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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明『日本精神研究』 第五 剣の人宮本武蔵 三 剣による悟道

2017-11-16 00:02:40 | 大川周明

第五 剣の人宮本武蔵

 

三 剣による悟道 

 

 如是の行持二十年、宮本武蔵五十に達せるころは、積年刻苦の功徳あらわれて、おのずから兵法至極の道を体得し、爾来尋ね入るべき道とてもなく、蕩々乎として光陰を放った。而して曰く『兵法の理に任せて諸芸諸能の道となせば万事に於て我に師匠なし』と。


 王陽明の名高き詩にあ『饑え来りて喫飯し海来れば眠る。只だ此の修行玄更に玄』とある。蓋し人間一切の行事、一として得道の新良たらざるは無い。従って文武の諸芸詮ずれば是れ一道の體、其奥を究むれば悉く一如の真理に達する。右へより吾国に『芸道』の語がある。
 
  総じて芸術の本体は道に外ならざることを示せるもの、古人深刻の体験よりショ唱出せられたる珍重至極の言である。故に一芸に通ずるは、即ち道を得る所以であり、一たび此道に達して其の妙味を拘すれば、此を擁して彼に及ぼし、おのずから百芸の妙味を拘むことが出来る。


 武蔵の得道を偲ぶにつけ、予は此處に日本精神の最も芽出度き一特徴とも言ふべき諸芸を経てとしての悟道について若干言を費やすことの徒爾ならざるを思ふ。

 
 如何なる芸にもせよ、芸道の初歩は先ず形式の習得に始まる。これを学んで熱心なれば、或いは数月、或いは数年、事の難易、天稟の上下によって遅速」ありとは言へ、一定の程度までは駸々として目覚ましき、進歩がある。されど一と通り此の進歩を了へて後は、其の上達ひたと止まり、其後は如何に苦心焦慮も例へば同じ場処を往きつ戻りつする百度詣りと同じく毫も前途に進まざるを感ずるに至る。
 若し此の反問を感ぜずる者の如きは到底学道の人に在らざるが故に論外であり、或は此の煩悶に逳逢して自棄する者の如きもまた軟蕩為すなきの人である。


 学んで誠なる者に至っては、此時初めて一芸を究めんとすれば吾が指頭体肢の修練以外、更に大に修めざるべからずものを覚り、辛苦して漸く吾心に多少の自得する所あり、師匠の言葉によって教えらるべくもなかりし一道の工夫を吾が経験によって直覚し、些同じたる一芸術の如く見えるものでさへ、実は吾が本体の全部を投じて初めて成就せらるべき一大事なることを発見し如何なる芸術も畢竟は吾本体の顕現なるが故に一心の鍛錬成りて初めて真個の芸術ある所以を明白に知了するのであらう。


 一たび此門を入れば爾来人知れぬ工夫を独り自ら試みて幾たびか失望し、幾たびか雀躍し惨憺たる辛苦を重ねて、漸く先哲の不立文字とも言ふべき秘訣に悟入し、其悟りを以て更めて先聖古賢の言行、その示教に省みれば、吾々として吾胸に慶ずると所、正に先人と同一耳に聴き同一眼に視るの域に達する。遂に此処に達すれば爾来は堂上秘密の修行にして最早定めたる師匠もなき代わりに、一切皆是れ吾師となり耳に聴くもの目に視るもの総べて吾霊覚を助けざるなく、其業の歩格段となり、尋常人の企て及ばざる神釆を帯び来る。


かくの如きは実に名人・達者になるの道行である。 


 何事に限らず一芸に達したる者は、皆な恐るべき偉大なものを把握して居る。荘子の要城篇にある名高き料理番の話も這般の消息を語らんとするに外ならなぬ。この料理番は、文恵君が其の解牛の大技量を感嘆して『技も是程までに上手になるものか』と言へるに対し、昂然として『臣の好む所のものは道なり、技より進めり』と答へて、文恵君をして生を養ふの極意を会得せしめた。
 大国を治るは猶は小鮮を煮るがごとし。料理人の腕前が、直ちに治国平天下の教えともなるのである。彼らの多くは、其の技量工夫で自己の精神を養うと言ふと云ふ奥床しい点はないけれど、知恵ある者は之にとつて学ぶ所多い。

 故に聖人は〇(注、判読?)尭の言をも捨てないのだ。若し夫れ英邁なる魂は、能く其の学ぶ所の芸を以て梧道の妙録とする事、皆な吾が宮本武蔵と轍を一にする。武蔵に在りて『兵法の道』を体得することが、直ちに『世々の道』を体得する所以なりし如く、吾国古来の名人にして、一芸の奥義を立てたるほどの者は皆自己の性に対し情に叶ひて、最も入り易き方面より真理に入りたるもの等しく是れ悟道の覚書である。


 左甚五郎の彫刻が自ずから活躍したと言ひ巨勢金剛の萩の戸に描きたる馬が夜な夜な御壺に出で萩を喰んだと言ふのは恐らく無稽の伝説であろうが、此等の名人は神が天地を創造したる力に等しいほどの想像力を有って居たと思はれるから、或いは其の作品を活動せしめたる位の力あったかもしれない。大教育者が偉人を養成し、大文学者が一管の筆より無形有形の人物を描く、皆鍛錬の妙によって道に達したるが故である。茶道花道と云ふような物静かなる芸道でさへ之を修めて堂に入れば耳元で不意に銃音しても杓の湯が微動だもせず、白刃を揮って襲ひかかる敵にも端然として礼容を崩さぬ偉大なる魂を練り上げ能く一椀の茶に全人生を味ひ、一輪の花に全宇宙の美を観得して居る。一切の日本的なるもののうち最も日本的なる刀によって鍛錬したる武蔵の人格が日本精神を物の見事に発揮して居ることは、当然至極と言わねばならん。

 
  兵法の理に任せて諸芸諸能の道とすると云ふ武蔵の言葉につけて予は今日尚ほ鮮明に想起する。――時は明治四十年、予が熊本の高等学校を将に卒業せんとする初夏の頃、熊本の勧聚館に於て武蔵の遺品の陳列会が開かれた事がある。
 予は当時無二の学友たりし柏木純一君と相携えて彼の遺墨遺品を参観し、此時初めて講談以外の宮本武蔵を知ったことであった。何と云ふ多芸多能であらう。その遺品と言ひ、その彫刻と言ひ、さては其の細工物と言ひ、実に神韻とも云ふべき気品に満ちて居る。まことに一芸に達したる心を以て他を推すときは、一切の芸に於て必ず「此處」と云ふかんどころを悟り得るものに相違ない。

 高橋泥舟は槍術を知らぬ禅僧林璃によって其の槍道を磨いたと云ふこともある。文武の芸、いづれも百千に分かれて居るが本の雫末の露落つれば同じ谷川の水にして帰する所は一なる所以を吾等は武蔵によって最も明瞭に学び得る。


大川周明『日本精神研究』 第五 剣の人宮本武蔵 一 宮本武蔵の剣

2017-11-07 22:56:34 | 大川周明

第五 剣の人宮本武蔵

 

一 宮本武藏の剣 

 『兵法の遭、二天一流と号し、数年鍛錬の事、初めて書物に書き顕はさんと思ふ。時に寛永二十年十月上旬の頃、九州肥後の地、巖殿山に上り、天を拝し観音を礼し、佛前に向ひ、生国播磨の武士新免藤原玄信、年つもりて六十。我若年のむかしより兵法の道に心かけ、十三歳にして初て勝負を為す。その相手新當流の有馬喜兵衛といふ兵法者に打勝ち、十六歳にして但馬国秋山といふ強力の兵法者に打勝ち、廿一歳にして都に上り、天下の兵法者に蓬ひて数度勝負を決すといへども、勝利を得ずといふごとなし。

 その後国々所々に至り、諸流の兵法者に行逢ひ六十余度まで勝負すといへども、一度も其利を失はす。その程年十三より二十八、九までのことなり。三十を越えて跡をおもひ見るに、兵法至極して勝つにば非す、おのづから道の器用ありて天理を離れざるが故か、叉は他流の兵法不足なる所にや。

 その後猶も深き道理を得んと、朝鍛夕錬して見ればおのづから兵法の道にあふこと、我五十歳のころなり、それより以來は尋ね入るべき道なくして光陰を送る。兵法の理にまかせて諸芸諸能の道となせば、萬事に於て我に師匠なし。今この書を作るといへども、仏法儒道の古語をも借らず、軍紀軍法の古きことをも用ゐず、この一流の見立、実の心を現わすこと、天道と観世音とを鏡として、十月十日の夜、寅の一点に筆を把りて書を初むるものなり。』

 

 何といふ荘厳偉烈な文章であらう。物凄い底力が言々句々に漲って、卵の毛ほどの間隙もない。一点苟もせぬ謹厳がある。盤石不動なるべき自信がある。粛然たる敬虔の念が言外に溢れて居る――宮本武蔵が其の『五輪書』に序したる此の一文は、如何に彼の面目を露呈して餘薀する所がない。

 

 小河権太夫露心といふは、壮年の時より武蔵に随身し、命を捨てることを物の屑ともせざりし剛の者であった。その小河権太夫でさへ、獪且晩年に述懐すらく『武蔵と立合ひ、打太刀をいたす。己は太刀打つべしとと思ひ儲けて儲けて木刀おつとり立向ふに、武藏二刀を取り、大太刀を杖につき、肩をくわつと寛げげらるる時は、肝にこたへて踏掛けたる足を一足は必す引きたり。
 これ我等のみに限らざりしたり』と。げに夫れは彼のみ仁限ることでない、予もまた叙上の一文を読む毎に、未た曾て一足引かずと云ふことなく、軟蕩弱心に襲はれたる時たどは、立向ふことさへ恐ろしい。予は先づ此の希代の一文に註釈しつつ、森嚴無比なる彼れの面目に鬚眉を附して行く。

 

 彼は若年の頃より兵法の道に心をかたといふ。其の兵法の道と云ふは、太刀取りて戦ひ勝の道である。弓を能く射る者は射手と呼ばれ、鐵砲を能くするは鐵砲打と呼ばれ、長刀を用ゐる者は長刀遣と呼ばれる。然るに剣を揮ふ者に限つて、古へより単に兵法者と呼び、太刀遣とも脇差遣とも言わない。弓矢も鐵砲も皆な武家の遣具であり、従って之を修めることは、紛れもなく兵法の道である。それにも拘らす何故に剣道のみが兵法の名を専らんして来たか。

 

 予は之に答えるために、先づ畏友鹿子木員信兄が、其の著『戦闘的人生観』の中に、日本刀に就いて述べたる一節を籍る。彼は言ふ。――『我が工匠の手に作られしもののうち、何れかよく果たして日本刀の如く「日本的」なるものが有ろう。古今独歩の名匠運慶――その作品に飽迄彼自らの生命、彼自らの魂を吹き込むまずしては描かざりし運慶――、従ってその作品に、一種の日本的色彩を付与せずしては止まざりし運慶にありて、尚その象る形に至っては、依然として我等の眼に奇怪と映る支那印度異邦の異形に外ならなかった。
 然るに独り我が日本刀に至りては、独り其の峻烈なる刀身に輝く一種の気魄に止まらず、またその形に於て実に独歩――徹頭徹尾日本的である。宣也我等が祖先、独り之に其生を託せるのみならず、また其の死を託し、独り之れに依りて、その誉れを守りて「刃に伏し」たりし事や』と。


 洵に吾に吾友の言の如く、大刀こそは一切の日本的なるもののうち、最も日本的なるものである。これこそは日本精神の絶倫無双なる象徴である。かくして花と言へば櫻花意味するが如く、兵法と言へば剣道を意味するに至れることに何の不思議もない。


 いま平和主義の切りに喧伝せらるる時、予は独り濃かに剣の福音を味ふ。
天っ神々が諾冊二神に向って、『漂へる国を修理(つくり)固(かため)成(な)せ』と命じたる時、此の使命を成就せしむべく二神に賜りしものは、他なし実に天の瓊(ね)矛(ほこ)であった。吾等の国家は、実に天の瓊(ね)矛(ほこ)の滴瀝にとって成り、また其の存在の根柢にある鋭き叢雲の剣横はる。

 剣とは武蔵が所謂『何事に於ても人にすぐるる心』--登高優越の意志の象徴であり、また『必ず勝ことを得るこころ』--善戦克服の意志の象徴である。この金剛不壊の意志によって、吾等の祖先は能く漂へる国、換言すれば放〇(注:一文字、?)自然なる原始の社会に厳然たる秩序と正義とを與へて一個比類なき国家の礎を築き、また此の意志を以て国家を護り、国運を旺んならしめて来た。

 而も此の剣、此の意志は決して粗豪強梁の暴力、貧婪専恣の我欲に非ず、実に正しく其の反対に立つ。そは却つって此等の暴力我欲を克服して道義的優越を目指して止まざる心、竟に至善を実現せずば止まざる心、天国其の蔭に潜む心である。

 故に剣は必ず鏡に待つ。叢雲は、天照らす鏡を離れて存在し得べく無い。鏡は世界の実相、現象の奥に潜む理法、天地を支配する法則をそっくり其儘に映出し善悪邪正真偽をして断じて蔽ふ所なからしむる聖智である。かくして真に其剣を揮はんとする者は、同時に其の鏡を曇りなきものとせねばならぬ。
 剣は鏡に映る處のものを実現する力なるが故に其の意義と価値とを自ずと鏡裡の影に伴ふ。さればこそ武蔵は天を拝し、観音を礼し、仏前に向かった。而して天道と観世音とを鏡とした。彼の剣、光芒千古に冴えわたる所以である。かくして彼は言ふ。『大刀は道法の終る所なり』と。其深意は正しく王陽明の根本精神を要約せる下の一句と毫厘の相違だもない――『知は行の始、行は知の成るなり。』

 

 さて若年のむかしより兵法の道に心をかけたたる武蔵は十三歳にして初めて勝負をなし、爾来諸国を遍歴して諸流の兵法者に逢ひ、六十余度まで勝負するといへどもその利を失わなかったと言ふ。此の勝負と云うふことは、当今の撃剣仕合の如く考えては、武蔵の鍛錬の真相を掴みえない。
 当時の勝負は実に命がけの仕合であり、負くれば一命を失ふかさもなくば五体不具となることは覚悟の前であった。


 見よ、彼が十三歳の年少を以て新當流の名人有馬喜兵衛と試合した時も、彼は六七尺ばかりの棒を以て立向ひ、喜兵衛は真剣を以て応じて居る。二十一歳の時吉岡清十郎と洛外蓮臺野に於て勝負の際も、相手は真剣武蔵は木刀であった。

 其弟吉岡伝七郎と仕合の時は、相手の大刀を奪ひ取って打殺した。吉岡家の門弟数十人が、清十郎の子又七郎を押立てて恨みの仕合を申込んだ時は、流石に武蔵も真剣を以て相手をした。伊賀国において宍戸某といふくさり鎌の名人と仕合をした時は、短刀を揮つて相手を斃した。
 又名高き巌流島佐々木小次郎との仕合に於ては、小次郎は備前長光三尺一寸の大刀を振ひ、武蔵は艫を削りて自ら作れる木刀を以て戦ひ、見事に相手の脇腹横骨を打挫いた。


 三尺の秋水、抜けば玉散る。ただ打見るだに一身怱ら引締り端然として凝視すれば心の奥まで澄み渡る。如何に況んや宮本武蔵は一撃直ちに死生を決する真剣の勝負を試むこと、前後六十余回に及んだ。何といふ深刻な鍛錬であらう。天禀彼の如くにして此の鍛錬を経た。その魂が赫灼として希有の光輝を放つのは当然のことである。


大川周明 『頭山 満と近代日本』(八) 金玉均の暗殺・東学党の乱と日清開戦及び対露開戦方針の確立  

2017-01-31 11:22:31 | 大川周明


大川周明 『頭山 満と近代日本』    

 

                       
                       頭山 満 (ウィキペディア) 


  
 八

 明治政府は、征韓論以来一貫して対外硬を圧追して来たが、明治22年の山県内閣に至り、明かに国防の急務を力説し、次で松方内閣が積極的に海軍拡張計画を樹立したことは、政府の方針漸く一変せることを示すものであり、頭山翁が松方を助けて其志を成さしめんとしたのは、翁としては当然至極のことである。

 ひとり頭山翁のみならず、多年国威の宣揚を高調し来れる自由党も、理論の上より言へば政府を助くべきであつた。而も政治に於て感情は往々にして理論よりも力強くある。藩閥政府の為すところは、挙げて之に反対せねばならぬとする民党伝統の精神は、民力休養の必要と、政府に対する不信とを理由として、飽くまで政府と相争はんとした。

 松方の後を継げる伊藤博文は、黒田・大山・仁礼・山県・井上・後藤等の薩長.元勲を網羅したる内閣を率ゐて第四議会に臨み、野に在りては大隈・板垣の両人相携へ、自由・改進両党を率ゐて之に対し、官民両党互に其の精鋭を尽して対陣することとなつた。
 議場の過半数を占めたる民党は意気大に昂がり、予算歳出の査定に当りては、渡辺蔵相が『一厘一銭たりとも削減を肯んぜず』 と強調せるに拘らず約一割を減じ、奈く軍艦製造費を削除した。之については下院予算委員長河野廣中の報告中に 『委員会は敢て軍艦建造の必要を認めざるに非ず。
 唯だ海軍部内、弊寳累積し、国防の大方針、浮迂して一定する所なきを以て、今之に造艦の大事を托するは、心の安んぜざるを以てなり。他日海軍にして十分の整理を遂げ、方針を確立するあらば、議会は喜びて相当の協賛を与ふべきなり』と言つて居る。

 かくて政府と議会は、墻壁相対して一歩も移し能はざるに至り、明治26年2月8日、政府弾劾の上奏案は多数を以て衆議院を通過し、議長星亨が参内して之を陛下に奉呈した。然るに一日を越えて2月10日大詔の換発あり、 『顧るに宇内列国の進勢は日一日より急なり、今の時に当り日をむなしく曠(むなし)くし遂に大計を遺し、以て国運進張の機を誤るが如きことあらば、 朕が祖宗の意に奉対するの志に非ず、又立憲の美.果を収むるの道に非ざるなり』 と諭し給ひ、 且 『予算費目は更に審議を加へよ、製艦は一日も之を緩くすべからず、後6年の間、内帑(ないど)30万円を下付し、又文武俸給十分一を納れしめ、以で其の補足と為せ』 と仰せられた。
  即ち佞臣等しく恐惶(きょうこう)し、局面一転して第四議会は無事に終るを得た。此時の製艦計画は、僅か戦艦一隻・巡洋艦二隻に過ぎなかつたが、その実行にさへ是くの如き波瀾重畳を経ねばならなかつた。


 民党は海軍拡張に反対しながらも、此頃より漸く第一期以米の民力休養といふ看板を取下げ、外交問題・国権問題を択んで政府反抗の声を挙げるに至つた。
 伊藤首相は夙(はや)くより国際協調主義者として知られて居たので、第五議会に於て、民党は条約改正の進行中に於ても、現行条約を如法に励行すべしと建議した。
 陸奥外相は『旧条約は今日の事情に適応し難きものあり、彼我ともに之を墨守励行すべきでない、其上に難きを外人に強いることは、向上の条約改正のために不利である』 と陳弁したが、民党は是くの如き態度を以て 『偸安(とうあん)姑息、唯だ外人の歓心を失はんこと是れ畏れ、内外親疎軽重の弁別を転倒するに至る』ものとして一層強硬に反抗したので、議会は亦復解散となつた。

 此の形勢を見たる貴族院議員中には、伊藤内閣の対外政策を軟弱なりとするものあり、公爵近衛篤麿・子爵谷干城等は、連署して書を伊藤に送り、「衆議院は年来予算削減を是れ事としたりしが、今や謀を改め、官紀の不振を悲み、国権の退縮を憂ふ、宜しく彼をして其の所論を尽さしむべし。
  而も内閣諸公は之に顧みず擁塞を是れ力む。或は国民の大反抗を招致せんことを恐る』 と警告したが、伊藤は之に耳を貸さず、外交案件によつて中外の物議を招ぐを畏れ、議会解散と同時に、条約励行を主張する諸結社にも解散を厳命した。明治26年12月のことである。

 

 此の対立は明治27年に人りても愈々激しくなり、5月に召集せられたる第六議会もまた解散を命ぜられ、民間の政府反抗の気勢頓に昂まり、情の激する所、事態容易ならざるものあらんとした。
 然るに此時偶々朝鮮に東学党の乱あり、延いて日清両国兵火の間に相見ゆるに至つたので、昨日の反噬(はんぜい)忽ち忘れ去られたる如く、政府と民党は互に手を握つて臨時議会に臨み、満場一致して戦費を協賛した。
 国家非常の秋に際しては、平日の恩怨を顧みず、挙国一致して外患に当る日本民族伝統の美風が、此時もまた美事に発揮されたのである。

 

 さて東学党蜂起の報道が未だ日本に達せざる前に、頭山翁等が眷顧(けんこ)して来た韓国の志士金玉均の暗殺事件があつた。既に述べたる如く、明治17年甲申韓京の乱に、金玉均・朴永孝孝等は独立自主の政策を声言して兵を挙げたが、閔族及び清兵の撃破する所となりて吾国に亡命した。
 翌年朝鮮政府は彼等の引渡を求めて米た時、政府は国際公法に国事犯人引渡の前例なきことを告げたので、閔族一党は更に暗殺の計画を立て、刺客を送つて金・朴を向はしめた。
 於是日本政府は朝鮮政府と妥協し、刺客の退去を求めると共に、金玉均等等にも日本退去を命じたので、金は一時小等原島に身を潜め、又は北海道に流浪して艱難を嘗めた。
 その小笠原島に滞留中、玄洋社員的野半介と来島恒喜が金を此の南海の島に見看つて居る。

 其後稍々(やや)自由の身となりて東京に住むやうになつてから、頭山翁は最も深切なる金の庇護者として終始した。政治運動に資金の必要なるは言ふまでもないので、金は常に金策に苦心して居た。
 明治23年米価暴騰の時には、金は米相場による一攫千金を夢みて、2万円の調達を翁に頼んだ。翁は之を副島種臣や
三浦梧楼に相談したが、両人とも金には縁が遠かつた。よつて後藤象二郎を訪ね、翁所有の炭坑を100万円で三菱に売却する相談をしたところ、後藤は大に之に賛成し、福沢諭吉をして三菱に説かせたり、種々尽力するところあつたが、是もまた不調に終つた。
 若し此の100万円が出来て居だら、東亜の歴史は恐らく別個の展開をしたことであらう。


 金は亡命以来やがて10年にもならうとするのに、更の前途の光明を認め難く、目的の遂行に対して荐(しき)りに焦慮して居たので、翁は其の胸中を察し、一つは世間を韜晦(とうかい)するため、また一つは鬱を散ずるために、柳暗花明の巷に金を出入させたりした。
 そのうち明治21年正月、李逸植・洪鐘宇といふ二人の刺客が東京に来り、何時の間にか金玉均に取入つた。彼等は金に向つて故国復興の事を語り、上海に渡りて李鴻章と議り、其力を借りて再び韓国政府の要路に立ち、政治的革新を行ふの得策なるを説き、之を曽て駐日公使たりし李鴻章の息李経芳の伝言だとした。時に金は流寓10年、日本援韓の宿望、今に其の実現を見ざるを憾んで居たこととて、意中稍々動き、頭山翁が極力諫止したにも拘らず、遂に洪と共に上海に向ふこととなつた。


 此時金は大阪までの同行を頭山翁に懇願した。翁が旅費の持合せがないので断ると、金は直ちに200円ばかりの金子を持参して一切の準備を整へたので、翁は3月下旬金と共に大阪に向つた。
 其時金は李経芳に贈るために翁の秘蔵の刀を所望した。其刀は三条小鍛冶作の尤物(ゆうぶつ)で、翁は之を拒んだけれど金が益々切願するので、 『与らぬと言つたのに二言はない、それほど欲しければ盗んで往け』 と言つた。金は 『然らば盗んで往く』と言つて、遂に其刀を携へて洪鐘宇と共に上海に行つた。そして上海の旅館で洪のために短銃を以て殺された。

  金の屍体は彼と同行せる和田延次郎が、一旦棺に納めて日本に送付する手続を取つて居る間に、清国官憲の手に奪取され、刺客洪鐘宇と共に軍艦威遠号に搭載して朝鮮に送られた。
  韓国政府は、同年4月14日楊花鎮に於て金玉均の屍体を寸断し、首と四肢とを獄門に彙し、其他は漢江の流に投じて魚腹に葬るなど、惨忍言語に絶する刑に処した。而して此際李鴻章は上海道台に訓令して洪を庇護し、之を義士と称揚し、且朝鮮国王に対して金玉均暗殺の成功を祝する電報を発した。


【関連記事】
時事新報(1885年3月16日)「脱亜論」

 金玉均暗殺の飛報一たび伝はるや、吾国に於ける有志家の憤激と同情とは嵐の如く起つた。金に対する清韓両国の処置は、明かに吾国に対する国際的儀礼を無視せるものなるのみならず、是を以て清国が吾国に対して挑戦の意志を表明せるものとして、清韓同罪論を中心に国論は鼎の如く沸騰した。
 日清戦争は幾多の事清が互に囚となり縁となりて誘起されたものであるが、其の導火線となれるものは実に金玉均の横死である。

