり時勢の変化に乗じたものであった。(大勢の推移に逆行しそれを阻止せんとするものは失敗する。失敗が重なればその存在が危くなる。建武ム以後建武のような企ては行われなかった。)


 このような古来の情勢の下に、政治的君主の実権を握るものが、その家系とその政治の形態とは変りながらも、皇室の下に存在し、そうしてそれが遠い昔から長く続いて来たにもかかわらず、皇室の存在に少しの動揺もなく、一種の二重政体組織が存立していたという、世界に類のない国家形態がわが国には形づくられていたのである。

 もし普通の国家において、藤原氏もしくは徳川氏のような事実上の政治的君主ともいうべきものが、あれだけ長くその地位と権力とをもっていたならば、そういうものは必ず完全に君主の地位をとることになり、それによって王朝の更迭が行われたであろうに、日本では皇室をどこまでも皇室として戴いていたのである。
 こういう事実上の君主ともいうべき権力者に対しては、皇室は弱者の地位にあられたので、時勢に順応し時の政治形態に順応せられたのも、そのためであったとは考えられるが、それほどの弱者を皇室として尊重して来たことに、重大の意味があるといわねばならず、そこに皇室の精神的権威が示されていたのである。


 けれども注意すべきは、精神的権威といってもそれは政治的権力から分離した宗教的権威というようなものではない、ということである。それはどこまでも日本の国家の政治的統治者としての権威である。ただその統治のしごとを皇室みずから行われなかったのみであるので、ここに精神的といったのは、この意味においてである。

 江戸時代の末期に、幕府は皇室の御委任をうけて政治をするのだという見解が世に行われ、幕府もそれを承認することになったが、これは幕府が実権をもっているという現在の事実を説明するために、あとから施された思想的解釈に過ぎないことではあるものの、徳川氏のもっている法制上の官職が天皇の任命によるものであることにおいて、それが象徴せられているといわばいわれよう。

 これもまた一種の儀礼に過ぎないものといわばいわれるかもしれぬが、そういう儀礼の行われたところに皇室の志向も徳川氏の態度もあらわれていたので、官職は単なる名誉の表象ではなかった。さて、このような精神的権威のみをもっていられた皇室が昔から長い間つづいて来たということが、またその権威を次第に強めることにもなったので、それによって、皇室は永久であるべきものであるという考が、ますます固められて来たのである。

 というよりも、そういうことが明かに意識せられないほどに、それはきまりきった事実であるとせられた、というほうが適切である。神代の物語の作られた時代においては、皇室の地位の永久性ということは朝廷における権力者の思想であったが、ここに述べたようなその後の歴史的情勢によって、それが朝廷の外に新しく生じた権力者及びその根柢ともなりそれを支持してもいる一般武士の思想ともなって来たので、それはかれらが政治的権力者となりまたは政治的地位を有するようになったからのことである。政治的地位を得れば必ずこのことが考えられねばならなかったのである。

 

 ところで、皇室の権威が考えられるのは、政治上の実権をもっている権家との関係においてのことであって、民衆との関係においてではない。皇室は、大化の改新によって定められた耕地国有の制度がくずれ、それと共に権家の勢威がうち立てられてからは、新に設けられるようになった皇室の私有地民の外には、民衆とは直接の接触はなかった。

 いわゆる摂関時代までは、政治は天皇の名において行われたけれども、天皇の親政ではなかったので、従ってまた皇室が権力を以て直接に民衆に臨まれることはなかった。後になって、皇室の一部の態度として、承久・建武のばあいの如く、武力を以て武家の政府を覆えそうという企ての行われたことはあっても、民衆に対して武力的圧迫を加え、民衆を敵としてそれを征討せられたことは、ただの一度もなかった。

 一般民衆は皇室について深い関心をもたなかったのであるが、これは一つは、民衆が政治的に何らの地位をももたず、それについての知識をももたなかった時代だからのことでもある。


 しかし政治的地位をばもたなかったが知識をもっていた知識人においては、それぞれの知識に応じた皇室感を抱いていた。儒家の知識をもっていたものはそれにより、仏教の知識をもっていたものはまたそれによってである。そうしてその何れにおいても、皇室の永久であるべきことについて何の疑いをも容いれなかった。

 儒家の政治の思想としては、王室の更迭することを肯定しなければならぬにかかわらず、極めて少数の例外を除けば、その思想を皇室に適用しようとはしなかった。そうしてそれは皇室の一系であることが厳然たる古来の事実であるからであると共に、文化が一般にひろがって、権力階級の外に知識層が形づくられ、そうしてその知識人が政治に関心をもつようになったからでもある。
 仏家は、権力階級に縁故が深かったためにそこからひきつがれた思想的傾向があったのと、その教理にはいかなる思想にも順応すべき側面をもっているのとのために、やはりこの事実を承認し、またそれを支持することにつとめた。


 しかし、神代の物語の作られたころと後世との間に、いくらかの違いの生じたことがらもあるので、その一つは「現つ神」というような称呼があまり用いられなくなり、よし儀礼的因襲的に用いられるばあいがあるにしても、それに現実感が伴わないようになった、ということである。

