菊池寛著『二千六百年史抄』
目次
序
神武天皇の御創業
皇威の海外発展と支那文化の伝来
氏族制度と祭政一致
聖徳太子と中大兄皇子
奈良時代の文化と仏教
平安時代
院政と武士の擡頭
鎌倉幕府と元寇
建武中興
吉野時代
足利時代と海外発展
戦国時代
信長、秀吉、家康
鎖国
江戸幕府の構成
尊皇思想の勃興
国学の興隆
江戸幕府の衰亡
勤皇思想の勃興
勤皇志士と薩長同盟
明治維新と国体観念
廃藩置県と征韓論
立憲政治
日露戦争以後
序
今年の初、内閣情報部から発行してゐる「週報」から、最も簡単な日本歴史を書いてくれとの註文を受けた。
多くの史学者に頼まず、僕を選んだのは、なるべく大衆に読ませようとの意図からであらう。
僕は、史学者でもない、歴史研究者でもない。
しかし、歴史を愛し、歴史上の諸人物に親しみを持つ点に於ては、多く人後に落ちないつもりである。
殊に、僕個人として、2600年を記念する意味で、「新日本外史」といふ小著を執筆中であつたので、
「週報」からの依頼も、喜んで引き受けたのである。
悠々たる2600年間の出来事を原稿紙にして、わづか156枚で、まとめることは至難中の至難である。
しかし、僕が素人(しろうと)であればこそ、さう云ふ大胆な仕事も、出来るのではないかと思つてゐる。
この「二千六百年史抄」の本願とするところも、
勿論国体を明徴にし、日本精神を発揚するところにありと思つたから、その点に微力を尽くしたつもりである。
が、何にせよ、片々たる小冊子である。説いて尽さゞる所が、甚だ多いのである。
読者の中、不満を感ずる方があつたならば、どうかこれを機会として、他の史書を広く渉猟して下さらば、
欣懐この上もないのである。
日本歴史の智識を充分に持つことは、日本人としての自覚を持つ上に、最も大切なことではないかと思つてゐる。
昭和15年7月28日
神武天皇の御創業
皇孫彦火瓊瓊杵尊(ひこほのににぎのみこと)が、天照大神の神勅を奉じ、
日向(ひうが)の高千穂(たかちほ)の槵触(くしふる)ノ峰(たけ)に降臨されてから御三代の間は、
九州の南方に在って、国土を経営し、
民力の涵養を図ると共に、周囲の者どもを帰服せしめ、
之を化育することに依って、いよ/\興隆の基礎を築かれたのである。
神武天皇の御世には、その皇化は九州一円に及んで、
皇祖の神勅のまに/\大八洲(おほやしま)を経営すべき自信と力とを獲得されたのであらう。
天皇は、御年15歳にして、皇太子となられたが、御年45歳の時に、
遼邈之地(とほくはるかなるくに)、猶(なほ)未だ王沢(うつくしび)に霑(うるほ)はず、
遂に邑(むら)に君有り、村(あれ)に長(ひとこのかみ)有り、
各自(おの/\)彊(さかひ)を分ちて、用(もっ)て相(あい)凌躒(しのぎきしろ)ふ。
抑又(はたまた)塩土老翁(しほつちのをぢ)に聞きしに曰く、東に美地(よきくに)有り、
青山、四周(よもにめぐれり)、
……余(われ)謂(おも)ふに、
彼地(そのくに)は必ず当(まさ)に以て天業(あまつひつぎのわざ)を恢弘(ひろめのべ)て
天下(あめのした)に光宅(みちを)るに足りぬべし、
蓋(けだ)し六合(くに)の中心(もなか)か。
……何ぞ就(ゆ)きて都(みやこつく)らざらむや。」
と、諸皇兄及び諸皇子に計り給うた。
諸皇族諸臣達、悉く賛同し奉った。即ち、舟師(しうし)を率ゐて、東方へ御進発になつた。
これは、御東征と云ふよりも、東方への御発展とも云ふべきで、
わが大和民族が、理想の大業へと未知の国土へと、敢然たる大行進を為したことを意味するのだと思ふ。
日向を出発して、大和に達せられる迄、古事記に依れば10数年、日本書紀に依れば、6年の歳月が経つてゐる。
これは、古事記の方が実際に近いのではあるまいか。
当時は完全なる船があるわけでないから、沿岸づたひに徐々に東進せられたのであらう。
九州、瀬戸内海、大和地方にかけて、既に御稜威(みいつ)の下に、欣んで帰順する者も多かったが、
事理を解せぬ蛮民も多く、途中に於ても、それらに対する警戒平定に、多くの日時を費されたことと思ふ。
吉備高島には、古事記に依れば、8年御滞在になったとの事であるが、
此の地方に、古墳等の遺跡の多いのを考へても、此処を仮の都として、山陽四国地方の経営に当られ、