 東亜に対する西洋の駐々たる攻勢、資本主義文明の膨濤たる進出の前に、日本は勇敢且賢明に善処して、一応近代国家として自己を再建した。而も之と同時に日本は、大陸に於ける東亜諸民族の全般的なる覚醒・革新・協力なくしては、究極に於て日本自身の存立さへも保障されぬといふ厳粛なる事実に当面せねばならなかつた。かくて日本は否応なしに東亜保衛者・亜細亜復興者としての重任を負はねばならぬこととなつた。
 征韓論によつて示されたる日本の朝鮮に対する激しき関心、之に続く朝鮮開国のための一連の政治的交渉は、表面に如何なる爽雑物を混へたるにせよ、その奥底に流れる動機は、朝鮮を覚醒して東亜保衛の協力者たらしめんとするに在つだ。


 然るに支那は是くの如き日本の意図を歓ばず、朝鮮に対する宗主権を確保せんとして、朝鮮に於ける日本の努力を妨げた。殊に明治17年金圭均・朴永孝の甲申の変失敗し、日本の勢力失墜せるに乗じ、
李鴻章の意を承けたる年少気鋭の衰世凱は、一切の手段を講じて日本の在鮮勢力排斥に努めた。
 朝鮮政府が日本政府に向つて執拗に金玉均・朴永孝の引渡を要求したのも、朝鮮独立党の根絶を期する清国政府の教唆によるものであり、また明治22年威鏡道盟司趙乗式が、防穀令を発して穀物の国外輸出を禁じ、わが商民に多大の損害を与へたのも、また清国側の指金に出でたるものであつた。

 是くの如く支那は驕り、目本は憤りて、半島に於ける両者の対峙が、年々激化し来りつつありし間に、朝鮮をめぐる国際情勢は、欧米列強の登場によつて頓(とみ)に複雑を極めた。蓋し日韓条約の締結が先例となり、明治13年には米国、同16年には英独両国、同17年には、露伊両国、同19年には仏国が、それぞれ朝鮮と修好通商条約を締結した。
 列強のうちには、条約締結交渉に際して清韓両国の宗属関係を顧慮し、清国政府の意向を質したものもあつたが、当時専ら外交の衝に当れる李鴻章は、日本の対鮮進出を阻止するため、以夷制夷の見地より朝鮮開国に同意し、朝鮮政府に対して条約の締結を懲憩した。
 而して欧米列強の外交代表は、亜細亜の他の国々に於けると同じく、朝鮮に於てもまた独占的利権の獲得、及び政治的勢力の扶植を目指して、一切の陰謀を逞しくした。彼等の或者は其の常套手段を用ゐて朝鮮の内政累乱と人民の之に対する反抗とを助長した。
 外国公使館は陰謀の策源地となり、政治犯人の避難処となつた。

 わけても英国は明治18年5月、済州海峡の要路に当る巨文島を無断に占領したる後、朝鮮政府に対して該島の租借を申込んだ。朝鮮政府は固より此の申込を拒絶したが、清国政府は宗主国の立場に於て此の問題に干渉し、駐英清国公使曽紀澤をして、英国外務当局との間に巨文島租借に関する議定書を作らしめた。
 之を知りたる露国は直ちに清国総理衙門に対して、清国政府が英国の巨文島占領を承認する以上、露国もまた朝鮮に於ける其他の島嶼又は適当の土地を占領すると申込んだので、英国は該島不割譲を条件として巨文島を撤退した。
 其間有為なる露国公使ウェーベルは、漸次朝鮮要路者と関係を結び、伏魔殿の称ある朝鮮宮廷に勢力を張り、重大なる密約を結ばんとするに至つた。而も李鴻章は、ウェーベルの策動が次第に成功を収めんとするを見て、朝鮮の事態を憂慮しながらも、一方に露国ある以上、日本は大挙なる手を朝鮮に下すことが出来まいとして、爾来露国を以て日本を制する外交方針を採つた。
 かくして欧米の東亜侵略に対して相結んで共同戦線を、張らねばならぬ日支両国は、清朝政治家の愚かなる政策によつて、互に敵国とならねばならなかった。

 かかる間に朝鮮宮廷の紊乱と政治の腐敗とは、年と共に甚だしきを加へた。悪政の極まるとごろ、両道の各地に乱民蜂起し、東学党の道主崔時亨、之に乗じて全羅道古阜に義旗を掲げ、同道泰仁郡の郷士全琫準之に参加して党軍を指揮するや、所在の民之に呼応して起ち、忽ちにして一個の偉大なる勢力となつた。
 崔時亨の党員を率ゐて起つや、党員は等しく頭に白布を被り、手に黄色旗を携へ、 『一、弗殺人、弗傷物。 二、忠孝双全、済世安民。 三、逐滅夷倭、澄清聖道一。 四、駆兵人京、尽滅権貴、大振綱紀 立名定分、以従聖訓』 といふ綱領の下に与党を糾合し、且次の如き悲愴なる詩を高唱して民衆の感情に訴へた。

  金樽美酒千人血  玉盤佳肴万姓膏
  燭涙落時民涙落  歌声高処怨声高  

 東学党の勢は次第に猖獗を極め、先鋒を京畿道方面に進め、全羅道の首府全州を陥れ、やがて鶏林八道を風靡するの概を示した。討伐に向へる兵800は忽ち撃破せられ、御営訓練の官兵も、武器を投じて党軍に降るに至つた。
 朝鮮政府は自国の軍隊をのみを以てしては東学党軍に抗し難きを見、遂に清国に向つて救援軍の派遣を求め、明治27年6月8日、清兵は牙山に上陸した。

 先是(これよりさき)金玉均横死の報ひとたび伝はるや、金の旧知は各所に相会して其の善後策を講ずると共に、清国の無礼を痛撃して討清の叫びを揚ぐるに至つた。東京に於ける金玉均葬儀の翌日、玄洋社の的野半介は、陸奥外相を訪問して、金に対する清国政府の処置は断じて許し難いと激語して、開戦の急務を強調したが、陸奥は時期尚早として取合はなかつた。
 依つて参謀次長川上操六中将に紹介を求め、直ちに将軍を私邸に訪問して来意を述べると、将軍は 『自分としては貴意に賛成であるが、伊藤首相が非戦論であるから如何ともし難い、但し軍人は火消のやうなもの故、誰か付火をする者があつて火の手が挙がりさへすれば、喜んで火消の任務に服する 』 と答へた。
 的野は将軍の一言に勇躍し、之を頭山翁及び平岡浩太 
 

 [注記。二〇〇字原稿一枚紛失] 

 東亜侵略に対する日本の第一次反撃であり、欧羅巴侵略の手先となりし支那への武力的抗議に外ならなかつた。

 戦争は日本の大勝に終り、李鴻章が講和のために来航したが、其時のことを陸奥宗光は蹇々録(けんけんろく)の中に下の如く述べて居る―― 『既にして李鴻章来航し、馬関春帆楼頭に彼我会見するや、李は開口先づ説いて日く、今日東洋諸国が西洋諸国に対する位置如何を洞知し得るは、天下誰か伊藤伯の右に在るものあらんや、西洋の大潮は日夕我東方に向ひ流注し来る、是れ実に吾人協力同心して之を防制するの策を講じ、黄色人種結合して白晳(はくせき)人種に対抗するの戒備を怠るべからざるの秋に非ずや、今回の戦争は実に両個の好結果を収めたり、其一は日本が欧州流の海陸軍組織を利用し其成功顕著なりしは、以て黄色人種も亦確に白晳人種に対し一歩も譲るなきの実証を示し、
 其二は今回の戦争に依り清国は長夜の睡夢を撹破(こうは)せられたるの僥倖あり、是れ実に日本が清国の自奮を促し、以て清国将来の進歩を助くるものにして、其利益洪大なり、余は実に日本に対し感荷(かんか)する多し云々。其談論を約略すれば、彼は荐に我国の改革進歩を羨慕し、伊藤総理の功績を賛美し、又東西両洋の形勢を論じ、間々好罵冷評を加へて、戦敗者屈辱の地位を掩はんとす。余は之に対し、其老猾(かつ)却て敬愛すべく、流石に清国当世の第一人物なりと感じたり。』 


 日清戦争が欧羅巴の東亜侵略に対する日本の反撃である以上、
三国千渉は当然来るべくして来たのである。而して其の誘引者が 『黄色人種結合して自皙人種に対抗するの戒備』 の必要を伊藤・陸奥に力説し、其舌の根未だ乾かざる李鴻章なりしは、誠に驚くべきことである。
 而も一層驚くべきことは、東洋平和の名によつて露・仏・独三国を日本に干渉せしめながら、日本より奪回せる遼東半島をロシアに与ふる密約の締結者李鴻章・張蔭桓の両人が、ロシア政府の手よりそれぞれ50万金ルーブル及び25万金ルーブルの賄賂を受取つたといふ事実が、後年ウィッテの 『回想録』 によつて暴露されたことである。恐らくロシアは此時初めて支那政治家を買収したのではなからう。

  愛琿条約によつて黒龍江以北の広大なる地域を獲得せる時も、また北京条約によつて烏蘇里江東・黒龍江南、即ち今日の沿海州を獲得した時も、多額の贈賄が行はれたことであらう。
  単りロシアのみならず、其他の列強もロシアと同一手段を用ゐなかつたと誰が保証し得るか。イギリスと緬旬国境条約を結ぶ時も、フランスと南方国境条約を結ぶ時も、恐らく同様の醜悪なる取引が行はれたことであらう。清朝末期の政治家が、欧羅巴列強の贈賄を受けて自国の領土並に権利を売り、欧羅巴勢力を東亜の天地に誘導し来れることは、如何なる弁護をも許さぬ政治的罪悪である。

 三国干渉は是くの如き支那の不純なる動機によつて誘致されたものである。従つて此事は、日本に対してよりも一層大なる禍を支那に与へた。そは日本にとりては一時的退却であつたが、支那にとりてはロシア其他の強国によつて、領土分割の楔を打込まれたに等しかつた。
 日清戦争に於ける敗北によつて、支那の無力と腐敗とを確実に知り得た列強は、最早支那に対して如何なる遠慮をもしなくなつた。
 当時は年少の陸軍大尉、後に西蔵遠征によつて其名を知られたる英国軍人ヤングハズバンドは、支那は土地広く物資豊かに、而も人間の住むに好適なる温帯に位して居る、是くの如き地域を一個の民族の占有に委ねることは神意に背くと公言した。
 而して列強のうちロシアが、最も露骨なる野心を抱き、常に満州に占拠して支那本部への侵攻を意図せるのみならず、朝鮮手島を奪取して直ちに吾が日本を脅威せんとしたので、日露鞭争は必至の勢となつた。 

 当時日本の政界に於ける最有力者は伊藤博文であつた。然るに伊藤は平和主義者であり且親露主義者であつたので、仕野の志土は常に之を憾みとして居た。
 明治33年義和団事件の際に、ロシアは突如日本に向つて重大なる提議をしたが、その内容は朝鮮大同江を境界とし、大同江以南を日本の出兵区域、以北をロシアの出兵区域と定めんとするものし、取りも直さず朝鮮を日露両国で分割し、満州を完全にロンアの手中に収めんとするものであつた。
 此の提議は露国公便ローゼンが、当時勅命によつて外交上の最高顧問であり、その権力は外相の上に在りし伊藤博文に対して、非公式に申込み来りしものである。
 伊藤は内心此の提議に賛意を表し、政府をして之を正式の交渉に移さしめんとしたが、政府部内に反対ありしため外部に洩れた。而して伊藤の意を受けたる一部政界の者は、公然満韓交換論を唱へ、ロシアに満州を与へて吾は朝鮮を手中に収め、以て東亜の安定を図るべしと主張した。

 此の満韓交換論に対して最も激しく反対したのは、近衛篤麿・島尾小弥太・根津一及び頭山翁の一団であり、各自手を別けて要路を訪問し、断乎ロシアの提議を拒絶すべしと進言した。
 伊藤に対しては先づ島尾小弥太が朝鮮分割の不可なる所以を説いたが、更に頭山翁も伊藤に面会して峻烈なる警告を与へた。この猛烈なる運動によつてロシアの提議は遂に拒否せらるるに至つだが、明治三13年9月、山県内閣辞職して伊藤内閣成るや、此の運動を共にせる同志は、政府の対外政策に反対を表明し、清国保全・韓国扶植の二大綱領を掲げて国民同盟会を組織したので、天下翕然(きゅうぜん)として之に応じた。
 明治34年6月、伊藤内閣辞して桂内閣となり、翌25年2月日英同盟の成立あり、ロシアも之に憚りて同年四月に至り満州撤兵条約を発表したので、国民同盟会は一旦解散した。

 然るに国民同盟会解散後幾くもなくして十二箇条より成る露清密約が締結せられたることが知られ、
且 第二撤兵期に至りてもロシアは満州よりの撤兵を実行しなかつたので、国論まだ沸騰したので、明治36年7月、頭山翁を初め、神鞭知常・佐々友房・河野廣中・小川平吉・大竹貫一等が発起者となり、対露同志会を組織して対露国論の喚起に努めることとなつた。
 同志会内には実行委員を設け、 『今後当局者尚断ずる能はず、愈々大事を誤るの恐れありと認むる場合は、実行委員は帝国臣民の権能上、為し得る限りの手段を取り、目的を貫徹するに努むべし』 と定め、猛烈なる開戦促進運動を開始した。

 在野志士の眼に映じたる非戦論の巨頭は伊藤博文であつた。主戦論の急先鋒たる玄洋社の如き、最も伊藤の言動に注目し、社員浦上正孝は身を挺して伊藤を血祭に上げんと覚悟を決めたが、頭山翁の慰撫によつて鑱(わずか)に志を翻したほどであつた。
  かくて有志の間には、桂内閣を倒して近衛篤麿を首班とする露国膺懲内閣を作り、頭山翁・佐々友房・小村寿太郎・神鞭知常等を閣僚とし、対露開戦を決行せしめんと図る者あるに至つた。
  対露同志会の幹部は、在朝の大官を歴訪して開戦の決意を促したが、一日頭山翁・河野廣中・佐々友房・神鞭知常が打連れて枢密院議長官舎に伊藤を訪問した。

 頭山翁の回顧談に曰く 『私は不精者で、40頃まで袴を穿いたことが殆どなかつた。褌もないのだから、居ずまひを悪くすると剣呑なことちやつた。それで大臣だらうが総理だらうが、遠慮なく訪問する。日露戦争の前のことぢや、神鞭其他四五人打揃うて伊藤博文を訪問した時も、矢張り袴なしで出懸けたのちや。
 2度目の訪問の折、神鞭が気にして、伊藤さんへ出る時ばかりは袴を着けた方がよいでせうと言ふので、私は始めて袴を穿いて訪問したのちや。帰る時振返ると、神鞭は窮屈そうに洋服を着てシルクハットを被つて居る。僕は一生そんな物は被らんぞ、と言つて笑つたのちや。
 日露戦争の時は、今日米国に対する以上に、政府の連中が露国を恐れて居つた。私は直覚で露国は恐るるに足らずと感じて居た。それで若し伊藤が戦争を恐れるといふなら、先づ之を斬つて後露国と戦ふつもりであつた。』

 

 此時の訪問に際し、無口を以て知られたる頭山翁が、真先に口を切り、対露開戦の止むべからざる所以を力強く説いた。然るに伊藤は、事は外交の機密に属するを以て、意見を陳べ難いと、答弁を拒絶した。翁は外交の秘密に属することは勿論であるが、対露問題は政府独り私すべぎ問題でない、国民として政府の対露方針を聞きたいといふのは当然であるとして、飽迄伊藤の返答を促した。神鞭は一座の空気が甚だしく緊張せるを見て、温言を以て諄々(じゅんじゅん)と伊藤の考慮を求めたが、神鞭の言終るや、頭山翁は椅子を進めて伊藤に向ひ、 『伊藤さん、あなたは今日本で誰が一番偉いと思ひますか』 と問ふた。此の唐突にして意外なる質問に対し、伊藤は直ちに答へることが出来ず、暫く躊躇して居ると、翁は粛然として 『畏れながらそれは天皇陛下に渡らせられるでせう』 と言つたので、伊藤は再び度胆を抜かれた。

 翁は更に 『次には大臣中で誰が一番偉いと思ひますか』 と質問し、黙して翁の顔を見守る伊藤に 『それはあなたでせう』 と言ひ放ち、辞色厲しく 『そのあなたが此際確かりして下らんと困りますぞ』 と言つた。
 伊藤は翁の気晩に圧され、漸く胸襟を開いて翁等と談じ、遂に 『諸君の意の在るところは、伊藤が確かに引受けた』 と言明した。翁は之を聞いて 『それだけ承れば満足である』 と、一行を促して辞去した。
 此の会見は日露開戦に極めて重大なる意義を有し、政府の対露方針は殆ど之によつて確定したとまで言はれた。
 次で頭山翁は桂首相にも会見したが、桂はロシアに対して満韓交換などは絶対に行はぬといふ意図を明言し、且従来は国家の大方針が定まらぬために苦労したが、今度は確定したと言つたので、翁も大に満足した。
 かくして翌明治37年2月、欧羅巴の東亜侵略に対する日本の第二次反撃たる日露戦争の勃発を見るに至つた。

      (未完)


大川周明 『頭山 満と近代日本』(三) 民権運動と国会開設

2017-01-20 19:29:44 | 大川周明

 


大川周明 『頭山 満と近代日本』
 

                       
                       頭山 満 (ウィキペディア) 


   三

 征韓論破裂より西南戦争勃発に至るまでの数年間は、維新政府に対する反感と不平とが、澎湃として全国に法りし時期であり、政府は屡々危地に出入した。其等の不平は、先づ各地に於ける頻々たる暴動となりて現れ、遂に武力による大規模の政府転覆計画となり、佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱を経て、西南戦争に於て其の頂点に達した。而も『土百姓』を以て成れる『鎮台兵』が、能く『古今無双の英雄』を奉じたる「阿標惇決死」の士族軍を破り、見事に戦乱を鎮定するに及んで、天下の形勢は明かに一変し、最早武力を以て政府と争はんとする者なきに至つた。これ西南戦争の終局が第二維新と呼ばるる所以である。


 頭山翁が最も景仰せる先輩は、恐らく西郷南洲である。従つて萩の監獄を出で・西郷の長逝を知つた翁は、無限の感慨を抱いだに相違ない。また翁は前原一誠の心事に対しても至深の同情を有つて居た。前原が曩に朝を去る時の辞、並に事破れし時同志に与へし書簡は、翁が老年に至るまで之を暗誦して、屡々青年に読み聞かせて居た。出獄後の翁は、前原・西郷の志を継ぎ、廟堂の廓清と国威の宣揚を目的として、有為なる青年を糾合して堅固なる団体を結成し、以て有事の日に備へるため、同志と相図りて、博多湾を擁する向濱に謂はゆる向濱塾を設立した。即ち塾の北方に続く十万余坪の山林を入手し、半日は山林の松樹を伐採して同志衣食の資に充て、半日は相集つて書を読み武を練ることとした。塾の同人は奈良原至・進藤喜平太・来島恒喜・月成勲・大原義剛、其他であつた。

 

 然るに翌明治十一年五月十四日、大久保利通が西郷崇拝者島田一郎等六人のために、参朝の途次、紀尾井坂附近に刺されて無惨の死を遂げた。此報鹿児島に達するや、老幼男女相告げて皆快哉を唱へ、途上相遇ふ者互に御芽出度うを連呼し、戦没者の遺族は赤飯を炊いて慶祝した。福岡に於て此報に接した頭山翁も、島田等の挙を快としたことであらう。明治維新の元勲は、言ふまでもなく西郷・木戸・大久保の三人を推すのである。然るに昨年木戸は病を以て没し、西郷は叛して発れ、内外の機務は一に大久保の手によつて決せられることとなつたが、其の大久保が今や刺客の刃に斃れ、維新の三傑また一人を留めざるに至つた。天下は再び動揺するかに見えた。翁は時を移さず土佐に赴いて板垣退助を高知に訪ふた。

 

 明治十年以前は、政府反対党の中心は鹿児島を以て目せられ、十年以後は高知を以て日せられた。前者の泰斗はいふまでもなく西郷南洲であり、後者のそれは板垣退助である。前者は保守主義を執り、武力を以て反対し、後者は急進主義を執り、言論を以て反対せんとする。等しく政府と対立するも、其の方針は全く相反する。而して保守的武断党の反対は遂に西南戦争に於て敗れたので、今や進取的言論党が其の全力を現すべき機会が来たと言はねばならぬ。
  板垣は明治八年の所謂大坂会議以後、木戸と共に再び朝に入つたが、幾くもなく政府と説を異にし、島津久光と共に職を辞して野に下りし後は、輿論の力を以て政治の革新を行はんとし、暫く機会を待つて東京に留まつて居たが、明治十年西南の乱起こるるに及び、郷党の有志が陸軍に呼応して事を起こすものあるべきを慮り、之を制し。門バカリ位豪宕の之を制止するために二月東京を発して高知に帰つた。而して予期に違はず林有造・大江卓・谷重喜等が、同志を募りて西郷に応ぜんとし、当時京都に在りし元老院幹事陸奥宗光もまた之に与して居た。

 

 当時高知には三派の勢力が対峙して居た。一は立志社で、明治七年板垣が征韓の廟議に敗れて帰郷した時に設立せるもの、社員、千余人を算へた。洋学所を開き、法律所を設け、自由民権の説を講義し、仏蘭西革命の悲壮を章謡に作り、露西亜革命党の運命を小説に書いて四方に伝唱せしめるなど、日本に於ける最初の政治的結礼として最も活発なる運動を開始して居た。大石彌太郎等の一派は、之に対して静倹社を樹立し、漢学を修め、山野を開拓し、純然たる封建思想を護持して居た。其の保守的態度は全く立志社と対蹠的であつたが、政府の施設に不満なりしは同一であつた。

 

 第三は中立社と言ひ、佐々木高行・谷干城等之を率ゐ、立志社・静倹社の間に立つて常に政府の施設に賛成する官権主義の一派であつた。此等の三派が鼎立して互に相容れなかつたことが、板垣をして土佐青年の薩南呼応を阻止せしめ得た一原因でもあつた。西南の乱容易に定まらず、人心恟々として動揺するや、板垣は片岡建吉を立志社代表として京都行在所に至らしめ、政治改良の上奏、建白をなさしめた。蓋し板垣は之によつて一は薩南に呼応せんとせる過激の社員を制止し、一は政府の窮困に乗じ、迫りて改革の素志を遂げんとせるものである。而も政府は建白書中陛下に対し奉り不遜の言ありとして、之を却下して通ぜしめず、片岡が数回理由を陳べて上奏を請ひしも遂に志を得なかつた。

 

 然るに翌年に至り、大江卓・林有造・片岡健吉等前後頻りに獄に下されたので、世人は図らずも政府が薩摩に次で土佐征伐を行ふに非ずやと疑ひ、或は嫌疑の板垣に及ばんことを憂へた。而も板垣は知己朋友の捕はれて東京に護送せらるるもの頻々として相次いでも、毫も屈することなく、民権思想の鼓吹に努めて青年の志気を奨励して居た。従つて天下の政府に不満なる者、皆密かに望を高知に属し、遙に来りて教を板垣に請ふ者少なくなかつた。それ故に単り頭山翁のみならず、磐城の河野広中、越前の杉田定一、伊勢の栗原亮一、備前の竹内正志、豊前の永田一二の諸氏、皆前後して土佐を訪ふて居る。

 

 翁が高知を訪ふたのは、板垣が四十二歳、翁は二十四歳の時である。此時翁は板垣に向つて『決起の意志なきやを糺した』と、後年自ら語つて居るが、翁の決起とは恐らく挙兵の意味であつたらう。而も板垣は徹底せる合理主義者であり、立志社員の決起をさへ制止したのであるから、板垣の返事は翁を失望せしめたに相違ない。また板垣が力説せる自由民権の思想も、翁にとりては全く耳新しきものであり、その抱懐する尊皇思想と背馳するものの如く思はれた、さり乍ら自由民権の主張、民選議院設立の要望は、既に述べたる如く其の根底を明治維新の尊皇精神と同じくするものであり、皇室を永遠に安泰ならしめ奉るために、公論を以て政治を行はねばならぬとするものである。

 もと明治政府は広く英才を天下に求むることを標榜したが、年を経るに従つて維新の際に功勲を樹て、背後に武力を擁する薩長両藩が、自然に政権を掌握するやうになり、天皇を奉じて政治を専行すること、往年の幕府と異なるところ無からんとするかに見えた。皇政復古の真義を発揮するためには、官僚をして私曲を営む余地なからしめねばならぬ。輿論政治は東洋に於ても決して新奇な主張でない。
 孔孟の教へたる王道も、輿論政治と一致するものがある。例へば孟子が『左右皆賢と日ふも未だ可ならざる也。諸大夫皆賢と日ふも未だ可ならざる也。国人皆賢と日ふ、然る後に之を察し、賢なるを見れば、然る後に之を用ふ。左右皆不可なりと日ふも聴く勿れ。諸大夫皆不可なりと日ふも聴く勿れ。国人皆不可と日ふ、然る後に之を察し、不可なるを見れば、然る後に之を去る』と言へるが如き是れである。