 「天皇」という御称号は用いられても、そのもとの意義は忘れられた。天皇が神の祭祀を行われることは変らなかったけれども、それと共にまたそれと同じように、仏事をも営まれた。そうして令の制度として設けられた天皇の祭祀の機関である神祇官は、後になるといつのまにかその存在を失った。天皇の地位の宗教的性質は目にたたなくなったのである。文化の進歩と政治上の情勢とがそうさせたのである。

 その代り、儒教思想による聖天子の観念が天皇にあてはめられることになった。これは記紀にすでにあらわれていることであるが、後になると、天皇みずからの君徳の修養としてこのことが注意せられるようになった。その最も大せつなことは、君主は仁政を行い民を慈愛すべきである、ということである。
 
 天皇の親政が行われないかぎり、それは政治の上に実現せられないことではあった(儒教の政治道徳説の性質として、よし親政が行われたにしても実現のむつかしいことでもあった)が、国民みずからがみずからの力によってその生活を安固にもし、高めてもゆくことを本旨とする現代の国家とはその精神の全く違っていたむかしの政治形態においては、君主の道徳的任務としてこのことの考えられたのは、意味のあることであったので、歴代の天皇が、単なる思想の上でのことながら、民衆に対して仁慈なれということを考えられ、そうしてそれが皇室の伝統的精神として次第に伝えられて来たということは、重要な意味をもっている。

 そうしてこういう道徳思想が儒教の経典の文字のままに、君徳の修養の指針とせられたのは、実は、天皇が親みずから政治をせられなかったところに、一つの理由があったのである。
 みずから政治をせられたならば、もっと現実的なことがらに主なる注意がむけられねばならなかったに違いないからである。


 次には、皇室が文化の源泉であったという上代の状態が、中世ころまではつづいていたが、その後次第に変って来て、文化の中心が武士と寺院とに移り、そのはてには全く民間に帰してしまった、ということが考えられよう。国民の生活は変り文化は進んで来たが、皇室は生命を失った古い文化の遺風のうちにその存在をつづけていられたのである。皇室はこのようにして、実際政治から遠ざかった地位にいられると共に、文化の面においてもまた国民の生活から離れられることになった。

 ただこうなっても、皇室とその周囲とにそのなごりをとどめている古い文化のおもかげが知識人の尚古思想の対象となり、皇室が雲の上の高いところにあって一般人の生活と遠くかけはなれていることと相応じて、人々にそれに対する一種のゆかしさを感ぜしめ、なお政治的権力関係においては実権をもっているものに対して弱者の地位にあられることに誘われた同情の念と、朝廷の何ごとも昔に比べて衰えているという感じから来る一種の感傷とも、それを助けて、皇室を視るに一種の詩的感情を以てする傾向が知識人の間に生じた。

 そうしてそれが国民の皇室観の一面をなすことになった。このようにして、神代の物語の作られた時代の事情のうちには、後になってなくなったものもあるが、それに代る新しい事情が生じて、それがまたおのずから皇室の永久性に対する信念を強めるはたらきをしたのである。

 

 ところが、十九世紀の中期における世界の情勢は、日本に二重政体の存続することを許さなくなった。日本が列国の一つとして世界に立つには、政府は朝廷か幕府かどれかの一つでなくてはならぬことが明かにせられた。明治維新はそこで行われたのである。

 この維新は思想革命でもなく社会改革でもなく、実際に君主のことを行って来た幕府の主宰者たる将軍からその権を奪って、それを天皇に属させようとしたこと、いわば天皇親政の制を定めようとしたことを意味するのであって、どこまでも政治上の制度の改革なのである。

 この意味においては、大化改新及びそれを完成させた令の制度への復帰というべきである。ただその勢のおもむくところ、封建制度を廃しまたそれにつれて武士制度を廃するようになったことにおいて、社会改革の意義が新にそれに伴うようになっては来たが、それとても実は政治上の必要からのことであった。
 ヨウロッパの文物や思想をとり入れたのは、幕府の施設とその方針とをうけついだものであるから、これはメイジ維新の新しいしごとではなかった。維新にまで局面をおし進めた力のうちには、むしろ頑冥がんめいな守旧思想があったのである。


 さて幕府が消滅し、封建諸侯と武士とがその特殊の身分を失って、すべての士民は同じ一つの国民として融合したのであるから、この時から後は、皇室は直接にこの一般国民に対せられることになり、国民は始めて現実の政治において皇室の存在を知ることになった。

 また宮廷においても新にヨウロッパの文物を採用せられたから、同じ状態にあった国民の生活とは、文化の面においてもさしたる隔たりがなくなった。これはおのずから皇室と国民とが親しく接触するようになるよい機会であったので、明治の初めには、そういう方向に進んで来た形跡も見られるし、天皇親政の制が肯定せられながら輿論政治・公議政治の要求の強く現われたのも、またこの意味を含んでいたものと解することができる。

 ヨウロッパに発達した制度にならおうとしたものながら、民選議院の設立の議には、立憲政体は政治を国民みずからの政治とすることによって国民がその責に任ずると共に、天皇を政治上の責任のない安泰の地位に置き、それによって皇位の永久性を確実にし、いわゆる万世一系の皇統を完からしめるものである、という考があったのである。