武器を整備し、鋭気を養ふと同時に、大和地方の情勢を偵察されたのではあるまいか。
大和の長髄彦(ながすねひこ)との御対戦は、古事記に依つても、その御苦戦が察せられる。
最初の正面攻撃に、成功せられず、皇兄・五瀬命(いつせのみこと)は、敵の矢に当って戦死遊ばされた。
皇兄が戦死された程だから、日向以来従軍してゐる多くの武士を、失はれたことであらう。
天皇は、これに屈し給ふことなく、紀州の南端を迂廻して、南方より大和へ入る作戦を敢行遊ばしたが、
時利あらず、潮岬の颶風(ぐふう)に遭って、皇兄・稲飯命(いなひのみこと)と三毛入野命(みけいりぬのみこと)を失ひ給うた。
稲飯命は
「あゝ、わが父祖は天神(あまつかみ)、わが母は海神(わたつみのかみ)であるのに、
何故にかくも我を陸でも苦しめ、海でも苦しめるのであるか。」と仰せられて、
剣を抜き持ちて海中に入り給うたとあるが、このお歎きは、天皇のお歎きであつたであらう。
此の海上でも、我々の先祖の多くは、皇兄に殉じた事であらう。
が、天皇は、此のおん悲しみに堪へ給うて、皇子・手研耳命(たきしみみのみこと)と軍を率ゐて上陸し給ひ、
或ひは敵の毒気に中(あた)り給ひ、
或ひは熊野の原始林中に迷ひ給ふなどあらゆる辛苦を嘗(な)めさせられたのだ。
軍隊を率ゐて群敵の中を、山塊累々たる熊野から大和に入られることなどは、
奇蹟的な難事業であると云つてもよいだらう。
しかも、漸く辿り着かれた大和も、群敵の巣窟であった。
頑敵たる長髄彦(ながすねひこ)を初め、八十梟帥(やそたける)、磯城(しき)賊、猾(うかし)賊、土蜘蛛(つちぐも)など、
兇悪な蛮賊が到る処に、皇軍を待つてゐた。
神武天皇は、御天性の勇武とあらゆる智略とを以て、これ等を次ぎ/\に征服して行かれた。
しかしながら、寛宏なる皇師は、これらの者どもに対して、決して殲滅的攻略に出ることはなかつた。
帰服(まつろ)はぬ者こそ、平定したが、天つ神の子孫が、この中つ国を支配すべき名分を信じて帰順したものには、
最大の仁慈を垂(た)れたまうたやうである。
たとへば、天皇は帰順した弟猾(おとうかし)の献策を用ゐさせ給ふばかりでなく、
股肱の臣たる椎根津彦(しひねつひこ)と一しよに、香具山に潜行して、
その土を取ると云ふ大役を命じ給うて居られるのである。
論功行賞に際しても、さうした降臣をも、日向以来の重臣と同様に、
県主(あがたぬし)などに為したまうてゐるのである。
大和地方を悉く平定せられた後、
「夫れ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随ふ。
苟(いやしく)も民に利(くぼさ)有らば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。
且(ま)た当(まさ)に山林(やま)を披払(ひらきはら)ひ宮室(おほみや)を経営(をさめつく)りて、
恭(つゝし)みて宝位(たかみくらゐ)に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮むべし。
上は則ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまふ徳(うつくしび)に答へ、
下は則ち皇孫(すめみま)の正(たゞしき)を養ひたまひし心(みこゝろ)を弘めむ。
然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以て都を開き、
八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いへ)と為(せ)むこと、
亦、可(よ)からずや。
夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)橿原(かしはら)の地(ところ)を観れば、
蓋し国の墺区(もなか)ならむ、可治之(みやこつくるべし)。」
と詔を下された。
辛酉(かのととり)春正月朔日、橿原宮に即位し給ふ。
此の年を日本の紀元とするのである。
橿原宮の御即位の式には、大伴氏、久米氏、物部氏の祖は、矛(ほこ)を執つて、儀衛に任じ、
斎部(いむべ)氏、中臣(なかとみ)氏の祖(註)は、恭々しく御前に進み出て、