 板垣は翁に向つて、武力を以て政府と抗争するの不可なること、また仮令可なりとするも之を可能とする時代の既に去れることを説き、宜しく言論を以て武器に代へ、自由民権の旗印の下に、全国民の輿論を味方として藩閥政府と戦ふべきことを力説し、遂に翁を説得した。

 

 先是(これよりさき)明治七年一月、民選議院設立を建議し、愛国公党本誓を発表せる際、板垣は同志を会して安全幸福社を設けたが、翌八年二月、各地の有志を大阪に会し、之を愛国社と改称して同志の団結を図つた。然るに此年三月、所謂大阪会議の結果、板垣は再び参議に復して政府に入つたので、此の運動は暫く中絶の姿となつて居た。
 大久保の刺殺に昂奮して土佐に集まれる四方の有志は、いまや愛国社の再興を企て、翁を初めとし、杉田定一・栗原亮一等最も熱心に板垣に勧めて其の賛成を得た、かくて栗原は愛国社再興趣意書を草し、栗原・杉田以下の諸有志、それぞれ畿内・北陸・山陽・山陰・四国・九州の各地に遊説して其志を告げることとなつた。頭山翁の晩年は沈黙を以て聞こえたが、土佐滞在の一個月中には、屡々立志社の演壇に立つて演説した。而して其の帰るに当りては、立志社中雄弁第一の称ありし植木枝盛を福岡に伴つた。

 

 福岡に帰れる翁は、直ちに演説会を開き、民権思想の鼓吹に全力を傾倒した。植木の雄弁は常に会場に溢れる聴衆を引付け、演説会は極めて盛況であつた。翁もまた屡々演壇に立つたが、態度荘重、音吐朗々、漢学の素養が相当に深かつたので、よく経史の章句を引用し、論旨また明瞭徹底、人をして其の意外の雄弁に驚かしめた。

 かかる間に愛国社再興の準備は着々進められ、明治十一年九月、大阪に第一回大会を開くこととなつた。土佐からは板垣を初め立志社の幹部西山志澄・植木枝盛・安岡道太郎・山本幸彦、福岡からは頭山翁及び平岡浩太郎・進藤喜平太、小倉からは杉生十郎、佐賀からは木原義四郎・鍋島克一、武富陽春、久留米からは川島澄之助、熊本からは佐野範太、宮崎からは宮村三太、福井からは杉田定一、三重からは栗原亮一、其他鳥取・岡山・松山・高松・愛知の各地から、皆一騎当千の士が参会した。 

 結社式は九月十一・十二両日に亘りて盛大に挙行せられ、愛国社合議書を作り、全国響応して民間勢一(注、原文のママ)を統一し、以て活発なる政治的運動を開始することとなつた。かくて大阪本部には立志社の山本幸彦・森脇直樹等幹事として社務に当り、植木枝盛・安岡道太郎・杉田定一・栗原亮一等は遊説員として全国各地に遊説するに決し、其他の出席者は各自の郷里に帰りて民論の鼓吹に努めることとなつた。此時より日本全国、各地に政治結社の勃興を見るに全つた。

 

 明治十二年春、頭山翁等は向浜塾を閉ぢ、福岡本町に新に向陽社及び向陽義塾を設立し、箱田六輔を社長として、志ある青年の薫陶に従つた。塾は漢学の教師として高場乱女史、女史の従弟坂巻関太及び亀井紀十郎を聘し、法律・理科・英語の教師として二人の英国人を傭つた。当時は中学校が無かつた頃のこととて、多数の青年が来り学んだが、其中の一人に後年支那公使となりし山座円次郎も居つた。

 一方愛国社は、此年三月第二回大会を大阪に開いたが、四国・九州・中国・大阪以東の四団体二十一社の代表者が集まつた。次で十一月第三回大会を又大阪に開いた。此時立志社員島地正存は、速かに国会の開設あらんことを天皇陛下に請願し奉るべしと建議し、多数の賛成を得て茲に国会開設請願運動を全国的に開始することを決議した。福岡に於ては此年十二月、之に応じて頭山翁・箱田・平岡・進藤等が相図り、此の運動のために筑前共愛同衆会を組織した。

 

 明治十三年は、国会開設請願運動のために、政界最も多事の年であつた。そは愛国社の首唱に基づくものであつたが、岡山県の志士が前年の暮、悲壮激越なる檄文を四方に飛ばし、全国の新聞紙皆之を掲載して人心を教動せることが殊に与つて力あつた。而して翁等の筑前共愛同衆会は、逸早く箱田六輔及び南川正雄を総代として上京せしめ、一月十六日国会開設、条約改正の二件を元老院に建白し、次で岡山県有志総代もまた上京して建白書を元老院に提出した。

 かくして国会開設を要望する運動は澎湃として全国に起り、東西饗応して四方より建白書を提出するに至つた。而して愛国社は前年十一月の決議により、此年三月大阪に会合して国会開設請願書を作成し、片岡健士・河野廣中の両人其の奉呈委員となり、東京・大阪・山形・福島・茨城・広島・愛媛・石川・島根・岐阜.・堺・高知・福岡・宮城・新潟・兵庫・長野・愛知・岩手・長崎・徳島・大分・熊本・佐賀の二府二十二県総代九十七人、請願人無慮八万七千の代表として上京し、携ふるところの請願書を太政官に捧呈した。

 然るに太政官は、政治に関する人民の請願を受理する成規なしとの理由を以て、之を受理することを拒んだので、片岡・河野両人は更に之を元老院に呈した。而して元老院もまた建白書の外は受理する職権なしとして之を却下したので、両人は遂に請願の志を果さず、其の始末を各地の総代に報告した。

 政府は全国各地の有志が頻繁に総代を選んで上京せしめ、太政官の門前、国会請願書を以て埋まり、新聞紙が盛んに之を報道し、政談演説が毎日都鄙(とひ)に開かれ、天下騒然として物情の穏かならざるを見、集会条例を発布して厳重に政治運動を取締つた。曩(さき)に請願書を斥けられたる愛国社は、社名を国会期成同盟会と改め、必ず国会の開設を見ざれば巳まざるの意を示したが、集会条例のために検束せられて、各地の結社が互に通信往来すること能はざるに至つたので、更に会名を大日本国会期成有志公会と改め、普く全国の同志を糾合し、此年十一月十日、二府二十二県十三万人の有志総代六十四名東京に会し、先づ議長以下の委員を公選した。

 議長は河野廣中、副議長郡利、請願書起草委員には長野県の松沢求策、高知県の林包明、福岡県の箱田六輔、岩手県の鈴木舎定、群馬県の新井毫を挙げ、幹事には石川県の杉田定一、福岡県の小田切謙明、香月恕経、郡利、京都府の沢辺止修が選ばれた。

 

 此の会議に於て、有志者の或者は重ねて請願書を提出せんと主張し、或者は曩に請願書を却下せる所以を以て政府を詰責せんと唱へ、其議未だ決せざる前に、或者は単に国会開設を期するのみならず、進んで自由主義の政党を樹立すべしと提議し、此等の政党論者は別に団結して自由党を組織した。此の自由党は国会期成同盟会とは別個の団体であり、当時は甚だ微力のものであつたが、翌十四年十月、国会開設の聖詔下りたる時、両者合して更めて自由党を組織し、板垣退助を総理に戴くに及んで、始めて大なる勢力となつた。

 さて土佐より帰りて福岡に民権運動の基礎を置いた後、明治十二年の暮、頭山翁は同志四人と共に薩・摩への旅を思ひ立つた。それは予て憧憬せる大西郷の故山を訪ひ、且同志を残存の薩南志士の問に求めるためであつた。

 一行は懐中無一文で、福岡から鹿児島まで徒歩で往つた。先づ武村に西郷の故宅を訪ふた。時に西郷家には、西郷が沖永良部島流謫(るたく)中に相識の間柄となれる川口雪蓬が、西郷の死後も其家に留まつて遺児の薫育に当つて居た。川口雪蓬は大塩平八郎の養子格之助であるとの説もあるが、未だ真偽を決し難い。とにかく罪ありて沖永良部島に流され、西郷に後れて赦された学者で、白髯を蓄へ、眼光炯炯(けいけい)、犯し難い風ぼうの老人であつた、翁の一行が来意を告げると、老人は慇懃に応対し乍ら言った―『鹿児島は今や禿山となつた。先年までは天下有用の材が茂つて居たが悉く伐り倒された。今から苗を植付けても容易に大木とはならない。わけても西郷ほどの大木は百年に一本、干年に一本出るか出ないかだ』と。翁は晩年に当時のことを回想して、其頃の鹿児島は誠に川口老人の話の通り、何とも言へぬ寂しさであつたと述懐して居る。

 

 翁は川口老人から西郷の話を聞き、また其の遣品を見て、西郷に対する尊敬の念を深くした。此時老人は、西郷が愛読せる大塩平八郎の『洗心洞箚記』を翁に示した。西郷は幾度びか繰返して此書を読んだものと見え、摺り切れた箇所には自ら筆を執りて書入れたり、また紙の破れた箇処もあつた。また西郷愛蔵の大塩平八郎の書幅(しょふく)もあつたが、その表装が極めて立派なのを見て、翁は西郷が深く大塩に傾倒して居たことを知つた。

 

 翁は洗心洞箚記を借りて旅宿に帰り、熱心に之を読んだ。而して薩摩を出立する時に借りたまま福岡に持ち帰つた。川口老人は翁が秘蔵の本を無断で持ち去つたので大に怒り、其後福岡の有志が鹿児島に赴く毎に、翁の処置を非難した。翁は之を聞いて一書を川口老人に送り、折角拝借した以上は存分に味読したい、此書の精神を体得した上で返上すると告げ、其後程なく返送した。

 


大川周明 『頭山 満と近代日本』 (二) 征韓論と民選議院論

2017-01-19 21:02:40 | 大川周明

 

大川周明 『頭山 満と近代日本』

 

 
                       
                       頭山 満 (ウィキペディア) 



   二
 

 明治維新は、いふまでもなく尊王攘夷を二大綱領とした。攘夷論はもと開港論に反対して起れるものである。然るに尊王の大義は、徳川幕府の大政奉還によつて一応実現されたけれど、開港は啻(ただ)に其儘に続きたるのみならず、天皇が外人に謁見を賜はるやうになつたので、昨の攘夷は、朝の夢と消克去つだかの如く見えた。現に川上彦斎の如き、三条公に向つて教を鳴らして其非を責めて居る。乍併攘夷と開港とが相容れざる如く見えるのは、ついに表面皮相のことであり、鎖国は唯だ攘夷の消極的半面に過ぎない。攘夷の真個の意義は「万里の波濤を拓開し、国威を四方に宣布し、天下を富嶽の安きに置かん事を欲す』と宣(のたま)へる明治元年の大詔に於て、最も適切に言ひ尽されて居る。而して此の精神は既に明治維新の前夜に於て、諸先覚の魂に明確に孕(はら)まれて居た。尊皇論の台頭は年久しきことであつだが、唯だそれだけでは所謂勤皇の気は、未だ徳川幕府を転覆するほど有力なるものでなかつた。俄然として維新運動の気運を促成せるものは、実に拒否し難き強圧を以て日本に迫り来れる西力の東漸であつた。アメリカは開国を強要する。ロシアは対馬の租借を迫る。フランスは其のメキシコ政策の失敗を東亜に於て回償せんと焦せる。イギリスは貪婪の爪を磨いで近海に出没する。日本の運命累卵よりも危きを見て、四方の先覚者初めて国民的統一のために奮起したのである。

 

 徳川幕府の制度は、諸侯及び人民の判乱[注、原文のママ]を防止するといふ消極的主義を根底とせるものである。此点に於ては、極めて周匝(しゅうそう)緻密の用意を以て組織せられ、二百五十年の久しき、一諸侯の叛する者さへなかつた。然れども秦兵強き時は即ち六国連合す。一旦国難の外より来るに当つては、諸侯分立の封建制度は、到底その存続を許さるべくもない。かくて既に勤皇の精神を抱きて其心に新しき日本を描ぎつつありし諸国の志士は、起つて徳川幕府を倒し、皇室を中心とする君民一体の国家を実現した。

 

 而も近代国家として自己を再建せる日本は、近隣東亜諸国の全般的なる改革と再建なくしては、日本自体の存在が保障されないことを知つて居た。明治維新前夜に於て、夙(はや)くも佐藤信淵は其の『存華挫敵論』の中に、支那を保存して狄を挫くべきことを高調した。狄とは取りも直さずイギリスを指せるものである。彼は英国がモーガル帝国を亡。ほして印度を略取して以来、その侵略の歩武を東亜に進め来り、遂に阿片戦争の勃発を見るに至つたが、若し清国にして此の戦敗に懲り、大に武備を整へて失地を回復すればよし、若し然らずして今後益々哀微するならば、禍は必ず吾国に及ぶべきことを洞察し、支那を保全強化して英国を挫き、日支提携して西洋諸国の東亜侵略を抑へねばならぬと力説した。
 独り佐藤信淵のみならず、真木和泉吉田松陰を初め、明治維新の幾多の志士は、尊王攘夷の標語の下に、日本の政治的革新と亜細亜の復興とを、併せて同時に理想とした。頭山翁に深き感化を与へたと思はれる平野二郎国臣も、島津久光に上りし『尊攘英断録』に於て、同様の理想を火の如き文章を以て高調して居る。徳川幕府の内部に於ても、有為の士か抱懐せる対外政策は、東亜復興を積極的理想とせる点に於て、倒幕志士と何等異なるところなかつた。それ故に東亜新株序又は東亜共栄圏の理念は、決して今日事新しく発案されたものでない。そは近代日本が国民的統一のために起ち上れる其時から、綿々不断に追求し米れるものに外ならない。

 

 かくして昨の攘夷は今や開国進取に一変.した。日本は先づ一個の独立国とならねばならぬ。そのためには独立国の体面を損ふ不平等条約を改訂せねばならぬ。政府は既に明治二年より条約改正に従事し、明治四年岩倉具視を全権大使として欧米に派遣したのもまた其為であつた。また日本は其の国際的地位を安固ならしめねばならぬ。そのためには近隣諸国と親善なる関係を結び、相携えて欧米に当らねばならぬ。維新指導者の関心は、かくして当然朝鮮に向つて注がれた。彼等は鎖国保守の堅き殻の中に閉ぢ籠れる韓国を見て、彼等がいま僅に踏破し得たる荊棘の道が、此の友邦の前に横はれるを見ざるを得なかつた。

 明治元年政府は使節を韓国に派して、幕府の廃止と明治天皇の御即位とを報告せしめたが、韓国は吾が使節との応接を拒絶した。太政官の設置せらるるや、日本は再び韓国に向つて爾後外交上の一切は外務卿に於て処理する旨を通告したが、韓国は之をも受付けなかつた。其後太政官又は外務卿から屡々諭告を発したけれど、韓国は依然として交渉を拒めるのみならず、令を国中に下して、日本は今や夷狄に化したるを以て禽獣と異なるところない、吾国人にして目本人と交る者は死刑たる可しといふに至つた。而して明治六年には韓国官吏が、吾が官吏の駐在所たる草梁館の門前に貼紙して、日本が千百年自大の国を以てして、一朝制を外人に受け、其形を変じ其俗を易へて塊ぢざるを罵り、吾国に対して甚しき凌辱を加へることをさへ敢てした。

 

 韓国の是くの如き態度は、国家の体面を傷けること甚しきものなるが故に、征韓論が維新戦争以後髀肉之嘆に堪えざりし武人の間に昂まつたことに何の不思議もない。而して徴兵令の廃止、藩兵の解散によつて失業せる四十万の不平士族が之に呼応した。また政治家中には、長州勢力の恐るべきを察し、薩摩をして功を半島に成し、之によつて長州を屈せしめ、更に単純なる薩摩を操縦せんがために、征韓論に賛成せる江藤新平の如き者もある。乍併征韓論の最も熱心なる主唱者西郷隆盛の心事は、恐らく一層深く且大なるものであつた。西郷は決して直ちに兵を半島に出だすべしと主張したのではない。先づ自ら大使となりて朝鮮に赴き、彼若し吾が要求を聴かずば問罪の師を興すべしといふに在つた。西郷は道理を以て朝鮮を説き、両国相結んでロシアの南下に備へたいと考へ、若し吾が道理ある要求を容れざる時には武力を朝鮮に加へんとせるものである。西郷は朝鮮の無能にして腐敗せる支配階級が、その無智と頑迷との故を以て、国家と民族とをロシア南進の犠牲とするのを坐視し得なかつた。
 而もロシアの南下は直ちに目本の脅威である。日本は此の機会に於て大陸政策の確乎たる基礎を築かねばならぬ。西郷が太政大臣三条実美に迫つた主張として、内閣記録に遺つて居る文書は、最も明瞭に西郷の心事を伝へて居る。乍併此の征韓論は、内治を先とする岩倉・木戸・大久保等の反対によつて破れ、茲に西郷以下の主戦派、袂を連ねて廟堂を去るに至つた。明治政府に内在せる二つの相対峙する傾向が、征韓論を導火線として、先づ最初の激しき分裂を見たのである。

 然るに征韓論者のうち、板垣・副島・後藤・江藤の四前参議は、小室信夫・古沢滋・由利公正・岡本健三郎の四人と共に、八氏連署して民選議院の設立を建白した。その精神は、維新に勲功ありし二三の雄藩が、専ら天皇を奉じて政治を擅行(せんこう)するだけならば、毫も徳川幕府と異なるところない。彼等をして私する余地なからしめて、始めて尊皇の実を挙げ得るとするに在る。それ故に尊皇と民選議院とは、表面一致せざるが如くにして、実は同一精神に出でて居る。かくて幕末の尊王攘夷の二論は、今や姿を代へて征韓論及び民選議院論として現れた。

 

 此時に当つて板垣・副島・後藤・江藤の声望は頗る天下に重く、加ふるに西郷鹿児島に在りて百二都城の健児は皆之に従ひ、両者遥に消息を通ずるが如く思はれたので、政府は動もすれば鼎の軽重を問はれんとし、朝野騒然たるに至つた。而して是くの如き動揺は必然頭山翁の郷国にも波及した。もと九州諸藩のうち、徳川幕府のために戦つたものは唯だ唐津の小笠原藩だけである。従つて其他の諸藩は、多かれ少かれ幕府に対する戦勝の分捕を分ち得べき地位に在つた。即ち佐賀藩の如きは、始めより其の態度が極めて曖昧なりしに拘らず、恐らく其の所有せる軍艦が物を言つて、薩・長・土藩と並んで維新政府の要路に立つもの多かつた。此間に在りて比較的不平の地位に置かれたるものに、熊本藩及び福岡藩がある。両者は等しく九州の雄藩であり乍ら、節制と統一とに乏しかつたため、維新の前後に進退宜しきを失ひ、共に鎮西の大藩たるに適はしき待遇を受けることが出来なかつた。

 

 維新政府は其の創業の際に当り、諸多の方面に新人物を必要としたので、人才の収攬について当初は甚だ宏量であつた。新時代の要求に応ずべき才能を具へた者あれば、政府は好んで其用を為さしめんとした。それ故に昨日までは薩長を敵とし、倶に犬を戴くまじと決心した佐幕派の人々でも、往々にして新政府に入りて朝班に列した。佐幕派既に然り、中立諸藩の人才に対して、政府は決して之を排斥せんとしなかつた。乍併維新の優勝者は竟(つい)に薩長両藩である。優勝者が如何に宏量を示しても、戦敗者又は落伍者は、遂に其の自負を捨てることが出来ぬ。落伍者は仮令優勝者に好遇せられても、尚且自負心を損はれたるの感なきを得ない。かくして優勝せる諸藩の青年は概ね時代を謳歌し、時代と共に進まんとするに対し、落伍せる諸藩の子弟は時代を批判し、時代と戦はんとするに至る。熊本に於て然り、福岡に於て然りであつた。

 

 人参畑の興志塾に学んだ青年は、その環境からも、また其の学問からも、当然反政府的傾向を辿つた。いまや天下の風雲頓に急を告げて来たので、武部小四郎は矯志社、越智彦四郎は強忍社、箱田六輔は堅志社を結び、一朝事あれば一身を君国に献ずべきことを盟(ちか)つた。而して頭山翁は矯志社の一員となつた、そのうち時勢は愈々(いよいよ)急迫し、明治七年二月に佐賀の乱あり、九年十月には熊本神風連の決起及び前原一誠の萩の挙兵あり、不穏の空気は全国に瀰漫(びまん)した。政府は血眼になつて各方面の弾圧に努めた。而して萩の乱起りて幾くもなく、翁を初め矯志社員十数名は、国事犯嫌疑の名の下に一網打尽せられ、福岡監獄及び小倉分監に投ぜられた。時に明治九年十一月九日、翁二十二歳。蓋し其の前日、福岡警吏の一隊は、矯志社員の鬼狩の留守に乗じ、頭山家を襲ひて家宅捜索を行ひ、大久保利通暗殺・政府転覆に関する盟約書を押収したのである。

 

 翌(あ)くれば十年、薩南に新政厚徳の旗を翻せる西南戦争が始まつた。官憲は、福岡罪獄中の翁等が、獄外同志の救援によつて破獄の挙に出つることあるべきを惧れ、之を長州萩の監獄に移した。翁の同志にして先輩たる武部小四郎・越智彦四郎等は、果して同志数百人と共に決起して兵を福岡に挙げ、遥に西郷に呼応した。而も此挙は脆くも敗れ、武部・越智等の五領袖は、明治十年五月三日、除族斬罪を宣告されて刑場の露と消えた。若し当時頭山翁が自由の身であつたならば、必ず彼等と共に起つて戦つたであろう。翁自身が語れる如く、天は翁の生命を助けるために獄中に封じたものである。翁等は入獄以来殆ど何等の取調も受けず、未決のまま一年を過ぎ、此年の秋西南戦争鎮定の後に釈放された。


大川周明 『頭山 満と近代日本』(一) 皇政復古と欧化主義、頭山満の生い立ち

2017-01-17 15:06:03 | 大川周明

大川周明 『頭山 満と近代日本』

 
                       
                       頭山 満 (ウィキペディア) 

    一

 清朝の史家趙翼は『秦漢の間は天地の一大変局なり』と言つた。此の形容は最も善く明治維新の歴史に恰当(こうとう)する。春秋より秦漢に至る期間は、中国史に於ける偉大なる解放時代であり、貴族政治の崩壊に伴ひて、上古の政治及び社会組織、また之に連帯せる経済制度が、悉(ことごと)く根本的変化を見るに至つた。まさしく新大新地の出現である。明治維新また同様である。そは決して単なる政治的改革ではなく、実に物心両面に百る国民生活総体の革新であつた。頭山翁は安政二年四月十二日の誕生であるから、十四歳の秋(とき)に明治元年を迎へたこととなる。

 

 さて明治維新の機運は、第一に大義名分を高調せる漢学者、次では大日本史・日本外史等によつて国体の本義を明かにせる史学者、更にまた復古神道を力説せる国学者の思想的感化を受けたる志士、並に欧米の新知識に接触せる開国論者等によつて促進されたものである。而して異種の思想系統を惹きたる此等の人々が、倒幕と同時に維新政府に入りて、等しく要路に立つこととなつた。此事は必然政府諸般の施設に反映し、明治初年に於ては、思想的根拠を異にせる、従つて矛盾撞着せる幾多の法律命令が発せられ、国民をして啻(ただ)に其の煩項に悩ましめたるのみならず、施政の方針また屡々動揺して、適帰するところを知らざらしめた。政府を調刺せる当時の謎々合せの一つに曰く 『太政官とかけて浮気男と解く、心は夜昼七度変る』 と政府の朝令暮改は実に此の誠刺の如く甚だしかつた。明治維新の根本方針は、名高き五個条御誓文によつて確立されたとは言へ、その実現のためには有らゆる紆余曲折を経ねばならなかつた。

 

 蓋(けだ)し維新の幕一たび切つて落さるるや、雑然たる各種の傾向が、是くの如き偉大なる転換期に孰れの時代・敦れの国の歴史にも共通なる現象として、先づ社会的並に政治的に新旧勢力の対峙となり、やがて武断派と文治派、急進派と保守派の二大陣営に分れ、朝に於ては征韓派と内治派との抗争となり、野に於ては暴動と暗殺との頻発となり、波瀾幾度か重畳して国家は屡々危地に出入した。 