 しかし実際において政治を左右する力をもっていたいわゆる藩閥は、こういう思想の傾向には反対の態度をとり、宮廷その他の諸方面に存在する固陋ころうなる守旧思想もまたそれと結びついて、皇室を国民とは隔離した高い地位に置くことによってその尊厳を示そうとし、それと共に、シナ思想にも一つの由来はありながら、当時においてはやはりヨウロッパからとり入れられたものとすべき、帝王と民衆とを対立するものとする思想を根拠として、国民に対する天皇の権力を強くし政治上における国民のはたらきをできるだけ抑制することが、皇室の地位を鞏固きょうこにする道であると考えた。

 憲法はこのような情勢の下に制定せられたのである。そうしてそれと共に、同じくヨウロッパの一国から学ばれた官僚制度が設けられ、行政の実権が漸次その官僚に移ってゆくようになった。

 なお明治維新によって幕府と封建諸侯とからとりあげられた軍事の権が一般政務の間に優越な地位を占めていた。これらのいろいろの事情によって、皇室は煩雑にして冷厳なる儀礼的雰囲気の裡うちにとざされることによって、国民とは或る距離を隔てて相対する地位におかれ、国民は皇室に対して親愛の情を抱くよりはその権力と威厳とに服従するようにしむけられた。

 皇室の仁慈ということは、断えず説き示されたのであるが、儒教思想に由来のあるこの考は、上に述べた如く現代の国家と国民生活との精神とは一致しないものである。そうしてこのことと並行して、学校教育における重要なる教科として万世一系の皇室を戴く国体の尊厳ということが教えられた。

 一般民衆はともかくもそれによって皇室の一系であられることを知り、皇位の永久性を信ずるようになったが、しかしその教育は主として神代の物語を歴史的事実の如く説くことによってなされたのであるから、それは現代人の知性には適合しないところの多いものであった。

 皇室と国民との関係に、封建時代に形づくられ儒教道徳の用語を以て表現せられた君臣間の道徳思想をあてはめようとしたのも、またこういう為政者のしわざであり、また別の方面においては、宗教的色彩を帯びた一種の天皇崇拝に似た儀礼さえ学校において行わせることにもなったが、これらの何れも、現代人の国家の精神また現代人の思想と相容れぬものであった。

 さて、このような為政者の態度は、実際政治の上においても、憲法によって定められた輔弼ほひつの道をあやまり、皇室に責任を帰することによって、しばしば累をそれに及ぼした。
 それにもかかわらず、天皇は国民に対していつも親和のこころを抱いていられたので、何らかの場合にそれが具体的の形であらわれ、また国民、特にその教養あり知識あるものは、率直に皇室に対して親愛の情を披瀝ひれきする機会の得られることを望み、それを得た場合にそれを実現することを忘れなかった。

 「われらの摂政殿下」というような語の用いられた場合のあるのは、その一例である。そうして遠い昔からの長い歳月を経て歴史的に養われまた固められた伝統的思想を保持すると共に、世界の情勢に適応する用意と現代の国家の精神に調和する考えかたによって、皇室の永久性を一層明かにし一層固くすることに努力して来たのである。


 ところが、最近に至って、いわゆる天皇制に関する論議が起ったので、それは皇室のこの永久性に対する疑惑が国民の一部に生じたことを示すもののように見える。これは、軍部及びそれに附随した官僚が、国民の皇室に対する敬愛の情と憲法上の規定とを利用し、また国史の曲解によってそれをうらづけ、そうすることによって、政治は天皇の親政であるべきことを主張し、もしくは現にそうであることを宣伝するのみならず、天皇は専制君主としての権威をもたれねばならぬとし、あるいは現にもっていられる如くいいなし、それによって、軍部の恣ほしいままなしわざを天皇の命によったもののように見せかけようとしたところに、主なる由来がある。

 アメリカ及びイギリスに対する戦争を起そうとしてから後は、軍部のこの態度はますます甚しくなり、戦争及びそれに関するあらゆることはみな天皇の御意志から出たものであり、国民がその生命をも財産をもすてるのはすべて天皇のおんためである、ということを、ことばをかえ方法をかえて断えまなく宣伝した。

 そうしてこの宣伝には、天皇を神としてそれを神秘化すると共に、そこに国体の本質があるように考える頑冥固陋にして現代人の知性に適合しない思想が伴っていた。しかるに戦争の結果は、現に国民が遭遇したようなありさまとなったので、軍部の宣伝が宣伝であって事実ではなく、その宣伝はかれらの私意を蔽おおうためであったことを、明かに見やぶることのできない人々の間に、この敗戦もそれに伴うさまざまの恥辱も国家が窮境に陥ったことも社会の混乱も、また国民が多くその生命を失ったことも一般の生活の困苦も、すべてが天皇の故である、という考がそこから生れて来たのである。

