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日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明 「新亜細亜小論」(上篇) 大東亜戦争第二段に入る、大東亜戦の理想

2016-11-19 11:52:57 | 大川周明

        大川周明

大東亜戦争第二段に入る

 イギリス東洋制覇の牙城シンガポールは、世界地図の上から永遠に其影を没し、復興亜細亜の根拠とし湘南島が芽出度くて誕生するに至った。世界維新のための戦としての大東亜戦は、僅かに宣戦以来七旬にして、其の最も光栄ある第一段が終了した。

 大東亜戦の第二段階は、イギリスの桎梏からビルマと印度とを解放することである。日本政府は、ビルマ人および印度人に向って、彼らの独立のための努力に満幅の援助を与ふべきことを世界の前に宣言した。倒英という抽象的なる標榜は、此の宣言によって初めて適確なる具体的内容を賦与された。

 自由を獲たる印度と覚醒せる支那が日本と相結ぶことによって、大東亜共栄圏の確立は初めて可能であり、新しき世界文化の創造もまたはじめて可能である。多年に亘って鉄鎖に縛られ来れる不幸なる民よ、起って其の鉄鎖を寸断せよ。それによって自らを救い、且新しき世界の出現に参与せよ。
                (昭十七・一)    


清朝創業の教訓 

 徳川幕府の初期は、特に寛永二十一年、越前国三国港の商民が、蝦夷松前に向ふ途中、暴風のために満州に漂着した。
 時恰も支那に於ては明朝の社稷脆くも崩れ、清朝入関の順治元年に当る。一行五十八名のうち四十三名は土民のために惨殺され、残りの十五名は満州官吏によって韃靼国の都奉天に護送され、暫く此の処に滞留の後、更に北京に転送、留燕一年の後に朝鮮を経て日本に送還された。彼らが江戸に召喚されて『数多委細に相尋ね』られたのに対する『口上の段々』を書留めたのが即ち『韃靼漂流記』である。此書は種々なる点に於いて吾等の興味を惹くものであるが、最も深く吾等の心を打つことは、彼等の目に映じたる満漢人の相違、即ち満州人の漢人に対する道徳的優越である。彼等は当時の満州人に就いて下の如く述べて居る。『御法度万事の作法、ことの外分明に正しく見へ申候。上下共慈悲深く、正直にて候。偽申事一切無御座候。金銀取ちらし置候にても盗取様子無之候。如何にも慇懃に御座候。』

 然るに漢人は甚だしく彼等と異なる--。

『北京人お心は韃靼人とは違ひ、盗人も御座候。偽も申候。慈悲も無之かと見へ申し候。去りながら惟今は韃靼の王北京へ御入座候に付、韃靼人も多く居申候。御法度万事韃靼の如く能成候はんと、韃靼人申候』

 満洲人が支那四百余州に君臨するに至れるは、世人が往々にして想像する如く、決して武力によったのではない。漢民族をして彼等に臣附せしめた最大の原因は、実に彼等の優れたる徳性である。いま大東亜の指導者たらんとして居る吾等に取りて、清朝創業当時の歴史は深甚なる教訓を含む。吾等は専ら欧米の植民政策に学ぶことを止めて一層誠実に東洋に於ける異民族統治の跡を顧みる必要がある。
          (昭和十七・四)


大東亜建設の歩調

 赫々たる皇軍の戦果を確保すべき南方諸地域の建設は、既にその人的配置や機構の配備を終り、着々と進捗している。大東亜戦争は漸く建設戦の性質を帯びて来たのである。

 建設の第一要諦は自衛のために不可欠の物資を開発流通せしめると同時に、長く英・米・蘭等支配勢力の桎梏下にあった南方諸民族の心田を啓発するにあることは言ふまでもない。単に従来の英・米向け物資が東方に回帰する、といふだけでわれわれの目的は半ばをも達したといふことはできない。磁針がつねに北を指すごとく、南方諸民族が日本を中心には高度の物質文化・精神文化に朝宗するとき、大東亜新秩序の建設が初めて実現せられるのである。

 乍併、既に其処に現存する物資の開発や流通を図るのと異なって、民族精神に方向を与え、秩序を樹てることは、決して短日月に行われるのではない。それは永遠の目標を高く掲げて進むべき世界史的な創造を意味する。従って、大東亜建設の同町にもそれぞれ緩急自在の用意あるべきことを忘れてはならない。指導者は常に民衆の心とともにあり、而も一歩を擢んで全体を推進せしめるところに使命と名誉を担ふのである。我々は大いなる建設に直面して、長短自在のコースを走破すべき活力と歩調を自ら整えざるを得ないのである。
              (昭十七・五)


大東亜戦の理想

 偉大なる真個の尺度は空間でない。真個の偉大は何間何尺と測らるべきものではない。国のの理想は単に表面に於て拡がるだけでなく、高さに於て昂まるべきものである。一国が領有するのは土地だけでなく、一国を形成する人間である。その人間は発達すべきものである。その発達とは、数の増加だけでなく、実に価値の向上である。

 最も偉大な国家とは、其の領土と人口との大に加えて、其の国内に於て『道』が至高の発揮を見る国家である。大東亜の理想は、古今に通じ中外に施して侼らざる『道』を大東亜に確立することでなければならぬ。理想は往々にして単に唱えられるだけで、その実行を見ざるを常とする。日本は断じてその轍を踏んではならぬ。若し然らずば、過去に於て国豊に権威張り、四方を征服して領後の拡大を誇り、而も今は廃墟となれる諸帝国の跡を追ふこととなるでろう。

               (昭十七・六)
 


大川周明 「新亜細亜小論」(上篇) 」 亜細亜の興廃、日米戦争の世界史的意義

2016-11-16 22:48:17 | 大川周明

       大川周明

亜細亜の興廃


 普通の常識を以てするも、また一層深き反省を以てするも、日支両国が相和して鴻益あり、相戦ひて百害がある。わけても世界史の此の重大なる転換期に於て、もし日支両国は真固に理解提携するならば、亜細亜のこと、手に唾して成るであろう。若し日支両国が亜細亜の大義を掲げて此の大機に乗ずるならば、亜細亜諸国は一朝にしてその恥ずべき植民地又は半植民地的状態を脱出し少なくとも印度以東に独自の生活と理想とを有する『亜細亜』の出現を見るであろう。