 見よ、一方には皇政復古の精神に則りて天皇親政が行はれ、太政官・神舐官等の如き大宝令官制の再現を見、廃仏棄釈・基督教迫害が行はれると同時に、他方には明治維新の精神に応じて大官・学生の欧米派遣となり、一切の旧きものの極端なる排斥となり、欧米模倣の文明開化が強調され、国語を廃して英語を採用すべしと唱ふる者、共和政治を謳歌する者さへあるに至つた。一は洋服を胡服と罵れば、他は和服を蛮服と嘲る。是(か)くの如き対立が、国民生活の一切の方面に現れた。而して此等の二つの傾向が、時には並行し、時には雁行し、時には先後しつつ進んで成れるものが、実に明治日本の政治であり、法律であり、経済であり、総じては一般明治文化である。

 

 さて明治初期に於て日本の主流となれる思潮は欧化主義であつた。もと明治維新は、儒教の大義名分の思想と、国学によつて闡明(せんめい)せられたる国体観念の把握とを思想的根拠として行はれたる改革なりしとは言へ、既に幕府を倒して天皇を中心とする政治を行はんとするに当りては、今更支那の制度に倣ふべくもなく、さりとて上代日本の制度を其儘に復活すべくもない。それ故に明治維新の指導者が、今や新たに交りを結んで強大恐るべきを知れる欧米諸国を模範とし、制度文物みな之に則らんとせることは、固より当然の経路であつた。彼等は日本を富強ならしめるためには、西洋文明を取入れる外に別途なしと考へ、徹底せる日本の近代化、又は日本の西洋化に着手した。

 そは実に驚くべぎ急激なる変化であつた。維新以前僅に十五年、ペリーの黒船が初めて浦賀に来りし頃まで、国民は西洋人を野蛮視して居た。当時の草双紙や錦絵には、犬の如く片脚あげて放尿せる西洋人の姿を描いて居る。浦賀で一米人が死んだ時、幕府の大奥の女中が『浦賀で異人が一人落ちました』と言った。落ちるといふは鳥類が死んだ時に使ふ言葉である。その西洋人が暴力を以て開国を強要せる故を以て、攘夷運動が激成され、開国を迫られて承認せるを許すべからずとして倒幕の気勢揚がり、遂に皇政復占の世となつたのである。然るに今や昨日まで攘夷倒幕に無我夢中なりし志士が、君子豹変して欧米文明の随喜者となり、日本の欧米化に死力を傾倒し初めた。

 明治六年木戸孝允が井上馨に与へたる書簡の中に下の如き一節がある。曰く「久翁へは昨春相論じ見候得共、今日の時勢にては取込丈け取込、其弊害は十年か十五年かの後には、必ず其人出候て改止可致との事にて、ばつとしたる大人らしき論に候へとも云々』と。書中の久翁とは即ち大久保利通である。新日本の韓魏公たる大久保甲東さへ、尚且是くの如ぎ極端なる改革論者たりしとせば、其余は即ち知るべきのみである。

 わけても当時欧米を巡歴せる人々は、其の事々物々に驚魂駭魄して、日本は果して彼等と伍して独立を保ち得べぎや否やをさへ憂ふるやうになつた。木戸孝允の如き、欧米を一巡して特に此感を深くし、帰来極度の神経哀弱に陥つたと伝へられて居る。福沢諭吉の『学問のすすめ」にも、下の如く述べて居る――

 『近来継にひそかに識者の言を聞くに、今後日本の盛衰は人智を以て明に計り難しと雖も、到底其独立を失ふの患はなかる可しや、方今目撃する所の勢に由て次第に進歩せば、必ず文明盛大の域に至る可しやと云ふて之を問ふ者あり。或は其独立の保つ可きと否とは、今より二三十年を過ぎざれば明に之を期すること難かる可しと云て之を疑ふ者あり。或は甚だしく此国を蔑視したる外国人の説に従へば、辿も日本の独立は危しと云て之を難する者あり。固より人の説を聞て遽に之を信じ、我望を失するには非ざれども、畢寛この諸説は、我独立の保つ可きか否かに就ての疑問なり。事に疑あらざれば問の由て起る可き理なし。今試に英国に行き、貌利太の独立保つ可きや否やと云てこれを問はば、人皆笑て答ふる者なかるべし。其答ふる者なきは何ぞや。これを疑はざればなり。然らば則ち我国文明の有様、今日を以て昨日に比すれば或は進歩せしに似たることあるも、其結局に至つては末だ一点の疑あるを免れず。苟(いやしく)も此国に生れて日本人の名ある者は、之に寒心せざるを得んや。』

 

 かくして日本の独立を保ち、欧米諸国と対等の交際をなすために、日本を欧米諸国の如き文明開化の国たらしめねばならぬといふことが、明治政治家の切なる念願となつた。而して文明開化の民となるためには、政治法律はいふまでもなく、産業の組織、教育の制度、さては風俗習慣まで悉く欧米に倣はねばならぬと考へた。森有礼は、日本語は文章としては意味曖昧、口語としては演説に適せずとの故を以て、之を廃して英語に替へるがよいと考へた。実に日本の国語までが当時の政治家によつて葬り去られんとしたのである。かくて日本の旧物は大胆に棄てられた。東京の八百八町、随処に洋学指南所の看板を掲げて怪しげなる英語を教へる者が籏出した。酒楼の少女が客と語るに洋語を挟み、英語・仏語を入れたる都々逸が謡はれ、男子の袴を穿き、腕まくりなどして、洋書を提げて往来する女学生も現れた。店頭に立つて書籍の売行を見れば、四書五経は反古紙に等しく、仏書の如き大般若経の浩瀚(こうかん)を以てして、其価は洋書の零本一冊にも如かなかつた。

 

 髪は斬られ、髯は蓄へられ、断髪頭は『文明頭』と呼ばれ、女子の間にさへ斬髪者があつた。洋服着用者も多くなつた。その洋装は如何なるものであつたか、明治四年十月発行の『新聞雑誌』に掲げられし柳屋洋服店の開店広告に下の如き一節がある―『奇なり妙なり世間の洋服、頭に普魯士の帽子を冠り、足に仏蘭西の沓をはき、筒袖は英古利海軍の装、股引は亜米利加陸軍の礼服、婦人襦袢は肌に纏(まと)いて窄(せま)く、大漢が合羽は狸を脛(は)ぎ過ぎて長し、恰も日本人の台に、西洋諸国はぎわけの鍍金せる如し。』俳優尾上菊五郎は、明治四年夙(はや)くも洋服に、長靴を着けて楽屋入りして居た。芸娼妓の間にも洋装する者が現れた。

 此等の急進主義者は、和服を『因循服』と呼んだ。飲食もまた洋風がよしとせられ、明治五年滋賀県令は下の諭達書を発して肉食を奨励して居る-『牛肉の儀は人生の元気を稗補(ひほ)し、血肉を強壮にするの養生物に候処、兎角旧情を固守し、自己の嗜まざるのみならず、相喫し候へば神前など憚るべしなど、謂はれなき儀を申触らし、却て開化の妨碍をなすの輩少からざるやの趣、右は固陋因習の弊のみならず、方今の御主意に戻り、以ての外の事に候。以来右様心得違の輩有之候に於ては、其町役人共の越度(おちど)たるべく候条、厚く説諭に及ぶべし。』同年京都府でも同じく諭達書を以て牛乳と石鹸の使用を府民に奨励し、「牛乳は内を養ひ、石鹸は外を潔くするは、大に養生に功あることに付、別紙効能書相達する条、疎に心得ることなく』と言つて居る。

 

 事情是くの如くなるが故に、明治初年の吾国の教育方針は、日本国民の教育に非ずして、世界人又は西洋人の教育であつた。極言すれば国民を西洋人に造り変へることであつた。現に文部省が最初に全国に造りしものは英学校であり、英学校が後に師範学校となつた。予は昭和二年夏、岩手県に赴きし時、盛岡師範学校最初の教育方針を、当時学生たりし土地の故老より聞くことを得た。此の故老の語るところによれば、校長は西洋の学問をするには衣食住をも洋風にしなければならぬとして、五十歳前後の初老の婦人教師にまで洋服を強ひ、生徒には洋食を食はせたとのことである。但し其の洋食は、生徒が食ふに堪えずとして強硬に抗議せしため、後には和食に改めたとのことであつた。

政府は是くの如き教育によつて教師を養成し、全国に小学校を立てて、国民に無教育者なからしめんとした。

 三上文学博士は、曾て国史回顧会に於ける講演の中で下の如く述べて居る―『私一個の経験に就て申すことは如何でありますが、私が小学校の生徒であつた時からこのかた、さながら亜米利加の児童として明治政府から教育せられたのであります。小学校の初めに「イト」「イヌ」「イカリ」等の単語図を学び、続いて連語図を学んだのでありますが、其文句は「神は天地の主宰にして人は万物の霊なり」「酒と煙草は衛生に害あり」等から学んだのであります。酒と煙草は衛生に害ありは其通りで、少しも変なことはありませんが、其神といふのはゴッドの直訳であつたと云ふことを後に承つたのであります。それから修身書を学びましたが、其教科書は亜米利加のウェーランドの著したものの翻訳であつて、無論基督教主義の徳育でありました。歴史を学べば初めから外国歴史であつて、日本歴史は教へて貰はなかつた。地理を学べばミッチェル氏世界地理書で、日本に関することは一ページか二ページより書いてなかつたと思ひます。

 

 中学以上に於ては英語の教科書を多く用ゐましだから、一層外国の少年らしく教へられたものです。大学の予備門、即ち後の高等学校に於て、明治十六年に始めて一週一時間新井白石の読史余論を教科書として国史を教へられましたが、これが高等学校程度の学校に於て国史を教へられた嚆矢であります。それも独逸語のお雇教師グロート氏が、予備門長杉浦重剛さんに向つて、各国とも此程度の学校にては其国の歴史を授くるものであるのに、此学校にはそれが無いのは甚だ不思議であると注意したので、予備門長も成程と思はれ、そこで私共のクラスから国史を置かれたのであります。予備門長があの国粋家の杉浦さんであつたからこそ、早速グロート氏の忠告を容れられたのでありますが、若し滔々たる其当時の人をであつたならば、其の忠告も或は容易に受入れられなかつたであらうと思ひます。併し私共は他の一面から観れば、小学校より帰り途に、漢学の先生の所に立寄つて、国史略・日本外史・十八史略・大学・論語等を教へられましたので、政府の手によつて亜米利加児童らしく教育されましたけれど、幸に私塾で謂はば補習教育によつて日本人らしい教育を受けたのであります。私共より尚後れたる或る時代の人は、学校に於ても国史及び之に近い学科の教育を受くること少く、私塾に於ても右の如き補習教育を受けなかつた場合が頗る多いのであります。』

 

 さて明治政府は『邑(まち)に不学の戸なく、家に不学の人なか[ら]しめん』との意気込を以て、全国に学校を立てたものの、教師は容易に得らるべくもない。出来得るならば政府の意図する西洋風の教育を施す教師を、日本の津々浦々に配りたかつたであらうが、それは当時に於て到底不可能のことであつた。かくて止むなく学問ある士族、旧藩の学校の先牛、乃至は僧侶や村学究などを校長や教師に採用して、当面の急に応ずることとした。そは政府としては不本意であつたとしても、日本のためには幸福なことであつた。若し政府の希望せる資格を具へし教師が、全国一斉に同胞を欧米人たらしむべく教育したとすれば、日本人の性格は大なる変化を蒙らねばならなかつたであらう。然るに幸にも此等の村学究先生は、政府当局とは事変り、毫も西洋を尚び又は恐れることはない。中央の有識者が日本の独立を危ぶんで居た時に、彼等の眼中には紅毛碧眼の徒なく、専ら漢学又は国学によつて鍛えし思想を少年に鼓吹し、日本は神国であり、文明国は支那のみなるかの如き思想を、純真なる少年の頭脳に刻み込んでくれた。これは日本にとりて思ひ賭けぬ幸運であつたと言はねばならぬ。政府が飽迄も日本を第二の欧米たらしむる方針を以て進み、国民生活の一切を欧米化せんと努めたるに拘らず、国民が能く日本的自覚と自尊とを護持し得たのは、此等の老先生に負ふところ大であつた。

 

 頭山翁は黒田藩で百石取の馬廻役を勤めた筒井亀策の三男として生れ、少年時代の教育を古川塾・瀧田塾・亀井塾等の漢学者の私塾に於て受けた。乙次郎といふ名前であつたが、十歳か十一歳の頃に鎮西八郎源為朝にあやかつて筒井八郎と自称した。幼より記憶力がすぐれ、物事を悟るのに鋭敏であつた。七八歳の頃、父兄に伴はれて桜田烈士伝の講談を聴きに行き、帰来その物語の要領を精確に復誦したのみならず、十八烈士の姓名を悉く記憶して居た。亀井塾におつたころも、其の抜群の記憶力を以て『筒井の地獄耳』と称せられた。

 

 翁は十四歳を迎へた明治元年、太宰府の天満宮に参詣し、爾米其名を満と改めた。此年は翁の精神にも維新が行はれたと見え、日常の行動が俄然一変するに至つた。それまでの翁は手に負へぬ腕白者で、兄や姉のものでも欲しい思へば容赦なく奪ひ取り、子供仲間では五つ六つ年長の者を頭ごなしに押さへつけ、近所の菓子屋などでは食ひたい放題に店頭で掴み食ふので、菓子屋ではそれを通帳につけて時々催促に来た。武士の家庭では買喰ひなどをすることは堅く禁ぜられて居た。翁の父は極めて温和な人であつたが、母は頗る厳格な人で、翁の乱暴を見兼ねて時には激しく折艦することもあつたが、そういふ時でも翁は母に五つ殴たるれば六つ叩き返すといふ風であつたので、母は『此子が一日でも半日でも普通の子供であつてくれたら』と嘆いて居た。然るに十四歳の時に、何を感じてか心様俄に一転し、打つて変れる孝行者となり、よく両親の手助けをするやうになつた。但し天稟の風格は従前の通りで、実兄筒井亀来翁は下の如ぐ語る―『それでも変り者は矢張り変り者で、米を搗(つ)くのも普通の杵では軽いからと云つて、杵の中に鉛を入れて搗くものだから、米を滅茶々々に粉にしてしまふやうな事がありました。』 

 

 もと福岡の藩祖黒田長政は『大唐の渡口』なるの故を以て特に徳川家康に請ひて筑前五十二万石に封ぜられたものであり、二代忠之以来は、佐賀藩と共に長崎警衛の任を命ぜられて来た。寛永鎖国以後、長崎は日本唯一の海外折衝地であり、西洋文明は僅に此の窄(せま)き門を通して吾国に伝へられた。近世に至り黒田斉清は、此の重要の任に在るを利用して海外文物の輸入に努め、曽て自ら蘭医シーボルトを長崎に訪い、諸生をして蘭学を学ばしめた。薩摩の島津家より入りて斉清の後を嗣げる長溥は、更に洋学の勃興を促し、自ら率先して西洋科学を修めたほどであり、青木興勝・永井太郎・安部龍平等の西学者が輩出して居る。

然るに明治維新に際して、福岡藩は態度鮮明を欠いたために、かの大藩を以てして明治政府に重要なる地位を占めることが出来なかつた。而して中央に於ては急激なる欧化政策が強行されたに拘らず、従来他藩に比して蘭学が盛なりし福岡でありながら、毫も中央の方針に呼応することなく、昔乍らの学問並に教育が専ら行はれて居た。頭山翁の学んだ亀井塾は、亀井南冥・昭陽・暘州と三代相伝の学者が、荻生但侠の学説から出でて別に一家の見を立てたる学問を講じたる私塾であつた。

 

 其頃福岡の人参畑に高場乱といふ女医並学者が居た。父祖の業を承いで眼科医となつたが、漢学を亀井陽州に修め、易に就ての造詣最も深かつた。いつでも男装し、外出する時は竹皮製の甚八笠を被り、未だ曽て傘を用ゐない。夏は浴衣一枚、冬は之を三枚襲ね、曽て袷や綿入を着なかつた。無欲・悟淡・豪放・至誠の人で、医術の傍ら青年に学問を教へて居たが、後には講義の方が主になり、興志塾と称した女史の人参畑の塾は、当時福岡の名高き学者正本昌陽の鳥飼の塾と並べ称せられるやうになつた、明治四年頭山翁が十七歳の時、眼を病んで高場乱女史の治療を受けに行つたところ、大勢の青年が女史の講義を聴いて居た。女史の溌刺たる講義振り、塾生の元気横溢せる気風が痛く翁の心を捉へたので、翁は直ちに入門を志願した。女史は此処の塾生は皆命知らずの乱暴者だから、若年の者は到底伍して行けまいと、再三入塾を制止したが、翁は荒武者揃ひだからこそ仲間入りしたいのだと言つて、遂に其の許可を得た。其日塾生等は何か煮て居るところであつた。翁は黙つて其処に坐り込み、箸を執つて第一番に食ひ初めた。女史は此の有様を見て、叩かれもせずに御馳走になるとは何とした結構な身分かと不思議がつた。其日塾生は十八史略の講義を聴いて居たが、新入生たる翁の傍若無人なる態度に憤慨し、恥を掻かせる心組で、誰言ふとなく左伝の輪講をやらうと言ひ出し、第一に翁を指名した。翁は見事に左伝を講読した。塾生は意外なる翁の学問に驚き、其の侮り難きを知つた。

 

 此事は翁が亀井塾に於て、相当に深く漢学を修めたことを示すものである。翁の入門以前に興志塾の塾生たりし者は、建部小四郎・箱田六輔・阿部武三郎・松浦愚・宮川太一郎・進藤喜平太其他の人々で、皆翁より六七歳の年長者であつた。高場女史の不在中に、翁が女史に代つて靖献遺言の講義を試み、塾生を感服させたこともあると言ふから、翁の漢学の素養が並々ならぬものなりしことを知り得る。

翁と同塾せる宮川太一郎は、当時の翁に就て下の如く語る――

 『頭山が人参畑に居た頃は、その一挙一動凡て吾人と其趨舎(すうしゃく)を異にして居たが、殊に其読書法と来ては、又極めて奇なるもので、毫も章句に拘泥せず、而も其会心の所に至るや反復誦読、夜に継ぐに晨を以てするといふ工合で、之を暗誦するに至らねば息(やす)まず、其精力の絶倫なりしことは優に儕輩に抽(ぬき)んでて居た。』 是くの如き勉強の方法は、既に瀧田塾に居た時からのことである。此塾で翁は『暁』といふ一字だけを熱心に習ひ、其他の字を一切書かなかった。そのために暁の字が非常に上達し、それに伴つて一体に筆蹟が上つた。独り学問の上のみならず、同様の傾向は翁の一切の行動に現れて居る。

 

 明治六年、翁は十九歳にして母方の頭山家の養子となつた、頭山家は十八石五人扶持の小禄であつたし、維新以後其の生活は頗る困難であつた。翁は困窮せる家計を助けるために働いた。畑も耕したし、山に入つて薪も採つた。時には山の如く薪を背負ひ、町の四辻に立つて『焚物(ときもん)焚物(ときもん)、よう燃える焚物』と大声で呼ばはりながら薪売りをしたこともある。また其頃翁は、一切の人間の欲を遠離して仙人にならうと思ひ、深山に立籠つて修行したこともある。それでも遂に仙人にはなり切れなかつたので、翁自ら『俺は仙人の落第生ぢや』と言つた。


大川周明 北一輝君を憶ふ

2017-01-13 21:50:43 | 大川周明

北一輝君を憶ふ 

 北君が刑死したのは昭和十二年八月十九日であるが、その前日、獄中で読誦し続けた折本の法華経の裏に、
最愛の遺子大輝君のために以下の遺言を書留めた
――
『大輝よ、此の経典は汝の知る如く父の刑死するまで読誦せるものなり。
汝の生まるると符節を合する如く、突然として父は霊魂を見、神仏を見、
此の法華経を誦持するに至れるなり。
即ち汝の生れたる時より父の臨終まで読誦せられたる至重至尊の経典なり。
父は只此の法華経のみを汝に残す。
父の思ひ出ださるる時、父恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、此の経典を前にして、
南無妙法蓮華経と念ぜよ。

然らば神霊の父、直ちに諸神諸仏に祈願して汝の求むる所を満足せしむべし。
経典を読誦し解説し得るの時来らば、父が二十余年間為せし如く、誦持三眜を以て生活の根本義とせよ。

即ち其の生活の如何を問はず、汝の父を見、父と共に活き、
而して諸神諸仏の加護の下に在るを得べし。父は汝に何物をも残さず。
 而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり』
北君と法華経とは、生れながらに法縁があつたといえる。

それは北君が呱々の声をあげたのは、日蓮上入流論の聖地と言はれる塚原山根本寺の所在地、
佐渡の新穂村の母の生家であり、其家には日蓮上人又は日朗上人が誦持したといふ法華経が、
大切に伝へられて居たからである。

大輝君が生れたのは大正三年であるが、北君は、大正五年に此の由緒ある法華経を譲り受けて郷里から取り寄せ、
爾来死に至るまでの二十余年間を読誦三昧に終始した。
其大輝君への遺言は、此の秘蔵の法華経の裏に書かれたものである。

 北君は私にも二つの形見の品を遺してくれた。その一つは白の詰襟の夏服で、上海で私との初対面の思ひ出をこめた贈物である。

 大正八年の夏のこと、吾灯は満川亀太郎君の首唱によりて猶存社を組織し、平賀磯次郎、山田丑太郎何盛三の諸君を熱心な同志とし、牛込南町に本部を構へて維新運動に心を砕いていた。

 そして満川君の発議により、当時上海に居た北君を東京に迎へて猶存社の同人にしたいと言ふことになり、
然らば誰れが上海に往くかという段になって、私が其選に当つた。

この事が決つたのは大正八年八月八日であつた。
八の字が三つ重なるとは甚だ縁起が良いと、満川君は大いに欣び、この芽出度い日付で私を文学士大川周明兄として北君に紹介する一書を認めた。そして何盛三君が愛蔵の書籍を売つて、私の旅費として金百円を調達してくれた。

かやうにして事が決つたのは八日であつたが、事を極めて秘密に附する必要があり、その上旅費も貧弱であつたので適当な便船を探すのに骨が折れ、愈々肥前唐津で乗船することになつたのは八月十六日であつた。

 其船は天光丸という是亦縁起の良い貨物船で、北海道から鉄道枕木を積載して漢口に向ふ途中、
石炭補給のため唐津に寄港するのであつた。

私は十四日夕刻に唐津に着き、其時直ちに乗船する筈であったが、
稀有の暴風雨のために天光丸の入港が遅れ、物凄い二晩を唐津の宿屋で過ごし、
十六日漸く入港して石炭を積み終へた船にのり、まだ風波の収まらぬ海上を西に向つて進んだが、
揚子江口に近いところで機関に故障を生じ航行が難儀になつた。

本来ならば天光丸は漢口に直行するので、私は楊子江口の呉淞に上陸し、
呉淞からは陸路、排日の火の手焔々燃えさかる上海に行く筈であつたが、
機関の故障を修繕するため予定を変更して上海に寄港することになつたので、私は大いに助かつた。

 そして上陸に際して面倒が起つた場合は、船長が私を鉄道枕木の荷主だと証言してくれる手筈であつた。
 私の容貌風采は日本ではとても材木屋の主人としては通すまいが、上海では押通せるだらうと思つた。

さなきだに船足の遅い天光丸が機関に故障を生じたのだから、殆んど周うやうにして湖江し、実に二十二日夜に漸く上海に到着した。

 訊問の際に若干でも商人らしく見せようと思つて、船中で口髭を剃落したが、案ずるよりは産むが易く、
翌二十三日早朝私は何の苦もなく上陸して、一路直ちに有恒路の長田医院に北君を訪ねた。

 北君は長く仮寓していた長田医院を去つて、数ケ月以前から仏租界に居を構へて居るとのことだつたので
直ちに使者をやつて北君に医院に来て貰つた。

そして初対面の挨拶をすまして連立つて太陽館という旅館に赴き、その一室で終日語り続け、
夜は床を並べて徹宵語り明かし、翌日また仏租界の巷にあつた北君の陋居で語り、
翌二十五日直ちに長崎に向ふ汽船で上海を去つた。

 この二日は私にとりて決して忘れ難い二日であると共に、北君にとりても同様であつたことは、後に掲げる北君の手紙を読んでも判るし、又、白の詰襟の夏服を形見に遺してくれたことがなによりも雄弁に立証する。

 いま装釘を新にして刊行される『日本改造法案大綱』は、
実に私が上海に行く約一ケ月前から、北君が「国家改造法案原理大綱』の名の下に、
言語に絶する苦悶の間に筆を進めて、私が上海に往つたのは、その巻一より巻七まで脱稿し、巻八『国家の権利」の執筆に取りかかり、 開戦の積極的権利を述べて、
『註二。印度独立問題ハ来ルベキ第二世界大戦ノ「サラエヴオ」ナリト覚悟スペシ。
而シテ日本ノ世界的天職ハ当然二実力援助トナリテ現ルベシ』と書いて筆を休めた丁度其時であつた。

 私は北君がかかる日本改造の具体案の執筆に心魂を打込んで居るとは知らなかつたので、日本の国内情勢を述べて乱兆既に歴然であるから、直様日本に帰るやう切願した。

北君は乱兆は歴然でも革命の機運は未だ熟しては居らない。但し自分も日本改造の必要を切実に感じて、約一カ月前から改造案の大綱を起稿した。参考書は一冊もない。静かな書斎もない。