祝詞を言上し奉つてゐる。
いづれも、日向以来歴戦の艱苦を顔に刻みつけた戦場生き残りの士であり、
その盛儀に列した感慨は、どんなであつたであらうか。
日向を進発した時の男女で、生き残つたものは、果して幾人であつたであらうか。
わが大和民族は、神武天皇の御創業当時、かくも大なる試煉を経たのである。
その間に養はれた如何なる困苦にも屈せぬ精神的骨格、民族としての強い団結力、
宗教的にまで高められた天皇尊崇の信仰は、2600年を通じて、日本国民性の中核を成してゐるのである。
(註)大伴氏の祖は、道臣命(みちのおみのみこと)。
久米氏は、大久米命。物部氏は、可美真手命(うましまでのみこと)。
斎部氏は、天富命(あまのとみのみこと)。
中臣氏は、天種子命(あまのたねこのみこと)。
皇威の海外発展と支那文化の伝来
神武天皇より開化天皇に至る迄の御9代の間は、大和地方御経営の時代で、
東は皇室に御縁故深き伊勢地方、西は播磨あたり迄、北は敦賀地方あたりまでが、追々皇化に浴して来たが、
他の地方にはなほ多くの土豪が割拠してゐたのである。
然るに、第10代崇神(すじん)天皇は、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称せられ給ふ聖主で、
神武御創業後の偉業を達成せられてゐる。
日本書紀に依れば、此の御代に四道将軍を派遣せられたとあるが、
当時初めて東海、北陸、吉備、丹波地方への交通が開け、
皇化がこの交通線に沿うて、辺鄙の地に及んだことが察せられる。
この時代には、内政も漸く整ひ、
人民に対し、初めて弓弭(ゆはず)の調(みつぎ)、手末(たなすゑ)の調(みつぎ)を課せられてゐる。
第12代景行天皇の御代になると、
朝廷の稜威(りようゐ)は国内に於ける群小の土豪どもを悉く平定せしめて、
たゞ西に熊襲(くまそ)、東に蝦夷(えぞ)の二族を残すだけになった。(註)
この二族の平定者として、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御名が美しく輝いてゐる。
日本武と云ふ御名は、大和朝廷の武威が、日本全国を圧したことを意味するのではないかと思はれる。
が、熊襲や蝦夷は一、二度の御征討に依って、屈服するものでなく、
仲哀(ちゆうあい)天皇の御世に又叛いて、神功皇后の三韓征伐の遠因をなしてゐるし、
蝦夷は勢力強大で、東海、東山(とうさん)より奥羽地方にかけて蟠踞(ばんきよ)し、
長く化外の民として、平安時代に至る迄、わが朝廷に背いてゐるのである。
皇威が、中国より九州に遍(あまね)く及ぶに至って、朝鮮から大加羅国(おほからこく)の使が入朝し来つた。
日本書紀では、崇神(すじん)天皇の御代の末、朝貢の使が穴門(あなと)(今の長門)に来ったが、
天皇崩御後なので、垂仁(すゐにん)天皇が父天皇の御名を取って、任那の国号を賜うたとある。
大加羅国は、現在の慶尚南道に在った国であるが、日本が接触した最初の外国であるから、
日本人はカラと云ふ名をその後外国の総称に使ひ、支那大陸まで唐(から)と云ったのであらう。
神功皇后の新羅征伐は、熊襲の背後を成す新羅を伐(う)つと共に、
この任那を新羅の圧迫より救援されるための出師(すゐし)であつたとも云はれる。
その後、百済もわが国の保護を依頼して、入朝して来たので、わが国威は南朝鮮を掩(おほ)ひ、
任那に日本府を置いて国司を任じ、事あれば将軍を派遣されたのである。
神功皇后の新羅征伐は、わが国威を海外に知らしめたばかりでなく、
以来彼我の交通が開けて、彼地の文物がわが国に輸入され、
わが国の文物制度は一大飛躍を遂げたのである。
当時、先進の文明国たる支那は、動乱の絶間がなく、有能有識の士の朝鮮に避難するものが多かつた。
朝鮮も、高麗(こま)、新羅、百済、任那など互に攻略して、其処も安住の地でないので、
彼等の中には、交通のやうやく開けたのに乗じ、山紫水明にして、
気候温和なるわが国に移住帰化したものが多かつた。
そして、彼等の移住の手土産が、支那の文化であった。
彼等に依って、わが国の建築、造船、裁縫、鍛冶(かぢ)、機織、製陶などの技術は、
全く革命的な進歩を遂げたのである。