しかるに、現実は全く此の希望と背馳する。蒋介石は其の本質に於て亜細亜の敵たる英米露と相結んで飽迄も抗戦を持続せんとし、支那民族の多数もまた日に其の反日感情を激しくしつつある。かくて日本は、見方なるべき支那と戦い乍ら、同時に亜細亜の敵と戦わなければならぬ破目となつている。そは実に言語に絶する大業である。此の大業の成否は亜細亜の荒廃を決するものである。国民は此の大業の成就が如何に大なる力を必要とするか、その実現   が如何に大なる意義を有するかを更めて反省し、異常なる覚悟を新たにせねばならぬ。
            (昭十六・十二) 


日米戦争の世界史的意義

 日本とアメリカは、天意か偶然か、一は太陽を以て、他は衆星を以て、それぞれ其の国の象徴として居る。故にその対立は、宛も白日と暗夜との対立を意味するが如く見える。この両国は『亜細亜』と『欧羅巴』を代表する。蓋し『亜細亜』の綜合者は日本であり、アメリカは『欧羅巴』の最後の登高者である。
 真個の意味の世界史は、東西両洋の対立・抗争・統一の歴史であり、東西の決戦によって常に口上の一段を登って来た。日米両国は、ギリシャとペルシャ、カルタゴとローマが戦わねばならなくなった如く、相戦はねばならぬ運命にあつた。故に日米戦争は、支那事変完遂は復興亜細亜のためであり、復興亜細亜は世界新秩序実現のためである。人類の一層高き生活の実現は、日米戦争なくしては不可能であったとせねばならぬ。日米戦争に於ける日本の勝利によって、暗黒の夜は去り、天つ日輝く世界が明け初めるであらう。

            (昭十七・一) 


支那を忘るる勿

 支那事変は大東亜戦争に飛躍することによって、初めて其の本来の面目を露呈するに至った。東亜新秩序の実現は英米の覇絆より解放することによってのみ可能であるが故に、吾等の志業は対英米宣戦と共に漸く具体化し始めたのである。而も東亜新秩序の中枢は、依然として日支両国である。この両国が真個に提携することなくしては、仮令英米を東亜より駆逐し得ても、東亜新秩序の客観化は望まるべくもない。

 いまや日本は国を挙げて南方を望んで居る。南方における皇軍の神武は、海に陸に超人的功勲を樹てつつあるが故に、身も心も之に奪はれて、皇天の垂恵に感激するのは当然であるが、そのために吾等は断じて支那を忘れてならぬ。支那と日本が相争ふのは、討幕のために協力せねばならぬ薩長が相戦ふ如きものである。非は支那側に在りとするも、殆ど五年に垂んとする必死の努力を以てして、尚且其非を改めさせ得ぬとすれば、日本は深刻に反省すべき時ではないか。大に勝つ時は、大に慎まねばならぬ時である。
            (昭十七・二)
 

〔続く〕 大東亜戦争第二段に入る


大川周明 「新亜細亜小論」(上篇) 外交の好転とは何ぞ、蘭印交渉の不調

2016-11-11 11:49:19 | 大川周明

                       大川周明

東南協同圏確立の原理
 

 南洋を含む東南協同圏の確立は、いかなる基本原理に立脚すねばならぬか。第一に圏内諸民族は、世界史の当面する段階、即ち地球全面がが幾つかの協同圏に再編成せられつつあり、且此の再編成に於ける民族の動向如何が、その民族の興亡を決定するものであることを明確に認識し、東亜及び南洋の諸民族が有つ運命と利害との共通を自覚せねばならぬ。したがって東南協同圏の確立は、東亜及び南洋の諸民族に取りて、共同にして最高なる歴史的使命であることを、それぞれ歴史的立場に立って積極的に把握せねばならぬ。

 そは必然の論理として圏内における帝国主義的植民地的支配の存在を許さない。同時に圏内に於ける諸民族間の如何なる軋轢闘争も許さない。それ故に東南協同圏の確立のために真先に要求せられる条件は、実に日支両国の全面的和平と提携であり、これ無くしては日本の南進は不可能と考えねばならぬ。

 

そは更に、圏内諸民族の排他的意識を精算せねばならぬ。圏内先進国民は、その優越感と侵略意識を清算しし、後進民族は其の猜疑心と反抗意識を清算せねばならぬ。而して、此事は、国内諸民族の自由と向上を目的とする反広範なる政治運動に於ける相互の連携と協同とによってのみ成遂げられる。

 

 而して是くの如き諸任後の実践において、日本民族にその指導者たるべき運命を持つ。蓋し日本は圏内における最先進国であるのみならず、唯一無二の完全なる自主国であり且最近の事変を通じて、有らゆる角度から此の協同圏確立の必要に迫られておる具体的事情があるが故である。

日本は其等の民族に対する旧来の帝国主義的抑圧の掃蕩、民族の解放と自主とを前提とする協同圏の建設を提議し、且圏内住専の友情と思って諸民族の帝国主義的支配に対する反抗と闘争を援け、実践の友情を以て彼らの信頼をかち取らねばならぬ。
               (昭十五・十二)

 

東亜協同体の意義

 道徳又は正義は、意識ある組織体に於て初めて発現する。組織あるが故に主義がある。主義あるが故に理想がある。蓋し理想の実践に貢献する行動が即ち正義であり、之を妨ぐる行動が即ち邪悪である。而して現在までのところ、世界に於る至高至大の意識ある組織は、実に国家そのものである。

然るに国家は、之を形成する民族の性情を経てし、独特なる過去を緯とする統一体なるが故に、松に松の樹容あり、梅に梅の樹容ある如く、それぞれ固有の面目を有し、従ってそれぞれ主義を異にし理想を異にして居る。そは甲乙丙丁の国家が、強ひて意識的に他と異ななんとして生じた差別にあらず、柳の自ら緑や花の自ら紅なる如く各国それぞれ自国の理想奉じ、理想によって終始する間に、自然に発現し来れる差別である。この自然法爾の差別あるが故に、万国の正義は決して一味にあらず、一国の正義は決して直ちに他国の正義ではない。従って一国の正義と他国のそれとが背駆し扞格する場合は、その解決の最後の手段は、竟に戦争の外なかった。