 自分は中国の同志と共に第三次革命を企てたが事は志と違つた。
日本を憎んで叫び狂ふ群衆の大怒濤の中で、同志の遺児を抱えて地獄の火焔に身を焦れる思いで筆を進めるのだが、食物は喉を通らず、唯だ毎日何十杯の水を飲んで過ごしてきた。

 時には割れるやうな頭痛に襲はれ、岩田富美夫君に鉄腕の痺れるほど叩いて貰ひながら、一二行書いては横臥し、五六行書いては仰臥して、気息奄々の間に最後の巻入を書き初めた時に、思ひがけなく君の来訪を受けたのだ。

 自分は之を天意と信ずるから、欣然君等の招きに応ずる。原稿の稿了も遠くない。
 脱稿次第直ちに後送するから出来ただけの分を日本に持ち帰つて国柱諸君に頒布して貰ひたい。

 取敢ず岩田富美夫君を先発として帰国させ、自分も年末までには屹度帰国すると言つた。私は之を聞いて抑へ切れぬ歓喜を覚えた。

そして吾々は丈宇通り互ひに肝胆を披瀝して忘れ難き八月二十三日の夜を徹した。
指折り数うれば茫々三十五年の昔となつたが、瞑目顧望すれば当夜の情景が鮮明に脳裡に再現する。

 二人は太陽館の三階の一室に床を並べて横になつて居た。
猿又一つの北君が仰向に寝ながら話して居る内に、次第に興奮して身を起し、坐り直つて語り出す。

 私もまた起き直つて耳を傾ける。幾たび寝たり起きたりしたことか。実に語りても語りても話はつきなかつた。

 私は一刻も早く東京の同志に吉報を伝へるため、二十五日朝の船で直ちに帰国の途に就いた。
そして北君は私が去ってから三日間で残存の原稿を書き上げ、約束通り岩田富美夫君に下の書翰を添えて東京に持参させた。

 

 拝啓 今回は大川君海を渡りて御来談下されし事、
国家の大事とは申せ、誠に謝する辞もありませぬ。
残りの「国家の権利」と云ふ名の下に、
日本の方針を原理的に説明したものを送ります。
米国上院の批准拒絶から、
世界大戦の真の結論を求めらるる事など、
実に内治と共に外交革命の時機も

「時に到来して居ります。
凡て二十三日の夜半に物語りました天機を捉へて、
根本的改造をなすことが、先決問題であり、根本問題であります。
大同団結の方針で、国際戦争と同じく一人でも敵に駆り込まざる大量を以つて御活動下さい。
小生も早く元気を回復して馳せ参ずる決意をして居ります。

八月二十七日

                                   一輝

大川  
満川 盟兄侍史

 

 この『国家改造法案原理大綱』が
満川君を初め吾々の同志を歓喜勇躍させたことは言ふ迄もない。

それは独り吾々だけでなく、
当時の改造運動にたつさはる人々の総てが切望して止まざりしものは、
単なる改造の抽象論に非ず、実にその具体案であつたからである。

 北君の法案は暗中に模索していた人々に初めて明白なる目標を与へたものであつた。
吾々は直ちに之を謄写版に附することにした、
岩田君が刷役に当つたが、
彼にズテロを握らせると豪力無双の当、
世近藤勇のことであるから、
二三枚刷ると原紙が破れて閉口したが、
とにかく第一回分として四十七部を刷り上げた、
四十七は言ふ迄もなく赤穂義士の人数である。

 そして主として満川君が人選の任に当り、
同君が当代の義士と見込んだ人々に送つて其の反響を待つた。

 その最も著しい反響は翌大正九年一月、
休会明け議会の壁頭に、
貴族院議員江木千之が秘密会を要求し、
此の書の取扱方に就て政府に質問したことであつた。

 そのために改造法案は正式に発売頒布を禁止され
満川君は秘密出版の廉で内務大臣から告訴されたが、
幸ひに不起訴となつた。

 さて北君は約束に従つて大正八年暮上海を去つて日本に帰り、
長崎で大正九年の元旦を迎へ、
五日、東京に帰つて牛込南町の猶存社に落つくことになつた。

 北君帰国の報は当局を驚かした。
それは北君が八十名の部下を動員し、
まず東京市内に放火し、
次いで全国を動乱に陥入れる陰謀を抱いて帰るといふ
途方もないデマが飛ばされたからである。

 上海から尾行の警官が、
丹念に長崎警察部に引継ぎを行ひ、
尾行は東京まで続けられた。

 彼等が最も注目したのは、
北君が「極秘」と銘打つて携行せる信玄袋で、
過激文書を詰込んだものときめ込み、
着京と同時に北君諸共押版する予定であつたらしい。

 然るに君が何となく危険を予感して、
静岡辺で着て居た中国服を洋服に着換へ、
別の車に座席を変へたので、
尾行に気付かれずに東京駅で下車することができた。

 そして其夜は満川君の家に一泊し翌朝狛存社に移つたのである。

 

 さて問題の『極秘』信玄袋である。
北君の言行は、天馬空を往くのであるから、
下界の取沙汰は途方もない見当違ひのことが多かつたが、
この信玄袋程馬鹿々々しい誤解を受けた事も珍しい。

 北君が此の信玄袋の中に大切に蔵つて来たのは、
決して極秘の危険文書ではなく、
実に三部の妙法蓮華経で、
その内特に見事に装釘された一部は、
今上陛下即ち当時の摂政宮殿下に奉献するため、
其の他は満川君と私にそれぞれ一部ずつ贈るためのものであつた。

 そして摂政宮殿下には、小笠原長生さんを通じて献上することが出来た。

 大輝君への遺書にある通り、
大正三年以来北君は法華経諦持三昧に入り、
大正五年五月に配布した『支那革命党及革命之支那』は下の一句を以て結んでいる。
――
『宇宙の大道、妙法蓮華経に非ずんば、支那は永遠の暗黒なり、
印度終に独立せず、日本亦滅亡せん。
 国家の正邪を賞罰する者は妙法蓮華経八巻なり。
法衣剣に杖いて末法の世誰か釈尊を証明する老ぞ』

 北君の革命の道は法華経の無上道である。従つて真実の革命家は法華経の行者である。

 それ故に北君は朝夕法華経を読調するのみならず、独り居る時には殆んど読経三昧に終始した。
本来大音声であつたか、それとも多年の鍛錬の結果であつたかは確かでないが、
躰躯の華奢なるに似合はず読調の声は轟き渡る程大きかつた。

 

 北君の帰京当時、私は新宿駅に近い千駄ケ谷の借家に、フランスの哲人リシャル氏夫婦と同居して居たが、
大正九年秋、リシャル氏夫婦は滞留四年の後に印度に向つて日本を去り、私は北鎌倉にある北条泰時の菩提寺常楽寺に引越すことになつたので、北君が牛込南町から此家に移つて猶存社の本拠とした。

 此家は屋敷が千坪に近い広大な邸宅で門から玄関まで相当距離があつたが、北君の読経の声は門外まで響いて聞えたので、
未だ門を入らずして其の在否を知ることが出来た。

 北君は
 『革命とは順逆不二の法門なり,その理論は不立文字なり』と言つて居る通り、如何なる主義にも拘泥しなかつた。
 口を開けば咳唾直ちに珠玉となる弁舌を有ち乍ら、未だ曽て演壇に立たず、筆を執れば百花立ちどころに瞭乱たる詞藻を有ち乍ら、全くジャーナリズムの圏外に立ち、専ら猶存社の一室に籠りて読諦三昧を事とし、その謁論の間に天来の声を聞き、
質す者には答へ、問う者には教へて、只管一個半個の説得を事とした。
此点に於て北君は世の常の改造運動者乃至革命家とは毅然として別個の面目を有して居た。

 北君は明治十六年四月十五日、
新潟県佐渡郡港町の裕福な酒屋の長男として生れ幼少の頃から聰明抜群であつた。
当時小学校は尋常四ケ年、高等四ケ年であつたが、北君は六歳で小学校に入り、
尋常小学半ばに眼病のため一年半も休学したにも拘らず、一学級飛ばせられて高等小学に入り、
四ケ年間優等生で卒業した。

 そしてこの四ケ年の間、通学の傍ら漢学塾に通つて勉強し、中学に入つた頃は立派に漢文で文章が書けるやうになり、
その一部は今なお県教育会の参考品として保存きれて居るとのことである。

 其上に高等小学校時代から絵が非常に上手で、港町の人々は勿論、数里離れた村々から酒を買いに来る人々まで、
一枚五銭で北君の絵を買ひ求め、枕屏風や襖に張つたといふことである。
当時は焼餅一個一厘の時代だから五銭は決して少い金ではない。

  中学に入つてからも成績優秀で、 一学年の終りに三学年に飛ばされたが、幼年時代の眼病が再発し、
新潟と東京で二年近く病院生活を送り、全快はしなかつたが一応帰郷して復校した。

 この入院中に北君は片眼で必死に読書を続けその思想は急激に成熟した。
そのために中学校の学課に対ずる興味を失ひ、五学年への進級に落第したのを機会に退学した。

 従つて中学校在学期間は正味二年に足らない。
そして中学校を退学した年の暮、佐渡新聞に日本国体に関する論文を連載し、
十八歳の少年が、一朝にして佐渡の思想界を風靡し、佐渡新聞の社長・主筆を初め、
佐渡の有識者の多くが、挙つて北君の所論に共鳴した。

 併しこの論文は新潟県警察の指金によって掲載を中止させられ、
北君は多くの歌を詠んで其の鬱憤を洩らした。

 

その頃北君は、思想界に飛躍し続けたのみならず、その昂潮せる感情を盛んに詩歌に盛つていた。

 北君の最も愛好したのは与謝野鉄幹・同晶子夫婦の詩で明星にも数多くの詩歌を投稿した。
そして明星に載つた北君の『晶子評論』に対しては、鉄幹が感謝と賞讃の書簡を送つてきた。

 中学中途退学の十八歳の青年が、思想的には内村鑑三の弟子なりし佐渡新聞社長を傾倒させ、
文学的には与謝野鉄幹に推重されたことは、北君の天稟が如何に豊かであるかを語るものである。
 

 然も北君の名を一挙天下に高からしめたものは『国体論及純正社会主義』の刊行である。

 この著書は既に佐渡新聞に連載し、不穏思想の故をもつて掲載中止を命ぜられた研究論文の完成で、
二十三歳の時に筆を執り、半年ならずして脱稿し、二十四歳の春、
精確に言へば明治三十九年五月九日の日附で発刊された菊版約千頁の大冊である。

 明治三十八年、北君は上京して暫く早稲田大学の聴講生となつたが、 多くの講義に満足せず、
谷中清水町に下宿して上野図書館に通ひ詰め、 数ケ月にして二千枚以上の抜粋を作つたほど、精根籠めて勉強した。

 そして準備なるや、直ちに紙を展べ、疾風迅雷の勢を以つて筆を進め、半年ならずして完成し去つた。
 その驚くべき精力は、その読書力並に批判力と共に、まさに絶倫と言ふ外はない。

 而も北君は恐らく過労のために呼吸器を痛めて喀血病臥するに至ったが、幸ひに幾ばくもなくして健康を圃復した。
これも其の強大なる精神力によるものであらう。

 此の書に対して福田徳三・田嶋錦治・田川大吉郎を始め、多くの知識人が賞讃の手紙を北君に送つた。

 福田博士の如きは、日本語は勿論のこと、西洋語にての著作中、近来斯くの如き快著に接したることなしとし、
『一言を以つて蔽へとならば、天才の著作と評する尤も妥当なるを覚え申侯」と書いて居る。

 矢野竜渓は、二十四歳で斯やうな著作の出来る筈はない、北輝次郎といふのは幸徳秋水あたりの偽名ではないかと態々佐渡の原籍地に照会の手紙を出し、北君が真実なる著者であることを知つてから、終生北君に敬意を表し続けた。

 当時読売新聞に社会主義論を連載して頓に名声を揚げて居た河上肇は、此書を読んで喜びの余り直ちに北君を訪問した。

 唯当時の社会主義者達は、北君が日露戦争を肯定讃美せるの故をもつて、此書に対して意見を公表することを避けたが、
幸徳秋水・堺枯川・片山潜などが、屡々牛込喜久井町の寓居に北君を訪ひて、社会主義運動に参加させやうとした。

 而も一世を驚倒したこの書は、発売以後僅に旬日にして朝憲素乱の廉で発売頒布を禁止された。

 そしてそれが自費出版であつただけ、北君は物心両面に於て大打撃を受けたが、
やがてこの書の法規に触れぬ部分だけを分冊して自費出版することとし
『純正社会主義の経済学」及び『純正社会主義の哲学』を刊行した。

 此の時北君は喜久井町から矢来町に居を移して居たが、
自分の思想は孔孟の唱へた王道であるとして、その寓居に『孔孟社』という看板を掲げた。

 北君が『純正社会主義』の書籍の出版所を孔孟社と標榜したことは、
北君を知る上に於て決して看過してならぬ重要な事実である。

 北君の社会主義はマルクスの社会主義でなく、二十歳前後に於ては、孔孟の『王道』の近代的表現であり、
後に法華経に帰依するようになつてからは、釈尊の『無上道』の近代的表現であるに外ならない。

 さればこそ、北君は、一切の熱心なる誘致を斥け、この謂はゆる『直訳社会主義者』と行動を共にせず、
中国革命の援助を目的として、萱野長知・清藤幸七郎・宮崎寅蔵・和田三郎・池享吉等が相結んで居た『革命評論社』の同人となつた。

 そしてこれが機縁となつて当時つぎつぎに日本に亡命し来れる孫文・黄興・張継・宋教仁・章炳麟・張群などと相識り、
明治四十年その二十九歳の時、武漢に革命の蜂火挙がるや、宍教仁の招電に応じて直ちに上海に赴いた。

 この革命は清朝を倒すことには成功したけれど、結局袁世凱をして名を成さしめるに終つた。

 北君は、袁孫妥協による革命の不徹底を憤り、宋教仁と謀りて討裳軍の組幟に着手したが、
日本政府の方針によつて袁孫妥協は成立し、宋教仁は暗殺されて所謂第二革命は中道に挫折した。

 そして北君は、帝国総領事から三年間支那在留禁止の処分を受け、大正二年、その三十二歳の時に帰国した。

 北君の支那革命観並びにその在支中の活動は
其著『支那革命外史』に述べ尽されて居る。

もと此著は日本の対支外交を誤らしめまいため、
人々に対する建白書として、
『支那革命党及び革命之支那』と題し、
大正四年十一月起稿して翌五年五月に脱稿するまで、
成るに従つて之を有志に頒布せるものを、
後に題名を支那革命外史と改めて、公刊せるものである。

 此書が刊行された時、
吉野作造博士は
『支那革命史中の白眉』と激称したが、
それは単に支那革命党に対する北君の厳格なる批判であるだけでなく、
支那革命を解説するために、
縦横に筆をフランス革命と明治維新とに馳せ、
古今東西に通ずる革命の原理を提示せる点に於て比類なき特色を有する。
 私は甚だ多くを此書によつて教へられた。
 若し私が生涯に読んだ賜しき書籍のうち、
最も深刻なる感銘を受けたもの十部を選べと言はれるならば、
私は必ず此書を其中に入れる。
北君は既に此書の中で、明治維新の本質並に経過を明かにして、
日本が改造されねばならぬことを強力に示唆して居る。
従つて此書は『日本改造法案大綱』の母胎である。

 北君は、大西郷の西南の変を以て一個の反動なりとする一般史学者とは全く反対に、
之を以て維新革命の逆転又は不徹底に対する第二革命とした。
 そしてこの第二革命の失敗によつて、
日本は黄金大名の聯邦制度と之を支持する徳川其儘の官僚政治の実現を招いた。

 維新の精神はかくして封建時代に逆行し、
之にフランス革命に対する反動時代なりし西欧、
殊にドイツの制度を輸入したので、
朽根に腐木を接いだ東西混淆の中世紀的日本が生れた。

 かくの如き日本が民族更生のために
第三革命を必要とすることは北君にとりては自明の結論である。

而も目本の第三革命の前に、
支那はまた風雲動き、
北君は其年の夏再び上海に急行して支那の第三革命に参加したが、
事志と違ひて空しく上海に滞在することとなつた。

 北君は大輝君への遺言にある如く、
大輝君誕生の年、
即ち大正三年に霊感によつて法華経に帰依し爾来一貫して法華経行者を以て自ら任じ、
『支那革命外史』もまた誦持三昧の間に成つたものであるが、
この上海仮寓時代に法華経信仰は益々深くなつた。

 そして大正八年夏に至り、
法華経読調の間に霊感あり、
日本の第三革命に備へるため、
国家改造の具体案を起稿するに至つたのである。

 

 当時北君は私より三つ年上の三十七歳、
白哲端麗、貴公子の風姿を具へていたが、
太陽館の一室で私と対談する段になると、
上着を脱いで猿又一つになつた。

 その清せた裸形童子の姿は、
何んとも言へぬ愛嬌を天然自然に湛へて居た。
そして一灯の動作におのつから人の微笑を誘ふユーモラスなものが漂つていた。

 私は北君の国体論や支那革命外史を読んで、
その文章には夙くから傾倒して居たが、会つて対談に及んで、
その舌端から迸る雄弁に驚嘆した。

 似た者同志といふ言葉通り、
性格の似通つた者が互に相惹かれることは事実である。

 併し逆に最も天稟の違つた者が互ひに強く相惹く場合もある。
 私と北君の場合は此の後者である。

 私の精神鑑定を行つた米国病院の診断書は、
 冒頭に私のことを
『この囚人の風貌は、思切つて不愛想である』と書いて居る。

 誰かが『大川の顔を見ると石を投げっけたくなる』と言つたそうだが、
どうも私には愛嬌が欠けているらしい。

 また同じ診断書に私の英語を『用語は立派だが発音はまずい』と書いてある。
まずいのは英語だからでなく、
私の日本語の発音そのものが甚しく不明瞭で、
殆んど半分しか相手に判らないだけでなく、話に抑揚頓挫といふものがない。

 その無愛想で口下手な私が、人
品に無限の愛嬌を湛へ、
弁舌は天馬空を往く北君に接したのであるから、
吾と吾身に引きくらべて、一たまりもなく感服したことに何の不思議もない。

 

 また真剣に書かれた北君の丈章は、まさしく破格の文章である。
北君の文章は同時に思惟であり、感興であり、また行動でもある。
私の読書の範囲では、少くも明治以後の日本に於て、
かやうな文章を書いた人を知らない。

 従って北君の文章は絶倫無比のものと言ひ得る。
人々は思惟して論文を書き、
感興が湧けば詩歌を詠じ、
意欲すれば行動する。

 従つて左様な文章は論旨の一貫周匝を、
詩歌は感情の純礫深刻を、
行動は適切機敏などを物さしとして、
それぞれの値打を決めることが出来る。

 然るに北君の揚合はその精神全体を渾一的に表現した文章である。

 言い換へれば北君の魂の全面的発動である、
そして此事は北君の談話の場合も同然である。
北君が真剣に語る時、北君の魂そのものが溌剌として北君の舌頭から溢り出る。
それ故に之を聴く相手は、魂の全部を挙げて共鳴するのである。
かやうにして北君に共鳴した者は、殆ど宗教的意味での『信者』となる。

 

尤も電気に対して伝導体と不伝導体とがあるやうに、
北君の生命と相触れても、一向火花を発せぬ人々もある。
其等の人々のうちには、北君の言論文章は難解だという者もある。

 併し難解とか不可解とかいうことは、
人間の理性の対象となるべき事柄についての取沙汰である。
然るに北君の書論文章は、禅家の公案と同じく、
理性の対象として理解すべきものでなく、
精神全体で感受又は観得せらるべきものである。

 それ故に北君の言語文章から、
その理論的一面を抽象して、
之を理性の俎上にのせ、
論旨が矛盾しているの、
論理上の飛躍があるの無いのと騒いで見たところで結局無用の閑葛藤である。

 白隠和尚は
『女郎のまことに、卵の四角、三十日《みそか》三十日々々々の良い月夜』といふ唄を、
好んで説教の際に用ひたという話である。

 女郎の嘘八百が、
そつくり其儘天地を貫く至誠であり、
円い玉子がそつくり其儘四角四面の立方体であり真闇な三十日の空が、
そつくり其儘千里月明の良夜であるといふのである。

 

 如何に哲学者や科学者が、
そんな馬鹿な話があるものかと、
その途方もない矛盾を指摘して力んで見たところで、
白隠和尚は泰然として『これが禅の極意だ』と言ふのだから仕方がない。

 若しまた此の矛盾を解かうとして、
此唄の本旨は、女郎も改心すれば誠に返るし、
丸い卵も切りやうで四角になるし、
三十日の闇はやがて十五夜の明月を約束するといふことだなどと、
当時流行の『合理的解釈』を加へるならば、
和尚の真意を相距ること実に白雲万里であらう。

 此事は北君の文章の場合も同然である。

 

 マホメットに親灸し得なかつた初期の回教信者達は、
アーイシャを初めマホメットの諸未亡人に向つて、
しきりにマホメットの為人を語り聞かせよと懇請した。

 その都度アーイシャは
『あなた方はコーランをお持ちでないか。
そしてアラビヤ語を知つて居るではないか。
コーランこそマホメット其人です。
それだのに何故あなた方はマホメットの為人を訊ねるのか』

と答へたさうである。

『文は人なり』といふビユボンの言葉は、
マホメットと同じく北君の場合にも極めて、
適切で、北君の人物は実に北君の文章そつくりである。

 それ故に北君の文章を色読し得る人でなければ北君の人物を本当に把握することが出来ない。

 

 禅家の語に
『天堂と地獄と、総て是れ閑家具』とある。
極楽や地獄など、有つても無くても、構はないと言ふのであるが、
北君は正に其の通りに生活していた。
其の文章が然る如く、
北君の生活は渾一的、即ち無拘束、無分別であった。

貧乏すれば猿又一つで平気であり、
金があれば誰揮らず贅沢を尽した。
その貧乏も贅沢も、等しく身について見えて、
氷炭相容れぬ双方が一向無理を伴はぬところに北君の面目がある。
一言で尽せぱ北君は普通の人間の言動を律する規範を超越して居た。
是非善悪の物さしなどは、母親の胎内に置去りにして来たやうに思はれた。
生活費を算段するにも機略縦横で、とんと手段を択ばなかつた。

 誰かを説得しやうと思へば、
口から出放題に話を始め、
奇想天外の比喩や燦爛たる警句を連発して往く問に、
いつしか当の出鱈目が当人にも真実に思はれて来たのかと見えるほど真剣になり、
やがて苦もなく相手を手玉に取る、
口下手な私は、つくづく北君の話街に感嘆し、
『世間に神憑りはあるが、君のは魔憑りとでも言ふものだらう』と言つた。
 そして後には北君を『魔王』と呼ぶことにした。

 

 処刑直前に北君が私に遺した形見の第二の品は、
実に巻紙に大書した『大魔王観音』の五字である。

北君がこれを書く時、その中に千情万緒が往来したことであろう。
 大川にからかつてやれと言ふ気持もあつたらう。
また私が魔王々々と呼んで
北君と水魚のやうに濃かに交って居た頃のことを思ひめぐらしたことであらう。
また今の大川には大魔王観音の意味が本当に判る筈だと微笑したことでもあらう。

 いずれにせよ死刑を明日に控えてのかのやうな遊戯三昧は、
驚き入つた心境と言はねばならぬ。

 

 私が北君から離れた経緯については、
世間の取沙汰区々であるが、
総じて見当違ひの当推量である。
 離別の根本理由は簡単明瞭である。

 それは当時の私が北君の体得してた宗教的境地に到達して居なかつたからである。
当時私が北君を『魔王』と呼んだのに対し、
北君は私を『須佐之男』と名づけた。

 それは、往年の私は、気性が激しく、
罷り間違へば天上の班駒を逆剣ぎにしかねぬ向ふ見ずであつたからの命名で
其頃北君から来た手紙の宛名にはよく『逆剣尊殿』としてあつた。
北君自身は白隠和尚の『女郎の誠』の生れながらの体得者で、
名前は魔王でも実は仏魔一如の天地を融通無礙に往来したものであるが、
是非善悪に囚はれ、義理人情にからまる私として見れば、
若し此儘でいつまでも北君と一緒に出頭没頭して居れば、
結局私は仏魔一如の魔ではなく、
仏と対立する魔ものになると考へたので、
或る事件の際に北君に対して『須佐之男』ぶりを発揮し、
激しい喧嘩をしたのをきっかけに、
思ひ切つて北君から遠のくことにしたのである。

 