 むかしからの歴史的事実として天皇の親政ということが殆どなかったこと、皇室の永久性の観念の発達がこの事実と深い関係のあったことを考えると、軍部の上にいったような宣伝が戦争の責任を天皇に嫁することになるのは、自然のなりゆきともいわれよう。こういう情勢の下において、特殊の思想的傾向をもっている一部の人々は、その思想の一つの展開として、いわゆる天皇制を論じ、その廃止を主張するものがその間に生ずるようにもなったのであるが、これには、神秘的な国体論に対する知性の反抗もてつだっているようである。

 またこれから後の日本の政治の方向として一般に承認せられ、国民がその実現のために努力している民主主義の主張も、それを助け、またはそれと混合せられてもいるので、天皇の存在は民主主義の政治と相容れぬものであるということが、こういう方面で論ぜられてもいる。

 このような天皇制廃止論の主張には、その根拠にも、その立論のみちすじにも、幾多の肯うべないがたきところがあるが、それに反対して天皇制の維持を主張するものの言議にも、また何故に皇室の永久性の観念が生じまた発達したかの真の理由を理解せず、なおその根拠として説かれていることが歴史的事実に背そむいている点もある上に、天皇制維持の名の下に民主主義の政治の実現を阻止しようとする思想的傾向の隠されているがごとき感じを人に与えることさえもないではない。

 もしそうならば、その根柢にはやはり民主主義の政治と天皇の存在とは一致しないという考えかたが存在する。が、これは実は民主主義をも天皇の本質をも理解せざるものである。


 日本の皇室は日本民族の内部から起って日本民族を統一し、日本の国家を形成してその統治者となられた。過去の時代の思想においては、統治者の地位はおのずから民衆と相対するものであった。しかし事実としては、皇室は高いところから民衆を見おろして、また権力を以て、それを圧服しようとせられたことは、長い歴史の上において一度もなかった。いいかえると、実際政治の上では皇室と民衆とは対立するものではなかった。

 ところが、現代においては、国家の政治は国民みずからの責任を以てみずからすべきものとせられているので、いわゆる民主主義の政治思想がそれである。この思想と国家の統治者としての皇室の地位とは、皇室が国民と対立する地位にあって外部から国民に臨まれるのではなく、国民の内部にあって国民の意志を体現せられることにより、統治をかくの如き意義において行われることによって、調和せられる。国民の側からいうと、民主主義を徹底させることによってそれができる。

 国民が国家のすべてを主宰することになれば、皇室はおのずから国民の内にあって国民と一体であられることになる。具体的にいうと、国民的結合の中心であり国民的精神の生きた象徴であられるところに、皇室の存在の意義があることになる。そうして、国民の内部にあられるが故に、皇室は国民と共に永久であり、国民が父祖子孫相承あいうけて無窮に継続すると同じく、その国民と共に万世一系なのである。

 民族の内部から起って民族を統一せられた国家形成の情勢と、事実において民衆と対立的関係に立たれなかった皇室の地位とは、おのずからかくの如き考えかたに適応するところのあるものである。また過去の歴史において、時勢の変化に順応してその時々の政治形態に適合した地位にいられた皇室の態度は、やがて現代においては現代の国家の精神としての民主政治を体現せられることになるのである。

 上代の部族組織、令の制度の下における生活形態、中世にはじまった封建的な経済機構、それらがいかに変遷して来ても、その変遷に順応せられた皇室は、これから後にいかなる社会組織や経済機構が形づくられても、よくそれと調和する地位に居られることになろう。

 ただ多数の国民がまだ現代国家の上記の精神を体得するに至らず、従ってそれを現実の政治の上に貫徹させることができなかったために、頑冥な思想を矯正し横暴または無気力なる為政者を排除しまた職責を忘れたる議会を改造して、現代政治の正しき道をとる正しき政治をうち立てることができず、邪路に走った為政者に国家を委ねて、遂にかれらをして、国家を窮地に陥れると共に、大なる累を皇室に及ぼさせるに至ったのは、国民みずから省みてその責を負うところがあるべきである。

 国民みずから国家のすべてを主宰すべき現代においては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」はわれらが愛さねばならぬ。国民の皇室は国民がその懐にそれを抱くべきである。二千年の歴史を国民と共にせられた皇室を、現代の国家、現代の国民生活に適応する地位に置き、それを美しくし、それを安泰にし、そうしてその永久性を確実にするのは、国民みずからの愛の力である。

 国民は皇室を愛する。愛するところにこそ民主主義の徹底したすがたがある。国民はいかなることをもなし得る能力を具え、またそれをなし遂げるところに、民主政治の本質があるからである。
 そうしてまたかくのごとく皇室を愛することは、おのずから世界に通ずる人道的精神の大なる発露でもある。

 

         「津田左右吉歴史論集」岩波文庫 
            2006(平成18)年8月17日第1刷

          親本:「世界 四」
            1946(昭和21)年4月


津田左右吉「建国の事情と万世一系の思想」(一) 

2019-12-21 23:32:04 | 作家・思想家

  「建国の事情と万世一系の思想」(一)
    津田左右吉

 

 今、世間で要求せられていることは、これまでの歴史がまちがっているから、それを改めて真の歴史を書かねばならぬ、というのであるが、こういう場合、歴史がまちがっているということには二つの意義があるらしい。