 乍併これは断じて理想の世界ではない。世界史と究極は、人類全体を統一する具体的組織の実現である。吾等は一切の効果が、同一理想によって、世界連邦を形成する日、又は或る一国が万邦を打して一個の国家を形成する日の来るべきことを信ずる。而して此の理想に到達する段階として、先ず地域的に近接し、人種的に近似し、経済的に連関し、文化的に緊密なる数個の国家又は民族の間に、超国家的なる組織体が、共通の主義と利害によつて実現せられねばならぬ。世界史は、今や是の如き組織体を地上に出現せしめんとして居る。吾等協同体は、経済的関係を主眼とする利益団体に非ず、広汎なる意味に於ける経済的道徳的主体の確立でなければならぬ。
             (昭十六・一)

 

亜細亜の組織と統一 

アジアは二重の意味において覚醒せねばならぬ。アジアの覚醒には、同時に精神的であり、かつ物質的であらねばならぬ。組織と統一を与えることによって、日本は亜細亜を覚醒せしめねばならぬ。

 政治的、経済的組織を与えるため第一の条件は、日本が亜細亜諸国に対して、主人たる如き態度を捨てて同盟者たる態度をとることである。日本は同胞として彼らと会い交わり、これを奴隷視してはならぬ。而して現に奴隷の境遇に置かれつつある者には、吾等の同胞たるたらしめるために、先ず之に自由を与えねばならぬ。亜細亜のうちに奴隷の國ある間は、他の亜細亜諸国も決して真に自由の国ではない。亜細亜のうちに軽蔑を受ける国ある間、他の亜細亜諸国も決して尊敬を博しえ得ない。

 吾等は 自由なる亜細亜を一個の家族に形成せねばならぬ。

而も心が一なる時、体も一たるを得る。故に亜細亜を一個の家族に組織するためには、亜細亜の精神を統一せねばならぬ。

日本の裡に、またアジアの裡に、統一の意識を喚起することによって、亜細亜的自覚を把握せねばならぬ。而してこの精神的統一は印度と支那とを抱擁せる日本の『三国』魂によって既に実現せられて居る。そは亜細亜が発見し、継承したる至極の真理である。この真理は、亜細亜をして真個に偉大たらしめ、有力ならしむるものであり、来るべき東亜共同体はこの統一的意識の上に築き上げられるべき『三国』である。又は『三國』魂の客観化である。
                      (昭十六・二) 

 

東亜関係諸団体の統一 

 『歴史の批判を受けるのは、唯だ予一人である』との悲壮なる覚悟を以て、敗残のフランスを双肩に担って立てるペタン元帥が、フランス国民に向かてナセル数々の訓示は、一として吾等の情理に訴へ来るものは、千九百四十年十月十日に発表せられし教書の一節である。ペタン元帥は此の教書に於てフランスの惨敗は、フランス政治の弱点と欠点とが、軍事行動に反映したるものであると述べ、党争の激化が遂に挙国一致内閣を生むに至ったが、それも畢竟無力無益なりしい所以を、下の如く指摘して居る。

『この抗争の害を知りて、挙国一致と称する広範囲の政府を作ったが、こrは一層甚しきごまかしに過ぎなかった。意見お相容れぬものを寄せ集めたからとて、決して「結束」する筈はなく、善意を合計しても断じて「決意」が生まれてこない。』

 日本政府並びに国民は、ペタン元帥の此の言を聞いて、殷鑑遠からずの感を抱かぬか。日本の挙国一致体制は、総じてフランスのそれと似通うておらぬか。吾等は政府がアジア関係の諸団体を統一する意思ありと聞き、またしても無方針・無理想の『挙国一致』から、結束もなく決意もなき、形態のみ厖大なる一機関の生ま出づべきことを恐る。
                      (昭十六・三) 

 

厳粛なる反省  

 日露戦争は、三百年來常勝の歩武を進め来たりし白人世界制覇に最初の一撃を加へたる点に於て、並びに亜細亜諸国を長夜の眠りより呼び覚まし、復興の希望を抱かしめたる点に於て深刻重大なる世界史的意義を持つ。亜細亜諸国は、ロシアに対する日本の連戦連勝を吾が事の如く喜び、至深の感激を以て心を日本に傾けた。

 然るに支那事変は、亜細亜復興を理想とし、東亜新秩序建設のための戦なるに拘わらず、最もとも悲しむべき事実は、独り支那多数の民衆のみならず、概して亜細亜諸国が吾国に対して反感を抱きつつある一事である。若し吾国の愛国者のうち、日本が民族開放の旗を翳し、白人打倒を標榜して、亜細亜に臨めば、諸民族は箪食壺奬して吾等を迎へるであらう、と考える者ありとすれば、其人は大なる誤算を敢えてするものである。彼等の或ものは、日本を以て彼等の現在の白人主人と択ぶところ無き者と考へ、甚だしき一層好ましからぬものとさへ恐れて居る。

 此の誤解は何処から来るか。重機や英米の宣伝が与って力あるであらう。弱者に常なる強者に対する嫉視にもよるであらう。而も日本自身に、斯かる根強き誤解を招く行動はないか、また無かったか。日本の重大なる使命を誠実に自覚する者は、この非常の時期において、大言壮語して陶粋自慰する代わりに、厳粛深刻に反省せねばならぬ。
                 (昭十六・四) 

 

外交の好転とは何ぞ 

 米国は参戦を覚悟して英国援助を強化しつつある。バルカンの戦火は既に近東に均等した。欧羅巴戦争が世界戦争をなるべく可能性は、最早拒むべくもなき形成となった。英独戦争と支那事変と相結んで、戦争は今や地球全面に拡大せんとするのである。

 近東に於て若し枢軸勢力が英国を圧倒するならば、印度の不安は一朝にして激化するであろう。而して英国が印度を得るか喪うかは、日本の決意によって定まることになるであらう。それ故に英国は、鬼面日本を威嚇し乍も、実は甚だしく日本を恐れて居る。米国は如何に其の艦隊を誇示しても、大西・太平洋に於て必勝すべき自信は断じて無きが故に、是亦日本の去就に深憂を抱いて居る。

