日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

菊池 寛著『大衆維新史読本』殉難の諸士、近藤勇の最後

2023-07-01 16:52:16 | 作家・思想家

菊池 寛著『大衆維新史読本』新選組結成、近藤勇、池田屋斬込み (続き)


菊池 寛 著
『大衆維新史読本』 
    殉難の諸士、近藤勇の最後
 

   殉難の諸士  

 飜つて、志士側の当夜の観察は何うか。当時長州藩、京都留守居役、乃美織江(のみおりえ)の手記によれば、形勢緊迫と共に、有志等に軽挙を戒めること痛切であつた。
 桂小五郎、久坂義助など幕吏の追跡頻りなので、長藩としては彼等に帰国の命を下し、邸内の有志等にも外出を慎しませてゐた。
 吉田稔麿(としまろ)に対しても、市中の宿屋に泊らず、藩邸に起臥するやうに、勧告したが、容れられず、宮部鼎蔵等にも外出を極力制止してゐたのである。

 当夜の手記に依ると、

「乃美乃(すなは)ち杉山松助、時山直八をして、状を探らしむ。二人帰り報じて曰く、俊太郎逮捕の為め、或ひは不穏の事あらん。宜(よろし)く邸門の守を厳にすべし、と同夜有志多く池田屋に集ると聞く、其の何人たるを詳(つまびら)かにせず」

「夜に入り杉山松助、窃(ひそか)に槍を提げ、外出すと云ふ。未だ久しからずして、松助片腕を斬られ鮮血淋漓として帰邸し、急変ありと告げ、邸門を閉ざし、非常に備へしむ。乃美、何故に外出せしやと問ふ。池田屋に赴かんとして、途中斯(かく)の如し、遺憾に堪へずと答ふるのみ」
 杉山は、途中で要撃されたのであらう。

「邸の近傍に吉田稔麿の死屍を発見す。宮部は池田屋に死し、其の弟傷を負ひ邸に帰る。池田屋女主即死。桂小五郎は屋上より遁れて、対州邸の潜所に帰る」

 この池田屋事変で、勤皇方にとつて、最も大きな損害は、宮部鼎蔵と吉田稔麿の死であらう。


 吉田稔麿は、脇差をとって力戦し、裏庭で沖田総司と、一騎討ちになった。その腕は相当のものであったが、剣を把つては天才的と云はれた沖田には、敵はない。


 肩先を斬られたまゝ逃れ、隣家の庭前に監視してゐた、桑藩士本間某を斬り、黒川某に重傷を被(かうむ)らせ、馳せて河原町の藩邸に向つた。併しこの時は、門の扉は固く鎖してあり、稔麿は入ることが出来ない。その身は重傷であり、遂に進退谷(きは)まって、門外に自決したのである。この時、年齢24であつた。


 吉田稔麿は松陰門下の奇才で、この時は長幕調停案の一案を劃して、帰国の途中、京都に寄つて殉難したのである。

 この日も、留守居役の乃美織江が頻りに止めると、
「いや直き帰つて来る」
 と云つて、殿様からの下され物の小柄等を乃美に托して、出かけて行つたのである。
  
 この時、自分で髪を結(ゆ)ったが、元結(もとゆひ)が三度も切れたので、

結びても又結びても黒髪の
   乱れそめにし世を如何にせん


 と云ふ歌を詠んで、乃美に示したと云ふ。これが遂に、その辞世となつたわけである。

 宮部鼎蔵は、乱戦の中に池田屋に於て斃れた。
一説には、進退谷まつて階段の下で屠腹して果てたとも云ふ。年は45であつた。


 宮部は肥後の産、吉田松陰とは親友の仲であり、尊攘派の錚々たる一人で、同志からは先輩の一人として推服された人物である。

 松陰嘗て宮部を評して、
「国を憂へ、君に忠、又善く朋友と交はりて信あり、其の人懇篤にして剛毅、余素(もと)よりその人を異とす」
 と云つてゐる。

 三條実美(さねとみ)の信頼篤く、その使命を奉じて四方に使ひし、真木和泉(まきいづみ)と共に年齢手腕共に長者であり、志士の間に最も重きをなした人物であつた。生き残つてゐたら、子孫は侯爵になつたかも知れん。
  
 乃美の手記に依ると、桂小五郎は池田屋から対州の邸へ遁げこんで、危き命を拾つたとなつてゐるが、事実は違ふらしい。
 この夜、小五郎は一度池田屋を訪れたが、まだ同志が皆集らぬので、対州の藩邸を訪うて、大島友之丞と暫く対談してゐると、市中が俄(にはか)に騒々しくなった。

 何事か、と、人を出して様子を探らせると、新撰組の池田屋斬込みだと云ふ。桂が、刀を提げて、その場に馳せつけようとするのを、大島が無理にこれを引止めて、その夜の難を免れたのだと云ふ。