 一つは、これまで歴史的事実を記述したものと考えられていた古書が実はそうでない、ということであって、例えば『古事記』や『日本紀』は上代の歴史的事実を記述したものではない、というのがそれである。
 
 これは史料と歴史との区別をしないからのことであって、記紀は上代史の史料ではあるが上代史ではないから、それに事実でないことが記されていても、歴史がまちがっているということはできぬ。
 史料は真偽混雑しているのが常であるから、その偽なる部分をすて真なる部分をとって歴史の資料とすべきであり、また史料の多くは多方面をもつ国民生活のその全方面に関する記述を具えているものではなく、或る一、二の方面に関することが記されているのみであるから、どの方面の資料をそれに求むべきかを、史料そのものについて吟味しなければならぬ。

 史料には批判を要するというのはこのことである。例えば記紀において、外観上、歴史的事実の記録であるが如き記事においても、こまかに考えると事実とは考えられぬものが少なくないから、そこでその真偽の判別を要するし、また神代の物語などの如く、一見して事実の記録と考えられぬものは、それが何ごとについての史料であるかを見定めねばならぬ。
 物語に語られていること、即ちそこにはたらいている人物の言動などは、事実ではないが、物語の作られたことは事実であると共に、物語によって表現せられている思想もまた事実として存在したものであるから、それは外面的の歴史的事件に関する史料ではないが、文芸史思想史の貴重なる史料である。

 こういう史料を史料の性質に従って正しく用いることによって、歴史は構成せられる。史料と歴史とのこの区別は、史学の研究者においては何人も知っていることであるが、世間では深くそのことを考えず、記紀の如き史料をそのまま歴史だと思っているために、上にいったようなことがいわれるのであろう。


 いま一つは、歴史家の書いた歴史が、上にいった史料の批判を行わず、またはそれを誤り、そのために真偽の弁別がまちがったり、史料の性質を理解しなかったり、あるいはまた何らかの偏見によってことさらに事実を曲げたり、恣ほしいままな解釈を加えたりして、その結果、虚偽の歴史が書かれていることをいうのである。

 さてこの二つの意義の何いずれにおいても、これまで一般に日本の上代史といわれているものは、まちがっている、といい得られる。
 然しからば真の上代史はどんなものかというと、それはまだでき上がっていない。という意味は、何人にも承認せられているような歴史が構成せられていない、ということである。

 上にいった史料批判が歴史家によって一様でなく、従って歴史の資料が一定していない、ということがその一つの理由である。従って次に述べるところは、わたくしの私案に過ぎないということを、読者はあらかじめ知っておかれたい。ただわたくしとしては、これを学界ならびに一般世間に提供するだけの自信はもっている。

 

一 上代における国家統一の情勢

 

 日本の国家は日本民族と称し得られる一つの民族によって形づくられた。この日本民族は近いところにその親縁のある民族をもたぬ。大陸におけるシナ(支那)民族とは、もとより人種が違う。朝鮮・満洲・蒙古方面の諸民族とも違うので、このことは体質からも、言語からも、また生活のしかたからも、知り得られよう。
 ただ半島の南端の韓民族のうちには、あるいは日本民族と混血したものがいくらかあるのではないか、と推測せられもする。また洋上では、琉球の大部分に同じ民族の分派が占居したであろうが、台湾及びそれより南の方の島々の民族とは同じでない。本土の東北部に全く人種の違うアイヌ(蝦夷)のいたことは、いうまでもない。


 こういう日本民族の原住地も、移住して来た道すじも、またその時期も、今まで研究せられたところでは、全くわからぬ。生活の状態や様式やから見ると、原住地は南方であったらしく、大陸の北部でなかったことは推測せられるが、その土地は知りがたく、来住の道すじも、世間でよく臆測せられているように海路であったには限らぬ。

 時期はただ遠い昔であったといい得るのみである。原住地なり、来住の途上なり、またはこの島に来た時からなりにおいて、種々の異民族をいくらかずつ包容し、またはそれらと混血したことはあったろうが、民族としての統一を失うほどなことではなく、遠い昔から一つの民族として生活して来たので、多くの民族の混和によって日本民族が形づくられたのではない。
 この島に来た時に、民族の違うどれだけかの原住民がいたのではあろうが、それが、一つもしくは幾つかの民族的勢力として、後までも長く残ってはいなかったらしく、時と共に日本民族に同化せられ包容せられてしまったであろう。


 こういう日本民族の存在の明かに世界に知られ、世界的意義をもつようになったことの今日にわかるのは、前一世紀もしくは二世紀であって、シナでは前漢の時代である。これが日本民族の歴史時代のはじまりである。それより前のこの民族の先史時代がこの島においてどれだけつづいていたかはわからぬが、長い、長い、年月であったことは、推測せられる。

 先史時代の日本民族の生活状態は先史考古学の示すところの外は、歴史時代の初期の状態から逆推することによって、その末期のありさまがほぼ想像せられる。主なる生業は農業であったが、この島に住んでいることが既に久しいので、親子夫妻の少数の結合による家族形態が整い、安定した村落が形づくられ、多くのそういう村落のを包含する小国家が多く成り立っていたので、政治的には日本民族は多くの小国家に分れていたのである。