 わけても日ソ中立条約成立後に於て一層然りである。

さり乍ら是は決して外交の好転に非ず、従って国際的地位の有利なる展開でもない。そは親英親米主義者に擡頭の機会を与へ、却って日本を危地に導く恐るべき誘惑である。日本の今日の大憂は、外交や国際的地位の順逆に存せず実に世界史必然の発展段階に於る英独戦争並びに支那事変の意義を明確に認識し、その認識の上に確立せられたる具体的経論なきことに存する。英米の媚態は、夫自身に於て毫も日本に損益する所ない。吾等は一時の小康に油断する不注意なる病人を真似てはならぬ。
                                 (昭十六・六)

 

蘭印交渉の不調 

 尋常なる執着力を以て名を馳せたる芳沢氏の長期に亙る蘭印交渉は遂に不調に終わった。かくなるべきは常識ある日本人の斉しく予想して居ったことなるが故に、日本政府には無論正否両様の場合に応ずべき対策があった筈である。

 然るに不調の報告を受けてから再三会議を開き、三日の後に漸く帰国の訓電を発して居る。是くの如き事を決定するにさへ三日の鳩首凝議を要するとすれば、一層重大なる決意をするためには、果たして幾日幾月を要することであらうか。

 蘭印は英米の傀儡に外ならぬが故に、蘭印問題の解決には先ず英米に対する吾が態度の決着を必須の前提とする。此の決着なく、従って英米との交渉をなくして、唯蘭印だけを相手としては、日本に有利に問題が解決する道理はない。吾等は蘭印交渉の不調を憤る前に、日本政府のいつも乍の態度を悲嘆する。 
                                 (昭十六・七)


大川周明 東條英樹の頭を叩いたが米側要人から崇拝された

2016-11-04 21:20:37 | 大川周明

                      大川周明 (ウィキペディア)

〔大川周明 書簡〕
 

532、昭和21年9月18日 松沢病院より 大川多代宛

粛啓 九月十二付にて卑簡差上候処、今日迄御返事御座候故、或は開封の上没収せられしやも知れずと考へ、再び筆執り申候。扨私儀長らく帝大精神科病院に在り。次で此の松沢病院に移され、新聞に狂へる大川博士など写真まで出で申候へど、母上には私の性格並に頭脳が決して狂人などになる筈なしと御確信のことと奉存候。

 事実私は全く健全にて早晩退院可仕へば、此点は御安堵被下度奉願上候。ロックヘラー病院・帝大病院・松沢病院と狂人にもあらぬ者が気狂扱ひされて引き廻され、誠に面白き体験を得申候。尤もロックフェラー病院の方は実は狂人扱いに非ず。

 賓客扱ひにて毎日マッカーサー夫人及び令嬢の歓待を受け申候が、帝大病院にては兼子が医師の言を盲信して、私を気狂と思ひ込みたるため実に迷惑仕候。帝大の療法にて実に異常の高熱を発し候が、之は予め私のため強心並栄養摂取の手当を脊ざりしための非常なる失策にて、私に此事を指摘きされてより毎夜甚だしきは三回も麻酔剤を注射し、私をして一切を忘却せしめるため、医員・看護婦こぞりて馬鹿な注射を続け申候。

 唯だ発熱最高度に達せる時、明治天皇及び英国王エドワード七世の姿が私の面前に現れ、『かねあき』頑張れと大声疾呼せられ、『さあ生れ変れ』と鼓舞され、そのため啻に異常の高熱に堪えたるのみならず、身長も一寸五分のび、身体柔軟なること青年の如く、顔も若やぎて兼子や松やも驚くほどに相成申候。

 其後麻酔剤注射にて睡眠中も常に明治天皇とエドワード七世を中心とする実に興味ある夢を見つづけ、是非之を記録し置きたしと存じ候ひしも、大学側の差金か兼子の心づかひか、病室内に筆も紙もなき故、夢の記録術として私が屢々実行して脳裡に刻み込むやうに致し候故、只今も明確に記憶仕居候。

 此事は無人の時に試みつもりなれど、兼子や看護婦が之を見聞すれば気違ひと思ふのも無理なしなど、此の手紙を書き乍らも微笑を禁じ得ず候。此の夢の中に母上も常に現はれ、石原板垣の諸友も現はれ、夢乍ら私の心事最も鮮明に現はれ、恰も私の精神を名鏡に映すが如く、実に面白く感ぜられ申候。

 退院後母上を上ノ山温泉に案内し、亀屋の女主人をも聴手に加へゆるゆると話申上度候。但だ此処に至急電報にて御返事願上度きことは、私が左頬下部に人力と衝突して負傷せるは明治何年なりしか、また明治四十年六月に大川家より藤塚の役場に戸籍上重要なる届出でありしや否やといふ事に御座候『○、不、」アリ」又はナシ』と簡単に宜しく候間、御返事被下度候。

 大学病院にて兼子堅く医師の言を信じて私を狂人視し、如何にも手の施しやう無御座候ひしが、此処にて副院長村松氏、医長石川貞一氏(石川貞吉博士令息)皆帝大の意図を疑ひ、小生の狂人ならざるのみか健全中の健全者なるを知り、看護人一同も同様にて親切此上なく、兼子も初めて迷夢より醒め申候ヘバ、月末頃には退院し得ることと存じ居候。

 新聞雑誌に私が法廷にて東條の頭を打ちたるを狂態などと米国に媚びを売り居候へど、米人側は大喜びにて、退出後東條に似たる米人伴ひ来たり私に頭を打たせて写真を撮り、米新聞スターズ・ストライプスにのせて拍手居候。

 日本の大臣・大将皆な刑を恐れて醜態見るにたえざる時、かかる芝居じみたる裁判何ぞ恐るるに足らんといふ意気を示せるだけにて、米人も之を知りて私を重んじ申候。名前を呼ぶとき時も、皆アメリカ訛りにて松井をマツアイ、和知をウエーチなどと呼ばれて苦笑し乍返答するも。

 私だけはオカワなどと呼ぶ故、大声にてオカワは小さい川、私はオウカワ即ち大きい川、今後はオカワなどと呼ぶと返事しませんぞと怒鳴り候。其後皆オウカワと呼び申し候。

 殊にロックフェラー病院在宿中、米人も最も重要な人々、即ちロックヘラー一族、マッケンジー一族と相識り、彼等の私に傾倒は高橋喜蔵さん以上に候へば、裁判など御心配被下まじく候。私を取調べる主任検事H・B・ヘルム君なども、私に多大の尊敬を払ひ居ることは、喜蔵君も承知の筈に御座候。