 この時、せめて木戸孝允の命を剰(あま)したゞけでも、長藩のため、引いては明治維新のために、不幸中の幸と云はねばならない。

 桂小五郎も、この事件に就ては、簡単ながら手記を書き、

「天王山に兵を出す、此に基(もとづ)けり」
 と結んでゐる。

 簡潔ながら、流石(さすが)によく断じてゐる。池田屋に於ける幕府方の暴挙が、如何に長州藩士をして激昂せしめたか。8月18日の政変以来、隠忍に隠忍を重ねて来た長藩も、遂に堪忍袋の緒を切つたのである。遂に長軍の上洛となり、天王山に本拠を進め、蛤御門(はまぐりごもん)の戦闘となるのである。

 少くとも、池田屋事変は、禁門戦争の導火線に、口火を切つたと云ふべきであらう。

   近藤勇の最後 

 この外、池田屋で死んだ志士の中には、大高兄弟、石川潤次郎等、有為の勤皇家がゐた。
 いづれも、その屍体は捕方の手に依つて、三條縄手の三縁寺境内へ運ばれて、棄てゝ置かれた。
 何しろ、暑い頃なので、後にはこの屍が何人のものか、判明しない程腐つてしまひ、池田屋の使用人を呼び出して、「これは宮部さん、これは大高さん」と識別させたと云ふ話である。
  
 池田屋事変を期として、新撰組は更に一大飛躍を遂げてゐる。

 隊員も不足なので、近藤は書を近親に寄せて、隊員の周旋を依頼し、「兵は東国に限り候と存じ奉り候」と、気焔を上げてゐる。東国人の近藤勇としては、尤もな言ひ分で、蓋(けだ)し池田屋事変は、当時兎角(とかく)軽視され勝ちの、関東男児の意気を、上方に示したものと云つてよい。
 
 これから、伏見鳥羽の戦までは、新撰組の黄金時代である。

 蛤御門の戦には、先頭に赤地に「誠」といふ字の旗を立てゝ、会津の傑物林権助の指揮の下に奮戦してゐる。

 土佐藩の大立物、後藤象二郎に、或る日、近藤勇が会ふと、象二郎は直ぐに、
「拙者は貴公のその腰の物が大嫌ひで」
 とやった。

 勇は、苦笑しながら、その刀を遠ざけたと云ふ話があるが、多分この頃のことだらう。


 それ程、近藤勇の名は、響きわたつてゐたのである。然(しか)も勇は単なるテロリストとしての自分に飽き足らず、政治的にもぐん/\守護職、所司代、公卿の中へも喰ひ込んで行つたが、順逆を誤つた悲しさ、時勢は日に日に非なりである。


 伏見鳥羽の戦(たゝかひ)は、幕軍に対して、致命傷を与へたと同時に、新撰組に徹底的な打撃を与へた。大部隊を中心とする、近世式な砲撃戦に対して、一騎討の戦法は問題でなく、虎徹は元込銃に歯の立つ道理はないのである。

 江戸に逃げ帰つた、近藤は、その後色々と画策したが、一度落目になると、する事なす事後手となつて、甲州勝沼の戦に敗れ、下総流山で遂に官軍の手に捕へられた。
  
 この時、政敵である土佐藩の谷守部(干城)は、
「猾賊多年悪をなす。
有志の徒を殺害すること不数(かぞふるにたへず)、
一旦命尽き縛に付く。
其の様を見るに三尺児と雖(いへど)も猶(なほ)弁ずべきを、頑然首を差伸べて来る。
古狸巧(たくみ)に人を誑(たぶらか)し、其極終に昼出て児童の獲となること、古今の笑談なり。
誠に名高き近藤勇、寸兵を労せず、縛に就くも、亦狐狸の数の尽くると一徹なり」と思ひ切った酷評を下してゐる。
 
 いかに、近藤が官軍側から悪(にく)まれてゐたかゞ分るし、谷干城の器量の小さいかも知れる。
  
 人間も落目になれば、考へも愚劣になる。

 甲陽鎮撫隊で大名格にしてもらひ、故郷へ錦を飾つた積りの穉気振りなど、往年の近藤勇とは別人の観がある。
然し、これも必ずしも近藤勇丈(だけ)の欠点ではない。
蓋(けだ)し、得意に、失意に、淡然たる人は、さうあるわけはないのだ。

 尤も、近藤勇が五稜郭で戦死してゐたら、終(をはり)を全うした事になるのは勿論である。
  
 真田幸村や後藤基次や木村重成など、前時代に殉じた人々が、徳川時代の民間英雄であったやうに、近藤勇が現代の民間英雄であることは、愉快な事である。大衆と云ふものは、御用歴史の歪みを、自然に正すものかも知れない。
 
 しかし、近藤勇の人気は、映画と大衆文芸の影響で、この両者がなかったら、今ほど有名ではないだらう。
地下の近藤勇も、この点は苦笑してゐるだらう。



初出:「オール讀物」文藝春秋
   1937(昭和12)年8月号



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