 この小国家の君主は、政治的権力と共に宗教的権威をももっていたらしく、種々の呪術や原始的な宗教心のあらわれとしての神の祭祀やが、その配下の民衆のために、かれらによって行われ、それが政治の一つのはたらきとなっていた。地方によっては、これらの小国家の一つでありながら、その君主が附近の他の幾つかの小国家の上に立ってそれらを統御したものもあったようである。

 君主の権威は民衆から租税を徴しまたはかれらを使役することであったろうが、小国家においては、君主は地主としての性質を多分に具えていたのではないか、従ってまた君主は、政治的権力者ではあるが、それと共に配下の民衆の首長もしくは指導者というような地位にいたのではないか、と推測せられもする。
 農業そのことの本質に伴う風習として、耕地が何人かの私有であったことは、明かであろう。

 この日本民族は牧畜をした形跡はないが、漁猟は到るところで営まれ、海上の交通も沿海の住民によって盛さかんに行われた。
 しかしこういうことを生業としたものも、日本民族であることに変りはなく、住地の状態によってそれに適応する生活をしていたところに、やはりこの島に移住して来てから長い歳月を経ていたことが示されている。用いていた器具が石器であったことは、勿論である。


 日本民族の存在が世界的意義をもつようになったのは、今の九州の西北部に当る地方のいくつかの小国家に属するものが、半島の西南に沿うて海路その西北部に進み、当時その地方にひろがって来ていたシナ人と接触したことによって、はじまったのである。

 彼らはここでシナ人から絹や青銅器などの工芸品や種々の知識やを得て来たので、それによってシナの文物を学ぶ機会が生じ、日本民族の生活に新しい生面が開け初めた。青銅器の製作と使用との始まったのは前一世紀の末のころであったらしく、その後もかなり長い間はいわゆる金石併用時代であったが、ともかくもシナの文物をうけ入れることになった地方の小国家の君主はそれによって、彼らの権威をもその富をも加えることができた。

 九州地方の諸小国とシナ人とのこの接触は、一世紀二世紀を通じて変ることなく行われたが、その間の関係は時がたつにつれて次第に密接になり、シナ人から得る工芸品や知識やがますます多くなると共に、それを得ようとする欲求もまた強くなり、その欲求のために船舶を派遣する君主の数も多くなった。

 鉄器の使用もその製作の技術もまたこの間に学び初められたらしい。ところが三世紀になると、文化上の関係が更に深くなると共に、その交通にいくらかの政治的意義が伴うことになり、君主の間には、半島におけるシナの政治的権力を背景として、あるいは附近の諸小国の君主に臨み、あるいは敵対の地位にある君主を威圧しようとするものが生じたので、ヤマト(邪馬台、今の筑後の山門か)の女王として伝えられている卑弥呼がそれである。
 
 当時、このヤ
鉄器の使用もその製作の技術もまたこの間に学び初められたらしい。ところが三世紀になると、文化上の関係が更に深マトの君主はほぼキュウシュウの北半の諸小国の上にその権威を及ぼしていたようである。

 九州地方の諸君主が得たシナの工芸品やその製作の技術や、その他の種々の知識は、瀬戸内海の航路によって、早くから後のいわゆる近畿地方に伝えられ、一、二世紀のころにはその地域に文化の一つの中心が形づくられ、そうしてそれには、その地方を領有する政治的勢力の存在が伴っていたことが考えられる。

 この政治的勢力は種々の方面から考察して、皇室の御祖先を君主とするものであったことが、ほぼ知り得られるようであり、ヤマト(大和)がその中心となっていたであろう。

 それがいつからの存在であり、どうしてうち立てられたかも、その勢力の範囲がどれだけの地域であったかも、またどういう径路でそれだけの勢力が得られたかも、すべてたしかにはわからぬが、後の形勢から推測すると、二世紀ごろには上にいったような勢力として存在したらしい。
 その地域の西南部は少くとも今の大阪湾の沿岸地方を含んでいて、瀬戸内海の航路によって遠く九州方面と交通し得る便宜をもっていたに違いないが、東北方においてどこまでひろがっていたかは、知りがたい。

 この地域のすべてが直接の領土として初めから存在したには限らず、あるいは、そこに幾つかの小国家が成立っていたのを、いつの時からかそれらのうちの一つであったヤマト地方の君主、即ち皇室の御祖先、がそれらを服属させてその上に君臨し、それらを統御するようになり、更に後になってその諸小国を直接の領土として収容した、というような径路がとられたでもあろう。


 三世紀にはその領土が次第にひろがって、西の方ではセト内海の沿岸地方を包含するようになり、東北地方でもかなりの遠方までその勢力の範囲に入ったらしく、想像せられるが、それもまた同じような道すじを経てのことであったかも知れぬ。しかし具体的にはその情勢が全く伝えられていない。

 ただ出雲地方にはかなり優勢な政治的勢力があって、それは長い間このヤマトを中心とする勢力に対して反抗的態度をとっていたようである。さてこのような、ヤマトを中心として後のキンキ地方を含む政治的勢力が形づくられたのは、一つは、西の方から伝えられた新しい文物を利用することによって、その実力が養い得られたためであろうと考えられるが、一つは、その時の君主の個人的の力によるところも少なくなかったであろう。