 殊にマッカーサー夫人は私が今後設立すべき研究所のために莫大の寄付を約束し居る次第にて御座候。

 母上も最も御承知の通り、私は幼年時代から今日までボツチャボツチャと他人に可愛がられ、監獄は豊多摩にても看守等が私を必ず第一番に入浴せしむるほどの好意、巣鴨にても所長ハーディ大佐が私にだけ笑顔を見せ、米兵も私だけを例外に尊敬し、ロックフェラーにても思ひがけなき崇拝者を多数の米人の間に得、此の病院にても亦同様にて、此処に移りて三月ばかりは涙を流し乍ら此事のみ思ひ廻らし候。

 此頃は巣鴨刑務所にて般若心境を読みて生来初めての霊感を得申候故、之を欧米人に伝へ度、梵漢両文対照の上之を英訳し、英語にて中庸新注の如き体裁にて注釈を加へ、アメリカにて出版するつもりにて原稿を書き居り申候。

 まことに至処青山にて自分ながら何故の是程のんびりし、何時如何なる処にても平気なるか不思議に被存候。此の境地母上にはよく御納得のことと被存候。     
                                          頓首

   九月十八日                                周明

 御母上様 侍者

 △此前の手紙に二三寸と申し上げ候が、昨日計り申候処、昨年まで五尺八寸なりしが、只今は五尺九寸五分と相成申候。

 ※封筒裏書に「東京都世田谷区沼袋二三五 白川龍太郎」と記載。 

   出典:『大川周明 書簡(昭和21~1946年)ー書簡戦後 557頁~559頁』


大川周明 「問題の国民的解決 、上海に於ける暴行、満蒙未だ楽土ならず」

2016-11-01 22:07:50 | 大川周明

                 大川周明            

問題の国民的解決
 

 満州において我が国の正当なる権益を擁護し、且つ在満同胞の財産を保護する目的の下に、帝国陸軍の断乎として敢行せる臨機応変の処置は、全日本国民の異常に熱心なる支持を得た。幣原外交に極度の不満を抱ける国民は、むしろ感謝に近き歓びをもって陸軍の行動を迎えた。

 満蒙に関する未解決の案件は、大小実に数百件を数える。而して其のほとんど総てが、我が国の正当なる権益の蹂躙、条約の無視、不法なる排日思想によって惹起せられ、日本政府はただ厳重なる行為のみを繰り返して今日に至るものもあるが故に、近年の日万交渉史は、視る目にも惨めな日本外交の降参史である。
 
 国民は漸く此の間の真相を知りはじめた。知ると同時に外交当局に対する信頼を失った。宛も此の時に陸軍が断乎たる行動に出たので、国民は我を忘れて喜んだのである。 
 而も自体は決して楽観を許さない。もしこの問題の解決を、政党内閣の下に現在の外務省に委ねるならば、誰かシベリア出兵乃至山東出兵の二の舞を演ぜぬと断言し得るか。国家は今やまさしく興亡の岐路に立つ。国民は政党の手に此の重大事をゆだねることに大なる不安を感ずる。満蒙問題は真個に国民的解決を必要とする。国民はこの重大なる機会において、自ら満蒙問題を解決の覚悟を抱くと同時に、事茲に至らしめたる国内のの責任者を葬り去る覚悟をも堅めねばならぬ。(大川)
          (『東亜』第四巻第十号、昭和6年10月)


上海に於ける暴行

 満蒙の権益が極力擁護されねばならぬことは言ふまでもない。しかも。国民は一人満蒙においてのみ活動して居るのではなく、わが権益は満蒙以外にも厳存して居る。それ故に権益擁護派は当然支那全土に及ばねばならぬ。現に揚子江流域殊に上海のごときは在留同胞三万を超え、その貿易は満蒙の上に出て居る。

 長江一帯に於ける多年に亘る排日は、その暴戻に於て満蒙に於ける排日よりも甚だしく、権利が侵害せられ、同法は武力せられてきたにかかわらず、未だこれに対して積極的解決を試みなかった。満州の不当なる排日は、軍部の決意によって終息せしめられた。いま上海に於る極端なる排日は、ついに容すべからざる暴動にまで激化した。帝国の権益は、此処にてもまた擁護せられねばならない。国民は満蒙に其の心を奪われて、長江を忘れてはならない。(大川生)
            (『東亜』第五巻第二号、昭和7年2月)


満蒙未だ楽土ならず

 新満州国家 の建設は、満州問題の一段落に相違ないが、決して問題の終局ではない。新満州国の建国宣言とともに、忽然として朔北窮寒の曠野に楽土が出現するかの如く考え、満州問題に関する緊張と覚悟を緩めるならば、聊かでも緩めるならば、やがて大なる落胆を嘗めねばなるまい。

 吾等は『百里の途は九十九里を以て半とす』と言へる古語の真理を、特に満州問題に於て切実に感ずる。昨秋 満州事変 突発してより今日に至るまで、第一線に立てる皇軍は言ふまでもなく、在満民間の同志もまた実に水も洩さぬ連繋を保ちつつ万難に善処しつつ、内に在りては国民がナショナル・ロマンティシズムとも呼ばるべき感情の昂潮を以て、満腔の後援を吝まなかった。それなればこそ内外幾多の障礙を突破して、新国家の建設を見ることが出来のである。

 満州国はとにかくも建設された。而もそれは畢竟名目だけのことで、実は海月なす漂へる国たるに過ぎない。将来の修理固成は、一に日本の扶掖誘導を待つものである。而も日本は能く此の重責に堪へるか。第一線の功労者間に巧名と権力の争ひ生じて結束を破りせぬか。考へ来たりて前途転た憂心に堪へない。
 さり乍ら満州に於ける日本の事業は、実に日本と満州を兼ね済ひ、惹いて東亜全局を救拯する所以なるが故に、吾等は一層覚悟を堅確にし、満蒙の野に流されたる鮮血の犠牲を、断じて空しきものたらしめぬやうに心懸けねばならぬ。(大川生)

            (『東亜』第五巻第四号、昭和7年2月)


大川周明 「南方問題」 (下)