 爾来世間では、
北君と私とが全く敵味方となつて互ひに憎み合つているものと早合点し、
好き勝手な噂を立てて居る。

 併し北君と私との因縁不可思議な間柄は、
世間並の物尺で深い浅いを測り得る性質のものではない。

 一別以来二度と顔を合せたことはないが、
お互の真情は不断に通つて居り、
何度か手紙の往復もあつた。

 そして私自身の宗教的経験が深まるにつれて、
北君の本領をも一層よく会得出来るやうになつた。

 私は別離以後の吾々の交情が如何なるものであつたかを示すために、
北君から貰つた手紙のうちの二通を下に掲げる。

 その一通は北君が宮内省怪文書事件で約半年間市ケ谷に収容され、
翌年初春に保釈出所した直後のもので、
精確には昭和二年二月二十二日附の手紙である。――

 

拝啓 相別れて一年有半、
獄窓に在りて黙想するところ、実に兄と弟との分離に候、
帰来また切に君を想ふて止まず、
革命目的のためにすることの如何に於ては、
小生一個の見地によりて進退すべきは固より乍ら、
君との友情に阻隔を来せし点は小生一人に十二分の責任あることを想ひて止まず候。

仮令五分五分の理屈ありとするも、
君は超脱の仙骨、生は辛酸苦楽の巷に世故を経たる老怪者に候へば、
君を怒りし如きは以ての外の不行届と恥入りて日を送り候。

何も世の常の人の交りの如く、
利害感情によりて今後如何にせんと云ふ如き理由あるには無之、
只この心持を直接君に向つて申述べ度、
一書如斯次第に御座候。

此心あらば今後幾月の後、
大川に対する北の真情の事実に示さるる機なきにもあるまじく、
それなしとするも両者の心交は両者の間に於てのみ感得致度ものに御座候。

獄窓の夢に君を見る時、
君また小生を憂惧せらるる御心持をよくよく了知仕候。

相見る幾年幾月の後なるも可、途中ヤアヤアと悦び会するも可、
あの魔王もおれを忘れることは出来ぬと御一笑被下度候』

 

 第二の手紙は、
私が五・一五事件に連座して市ケ谷に収容されて居た時、
獄中の私に宛てたもので日附は昭和八年十月七日である。

――
大川君 吾兄に書簡するのは幾年振か。
兄が市ケ谷に往きしより、
特にこの半年ほどは、
日に幾度となく君のことばかり考へられる。
何度かせめて手紙でも差上げようかと考へては思返して来た。
此頃の秋には、
小生自身も身に覚えのある獄窓の独坐瞑想、
時々は暗然として独り君を想つて居る。
この胸に満つる涙は、
神仏の憐れみ給ふものであらう。

断じて忘れない、
君が上海に迎へに来たこと、
肥前の唐津で二夜同じ夢を見られたことなど、
かかる場合にこそ絶対の安心が大切ですぞ。

小生殺されずに世に一分役立ち申すならば、
その寸功に賞でて吾兄を迎へに往くこと、
吾兄の上海に於ける如くなるべき日あるを信じて居る。

禍福は総て長年月の後に回顧ずれば却て顛倒するものである。
今の百千の苦労は小生深く了承して居る。

而も小生の此の念願は神仏の意に叶ふべしと信ずる。
法廷にて他の被告が如何に君を是非善悪するとも、眼中に置くなし。
是と非とは簡単明瞭にて足る。

万言尽きず、只此心と兄の心との感応道交を知りて、
兄のために日夜の祈りを精進するばかりです。
           経前にて。

 
 以上二通の手紙を読む人は、白の夏服並に大魔王観音の五字を、
形見として私に遺した気持を納得出来るであらう。

 第二の手紙で私を迎へに往くといふのは、
第一審で私に対する求刑は懲役十五年であつたから
北君は私が容易に娑婆に出されぬものと思ひ、
其迄に屹度革新を断行する。

 其時に自分が監獄に私を迎へに来るといふのである。
而も『小生殺されずに』の一句は、
身を殺して仁を成さんとする志士仁人としての北君の平素の覚悟を淡々と示し、
また『寸功に賞でて云々』は、
革新運動への貢献に対する一切の報賞を私の釈放と棒引にしようといふのであるから、
私がその友情に感激するのは当然であるが、
それにも勝りて私は北君の無私の心事に心打たれる。

 一死を覚悟の前で、
己れのためには如何なる報賞をも求めぬ北君を、
恰も権力にあこがれる革命業者の範疇に入る人間のやうに論じている人もあるが、
左様な人はこの手紙を読んで北君の霊前にその埒もない邪推を詑びるがよい。

常に塵や泥にまみれて居りながら、
その本質は微塵も汚されることのない北君の水晶のやうな魂を看得しなければ、
表面的に現れた北君の言行を如何に丹念に分析し、
解剖し、整理して見たところで、
決して北君の真面目を把握することが出来ないであらう。

 

 北君は、二・二六事件の首謀者の一人として死刑に処せられ、
極めて特異なる五十五年の生涯を終へた,

 私は長く北君と往来を絶つて居たから、
この事件と北君との間に如何なる具体的関係があつたかをしらない。

 北君が西田税君を通じて多くの青年将校と相識り、
彼等の魂に革命精神を鼓吹したこと、
そして彼等の間に多くの北信者があり、
日本改造法案が広く読まれて居たことは事実であるから、
フランス革命に於けるルソーと同様、
二・二六事件の思想的背景に北君が居たことは拒むべくもない。
併し私は北君がこの事件の直接主動者であるとは金輪際考へない。

 二・二六事件は近衛歩兵第一聯隊、歩兵第三聯隊、野戦重砲兵第七聯隊に属する
将兵千四百数十名が干戈を執つて蹶起した一大革命運動であつたにもかかはらず、
結局僅かに三人の老人を殺し、
岡田内閣を広田内閣に変ただけに終つたことは、文字通りに竜頭蛇尾であり、
その規模の大なりしに比べて、その成果の余りに小なりしに驚かざるを得ない。

 而も此の事件は日本の本質的革新に何の貢献もしなかつたのみでなく、
無策であるだけに純真なる多くの軍人を失ひ、
革新的気象を帯びた軍人が遠退けられて、
中央は機会主義、便宜主義の秀才型軍入に占められ、
軍部の堕落を促進することになつた。

 

 若し北君が当初から此の事件に関与し、
その計画並びに実行に参画して居たならば、
その天才的頭脳と支那革命の体験とを存分に働かせて、
周匝緻密な行動順序を樹て、
明確なる具体的目標に向つて運動を指導したに相違ない。

 恐らく北君は青年将校蹶起の覚悟既に決し、
大勢最早如何ともすべからざる時に至つて初めて此の計画を知り、
心ひそかに『しまつた!』と叫んだことであらう。

 支那革命外史を読む者は、
北君が革命の混乱時代に必ず来るべき外国勢力の如何に恐るべきものなるかを力説したるを看過せぬ筈である。

 北君は日本の国際的地位を顧みて、
中国並びに米国との国交調整を国内改造の先決条件と考へて居た。

 昭和十年北君は中国行を計画して居たと聞くが、
その志すところは弦に在つたと断言して憧らない。

 果して然らば二・二六事件は断じて北君の主唱によるものでないのみならず、
北君の意に反して尚早に勃発せるものである。

 二月二十七日北君は直接青年将校に電話して『一切を真崎に任せよ』と告げたのは、
時局の拡大を防ぎ、
真崎によつて犠牲者をできるだけ少くしようとしたもので、
真崎内閣によつて日本改造法案の実現を図ろうとしたのではない。

 現に北君は法廷に於て
『真崎や柳川によつて自分の改造案の原則が実現されるであらうとは夢想だもして居らぬ』と述べて居る。

 北君を事件の首謀者といふ如きは、
明かに北君を殺すかめの口実にすぎない。

 而も北君は冤狂に甘んじて従容として死に就いた。
私は豊多摩刑務所で北君の処刑を聞いたのである。

 今日の日本にも一芸一能の士が沢山居る。
多芸多能の人も稀にはある。

 其等の人々は、之を適所に配して仕事をさせれば、
それぞれ適材を発揮して数々の業績を挙げる。

 そして其の業績が其等の人々の値打ちをきめるのであるから履歴書にテニオハをつけるだけで、
ほぼ満足すべき伝記が書ける。

 然るに世の中には、
其の人のやつた仕事を丹念に書き列ねるだけでは決して満足すべき伝記とならぬ人々が居る。

 例へば大ビヅトの演説を聴いた人は、
その雄弁に磐嘆しながら、
いつも彼の人間そのものの方が、
 彼の言論の総てよりも、→層立派だと感じさせられたということである。

 これは大西郷や頭山翁の揚合も同然で、
やつた仕事を洩れなく加算して見ても、
決して其の真面目を彷彿させろことが出来ない。

 これも人間の方が常に其の仕事よりも立派だからである。
かやうな人物は、其の魂の中に何ものがを宿して居て、
それが其入の現実の行動を超越した或る期待を、
吾々の心に起こさせる。

 言葉を換へて言へば、其の人の力の大部分が潜在的で、
実際の言動の現れたものは、唯だ貯蔵された力の一部にすぎないと感じさせるのである。

 それ故に吾々は、若し因縁熟するならば、
何等か偉大なる仕事が、
屹度其人によつて成し遂げられるであらうといふ希望と期待とを抱くのである。

 私は多種多様の人々と接触して、
無限の生命に連つて生きて居る人と然らざる人との間に、
戴然たる区別があることを知つた。

 北君は法華教を通じて常に無限の生命に連つて居た。
それだからこそ人々は北君の精神のうちに、
測り難い力の潜在を感じ、偉大なる期待をその潜める力にかけたのである。

 最も切実に北君の如き人物を必要とする現在の日本に於て、
私は残念ながら北君に代るべき人物を見出さない。
『洛陽知己皆為鬼』まことに寂寥無限である。

 

  北一輝墓碑銘

 

 歴史は北一輝君を革命家として伝へるであらう。
然し革命とは順逆不二の法門その理論は不立文字なりとせる北君は決して世の革命家ではない。
君の後半生二十宥余年は法華経誦持の宗教生活であつた。

すでに幼少より煥発せる豊麗多彩なる諸の才能を深く内に封じ唯だ大音声の読経によつて一心不乱に慈悲折伏の本願成就を念じ専ら其門を叩く一個半個の説得に心を籠めた北君は尋常人間界の縄墨を超越して仏魔一如の世界を融通無凝に往来して居たのでその文章も説話も総て精神全体の渾然たる表現であつた。それ故に之を聴く者は魂の全体を挙げて共鳴した。かくして北君は生前も死後も一貫して正に不朽であらう。

    昭和三十三年八月               大 川 周 明 撰      

 

 

昭和卅三年八月十九日午後二時より、
目黒不動尊滝泉寺に於て、
北一輝氏の建碑式が挙行された。
碑文は大川周明博士の撰である。


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北一輝 『日本改造法案大綱』 卷一 國民ノ天皇 卷二 私有財産限度 以下

 


大川周明 『新亜細亜小論』 (下篇) ネールを通して印度人に与ふ

2017-01-10 22:16:52 | 大川周明

 大川周明 『新亜細亜小論』下篇




              マハトマ・ガンディ (ウィキペディア)    
 ジャワハルラール・ネルー  (ウィキペディア)   

 

ネールを通して印度人に与ふ 

    一

 亜細亜諸国は永年に亘って互いに孤立して来た。この孤立は必然相互の理解と認識とを妨げた。亜細亜は共通なる政治的運命の下に置かれ、偉大なる統一方向に向って、すすませられて来たに拘わらず、その運命を自覚せず、またその自治を意識せず、各国はただ自国のことのみを考へて、また他国を顧みようとしなかった。

 亜細亜の知識階級は、新鮮なる情熱をもつて欧米のことを知るに務めたが、亜細亜の国々に対しては殆ど関心を有しなかつた。印度の有為なる青年は、日本より英国に心惹かれ、ペルシャの青年は支那よりフランスに心惹かれた。吾国も決して例外であつたのではない。現に余が学生時代に最も心籠めて読破せるものは哲学宗教に関する書籍である。然るに当時の哲学者・思想家と呼ばれし諸先輩は、概ね全力を欧米思想の照会祖述に努め、日本思想または東洋思想に関する学術的論文の如きは、絶えて無くして稀に有る状態であつた。それ等の学者の総てを包む雰囲気は、幕府時代の儒者が支那を尚びたると同じく、西欧殊に独逸哲学に対する崇拝の念であつた。かくて多くの日本青年は、余もまたその一人であつたが、真理は横文字の中にのみ潜めるかに考へいた。

 もとより亜細亜諸国は、その隣邦に就いて全く無知であつたのではない。唯だその知識は、殆ど総て欧米人の著書によつて得たるものであつた。西洋が正しく東洋を認識することは、仮令誠実に努力しても至難の業である。若しも多かれ少なかれ宣教師の偏見、外交官の謀略、文学者の軽率なる想像が加へられるならば、彼等によつて描きだされたる東洋の姿は、はなはだしく歪曲せられたものとならざるを得ない。然るに不幸にも是くの如き著書が、アジア諸国の相互認識のために用ひ得る殆ど唯一の媒介であつた。欧米人は亜細亜の統一を欲せずまた亜細亜を侮蔑する。それ故に彼等の著書を読んで亜細亜諸国は互いに敵視し、また互に侮る。

 世界史の新しき頁を書き始めたる日露戦争が始まったのは、ジャワハルラール・ネールが十四歳の時であり、日本の連戦連勝は深刻なる感激を彼に与へ、戦争記事を読むために日々の新聞を待ち焦がれたこと、彼自身が其の自叙伝の中で述べて居る。彼は言--『余は日本に関する多数の書籍を注文し、その若干をよまんとした。日本の歴史は理解しがたかったが、日本の昔の武士の物語やラフカディオ・ハーンの爽やかな文章は余を欣ばせた。国民的思想が余の胸に充満した。余は欧羅巴の覇絆を脱せるインドの自由並に亜細亜の自由を想像した。余は剣を携げてインドのために戦ひ、インド解放に貢献すべき武勲を立てたいと夢想した』

 日露戦争における日本の勝利に対する至深の感激が、ネールをインド独立の戦士たらしめ、前後三十年の善戦健闘を続け、下獄実に九回の苦難を嘗めて志愈々堅く、やがて老いたる聖雄の後を継いで、インド国民運動の最高指導者たらしめんとするに至ったことは、吾等の会心無限とするところがあるが、日本に関するネールの知識が、当初より英語を通して得られたことは、吾等に遺憾至極とするところである。
 

    二

 昨年初夏のころ、印度国民運動の勇敢なる戦士として、女ながらも三度まで下獄せるカマーラ・デーヴィ女史がアメリカの講演旅行を終へて帰国の途次、その乗船が日本医寄港した。彼女は印度においてはイギリス人の、合衆国においてはアメリカ人の言論を受信し、根強き排日感情を抱き、日本の土を踏むことなく西に向つて去らんとした。

 印度の将来、従つて亜細亜の将来は、日本を度外視して考へられるべくもない。真個の日本を知ることは、亜細亜諸国に取つて最も緊要な事柄の一つである。苟くも印度独立を生命とする者が、日本を知るべき稀有の好機を与へられ乍ら、好悪の感情に左右されてこの好機を空しくすることは、断じてその士業に忠実なるものではない。それ故に余は友人たる在留印度人に勧め、強ひて女史を上陸せしめて、自身の耳を以て聞くことによつて、日本が果たして英米人の言ふが如き日本なりや否やを判断させようとした。

 女子は在日同胞の言葉を容れ、旅程を変じて日本視察の意を決し、先ずサハイ君を案内者として東北の農村を一巡した。印度農民の生まれて満腹を知らず痩せこけた四肢、苦悩に窶(注、「窶」のように見える、不鮮明で判読し難い活字)れ果てた顔を見慣れた彼女に取りて、東北農村の勤勉健康なる男女の姿は、正に感動に値するものであつた。旬日の東北旅行が、夙くも彼女の日本観を是正するに役立ったのである。彼女はこの旅行の後に暫く東京に滞在し、諸種の会合に出席し、大胆率直に自己の意見を述べた。そのアングロサクソン的観察は吾等の同意し得ざる所であつたが、上陸当時の排日感情は殆どその影を薄め、新しく日本を見直さねばならぬと考へるに至ったことは事実である。しかしそれ等の会合における彼女の人なげなる態度、満堂を呑める気魄は、インドに蘇り来れる生命の溌剌強靭を想わしめた。

 余は想ふ。若しジャワハルラル・ネールにして親しく日本に遊び、日本の真実の姿に触れたならば、必ずその日本観を改めるであらうと。一九三八年八月ネールは、空路重慶を訪ひ、滞在一週間、支那側の非常なる歓待を受けた。恰も一夜ネールが蒋介石夫妻を私邸に訪問して懇談しつつありし時、日本軍は月明に乗じ重慶の空襲を行つた。重慶要人が如何なることを彼に語ったかは知るよしもないが、爾来ネールの日本に対する反感は一層昂まつた。

 彼は帝国主義・ファシズム・資本主義を以て等しく印度の敵なりと力説し、日・独・伊三国を非難して倦むことを知らない。英米人の著書によつて日本に対する先入見を抱き、日本の空襲下に重慶の宣伝を聴くとすれば、かくあることも敢えて怪しむに足らない。

 さりながら少なくとも日本の同情なくして印度の独立は可能であるか。印度の歴史において永く記憶せらるべき一九二九年のラホール国民会議において、ネールはその議長でなかつたか。この年十二月三十一日夜半または一九三〇年一月一日は、印度の完全なる独立が熱狂と興奮の内に決議され、万雷の如き『母國万歳』の歓呼のうちに、震へる感激を以て高く印度国旗を議場に掲げたのは、実にネールその人の手ではなかつたか。爾来十年の歳月矢の如く過ぎた。

 当時の手を日本に伸べよ。生涯を献げ来たりし印度の独立は希望に非らずして現実となるのである。


     三

ジャワハルラール・ネールは下の如く言ふ――『戦争と印度――吾等は何を為すべきであったか。過去数年の間、吾等はこの問題について考慮し、吾等の政策を掲げてきた。しかも一切の努力にも拘わらず、イギリス政府は中央立法議会にも州政府にも詢ることなくして、印度は交戦国なりと宣言した。そは帝国主義が依然として活動していることを示すものがなるが故承認し難き侮辱であつた』と。

 帝国主義が依然としてイギリスを支配していることを、この宣言によつつて今更気付いたかの如く高調していることが、既に吾等の耳に不思議に響く。しかしながらそれはそれとして、印度はその承認すべからざる侮辱に対し何をなしたか。国民会議派例によつて長文のステートメントを発表して、イギリスの戦争目的とその帝国主義とに対する説明を求めたに過ぎない。イギリス政府は此の要求に答ふるに惨酷なる法令の発布と国民主義者の仮借なき拘引とをもつて、峻厳無比の弾圧を独立運動の上に加へた。

 ネールは之に対して如何なる態度を執ったか。曰く『怨恨は弥増し、行動への要求がわれ等の裡に燃え立った。しかも戦争の方向とイギリスの危機そのものが、われ等を躊躇させた。何となればわれ等はガンディが教へたる古き教訓、即ち敵の困難に乗じて反抗してはならぬといふ教訓を忘れ去ることは出来ぬからである』と。

 一九三一年五月四日の夜、印度民衆の一年に亘る悪戦苦闘が、ガンディ・アーキン協定によつて明白なる屈服に終わった時、最も大切な宝が去りてまた帰らぬが如き空虚をその心に感じて、身を横たへてその五月の一夜を思ひ明かしたネールが、またもやガンディの『教訓』を守り、剣戦に訴える代わりに舌に頼り、甲冑で五体を固める代わりに言葉で思想を飾り、説得によつて英国から自由を貰はうとして居るのか。イギリスの危機が彼の行動を躊躇せしめるといふのは果たして何の意味か。英国は印度の敵ではないか。戦ひは勝つためでないのか。勝つて敵を倒すよりは奴隷の境遇に止まることを選ぶといふのか。

 余はネールの態度を見て直ちに薄伽梵歌のアルジョナに想到する。不義の敵を討つために大軍を催し、両軍の渡鼓既に相見え、矢石将に飛ばんとせる咄嗟の間に、日ごろ勇武の誉れ高かりしアルジョナが、一念端なく同胞相屠るの酸鼻に想到するや、善戦健闘のこころ頓に挫け、全く戦意を失ひ去った。この時彼がその軍師、毘紐天の権化クリシュナに向かって吐露せる哀情は、非戦主義・平和主義・無抵抗主義・人類愛主義などと名づけられて、印度の柔軟なる魂に欣び迎へられる思想であった。クリシュナは立ちどころにアルジョナを叱咤して、己を汚し、天国の門を鎖ざし、体面を傷つける如き悲観を捨てよといつたが、アルジョナがなほ『憂ふべからざるを憂ひ、聡明に似たる言をなせる』が故に、クリシュナは彼の問うふに任せ、戦陣危急の間に、人生の意義、天意の意義、自然の原理を提示した。

 ネールは幾たびかこの珍重至極の聖典を読んだに相違ない。果たして然らばアルジョナの如く徒に『聡明に似たる言葉』を繰返すことを止め、ガンディの教訓を守る代わりに、クリシュナの教訓に従って戦ふべきである。

 

    四  

ネールはその父モティラールについて下の如く述べている――『彼は古き印度の復活など念頭に置かなかつた。彼はこれについて何等の理解も同情もなく、却つて種姓制度その他の社会風習を徹底して憎んでいた。彼はヨーロッパを尊重しヨーロッパ的進歩を歩み、且つそれはイギリスとの協調によつて可能だと信じていたと。

 ネールはこの父の子として、十一歳の時からイギリス人の家庭教師に育てられ、十五歳にして夙くもイギリスに遊学しハローを経てケムブリッジ大学を卒業するまで、留学七年に及んだ。まことに身も魂もイギリスで育つたのである。

 美しき夢多き青春時代をイギリスの学窓で過ごしたことが、ネールとイギリスとを離れ難きものにしたのでなからうか。ネールの理性はイギリスを非難しつつも、その感情はイギリスを憎み得ぬぬのでなからうか。物には本末があり事には先後がある。いま印度にとりて当面焦眉の急務は、イギリスの資本主義的帝国主義の妥当であり、一切の爾余の問題は印度がイギリスの覇絆を脱してからの事である。然るに『外からの侵略と内からの無秩序より自らを守るため』などと唱へて、独立もせぬうちから独立後のことを取越苦労するに至っては、われ等をしてネールの覚悟のほどを疑はしめるものである。

 イギリス一国でさへ無比の強敵であるのに、援助の手を差伸べる者まで敵にまわして、果たしてネールは印度独立を可能と考へて居るのか。凡そ世の中にかやうな戦術があらうか。想ふにネールは印度の独立能力について金剛の確信なく、先ずイギリスをして『善き主人』たらしめ、しかる後に印度民衆を訓練して自主自立に耐へるものたらしめんとするのでなからうか。彼の心身に奥深く巣食へる『イギリス』が、未知の善神より既知の悪魔を選ばしめるのでなからうか。もし然りとすればネールが常に揚言し来れる『独立印度の偉大なる世界的使命』は竟に空しき感傷たるに終らねばならぬ。何となればイギリスは、力をもつて倒さざる限り、決して『善き主人』となることはないからである。

 ネールは民主国家と独裁国家とを鋭く対立せしめ、自由を束縛するものとして後者に対して無限の憎悪を感じている。しかしながら自由とは組織に非ずして態度である。そは団体の意志と個人の意志との間に存する真実の関係である。独裁政治も民主政治も等しく精神の発動形態である。それ故に独裁的なる共和国があり、民主的なる帝国もある。国民を重んじ、その要求、その意志、その向上、その精神を重んずる所、そこに政体の如何を問わず真個の自由がある。英米の民主政治は別個の仮面に隠れたる専制政治である。そは個人を群衆に隷属させ、群衆を少数の欺瞞者に隷属させ、投票の数を真理の標準とする政治であり、剣戟の支配に代へるに黄金の支配をもつてせるものである。

 ネールは日本の政治的理想をその本質において認識することによって、日本に対する理由なき反感を去らねばならぬ。

 印度最高の詩人アラビンダ・ゴーシュは幼少にしてイギリスに留学し、留まること実に二十年、西欧の与へ得る一切の教育を遺憾なく受け、その印度に帰れる時は、殆ど母語を忘れたほどであつた。それにも拘わらず彼はよく一切のイギリス的なものをその魂より払拭して、真個の印度人となることによつてのみ、初めて一切を信じ、一切を断行し、一切を犠牲にし得ることを印度青年に教へ、アーリャの思想、アーリャの鍛錬、アーリャの生命を、知識また感情を以てに非ず、実に生命を以て驀地に摑得すべしと教へた。余はネールがアラビンダ・ゴ-シュの精神に拠って印度独立運動を指導せんことを切望して止まない。この精神に立還る時、ネールは必ず亜細亜生活の根柢に横たはる一如を把握し、この一如を具体化または客観化して、新しき亜細亜を実現するために日本と堅く手を握るに至るであらう。