 如何いかなる国家にもその勢力の強大になるには創業の主ともいうべき君主のあるのが、一般の状態だからである。そうして険要の地であるヤマトと、豊沃で物資の多い淀河の平野と、海路の交通の要地であるオオサカの沿岸とを含む、地理的に優れた地位を占めていることが、それから後の勢力の発展の基礎となり、勢力が伸びれば伸びるに従って君主の欲望もまた大きくなり、その欲望が次第に遂げられて勢力が強くなってゆくと、多くの小国の君主はそれに圧せられて漸次服属してゆく、という情勢が展開せられて来たものと推測せられる。


 しかし三世紀においては、出雲の勢力を帰服させることはできたようであるけれども、九州地方にはまだ進出することはできなかった。それは半島におけるシナの政治的勢力を背景とし、九州の北半における諸小国を統御している強力なヤマト(邪馬台)の国家がそこにあったからである。

 けれども、四世紀に入るとまもなく、アジヤ大陸の東北部における遊牧民族の活動によってその地方のシナ人の政治的勢力が覆くつがえされ、半島におけるそれもまた失われたので、邪馬台の君主はその頼るところがなくなった。
 東方なる大和の勢力はこの機会に乗じてキュウシュウの地に進出し、その北半の諸小国とそれらの上に権威をもっていたヤマト(邪馬台)の国とを服属させたらしい。四世紀の前半のことである。

 そうしてこの勢の一歩を進めたのが、四世紀の後半における大和朝廷の勢力の半島への進出であって、それによって我が国と半島とに新しい事態が生じた。そうして半島を通じてヤマトの朝廷にとり入れられたシナの文物が皇室の権威を一層強め、従ってまた一つの国家として日本民族の統一を一層かためてゆくはたらきをすることになるのである。

 ただ九州の南半、即ちいわゆるクマソ(熊襲)の地域にあった諸小国は、五世紀に入ってからほぼ完全に服属させることができたようである。
 東北方の諸小国がヤマトの国家に服属した情勢は少しもわからぬが、西南方においてキュウシュウの南半が帰服した時代には、日本民族の住地のすべてはヤマトの国家の範囲に入っていたことが、推測せられる。
 それは即ちほぼ今の関東から信濃を経て越後の中部地方に至るまでである。


 皇室の御祖先を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が、ほぼこういうものであったとすれば、普通に考えられているような日本の建国というきわだった事件が、或る時期、或る年月、に起ったのでないことは、おのずから知られよう。

 日本の建国の時期を皇室によって定め、皇室の御祖先がヤマトにあった小国の君主にはじめてなられた時、とすることができるかもしれぬが、その時期はもとよりわからず、また日本の建国をこういう意義に解することも妥当とは思われぬ。
 もし日本民族の全体が一つの国家に統一せられた時を建国とすれば、そのおおよその時期はよし推測し得られるとしても、たしかなことはやはりわからず、そうしてまたそれを建国とすることもふさわしくない。

 日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられて来たものであるから、特に建国というべき時はないとするのが、当っていよう。

 要するに、皇室のはじめと建国とは別のことである。日本民族の由来がこの二つのどれとも全くかけはなれたものであることは、なおさらいうまでもない。むかしは、いわゆる神代の説話にもとづいて、皇室は初から日本の全土を領有せられたように考え、皇室のはじめと日本全土の領有という意義での建国とが同じであるように思われていたし、近ごろはこの二つとこの島における日本民族のはじめとの三つさえも、何となく混雑して考えられているようであるが、それは上代の歴史的事実を明かにしないからのことである。


 さて、ここに述べたことには、それぞれ根拠があるが、今はそういう根拠の上に立つこの建国史の過程を略述したのみであって、一々その根拠を示すことはさしひかえた。ところで、もしこの歴史的過程が事実に近いものであるとするならば、ジンム(神武)天皇の東征の物語は決して歴史的事実を語ったものでないことが知られよう。

 それはヤマトの皇都の起源説話なのである。日本民族が皇室の下に一つの国家として統一せられてから、かなりの歳月を経た後、皇室の権威が次第に固まって来た時代、わたくしの考かんがえではそれは六世紀のはじめのころ、において、一層それを固めるために、朝廷において皇室の由来を語る神代の物語が作られたが、それには、皇祖が太陽としての日の神とせられ、天上にあるものとせられたのであるから、皇孫がこの国に降ることが語られねばならず、そうしてその降られた土地がヒムカ(日向)とせられたために、それと現に皇都のあるヤマトとを結びつける必要が生じたので、そこでこの東征物語が作られたのである。

 ヤマトに皇都はあったが、それがいつからのことともわからず、どうしてそこに皇都があることになったかも全く知られなくなっていたので、この物語はおのずからその皇都の起源説話となったのである。
 東征は日の神の加護によって遂げられたことになっているが、これは天上における皇祖としての日の神の皇都が「天つ日嗣」をうけられた皇孫によって地上のヒムカに遷され、それがまた神武天皇によってヤマトに遷されたことを、語ったものであり、皇祖を日の神とする思想によって作られたものである。だからそれを建国の歴史的事実として見ることはできない。