2016-10-30 20:22:29 | 大川周明

 大川 周明    

 南
方問題 

   三  

 斯様に申し上げてきますと、所謂太平洋問題の中で南方問題が
我が日本にとって極めて重大な関係を持って居るということは自ずから明瞭になるだろふと思います。吾々は既に太平洋沿岸地方の一群、東亜方面との密接な経済関係を築き上げて居る。これを更に南方に及ぼしてマレー半島、タイ国、仏領印度、蘭領印度を吾々の生活圏に取り入れるらば、初めてアメリカに対して、若しくは将来できる所の諸大ブロックと対立して、初めて日本国の安定を図ることが可能となるのであります。

 ヨーロッパ戦争の結果を略々明瞭であるといって宜しかろう思ふのであります。
英仏の敗退によりましてた単りヨーロッパの政治体制に大変化を来すのみならず、世界の大植民地帝国である英仏勢力の衰えに随って、全世界に大なる影響を与え、就中その影響が吾々と関係のある太平洋方面にも直ちに波及するのでありますから、南方問題は実に吾々も焦眉の急なのであります。

 第二次ヨーロッパ戦争が起きて英仏勢力が斯くの如く急速に衰へるまでは、南方問題は尚ほ未だ明日の問題であったのでありますが、今はそれが今日の問題、目前の問題となってしまったのであります。
 イギリスはドイツにも負けた場合はどうなるか、また又本国がドイツ軍の為に占領されてもイギリスの飽く迄独逸と戦ひ続けるという場合どうなのか。
 先ず、英本国がドイツにのっとられても戦さをするといふ場合には、何人も考へる如くイギリスは第一にカナダに落ち延びることでありませう。併しカナダに落ち延びることは事実に於いてアメリカの属国になるということであります。名目は独立国であっても、アメリカの勢力下に完全に立つということであります。

 もしイギリスが飽く迄も奮闘するという意図があるならば、カナダに行くよりは恐らく豪州に政府を移すのじゃないかと考へられます。豪州に政治中心を移して、南太平洋並びに印度洋に亘り第二帝国を築く算段をせぬとも限りません。つまりニュージーランド、豪州、ニューギニアを纏める。

 オランダは現在においてイギリスの保護国といって宜しいので、既に経済的には全くイギリスには全くイギリス経済圏の中にあるのでありますが、坤為地の状況に於いオランダは既にイギリスの政治傘下の置かれたたのでありますら、蘭領印度を含めて、其の上出来るならば南亜連邦をも含め、印度洋から南太平洋に亘る第二帝國建設に努力するかもしれぬのであります左様な場合に於いてアメリカは、南太平洋が日本の勢力範囲に帰するよりは、イギリスの勢力範囲に帰した方が有らゆる点において好都合でありますから、全力をあげてこの第二帝国建設に助力を与えるだろうと思ひます。

 

 そうなって来ると、先ほど申し上げた通り、
日英米の勢力均衡によって保られって居った南洋一帯において、
英米協同勢力と日本勢力との対立が起こり、否でも応でも雌雄を決しなければならぬ羽目に陥るのであります。
 もし日本が逡巡して、英米両国が西太平洋、豪州及び蘭領印度に進出してきた後に立ち上がるとすれば、この戦争は日本にとってきわめて不利となります。でありますから日本語は一日も早く国家の方針を決めて、斯様な状態が実現せぬように努力するのは当然であると思ひます。
 若し日本が、英米が斯くの如き積極的な行動を取らぬ前に、早きに臨んで確乎たる地歩を蘭領印度に樹立すれば、英米は自ら諦めざるを得ぬことになるのであります。
 

 アメリカは第一次、第二次、第三次と海軍の大拡張やって他日米戦に備へております。今日では大西洋方面に於いて大なる危険を控えて居るために、西太平洋まで力を用ひることができないのでありませう、あの五十億弗という膨大な軍備拡張が急速に実現された場合は、日本は非常に不利な状態に陥ります。

 凡そ富めると富めざる国とが軍備競争をやる場合には、
日本は非常に不利な状態に陥ります。凡そ富める国と富めざる国とが軍備競争をやる場合には早きに当たって勝負を決した方が宜しいのです。

 これは古今の通則であります。一年経てば一年だけ軍備のギャップが激しくなりまして、富める国は得し、富めざる国は非常に損をするのでありまして、どうしてもやらねばならぬものであるならば、また、日本がアメリカに屈服したくないならば、早く本当の肝を決めって断乎たる態度に出る気でなければならぬと思ひます。日本はその時期に到達して居る。ヨーロッパ戦争が終わぬ裡日本は早く南方対策を確立する必要があるのであります。 

 六月二十九日に有田外務大臣は東亜モンロー主義に関する宣言をしております。この宣言は日本の南方に対する大体の意図を漠然と示したものであります。

 然らばこれはアメリカに対して如何なる反撃を及ぼしたかと申しますと、
それは七月五日に、即ち該声明後一週間を経つてから、アメリカのハル国務長官がドイツのリッペントロップ外務大臣に与えたステートメントの中で、間接にかう言っております。「現に他の地域に於いてモンロー主義と同種のものとして強調されつつあるやに見受けられる政策」――これは有田声明のことでありますが、「それらはモンロー主義の如く自己防衛並びに現存の各国主権の尊重に基礎を置いたものではなく、事実に於いては或る一国が剣をもって他の自由独立の国民を征服し、軍事的勢力と政治的経済的支配とを完成せんとする口実に過ぎないものである」としてアメリカのモンロー主義と日本の東洋モンロー主義とは違うものだいっております

 それでアメリカのモンロー主義は如何なるものかといふと、
「偏へに自己防衛の政策であって、米国諸国の独立の保持を目的とする、即ち米国諸国の西半球への侵略を防止し、西半球の外部よりの政治的体形を包容せんとする如何なる企図も不可能ならしめる」といふのであります。

 是は成程百年以来唱えられたモンロー主義であります。
併しながらこのアメリカのモンロー主義は自己防衛の為に必要であるというならば、東亜に於けるモンロー主義も亦日本の自己防衛の必要上唱へるものでありますから、此の点に於てアメリカのそれと何等本質的の相違はないのであります。これを攻撃するにはアメリカの勝手と言はざるを得ないのであります。

 兎にも角にも今後南方問題に於て日本と当面の衝突を免れざるものはアメリカであります。第二のワシントン会議を開かれて、この衝突を平和に解決するか、又は武力に訴へねばならぬことになるのか、それは逆賭し難いのでありますが、第一第二の会議に於て、この前の会議に於けるあ如くアメリカに屈服するならば、日本の将来は非常に悲観すべきものとならざるを得ないのであります。