大川周明 「河本大作君を弔う」

2016-12-27 23:44:47 | 大川周明

               河本大作-ウィキペディア

河本大作君を弔う


       
大川周明  

 親しく河本大作君と交はり、その為人を知るほどの者は、晩かれ早かれ屹度再会の時あるを期して居た。
河本君は心身ともに不思議なほど柔軟にして強靭、屈伸自在で而も決して挫けたり折れたりしない。
極めて小心にして甚だ大胆、細密に思慮し、周到に用意し、平然と断行する。決して境遇の順逆に左右されず、得意にも淡然、失意にも坦然、努めずして随処に主となり得る性分であるから、設ひ収容所に監禁お憂き目を見て、時には君国の悲運に腸を断たれて血涙を注ぎ、時には想を妻子の上に馳せ慈涙を流すことがあっても、君子は悲しんで痛まず、無用なる気苦労に健康を損ずるやうなことはなく、無聊の折には得意の小唄でも低唱しながら、悠々と月日を送って居ることと思われた。

 そして昭和二十七年二月獄中からの通信によって、其時まで健在であることは明らかであったし、其後消息は絶えたけれども、同君の友人知己は、やがて何事も無かったように酒然として帰国する河本大作を品川駅頭に迎へる日の必ず来るべきことを信じて疑わなかった。
 それだけに河本君獄死の報が伝へられた時の驚きと悲しみは大きく且深かった。 

 そして昭和二十九年来日した中国紅十字会の李徳全女史が発表した死亡戦犯四十名の名簿によって、河本君は昭和二十八年八月二十五日、心臓衰弱のため長逝したことが判明した。
 河本君は、明治十六年一月二十四日の誕生であるから、満七十歳七か月を以てその多彩なる生涯を閉じたのである。その遺骨並びに遺品は昭和三十年十二月十八日興安丸で舞鶴に到着、翌十九日夜東京駅に到着して、知友の悲しみを新たにした。

 河本君は少年にして軍人に志し、大阪地方幼年学校、東京中央幼年学校を経て、明治三十五年、陸軍士官学校に入り、明治三十七年陸軍歩兵少尉任官直後、日露国交断絶して開戦となり、歩兵第三十七連隊小隊長として出征したが、遼陽会戦に重傷を負ひ、大阪陸軍病院で加療、三十八年傷癒えて再び出征、乃木軍の麾下に入ったが、幾ばくもなく休戦となった。 

 其後明治四十四年陸軍大学校に入り、大正三年同校を卒業、翌四年漢口守備隊司令部付として中国に赴任、翌五年帰朝して参謀本部員となり、支那班に勤務し、大正十二年には支那班長となり、陸軍大学校歩兵教官を兼任した。
 そして大正十四年関東軍参謀となり、陸軍大佐に昇任したが、昭和三年の張作霖爆死事件によりて停職を命ぜられ、五年一月現役に復した後、予備役に編入され、茲に河本君の軍人としての生涯は終わったが、日本陸軍は之によつて抜群に有為な人材の一人を失ふことになつた。 

 然るに昭和六年、河本君が陸軍から追われる事件を犯したその満州事変が勃発した。河本君は直ちに渡満して縦横に活躍し、存分その才能を発揮する機会を与へられた。
 昭和七年には満鉄理事となり、同九年には満州炭鉱株式会社理事長を兼任して非凡の技量を示したが、昭和十六年には山西産業株式会社々長となりて太原に赴任し、無尽蔵の資源を包蔵する山西省の産業開発の全責任を負いて渾身の力を傾注した。

 太平洋戦争に於ける日本の全敗によつて、満州並び中国に於ける日本の一切の経綸は尽く転覆し去るの悲運に際会したが、終戦直後山西省の支配者となれる閻錫山氏は篤く河本君を信頼し、旧山西産業を山西官業と改称し、河本君を顧問として事業の進行を委ねたので、同君は邦人千数百名と共に山西省に留まり、内には会社の経営に当り、外には次第に迫りくる中共軍の攻撃を防いで居たが、太原遂に陥落して中共軍に占領され、河本君は戦犯として太原の収容所に監禁され、其後昭和二十五年一月二十五日、太原より北京に移されて北京郊外に監禁され、遂に収容所内で病死したのである。 

   
 太原陥落に先立ち閻錫山氏は飛行機で南方に去った。其際河本君にも同乗を勧めたけれど、同君は断乎として応ぜず、在留邦人とその運命を共にしたことは、誠に立派な覚悟であり、同君の死を完うせるものである。
 茲に吾等相図り、粛かに故人を偲び、謹みて其霊を慰めるため、左時処に於て葬儀を営むこととした。希くは知友諸君の来たて霊前に香を焚き、その冥福を祈り給わんことを。

       (葬儀案内原稿、昭和三一年)


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『新亜細亜小論』(下篇) 亜細亜民族に告ぐ

2016-12-19 21:04:50 | 大川周明

『新亜細亜小論』(下篇)
  亜細亜民族に告ぐ 

 亜細亜は、これを全体についていえば、実に人類の魂の同上であり、欧羅巴は、人類の知識を鍛へる学堂であつた。それ故に亜細亜の歴史は、根本に於て精神的であり、その革新または推移は内部的なりし故に、表面に現れたる政治的乃至経済的変化は、ヨーロッパに比べて自ら影薄飾るを得ず、往々にして人の意識にも上らなかった。加ふるにその変化は、徐々に内面より行われる上に、昔ながらの形式及び名称が、実質全く変わり果てたる後までも、不思議なる執着をもつて固執せられ、其の為に一切の変化が一層不鮮明の度を加へた。

 かくの如くして亜細亜は、祖先の精神、祖先の信仰、祖先の遺風を、昔ながらに護持し、而してこれを後昆に伝えることを、元も神聖なる義務と考へる。その極端なるものに至りては、人間及びその社会組織は必ず発達か退転かの一を免れざること、乃至自制の推移が何者をも変化させずにやまぬといふことを、強いて考えまいとして居る。
 かくして万代不易といふことが、亜細亜の最も有力なる生活理想となった。もとよりヨーロッパにも保守主義者が居る、されど少なくとも彼等は社会的進化の法則を承認する。彼等と進歩主義者の論争は、ただ正しき速度と、精確なる方向とに関してである。亜細亜の保守的精神は即ち然らず、時間の流れに超出して、万古不動を固執する。そは宛も舟中の人が堅く瞑目して両岸を見ざる故に、水流れずとするに似通ふ。

 此のアジアの保護主義は、言ふ迄もなく利害相伴府。其の全を挙ぐれば、この精神あるが故に亜細亜は過去に於ける真個に価値あるものを護持し、文化の中断せざる系統を相承することが出来た。亜細亜の精神的鍛練は今日なほ往古と異なることなく、その根本的真理は今日まで伝統不断である。

 例えばこれを吾等日本人自身の意識について見る。吾等は万葉集の歌を読み、狂言を見て、現に吾等野文学的・芸術的要求に満足を与へて居る。千年以前の歌謡、数百年前の舞踊が、そっくりそのままの姿を以て、昨日読み出でられたるごとく、また今日舞ひ初められたる舞のごとくに味ひ楽しまれるといふようなことは、唯だ亜細亜意識のみ能くするところであり、ヨーロッパに於て決して其の例を見ぬところである。

 しかもこれと同時に、かかる保守的精神は、人類の行手に、既に無用に帰したる過去の塵埃を堆積し、その発展の自由を拒む。曾ては価値ありしも今は無意義となりしもの、本来の精神を失ひ尽せる無用の形式が、なほ神聖なるものとして頑守せられ、之がために民族的生命の溌剌たる流れを遮り、その水をして死水たらしめる。若し巧に此れを排渫し開放するに非ずば、社会は必ず病に罹らざるを得ない。かくの如き保守主義が、亜細亜衰微の一因なりしことは拒むべくもない事実である。


 さりながら亜細亜保守主義の真個の意義は、決して旧き一切に対する愛着に存するのではない。万代不易とは、一切が不変なるべしと固執する事で断じてない。そは信仰・道徳・制度・風習――総じて文化現象において、一時的なるものと永遠なるものとを分別し、その永遠なるものを飽くまでも護持することでなければならない。換言すれば一切の現象の奥に横わる万代不易のものを認識し、堅確にこれを把持することでなければならぬ。

 更に換言すれば、現実そのもののうちに、常に万代不易なるものを実現し行くことでなくてはならぬ。天行は健なり、故に君子自彊して息まずとは、とりも直さず永遠の理法をわれ等の生活の上に実現すべく、不断に努力せねばならぬことを道破せる者である。形式と外面とに囚われることは、却って亜細亜保守主義の至深の精神と相背くものとせねばならぬ。

 この点に於て近世ヨーロッパの亜細亜に与へたる教訓は、貴き教訓である。欧羅巴は人間の現実の生活が神聖なるものなること、その正しき充実発展がすなわち理法の実現なること、これを無視するは、理法そのものを無視するに外ならぬことを、鉄鞭を揮つて仮借なく打擲しつつ、しかも実は自ら意識することなしに、わが亜細亜に教へて来た。このことは亜細亜本来の精神が、すでに体得せる所であつたのに、今や却つてヨーロッパによつて否応なく再びこれを体得せられつつあるのだ。

 唯日本は、古より聖俗不二の真理を色読し、現実の生活に理法を実現すべき努力を不断に続け来りしが故に、幸に今日あるを得た。この点に於て亜細亜諸国は、日本歴史について真個に学ぶところがなければならぬ。世界史を舞台として、雄渾深刻なる戯曲、いま吾等の前に演ぜられつつある。この戯曲の全貌は、後代の人々には明白になるであらう。しかして深甚なる感激を彼等に与へるであらう。演劇の進むにつれ、徹底して新しき世界秩序次第に吾等の前に展開し来る。

 さて此の荘厳なる戯曲の序章は、実は日露戦争であつた。日本が金剛の信を以て降魔の剣を執り四百年來侵略の歩みを続けて、未だ曾て敗○の恥辱を異人種より受けざりし白人の武力に対し、最初の而して手酷き一撃を加へたことは、白人圧迫の下に在る諸国に希望と勇気とを鼓吹し、列強横暴の下に苦しむ小国に希望と活力を作興した。

 日本の名は、冬枯れの木々に春立帰りて動き来る生命の液の如く、総じて虐げられたる民、辱められたる民の魂に絶えて久しき希望の血潮を漲らしめた。

 印度の家々の神棚に、彼等の宗教改革者ヴィヴェーカーナンダの肖像と相並んで、明治天皇の御真影が飾られ始めた。
 ペルシャの新聞は、テヘランに日本公使館の設置、日本将校の招聘、日波貿易の促進を力説し、『強きこと日本の如く、独立を全うすること日本の如くならんために、ペルシャは日本と結ばねばならぬ。
 日波同盟は欠くべからざる必要になった。』と論じた。エジプトに於ける国民主義の機関紙アル・モヤドは日本が回教国たらんことを切望し、『回教日本の出現と共に、回教国の全政策は根本的に一変せん』と論じた。
 隣邦支那は三千人の教師を日本より招聘して、津々浦々の学校にその青年の教育を託した。その後幾多の紆余曲折ありしとは言へ、亜細亜の覚醒は実にこの後から始まった。


 やがて第一次世界大戦を以て戯曲は其の第二幕に入った。世界戦を転機として、いわゆる亜細亜問題の意義が、全く従来とその内容を異にするに至った。世界戦前に於ては、亜細亜問題とは、ヨーロッパの支配に対する亜細亜の復興の努力を意味するに至った。しかしてこの変化に伴ひて、ヨーロッパ人のいわゆる亜細亜不安が起こって来た。

 そは彼等にとりてこそ『不安』であるが、アジアにとりてまさしく復興の瑞兆である。そは西はエジプトより東は支那に至るまで色々なる姿をとりて現れた。西南回教諸国においては、委任統治ないし保護統治を斥けんとする努力として現れ、印度においては迅速なる自治または完全なる独立に対する運動になりて現れ、ジャワ及び安南においてさへその支配者を覆さんとする陰謀となりて現れた。これ等の一切の運動は、その表現に現れたるところは政治的ないし経済的であるが、しかもその奥深く流れるところのものは実に徹底して精神的であり、目覚めたる亜細亜の魂の要求に、その源を発せる者であった。

 いま大東亜戦における日本の勝利によって、四十年に亙る亜細亜の希望が、初めて成就されんとしている。亜細亜民族よ、一切の小さき感情、小さき利害を離れて、吾等と協力せよ。勇気を振るって長き睡眠の床を蹴って起て。吾等と共に世界史の新しきページを書け。
   (朝日新聞、昭和十七年六月二十四日)


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米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書 (昭和16年12月8日)

 


大川周明 「新亜細亜小論」(上篇) 自由印度仮政府の樹立、大東亜共同宣言

2016-12-18 14:28:41 | 大川周明

大川周明「新亜細亜小論」(上篇)
 自由印度仮政府の樹立、
  大東亜共同宣言
 

 亜細亜の諸民族は、決して日本を正しく理解して居ない。支那人と言わず印度人と言わず、彼等が密室に於て互いに私語するところは、日本人の面前に於て声高らかく揚言するところと、甚だしき表裏懸隔がある。吾等は外交官の新任挨拶の如き空々しき美辞麗句を彼等と交換して、いつまでも自ら安んじ自ら慰めて居てはならぬ。大東亜戦争は日に苛烈を加へつつある。此の戦争に善勝するためには、亜細亜諸民族が正しく日本を理解し、積極的に日本に強力することを必須の条件とする。

 アジアの諸民族をして正しく日本を理解せしめ、積極的に日本に協力せしめるためには、日本民族は亜細亜的に自覚し、亜細亜的に行動せねばならぬ。然るに今日の日本人の言動は善き意味に於ても、悪き意味に於ても、余りにも日本的である。儒教や仏教までも否定して、独り『儒仏以前』を高調賛美する如き傾向は、決してアジアの民心を得る所以ではない。日本民族は、拒むべくもなき事実として、自己の生命裡に支那及び印度の善きものを摂取して今日あるを得た。孔子の理想、釈尊の信仰を、その故国に於てよりも一層見事に実現せるところに日本精神の偉大があり、それ故にまた日本精神は取りも直さず亜細亜精神である。日本は此の精神を以て亜細亜にはたらかねばならぬ。徒に『日本的』なるものを力説して居るだけでは、その論議が如何に壮烈で神々しくあらうとも、亜細亜の心琴に触れ難く、従って大東亜戦争のための対外思想戦としては無力である。希くは国内消費のためのみでなく、大東亜の切なる求め応ずる理論が一層多く世に出んことを。
               (昭十八・九)

 

指導能力と指導権

 人間の社会的生活は、其の最も原始的形態に於ても、乃至は最も小規模なる者に於ても、指導・被指導の関係なしに決して成立しない。秩序のあるところ必ず指導あり、指導あるところ必ず地位の差等を生ずる。斯くの如き指導・被指導の関係及び之に伴ふ地位の差等は、或は圧政者の恣意的暴力によって強行されることもあり、或は成員各個の自発的合意によって成立することもあり、或は卓越者の創意によって形成されることもあり、或は神秘的なる伝統によつて成立することもあり、その成立原因並に過程は多種多様である。但し如何なる社会といへども、若し指導・被指導の関係なく、従って成員の総てが平等の地位に立つ場合は、一日も安固たり得ない。

 あれば大東亜秩序も、それが秩序である限り、指導・被指導の関係を生ずる。若し指導能力ある者が指導の地位に立つに非ずば、秩序は必ず紊乱せざるを得ない。大東亜圏内に於て、日本が指導的地位に立つことは、東亜新秩序の確立と発展都のために、最も自然にして且つ必要なることと言わねばならぬ。然るに近来動もすれば故らに其の言動を避けんとする傾向がある。第三国の嫉視を緩和するために又は東亜諸民族の感情を顧慮するために、過度に謙譲を装ふことは望ましくない。寧ろ吾等は東亜の指導が如何に重大なる任務を伴ふかを切実に国民委自覚せしめ、指導能力の鍛練に必死の努力を払ひたい。何となれば指導権と指導能力とは、必ず客観的に一致せねばならぬからである。
               (昭十八・十)

 

自由印度仮政府の樹立

 亜細亜の総ての国々に、自由の旗が翻る時が来た。ビルマ人は此の旗をラングーンの空に仰ぎ、フィリピン人は之をマニラで仰いでいる。而してやがてデリーの空高く翻るべき自由印度の国旗が、いまマライの空に掲げられた。『いつの世にてもあれ、正法衰へ非法栄ゆる時、吾直ちに自己を現す。吾は善人を護り、悪人を亡ぼし、正法を確立せんがために世々に生る』。クリシュナがアルジョナに約束せる此の言葉はいま正に実現せられんとする。選ばれたる戦士シュバス・チャンドラ・ボース君は、既に起って自由印度仮政府を樹立した。

 一歳の武器を取上げられて、誉或る公の戦場に於て戦ひ得ぬものとされて来た印度人は、プラッシー戦後百年にして、初めて武装して起上がり、ボース君の号令の下にデリーに向かって進撃を始めるのである。剣に訴へる代りに舌」に頼り、甲冑で身を堅める代りに言葉で思想を飾り、説得によつてイギリスから自由を貰ひ受けようと夢想する本土の印度人よ。諸君は天上より諸君を激励するクリシュナの言葉が聞こえないか――。

『汝の本務を省み、決して戦慄する勿れ、武人にとりて正義の戦ひに優る欣びなし。
『天上の門戸開けたるが如く、求めずして是くの如き戦ひに際会する武人は至福なるかな。
『されど若し此の正義の戦ひを行はずば、汝は本務と名誉を拠てるものにして罪を免れざるなり。
『人々は汝が永遠の不名誉を語り継がん。地位ある者にとりては不名誉は死よりも重し。』

本土の印度人は、干戈を提げて此戦に参加し得ざるを悲しまねばならぬ。而も魂を以てする戦ひは諸君に許されている。さらば抗英の気をアーリ・ヴェルダの全土に氾濫せしめ、勇敢なる国外の戦士と呼応して、此の偉大なる機会に於て印度の独立を奪回せよ。
               (昭十八・十一)

 

大東亜共同宣言

 大東亜秩序の理念は、決して今日事新しく発案されたものでない。それは近代日本が国民的統一のため起ち上がれる其時から、綿々不断に追求し来れるものである。日本の偉大な先覚者は、既に明治維新の前後に於て、東亜の辿るべき此の政治的運命を明らかに自覚して居た。
 それ故に明治維新の誠実なる継承者は、単に日本の政治的革新を以て満足せず、進んで近隣諸国の改革を実現し、相結んで復興亜細亜を建設するに非ずば、明治維新の理想は徹底すべくもないと信じて居った。此の理念は日本政治の潜める力として暗々裡に国家の動向を規定して来たが、唯認識の欠如と条件の未成とのために、表面の指導原理たり得ずして今日に及んだ。

 而も人は病んで初めて健康の重んずべきことを知る。最も反亜細亜的なる悲劇が、実に日本の亜細亜的自覚を促す逆縁となった。日本民族は、実に支那事変の鉄火のうちに、身を以て世界史の根本動向を把握し、切実に亜細亜共同の政治的運命を体験して、茲に初めて東亜新秩序の建設を、日本の政治的理想として声高く中外に宣明するに至った。

 斯くして久しく潜める底流が、いまや顕はなる日本の政治的主潮となったのである。征韓論の席上、大西郷が『太政大臣堅く銘記せよ』と疾呼しながら、是くあるは神慮・天意なるぞと激語せる予言が、彼の深憂せる如く幾多の苦難を経尽して、遂に大東亜宣言として実現されたのだ。
 而も此の宣言は米英を撃破することによってのみ実行が可能である。大東亜は一切を必勝のために献げて戦はねばならぬ。
              (昭十八・十二)

【関連記事】
『大東亜共同宣言』 1943年11月6日、大東亜会議で採決された共同宣言

西田幾多郎『世界秩序の形成』 、東亜共栄圏と八紘一宇

 


大川周明 「新亜細亜小論」(上篇)東亜指導原理の実践性、チャンドラボース氏来日

2016-12-16 15:42:25 | 大川周明

大川周明 「新亜細亜小論」(上篇)

東亜指導原理の実践性、
 チャンドラボース氏来日
 


 偉大なる理想は、冷かなる理知によつて論理的に構成されるよりは、むしろ燃ゆる情意によつて直感的に把握される。思想は単ある思想ではない。如何に優れた理論であっても、それが単ある知識の止まり、実践的意欲を伴わざる場合は、思想として無力である。それが自然科学の領域であるならば、純然たる知識であってよろしく、また左様であることが望ましくもあらう。但し人間精神の活動領域に於ける思想は、最初から実践を以て其の本領とする。

 従って飽く迄も現実と不可離のものでなければならぬ。それ故に新たなる思想体系は、日当り良く風当りなき温室の中で花を咲かせる花の如く、学者の書斎の中で完成させ形を与えられて世間に持出さざるべきものでない。

 然るに従来の数ある思想団体や教化団体の主張や理論は、概ね室咲きの美しき花に類して居る。それは美しくはあるが風雨に堪ゆるべくもない。唯説くだけで事足るのであれば、高尚にして綺麗なることを説いて居ればよい。若し実践の責任を伴わないなら、その言論が如何に現実から遊離して居てもよい。而も新しき東亜の形勢を指導し、大東亜圏の根拠たるべき思想体系は、如何なる場合に於ても現実から遊離してはならぬ。
 かくて大東亜精神は学者の構想によつて生まれず、大東亜建設を生命とする戦士の行動の中に生まれ、建設の進行と共に不断に新しき生長を遂げて往くであらう。

(昭十八・五)

 

興亜同盟に対する希望  
 興亜同盟の志すところは、其名の如く大東亜秩序の樹立と、その思想的強化でなければならぬ。然るに今日までのところ、興亜同盟は往年の精神総動員運動と同じく、非政治的・非神津的状態に停頓して居た。雑誌の発行も必要であろう。講演会の開催も無益ではなかろう。
 
 而も文書や口頭による国民的説得には第二義的に重要であるが、決して理想実現お主要手段ではない。且又従来の如き仕事をするだけならば、其の陣立はあまりにも仰々しい。恐らく十分一の陣容と十分一の経費を以て事足りるであらう。それ故に予は、興亜同盟の改組に際し、その組織に関して差当り二つの注文を出した。

 第一に其組織が高度に行動的になるべきである。若し同盟が曾て然りし如く、上部機構の整備のみに重点を置き、そこから発する命令の官僚的強要によって所期の行動を誘発惹起し得ると考えるならば、それは再び失敗に終わるであらう。上部からンの指導に対し、下部からの積極的・自発的呼応を活発に喚起するためには、組織内部の上下の意志が完全且自由に交流し、組織の最下部の一人に至るまで、同盟が掲げる理想に行動を以て貢献し得る如き機構を有たねばならぬ。

 第二に其の組織が、国民と密接なる連絡を有する前衛組織たるべきことである。大衆は日常の生活に心奪はれ、雄渾なる理想を追求する心に乏しい。彼等は唯正しく前衛に導かれる時にのみ偉大なる行動を発揮する。今日本は彼等の行動力を存分に発揮させることなくては、大東亜秩序建設の大業を成就すべくもない。興亜同盟の組織は、此の目的に役立つものでなければならない。

        (昭十八・六)

 

オッタマ氏を憶う

 凡そ天地の間に、亡国の悲哀にまさる悲哀は内であらう。国を失ふことは、魂の拠りどころを失ふことである。亡国の民になることは、自己の魂によつて行動する自主孤立の人間たる境涯から遂ひ落とされて、唯主人の意志のまにまに左右される奴隷となりはてることである。それ故に国を亡ぼされることは、人格的生活の根底、即ち道徳的生活の根底を砕き去られることである。それは魂ある人間にとり、堪へ難き屈辱、忍び難き苦悩、限りなき寂寞でなければならぬ。

 亡国の志士仁人は、奪われたる自由を回復して、此の悲惨なる境遇から其の同胞を救い出すために、起って独立運動に身を献げるのである。然るに如何なる場合に於ても、独立運動者の蒙るべき運命は、殉教者としての犠牲である。迫害・貧困・追放・漂白・其の他一切の艱難辛苦、実に生命を拗つことさへも覚悟の前でなければ、独立運動に一身を献ずることは出来ない。それ故に総ての国々の独立運動史は、悉く悲壮なる血と涙の歴史であり、ビルマの国民運動史も、また其例に洩れない。

 千八百五十八年、第三次英緬戦争に於ける無残な敗北により、ビルマ王国は遂に亡び去ってこの方、ビルマにイギリス帝国主義の犠牲となり、その圧政と搾取の下に呻吟しながら、惨憺たる独立運動を続けて来た。ビルマは曾ては西は印度のアッサム、東北は支那の雲南、東は仏印のカンボディアに至る広大な地域に君臨せることさへもある過去の光輝ある歴史を回顧しながら、勇敢に圧政者と戦つた。其間幾多の志士が高貴なる血を濺いだ。幾千の民衆が牢獄に投入された。幾度か排英運動が繰り返された。

 英貨排斥運動が起こり、納税拒否運動が行われ、遂に千九百三年のイラワディ叛乱の勃発を見るに至ったが、総て其等の努力も盤石の如きイギリス政治機構の前には、竜車に向かふ蜻蛉の釜にも等しく、殆ど何等の効果を挙げ得なかった。加えるにイギリスは、激しき弾圧と同時に巧みなる懐柔を用ひ、実験無き立法参議会を設置して形式的なる自主を与へ、ビルマ人の虚栄心に邪間の満足を与えたので、ビルマには忽ち二十有余の群小政党が濫立され、力を合わせて圧政者と戦ふ代わりに、議会に於る空虚なる論争に互に鎬を削るに至り、イギリスに会心の
笑を洩らし、ある者はビルマの前途を悲観せねばならなかった。