しかも、彼等は、もつと大切なる精神的進物を持って来たのである。
それは、漢字と、それに盛られた儒教と、やゝ遅れて伝来した仏教とである。
これらは、わが国民の後代に於ける精神生活の方向を決定したと云つてもよい。
支那の文字が、わが国に伝はったのは、何時であるか明確でない。
九州地方の豪族は、古くから漢土と交通してゐた様子であるから、漢字も知ってゐたかも知れない。
しかし支那の書物が、正式にわが国に伝来したのは、応神天皇の16年2月
(註)
皇紀945
西暦285
博士、王仁(わに)が百済から、「論語」と「千字文」とを持参して、朝廷へ献上したのが最初である。
(註)
景行天皇の御即位後も、九州南部の熊襲が、屡々、不穏な形勢を示したので、
天皇は、御即位12年7月、熊襲御親征の途に上り給うた。
斯様(かやう)な大々的御親征は、神武天皇の御東征以来、実に、800年目である。
天皇は、8年の長きにわたり、九州地方全部を巡られ、熊襲を平げ、民を撫順し給うた。
ところが、熊襲は、天皇が、大和へお帰りになると、また忽ち、蠢動し始め、横暴、愈々(いよ/\)つのったので、
27年8月、天皇は、御子日本武尊をお遣はしになつて、これを征伐させ給うた。
日本武尊は、その後、東北地方の蝦夷が叛いた時にも、御自ら進んで出征を志願された。
天皇は、いたく喜び給ひ、
「今、朕(われ)汝の人と為(な)りをみるに、身体(むくろ)長大(たかく)、
容貌(かほ)端正(きらきらし)、力能く鼎(かなへ)を扛(あ)ぐ、
猛きこと雷電(いかづち)の如く、向ふ所かたきなく、攻むる所必ず勝つ。
即ち知る、形は則ち我が子にて、実は即ち神人(かみ)なり。
是れまことに天、朕が不叡(をさなく)、且つ国の不平(みだれ)たるを愍(あはれ)みたまひて、
天業(あまつひつぎ)を経綸(をさ)め宗廟(くにいへ)を絶たざらしめたまふか」
とまでに仰せられた。尊の無双の御武勇の程が、拝察されるではないか。
氏族制度と祭政一致
わが国上古の社会制度の特色は、氏族制度と祭政一致である。
上古は、祖先を同じうする人々が、鞏固(きようこ)に団結して、祖先伝来の職業にいそしんでゐたのである。
中臣(なかとみ)氏、斎部(いむべ)氏が、朝廷の祭祀を司(つかさど)り、物部氏、
大伴氏が武将として兵事に当り、弓削(ゆげ)氏が弓の製造に従事し、
玉造(たまつくり)氏が玉の加工に当つたやうなものである。
そして、氏(うぢ)中最も正系に属する人を氏上(うぢのかみ)と称して尊信し、他を氏人(うぢびと)と言つたのである。
一つの氏に、氏人が多くなると、その一部は新らしく土地を求めて、住居を作って、
その地名などに依つて氏を作つたが、それを小氏(こうぢ)と称し、はじめの氏を大氏(おほうぢ)と呼んだ。
小氏にも氏上(うぢのかみ)があり、その小氏を統一して、その小氏全体は、本家である大氏の氏上を尊敬した。
そして、氏上の先祖を祀って、事ある毎に参拝した。
これが「氏神(うぢがみ)」と「氏子(うぢこ)」といふ関係の発生した一原因である。
そして、この氏族制度が今日の家族制度の基(もとゐ)をなすのであつて、
皇室より皇族の御分出があり、更に皇室を総御本家として諸氏族が分れてきたところに、
我が国が一大家族国家を形成してゐるといふ所以(ゆゑん)がある。
従つて国家の繁栄は、国民の繁栄であり、国民の繁栄は、国家の繁栄である。
国民は、各氏の氏神を祭ると共に、天照大神(あまてらすおほみかみ)をはじめ、天つ神を崇敬し、
同時に天皇を現人神(あらひとがみ)と仰ぎ奉つた。
しかも、天皇は天つ神の神意を受けて、大八洲国(おほやしまぐに)に降臨せられた皇孫の御後裔であらせられるから、
常に天つ神を祭り、その神意を奉体せられるのである。
それは、神武天皇が、御東征の途次、困難に際会される毎に、
天照大神の神意に従はせられた事を見ても分ることである。
天皇が天つ神を祭り、神意の奉体に努めさせられることは、直ちに国民の日常生活の端々にまで及び、
「氏神」の信仰が深くなってゐるのである。
天皇は天つ神を祭られ、その神意を奉体して民を治められる。
即ち「政事(まつりごと)」は、「祭事(まつりごと)」で、この祭政一致の思想は、わが国固有の政治の特色として、
現代にも及んで居るのである。