 何人も考へるところでありますが、
ヨーロッパ並びにアフリカはドイツを中心とするヨーロッパ・アフリカブロックを建設すると思ひます。その東にソヴィエト・ロシアを中心とした一大ブロックができるのでありませう。南北アメリカは合衆国の指導の下に一大ブロックを作ると思ひます。

 残された太平洋の西岸において日本を中心とする大ブロックが出来なければ、只今申上あげた三つのブロックの間に介在して日本が天壌無窮の国家を保つことは不可能でありますから、この非常な機会を我が日本の指導者達が決して逸してはならぬ。また国民は是非ともこの機会を逸しさせないやうに政府を鞭撻する必要があると思ひます。

 当局の人達に聞いていますと、海戦に於てアメリカに勝てる見込みは十二分にある。イギリスはシンガポールを空っぽにして居る、本国の食料品、軍需品の輸送が一大事であって、まごまごすればイギリス国民は餓死しなければならぬので、本国防衛並びに大西洋を往復する商船隊の保護に海軍力を尽くして居るから、こっちは空っぽであるといふのであります。

 またアメリカの現在の海軍力をアリューシャン群島と、ハワイ、ミッドウエーの線は日本の攻撃に対して守るだけが関の山であって、西太平洋に進出して日本を打つだけの用意は整って居ないと申します。であるから戦争に勝つ自信は有り余るけれども、この戦争は一朝一夕につく勝負でなくて、長い間の日本とアメリカとの経済戦になる。左様な場合に日支事変の片付かぬ今日、更に長期の経済戦に耐えうるかどうかは非常な問題である。 

 それゆえに国内の新しい体制、国民が新しい組織の南進の先決問題である。この組織ができなければ、危うくて積極的行動には出られない。今のところはまず仏領印度支那から徐々に経済的に推進していくが宜しいと、斯う申すのであります。  

 併し私は之について疑問を持っております。
 内地国内の新体制、若しくは国民組織の問題でありますが、如何に体制を整えても、如何なる形式に依って国民を組織しましても、もしこれに魂が入らなければ、あつてもなくても同様であります。

 今日の日本の経済機構、官僚機構、政治機構、これを観念的に考えますと、決して悪いものではない。何処の国のそれに較べても決して劣っていません。それにも拘わらず今日の日本の政治の貧困は何であろうか。これは機構があっても魂が入っておらぬからであります。
 気永に仏領印度支那から経済的発展を試みるなどと呑気なことを言って居ったのでは、仮令どんな立派な体制を机の上に作り出そんな、そして国民をその中に追い込もうが、決して魂が入りませぬ。如何に形式を整へても、本当の魂が入らなければ決して物の役に立ちませぬ。

 日本国民が本当に危急存亡の秋に立つ時、
努力如何によって日本が飛躍的発展を遂げ、惰けば日本が滅びるという初めて緊張し、感激し、初めて一切の気候に魂が入り生きた働きをするのであります。でありますから私は、体制を先にするのは、寧ろ順序を取り違えて居るのではないかと思ひます。

 先ず国家が大決心をして、
国民の根本動向をはっきりと掴んで、国を挙げてそれに向かって突進することによってって初めて新体制に魂が籠り、さうして国力を思う存分発揮することが出来ることになるであらうと思います。私は政治の新体制は寧ろ後で、国家が偉大なる事業に向かって断乎として一歩を踏みだすことが先だと思ふのであります。
       (吉岡永美編『世界の動向と東亜問題』)、生活社、昭和十六年)


大川周明 「南方問題」 (上)

2016-10-28 19:16:39 | 大川周明

    大川 周明 

南方問題

  

 ワシントン会議において、
日本がアメリカに大譲歩したことによって一時危機は取り払われたのであります。ワシントン会議は言ふまでもなく、日本の海軍力を制限し、同時に九カ国条約を結んで志那の領土保全、門戸開放主義を維持する、四カ国協約を結んで太平洋に於ける現状を維持するということを定めたものでありまして、この際日本ではアメリカの要求に応じて海軍力を制限し、東亜大陸並びに太平洋における現状を英米側の言ふがままに承認することによって,一時非常に差し迫った日米間の空気を解消させると思ふのであります。 
 

   


 そういう状態へきておりますが、これを地理的若しくは経済的に分けて考えますと、
凡そ六つに分類できると思ひます。その第一は日本と満州、志那を含む含む所謂東亜大陸地方であります。太平洋に臨む東亜大陸地方であります。その二はフィリッピン、仏領印度、タイ国、マレー半島を含む熱帯気候の一群であります。その次は赤道直下に横はる所の主として蘭領東印度諸島であります。これにニューギニアも含まれております。 


 その次は豪州並びにニュージーランド、第四は北アメリカの太平洋岸、最後には南米の太平洋沿岸であります。これらの諸国と吾が日本との関係をまず経済的に辿ってみますと、第一に満州、志那を含む東亜群であります。 


 これと我が日本とはどういう経済関係になっておるかと申しますと、まず関東州と日本との貿易関係は過去の統計に依れば      総額八億一千八百万円に達します。満州との貿易総額は更に多くて、九億四千二百万円万円、志那との貿易総額は六億七千百万円でありいますから、これを全部あわせますと二十四億三千百万円になっております。


日本の外国貿易は昨年の総額は約六十五億円でありますから二十四億三千百万円と申しますと、実にその三分の一以上に当たっております。


 先程数へあげた太平洋諸国との間の経済関係、
即ち太平洋貿易の名で呼ばれるべきものは四十八億九千万円でありますから、太平洋圏貿易総額の約二分の一は関東州、満州、志那、この東亜大陸群との間に行われておるのであります。でありますから太平洋地方の中で現在の所、この東亜大陸が我が日本と最も密接な関係があるということだけは言ふ迄もないところであります。さうして日本はこの関東州、満州、支那から最も重要な原料を輸入して、製品を多くの国々に輸出して居おるという関係にあることも、また更めて言ふまでもありません。