 然るに大東亜戦争は、ビルマの天を蔽へる暗雲を一朝にして掃ひ去った。昭和十七年一月十七日、武勇なる日本軍が、タイ・ビルマ国境の峻険を超えてビルマに進撃するや、兄弟墻に鬩げるビルマ人は、直ちに内訌を止めて日本軍に協力し、各地に蹶起して英軍と戦ひ、僅か半年ならずしてビルマ全土よりイギリス勢力を駆逐し去るに至った。

而て日本はビルマ人永年の宿願に応じ、早くも八月一日に設立されたビルマ行政府に、あらゆる援助を与へて独立の準備を急がしめ、満一年を経たる今年八月一日、一千六百万民衆の歓呼の裡に、ビルマは目出度く独立を宣言し、厳粛なる建国式典の直後に、東亜永遠の平和を実して、ビルマ建国の基礎を永久に堅固ならしめるため、生死興亡を日本と共にする覚悟の下に、亜細亜共通の敵たる米英に宣戦布告したのである。歴史的なる『ビルマ独立宣言』は、『日本の実力及び英雄的行為、並びに日本の高邁なる目的』が、ビルマの独立を可能ならしめたこと、また『日本の建国精神に合致せる高邁なる主義』が、ビルマをイギリスの手から蘇らしめたことを明確に認識して、日本に対する深甚の感謝を永久に記録すべきことを明記して居る。正しく其通りでなければならぬ。

 併し乍ら枯れ果てたる草木には、如何に水を注げばとて花咲き箕結ぶことがない。ビルマの今日在るを得たのは、イギリスの鉄鎖に繋がれながらも、堅く独立の精神を護りて戦ひ続けたる志士仁人ありしが故である。葉はもぎ取られ枝は折り取られて、打見るところ枯れ果てたかに思はれしビルマの根に、今日まで生命の液を通わせて来たのは、実に其等の志士仁人が流し来たれる紅の血潮である。而して数ある志士仁人のうち、ビルマ独立のために終生を献げるささげたるのみならず、日本と相結ぶことによってのみ其の目的を遂げ得べきことを確信して、最も正しくビルマ民衆を指導せる偉大なる先覚者は、取りも直さずオッタマ法師其人である。

 オッタマ法師の魂に深刻なる感激を与へ、強烈なる国民的自覚並びに亜細亜的自覚を呼び起したのは、日露戦争に於る日本の勝利であった。かくて、明治四十年、齢三十歳の時に初めて日本に来たりてより、日緬の間の往復すること前後五回、故国に帰りては仏道修行と国民運動の指導に献身し、日本に来たりては国体の尊厳と日本精神の本質を学ぶに務めた。法師は深く日本を知るに及んで、日本の指導によるアジアの解放並びに統一が、亜細亜の辿るべき政治的運命たることを明瞭に看取し、此の信念の下にビルマ民衆を指導した。而してその学徳の故を以てビルマ人かは慈父の如く慕われ、其の無所畏の運動の故を以てイギリスからは強敵として憎まれながら、昭和十四年九月十日、六十二歳を以て此世

を逝るまで、ビルマ独立のために、高潔無私なる而して多苦多難なる生涯を献げた。

 いまラングーンのビルマ政庁の空高く翻る孔雀旗を仰いで、歓びに胸躍らぬビルマ人は一人もいない筈であるが、わけても法師の英霊は、何人にも勝りて大なる満足を覚えて居ると信ずる。法師終生の念願が、まさしく実現されたのである。さり乍らビルマは尚建国途上に在る。ビルマを失えるイギリスは、いまアメリカと力を合わせ、再びビルマ人を奴隷たらしむべく必死の反撃を此国に向って試みつつある。彼等を完全に撃退して、ビルマの安泰を盤石ならしめるために、獅子奮迅の努力を払うことこそ、法師の英霊に対する最上の供養である。

       (昭十七・九)

 

ボース氏来日 

 若し真に印度が独立を熱望して居るならば、印度の国民指導者は日本と共にイギリスと戦ふべきである。大往査戦争勃発以来、日本は印度の独立運動に対して一切の援助を吝まぬことを、中外に向って宣言した。それにも拘わらず印度は、日本を度外視してイギリスと戦ひつつある。印度最大の指導者ガンディの如きは、日本お援助を欲せぬ意見さへ公表して居る。

 ガンディの魂によるイギリスとの戦は、阿育王の『道法に依る征服』と古今照応するものであり、何人も其の壮烈高貴を歎称せずに居られない。而もガンディの精神運動は、他国のそれと異なり、従前は知識層の一部に限られてし排英独立の思想を、印度の津々浦々にまで浸透せしめた点に於て、偉大なる政治的意義を有し、曾て吾国に行われし精神総動員運動などとは、毅然として其の本質を異にする。

 併し乍らイギリスがガンディの前に兜を脱ぐことは断じてありえない。既にイギリスは、断食三週間のガンディの闘争に対して、僅かの譲歩さえもしなかった。魂の暴力だけでは、イギリスのインドを縛る鉄鎖を断つことは、絶対に不可能である。ガンディの理想は魂の力に加ふる剣戟の力を以てして、初めて実現されるのであらう。吾等はいま『印度の剣』tもいふべきシュバス・チャンドラ・ボース氏を日本に迎へたことを欣ぶ。ボース氏は『亜細亜の剣』たる日本を、印度国民運動指導者の誰よりも、善く理解するであらう。ボース氏は日本の誠意と熱情とを正しく印度に伝へ、此の千載一遇の大機に際して、印度は如何にして戦はねばならぬかを知らしめ、その蹶起奮戦を促すであらう。

ガンディは印度をして『戦はざるアルジョナ』たらしめる。希くはボース氏が印度をして『戦ふアルジョナ』たらしめんことを。

      (昭十八・七)


東條内閣の組閣

2016-12-13 12:00:09 | 大川周明

     
 

東條内閣の組閣

 

七八

 

千九百四十一年(昭和十六年)十月十七日には前日來辞辞職願を出したため此日私は官邸にてその後の準備をして居りました。
午後三時三十分頃侍従長より天王陛下の思召により直ちに参内すべしとの通知を受けました。突然思召のことではありますから私は何か総辞職に関し私の所信を質されるものであらうと直感し、奉答の準備のために書類の準備を懐にして参内しました。

 

七九

 

参内したのは午後四時頃と思ひますが、参内すると直ぐに拝謁を御付かり組閣の大命を拝したのであります。その際、賜りました、御言葉は千九百四十一年(昭和十六年)十月七日の木戸日誌にある通りであります。(法廷証第一一五四号英文記録一〇二九頁)

 私は暫時の御猶予を願い御前を退下し宮中控室に居る間に続いて及川海軍大臣に御召に依り参内し「陸軍に強力せよ」との御諚を拝した旨海軍大臣と控室にて面会召致しました。
 間もなく木戸内大臣がその部屋に入って来て御沙汰を私と及川海相との双方に伝達されたのであります。其御沙汰は昭和十六年十月十七日木戸日誌(法廷証第一一五四号)のとおりであります。即ち、

 『只今陛下より陸海軍協力云々の御言葉ありましたことと拝察いたしますが、なほ国策の大本を決定せらるるについては九月六日の御前会議決定に捉わるることなく、内外の情勢を更に深く検討して慎重なる考究を加ふるを要すとの思召であります。命に依り其の旨申し上げます』と言ふのであります。之が後にいふ白紙還元の御諚であります。

 

八十

 

私としては組閣の大命を拝すると云ふが如きは思いも及ばぬことでありました。
 田中隆吉氏は佐藤賢了氏が、阿部、林両重臣を訪問して「東條を総理大臣にしなければ陸軍お統制はとれぬ」と述べた旨証言しました(法廷証第千五百八十三頁)既に記録した如く私は近衛内閣の後継内閣は東久邇宮内閣でなければ時局の収拾は甚だ困難であろうと考へ、此の意見は既に近衛総理及木戸内大臣にも伝へたのであります。
  私は十六日夜、私は此の意見を阿部、林両重臣に伝えることが適当であると考へ佐藤軍務課長をして阿部、林両重臣に此の意見を伝達させたのであります。佐藤氏は私の意見のみ伝達し両重臣は彼等の意見を述べなかった旨私に報告しました。

 従って私自身が後継内閣の総理大臣たるの大命を愛くること乃至は陸軍題意人として留任することは不適当なりと考へたのであります。

 

 又格の如き事の起ころうことは夢想もしませんでした。殊に私は近衛内閣総辞職の首謀者であるのみならず、九月六日の御前会議決定に参興したる責任の分担者であるからであます。
 特に九月六日の御前会議の変更の為に私が総理大臣としては勿論陸軍大臣として留任することが却って大なる困難を伴ひ易いのであります。

 

 以上は当時私及び私を知る陸軍部内の空気でありました。故に「白紙還元」の御諚を拝さなければ私は組閣の大命を承け入れなかったかも知れないのです。
 此の「白紙還元」と云ふことは私もその必要ありと思って居ったことであり、必ず左様せねばならずと決心しました。なほ此の際、和か戦か測られず。塾れにも応ぜざるを閣内体制が必要であると考へました。
 之に依り私自身陸軍大臣と内務大臣を兼職する必要ありと考へ其の旨を陛下に予め上奏することを内大臣に御願ひしました。当時の情勢では、もし和と決する場合には相当の国内的混乱を生ずる恐れがありますから、自ら内務大臣としての責任をとる必要があると思ったのであります。陸軍大臣兼摂には現役に列する必要があり、それで減益に列せられ陸軍大臣に任ぜられましたが、このことは後日閑院宮陛下の御内奏に依る事であります。

 

八一

 

組閣については中々考えが纏まりません。此の場合神慮に依る外なしと考へ、先ず明治神宮に参拝し、次に東郷神社に賽し、更に靖国神社の神霊に謁しました。その間自ら組閣の構想も浮かびました。

(一)大命を拝した以上は敢然死力を尽くして組閣を完成すること。

(二)組閣に遅滞は許さず。

(三)閣僚の選定は海軍大臣は海軍に一任するが其他は其他は人物本位にて簡抜すること。
 即ち当該行政に精通している人を持って行き度い。行政上の実際の経験と実力をもって内閣に決定を強力に施行して行く堪能なる人を持って行く。
 政党又は財閥の勢力を顧慮せず又之を忌避せずといふ態度で行きたいといふことでありまました。

 

八二

 

右大命を拝した其の日の夜六時半頃陸相官邸ににて着手しました。
 組閣に当たっては右の方針に則り私一個にて決定し、他人にも相談しませんでした。しかし、助手が要るから、先ず内閣書記官長の選定を必要としました。同夜八時半星野直樹氏に電話し来邸を求めて之を依頼したのであります。

 星野氏は第二次近衛内閣の閣僚として同僚であり、其の前歴の関係に於ても、才能の上に於いても適任と考へました。星野氏は來邸し直ちに之を受諾してくれました。
 電話で決定したのは橋田(文相候補)岩村(法相候補)井野(農相候補)小泉(厚相候補)鈴木(企画院候補)岸(商工候補)の諸氏であります。召致して懇談の上受諾したのは賀屋(大蔵候補)東郷(外相候補)寺島(逓信、鉄道候補)湯澤(内務次官候補)の諸氏であります。

 此の中で東郷氏と賀屋氏は今後の国政指導は極力外交交渉で進むのかとの意味の駄目を押しました。湯澤氏は次官のことでありますが私が内務大臣兼摂でありますので大臣級の人物を要したのであります。
 同夜中に海軍大臣より海相推挙ん返事は出来ません。翌朝(十八日)及川海相より島田氏を推挙するとの確報を得、続いて島田氏が来邸しました。
 この時に対米問題は外交交渉で行くのかといふ点と国内の急激なる変化を避けられたしとの質問と希望がありました。私は前の質問に対しては、白紙還元の説明を興へ後の希望に対しては勿論国内の急激な変更はやらぬといひました。
 島田氏は之を聞いて後海相たることを承諾致しました。十八日朝は靖国神社例祭日で午前中は天皇陛下の御親拝あり自分も参列しました。午後一時閣員名簿を捧呈、四時親任式をを経て茲に東條内閣は成立致しました。


大川周明 「新亜細亜小論」(上篇) 年を非常時に迎ふ、異民族に臨む態度

2016-12-05 12:16:01 | 大川周明

  大川周明「新亜細亜小論」(上篇)
   年を非常時に迎ふ、異民族に臨む態度

綿々不断の追求
 

 東亜新秩序又は大東亜共栄圏の理念は、決して今日事新しく設定されたものではない。そは近代日本画国民的統一のため起ち上れる瞬間から、綿々不断に追求し来れるものに外ならない。

 明治維新の志士は、損王攘夷の旗の下に、日本の革新と亜細亜の統一とを、併せて同時に理想とした。彼等は単に日本国内の政治的革新を以て足れりとせず、隣接東亜諸国の改革をも実現し、相結んで、復興亜細亜を建設するに非ずば、明治維新の理想は徹底せらるべくもないと確信していた。それ故に維新精神の誠実なる継承者は、燃ゆる熱情を以て自国の事の如く隣邦のことを考えて居た。大西郷の如きは実に下の如く言っている。『日本は支那と一緒に仕事をせねばならぬ。其れには日本の着物を着て支那人の前に立っても何にもならぬ。日本の優秀な人間は、どしどし支那に帰化してしまねばならぬ。そして其等の人々によって、支那を立派な道義の国に盛り立ててやらなければ、日本と支那とが親善になることは望まれぬ』と。

 後に謂はゆる大陸政策となりて現れ、遂に今日の大東亜共栄圏の建設まで具体化された理念は、実に明治維新の前夜に於て、夙くも当時の先覚者によつて把握されて居た。国民の魂に深く且強く根を下ろして居た此の理念あればこそ日本の大陸政策は、内外幾多の難局に当面し乍も、之を全体より観れば順風に帆を上げて今日に至れるものである。国民がいま大東亜戦の志深の感激を以て献己奉公するのも、斯くの如き永年の準備ありし故である。吾等は更めて明治維新の精神を反省し、之を吾等の魂に復活せしむることの必要を痛感する。 
            (昭十七・十一)

 

精神的軍備

 戦争の最後の勝敗を決するのは、単に軍制の完備、兵器の強大、兵器の優秀だけではない。シュタインメッツが其の『戦争哲学』の中で、力説せる如く、戦争に敗れることは結局国民全体の短処欠点を暴露することであり、戦争の最後の勝利を得るためには、国民全体の道義の力を合わせたる結果を以てせねばならない。如何なる場合に於いても国家の最後の運命は国民の一人々々に宿る精神にかかって居る。純潔なる信仰、曇りなき精神、独立の判断、熱烈なる気概、総て此等の物が相集まって大国をなし強兵を為すのである。ペルシャは百万の大兵を擁し弾丸黒子の如きギリシャに攻め、竟に勝利を得ることが出来なかった。清朝は満州の一角に興り、能く厖大なる明国を倒すことが出来た。光栄ある勝利を得るためには、偏に数次の上に現れたる兵数と物質に頼ってはならぬ。此事は長期戦に於て最も然りである。

 今日の日本お之指導者の最大の任務は、国民一人々々に必勝の神えんを抱かせることである。試みに堀部弥兵衛が大石良雄に宛てたる手紙を身よ。堀部父子は各自独立の判断を以て義挙に加盟したので父子の故を以て強制したのではない。武士道は自由なる男子の道にして、奴隷の従順を教へるものではない。若し個人の権威を認めず之を蹂躙し去って顧みざる如き挙国一致は、一歩誤れば面従腹背、更に進んでは民心の離反を招かずば止まぬ。

 日本お指導者は、宣伝や号令に依って国民を率い得る者と考えてはならぬ。己の至誠を国民の魂に徹せしめ、国民の一人々々をして誠を以て奉公に励ましめねばならぬ。此の精神的軍備にして成らば、日本は天を畏る々外まだ恐るべきものがない。
            (昭十七・十二) 
 
 

年を非常時に迎ふ 

 常の一年を送り、又非常の一歳を迎へて、国歩の艱難一層を加えつつある。日本が米英撃滅を期するが如く、米英も又日本打倒を誓っている。緒戦に於ける日本の勝利は、世界戦史上の奇蹟であるとはいへ、竟に見事なる初太刀であり、未だ敵の骨髄を砕いて息の根を止め去るまでに至らない。いまや敵は傷つける猛獣の如く咆哮激怒して反撃を試みんとする。此戦に妥協がない。勝たずんば敗れるのみであり、敗れれば第二の印度人となり果てねばならなぬ。若し然らば日本の男子は奴隷となり、女子は英雄を生むために非ず婢僕の母たるために結婚することとなる。そは決してあり得べからざることである。吾等は必ず勝たねばならぬ。勝つためには国民一人一人が必勝の覚悟を抱いて努力せねばならぬ。外より強いられて動くに非ず、自ら進んで発奮せねばならぬ。国民一人人rの愛国心に火を天ずる者は、宣伝と号令に非ず、実に指導者の誠である。指導者の至誠に感応し、国民が必勝を目指して邁往する時如何なる敵も恐れるに足らぬ。吾等は勝利の最大の力は、天の時、天の地、地の利にも勝る人の和にあることを、厳粛に反省して且之を実行の上に現はさねばならぬ。
             (昭十八・一)


異民族に臨む態度 

 神武天皇即位の詔勅に『今や運この屯蒙に属し、民心素朴にして、巣棲穴住の風俗惟れ常となり、夫れ大人成立つや、義必ず時に随ふ。苟も民に利あらば、何ぞ聖造に妨げん』とある。其の意味を拝察するに、国内には文化の低い多くの異民族が居るが、低いものは低いなりに、其の『習俗』即ち伝統も容認し、統治の方法は『時』即ち環境に順応し、徐にこれを善導しなければならぬ。新附の民をして生活に安んじさせることが何よりも肝心で、強いて形式を整えなくとも、決して八紘一宇の理想実現の妨げにならぬといふ事である。この寛容にして情愛ある態度を以て異民族に臨んだればこそ。『男女交居して父子別なく、冬は即ち穴に宿ね、夏は即ち樔に住み、毛を衣と血を飲み、昆弟相疑ひ、山に登ること飛禽の如く、草を行くこと走獣の如し』といはれし蝦夷さへも、いつとはなしに見事なる日本人となったのである。

 いま日本は大東亜圏建設者として、幾多の異民族を其の指導下に抱擁することとなった。

第二の肇国ともいふべき此荘厳なる偉業に当面して、吾等は深く神武天皇即位詔勅の精神を反省し、その実践を覚悟しなければならぬ。欧米の植民地政策を参考都市、机上計画によって彼等に臨むだけでは、此の大業は成就せらるべくもない。
                (昭十八・二)


大川周明 「新亜細亜小論」(上篇) 印度問題の展望、大東亜戦争の原理

2016-11-30 09:48:50 | 大川周明

                   大川周明

大川周明 「新亜細亜論」

 

印度問題の展望 

  バンコックに開催されたる大東亜在住印度人大会は、印度独立のため邁往することを決議し、一方印度國内に於ては、ガンディ英国放遂の決意を発表し、ネールまた之に応じ、且回印両徒の提携が報ぜられ、印度問題は有望且有利に進展しつうあるかに見える。まことに印度は、此の千載一遇の機運を逸し去るならば、恐らくまた独立の日を期し難きに至るであろう。

 唯夫れインドに於ける英国支配の根柢は極めて堅く、その方法は最も巧妙である。其れは決して単なる声明や決議に辟易するものではない。寛厳硬軟あらゆる術策を講じて反英運動を弾圧し離間するであらう。加ふるに印度人の間には日本に対する反感を抱く者が少なくない。彼等は公然『印度は第二の支那たるを欲せず』と唱えて仮令英国と離れても、日本と提携するを好まざる意図を表明さへして居る。故に印度問題の前途は必ずしも楽観を許さない。日本は問題の急所を適確に把握して、善処の策を講ぜねばならぬ。何よりもまず日本は、声明又は言論によって非ず、実に実践躬行によって大東亜圏建設の真意を印度に知らしめねばならぬ。若し印度が日本の真意を正しく認識するならば、初めて英国を放遂する自信と勇気とを得来り。而して日本と共に新しく世界秩序を建設するの覚悟を抱くであらう。
               (昭和十七・七)

 

大東亜戦争の原理 

 支那事変5年に亙れるに拘らず、尚且深刻に支那を憎むところを知らぬところに、支那に対する日本の全国民的感情の最も高貴なる発現がある。日本国民は意識的又は無意識的に、支那及び其の他の東亜諸民族に対する深き愛情を抱いて居る。日本を東亜の指導者たらしめる最も根本的なる資格は、実に此の愛情である。東洋に於ては、政治とは『仁』の具体的実現に外ならぬと考へて来た。大東亜共栄圏は、先ず第一に日本の『仁』の客観的機構でなければならぬ。日本は其故に近世植民地的搾取を否定する。欧米植民地が、その植民地に於ける社会的進歩を阻止し、住民を文盲のまま放置し、内争を使嗾し、永久に隷属貧困の状態に釘付けせんとうが如き政策は、単に其の必然の結果が被支配民族の憎悪怨恨を招くに終わるといふ如き功利打算から出なく、実に日本の仁の許ささるところである。

 而も搾取を否定するために、勢ひ国内の経済機構に一定の改革を加へねばならぬ。国民的大犠牲の結果が、一部の階級や党派に壟断せらるる如きことあらば、新東亜建設の捨て石たることを明らかに自覚して、惜しみなく戦場に命を捨てたる英霊の怒り覿面であらう。若し国内に、名目は如何やうにあれ、実質に於て戦前と変わりなき機構が存続するならば、植民地的搾取を拒否することも出来ず、従って大東亜戦をして真に国民的意義あらしむることも不可能となる。
               (昭十七・八)  

 

ギヴ・アンド・テーク 

  ギヴ・アンド・テークは英国流の功利思想であるから、断然斥けるねばならぬと偉丈高に唱へる者が或る。恐らくイギリスが総て悪く、ドイツは皆よしとする昨今の風潮の一つの表れであろう。ただしギヴ・エンド・テークに英語に相違なく、またこれを実際に施して効果を収めてきたのも英国人に相違ないけれど、この貴重なる政治的原則を、米国流の功利主義として一蹴去ることは、その人の無知も無経験とを誇示する如きものである。此の原則は決して、英国人の発見でも創意でもなく、彼らが尚未だ北欧の未開野蛮の民なりし頃、既に『菅子』の中に下のごとく立言されって居る。

『与ふる運の取るたるを知るは政の宝なり。』

菅子に従へば、政治の荒廃は民心に従ふと逆らふとによって定まる。凡そ人間は勤労を厭ひ、貧賤を嫌ひ、危険を恐れ、死滅を悪むものである。政治家は国民を安楽にし、富貴にし、安全にし、長生するやうに努めねばならぬ。此の心遣いを以て国民に臨めば、国民はかえって自ら勤勉になり、貧賤に甘んじ、危険を顧みず、生命を献げるやうになる。刑罰だけでは民意を畏れしめるに足らず、殺戮だけでは民心を服するに足らぬ。民意が畏れて居らぬのに刑罰を繁しくすれば、命令は行われなくなる。民心が服して居らぬのに殺戮を肆にすれば、権力の基礎が危なくなる。

それ故に若し政治家が、人間の欲する所を遂げさせるやうに心を労すれば、遠き者も親附して来るし、人間の好まむ所を強制すれば、近き者さへ離叛して往く。政治の至高原理は、与ふることが取りも直さず取る所以なることを、知り且行ふことである。 

ギヴ・アンド・テーク原則は、漢民族の生みたる偉大なる政治家が、其の多年の経験より帰納をして確立せるものである。吾等は日本の政治家又は軍人が、東亜諸民族に臨むに当りて、乱世に生まれて能く天下を一匡せる支那政治家の教訓を実践せんことを希望して止まない。  
               (昭十七・九)  
 

 

印度問題の一つの鍵 

 印度の構成要素は、支那のそれよりも遙かに複雑であり、かつ欧羅巴の影響は支那に於るよりも遙かに深刻且広汎である。従って対印政策は、その性質に於て対支那よりも一層困難なる課題である。

 さて、正しくかつ効果的なる対印政策を確立するために最も肝心なる前提は、印度の数々の特性を正確明瞭に把握することである。然るに印度の特殊なる諸性格は、実にガンディの人格其者に具現されて居る。ガンディーは今日の印度に於て最も有力なる人物であのみならず、その力が最も純粋なる印度的力である。

 ガンディーの力は、数千年に亙る印度精神の鍛練の結実である。印度精神の潜める力が、ガンディーに於て具体化され客観化されたのである。印度を指導するには、ガンディー的力を以てせねばならぬ。ガンディーの生涯及び性格を精密に研究することが、印度問題を解く重要なる鍵の一つであると信ずる。
               (昭十七・十)