 それから後の政治的経営として『古事記』や『日本紀』に記されていることも、仲哀天皇のころまでのは、すべて歴史的事実の記録とは考えられぬ。ただ歴代の天皇の系譜については、ほぼ三世紀のころであろうと思われる崇神天皇から後は、歴史的の存在として見られよう。

 それより前のについては、いろいろの考えかたができようが、系譜上の存在がどうであろうとも、ヤマトの国家の発展の形勢を考えるについては、それは問題の外におかるべきである。創業の主ともいうべき君主のあったことが何らかの形で後にいい伝えられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何ごとかがはじめて文字に記録せられたと考えられる四世紀の終において、既に知られなくなっていたので、記紀には全くあらわれていない。


 ところで、ヤマトの皇室が上に述べたように次第に諸小国の君主を服属させていったそのしかたはどうであったかというに、それはあいてにより場合によって一様ではなかったろう。武力の用いられたこともあったろう。

 君主の地位に伴っている宗教的権威のはたらきもあったろう。しかし血なまぐさい戦争の行われたことは少かったろうと推測せられる。もともと日本民族が多くの小国家に分れていても、その間に断えざる戦争があったというのではなく、武力的競争によってそれらの国家が存在したのではなかった。

 農業民は本来平和を好むものである。この農業民の首領であり指導者であり或る意味において大地主らしくもある小君主もまた、その生存のためには平和が必要である。また、ともすれば戦争の起り易い異民族との接触がなく、すべての国家がみな同一民族であったがために、好戦的な殺伐な気風も養われなかった。

 小国家が概して小国家たるにとどまって、甚だしく強大な国家の現われなかったのも、勢力の強弱と領土の大小とを来たすべき戦争の少かったことを、示すものと解せられよう。

 九州地方においてかのヤマト(邪馬台)が、附近の多くの小国を存続させながら、それらの上に勢力を及ぼしていたのも、戦勝国の態度ではなかったように見える。
 かなり後になっても、日本に城廓建築の行われなかったことも、またこのことについて参考せらるべきである。皇室が多くの小国の君主を服属させられたのは、このような一般的状態の下において行われたことであり、皇室がもともとそれらの多くの小国家の君主の家の一つであったのであるから、その勢力の発展が戦争によることの少かったことは、おのずから推測せられよう。

 国家の統一せられた後に存在した地方的豪族、いわゆる国造県主など、の多くが統一せられない前の小君主の地位の継続せられたものであるらしいこと、皇居に城廓などの軍事的設備が後までも設けられなかったこと、なども、またこの推測を助ける。

 皇室の直轄領やヤマトの朝廷の権力者の領土が、地方的豪族の領土の間に点綴して置かれはしたので、そのうちには昔の小国家の滅亡したあとに設けられたものもあろうが、よしそうであるにしても、それらがどうして滅亡したかはわからぬ。


 統一の後の国造などの態度によって推測すると、ヤマトの朝廷の勢威の増大するにつれて、諸小国の君主はその地位と領土とを保全するためには、みずから進んでそれに帰服するものが多かったと考えられる。
 かれらは武力による反抗を試みるにはあまりに勢力が小さかったし、隣国と戦争をした経験もあまりもたなかったし、また多くの小国家に分れていたとはいえ、もともと同じ一つの日本民族として同じ歴史をもち、言語・宗教・風俗・習慣の同じであるそれらであるから、新におのれらの頭上に臨んで来る大きな政治的勢力があっても、それに対しては初から親和の情があったのであろう。

 また従来とても、もしこういう小国家の同じ地域にあるいくつかが、九州における上記の例の如く、そのうちの優勢なものに従属していたことがあったとすれば、皇室に帰服することは、その優勢なものを一層大きい勢力としての皇室にかえたのみであるから、その移りゆきはかなり滑かに行われたらしい、ということも考えられる。

  朝廷の側としては、場合によっては武力も用いられたにちがいなく、また一般に何らかの方法による威圧が加えられたことは、想像せられるが、大勢はこういう状態であったのではあるまいか。


 国家の統一の情勢はほぼこのように考えられるが、ヤマト朝廷のあいてとしたところは、民衆ではなくして諸小国の君主であった。統一の事業はこれらの君主を服属させることによって行われたので、直接に民衆をあいてとしたのではない。武力を以て民衆を征討したのでないことは、なおさらである。

 民衆からいうと、国家が統一せられたというのは、これまでの君主の上にたつことになったヤマトの朝廷に間接に隷属することになった、というだけのことである。皇室の直轄領となった土地の住民の外は、皇室との直接の結びつきは生じなかったのである。
 さて、こうして皇室に服属した民衆はいうまでもなく、国造などの地方的豪族とても、皇室と血族的関係をもっていたはずはなく、従って日本の国家が皇室を宗家とする一家族のひろがったものでないことは、いうまでもあるまい。

 
      

          津田左右吉歴史論集」岩波文庫、岩波書店
         2006(平成18)年8月17日第1刷

      初出「世界 四」
         1946(昭和21)年4月