 その次フィリッピン、仏領印度支那、海峡植民地及びタイ国を含む一体でありますが、この地方と日本との貿易総額は二億二百万円でありまして、最も多く日本がこれらの国から買い取っている鉄と錫と米であります。そうして日本から輸出よるものよりも、向こふから日本に輸出する原料の方が非常に多く、それぞれ二千五百万円程度日本が余計に物を買っております。
 唯タイ国だけは日本からの輸出の約二千六百万円であるのに対して、タイ国から日本に輸入するものは五百万円に過ぎないから、この国だけに対して日本は出超となっております。これは現在の所に於て大なる経済関係がありませぬが、産物は只今申したり鉄と錫と米であって、我が日本に最も重大な関係にあるのでありますから、将来もっとり緊密な関係をむすばねばならぬ事は申すまでもありませぬ。

 殊にこれらの国々に対する日本の輸出が割合に少ないといふのは、
フランスでも、イギリスでも、殊に仏領印度支那においては非常に高い関税を設定し、日本の盛んな輸入を殆ど禁止的に防止しておるからであります。これが一度撤廃されれば日本の製品がこれらの人口の相当多い地方にどんどん流れていく可能性は十二分にあるであります。 


 次に赤道直下による横たわっておるところ蘭領東印度諸島でありますが、ここは日本との貿易総額は約二億一千万円であります。この地方に日本から輸出するものは一億三千八百万円でありまして、日本に輸入するものは七千二百万円、即ち約六千六百万円の出超であります。

 この地方の産物のうち
世界に於いて第一位を占めて居るのはキニーネであります。即ちキニーネの世界の総算学の九十三%は蘭領印度から出るのであります。それからゴムとコプラの産額は、共に世界の第二位を占めて居る。茶、コーヒー、砂糖、すなわち諸嗜好品の産額は世界の第三位を占めて居ります。米は世界の第五位を占めております。それから錫でありますが、これは昨年は非常に産額は少なく、七千四百トンでありますが、それでも世界の第三位を占めて居ります。 


一昨年の産額は丁度その倍額の一万四千トンであった。
石油は七百五十万トン程度であって、これは世界の第 六位を占めております。日本の今日の一年間の石油消費額学はいくらか、正確のところ分かりませんが、四百万トン見当とみてよくはないかと思ひます。独逸の1年間の消費額は七百万トンと言われております。イタリーの消費額は二百万トンと言はれております。
 でありますから蘭領印度の七百五十万トン、英領北ボルネオの百五十万トンをすると約九百万トン、日本の現有石油産額、人口石油その他を合せて百万トンとすれば、南洋の石油が日本の支配下に置かれるならば毎年一千万トンの石油に事欠かずに済むということになるのであります。 


 随って蘭印は日本において最も不足して居る物、
これあるがため日本は常に米国に対して頭を下げなければならぬものを持っておる。同時にアメリカが之なければその産業組織に重大な影響を及ぼす所のゴムを世界に於いて第二位に産出するといふ点に於いて、非常に重大な意義を持っております。アメリカでは南米にゴムの栽培を始めており、又人工ゴムを製造しておりますが、南米におけるゴムの産額は只今のところ僅かに世界の総資産額の二割に過ぎません。
 随って蘭領印度のゴムの輸出がアメリカに対して禁止されるならばアメリカは、如何ともしがたい痛手を受けるのであります。のみならず蘭領印度諸島は軍事的に見ましても非常に重大な意義を有するものであります。 


 地図を見れば一目明瞭でありまする通り、
蘭印一帯はシンガポール、香港、ポート・ダーウイン、この三つの軍港によって囲まれておりまして、謂わば太平おける英米日三国の勢力の緩衝地帯、もしくは南洋に於けるものの英米仏三国の間に介在する中立国の役目を現に勤めて居るのであります。 


 でありますから若しこの地方に於ける三国の勢力均衡が破れて、イギリスの支配下になるか、或いはアメリカン勢力支配下になるか、また日本の勢力支配下になるかによって、西南太平洋全般に亘る勢力の分野では極めて確然として来るのであります。 
 

 日本がここに優越権を確保すれば
それだけ日本の威力であるけれども、若し英米一国、若しは英米協力してここに勢力を確立して日本を追払ふならば、是は日本にとっては実に死活の問題であります。でありますから軍事的に見ましても、この蘭領印度が日本にとって非常に重大な関係があるということを我々ははっきりしておかねばなる。 


 次に第四のものは豪州及びニュージーランドを含むイギリス領でありますが、
ここと日本の貿易総額は一億五千六百万万円でありましても、日本はほんの僅かなものを輸出して、甚だ多くの羊毛を豪州から買って居るのであります。次には北米及びカナダであります。
 ここと日本との貿易総額は実に十七億八千七百万円の巨額に達しているのでありまして、日本はこれらの国に対しては、売るものより買うものの方が遙かに多いのであります。すなわちアメリカからは吾々は三億六千万円余計に買っております。カナダからは一億一千万円余計に買っておるのであります。而もこれらの国々から買ふ所の品物は日本にとって最も大事なものばかりであります。


 例えば綿花、石油、錫、鉄、銅、機械並びに部分品、パルプ、木材、ニッケル、鉛、その他の原料品でありまして、北米並びに体からこれらの物を買わなければ日本の工業が成り立っていたるという立場に置かれているかぎり、日本は英米に対して頭を下げるのも無理もない次第であります。この急所を押えて居るために、アメリカは縷々対日輸出禁止を仄めかして5吾々を威嚇し、実際工業やって居る産業資本家がこの威嚇に震え上って媚態を示そうとするのは、又諒とすべき点がないとも言えないのであります。 


 でありますからをこれらの物をアメリカから買わずに済む算段をすれば、
もしくはアメリカになくてはならぬものを日本が抑えすれば、従来の如く頭を下げずに済むようになるのであります。最後には南米の太平洋沿岸でありますが、この方面の貿易総額は相当に奨励されているにもかかわらず、昨年はわずかに六千万円でありまして、将来と雖もこの方面における経済的発展はさまで有望ではなく、随って日本との関係も薄いということになっております。


           (吉岡永美編『世界の動向と東亜問題』、生活社、昭和16年) 


〔続く〕
大川周明 「南方問題」 (下)

 


大川周明 「満蒙問題の重大性」 (昭和七・六・十五日「月間日本」)

2016-10-28 11:09:08 | 大川周明

  大川周明  

二重の難局に対する覚悟

 満蒙問題の徹底的解決とは他なし
満州と日本を有機的に一体ならしむることである。而して其のためには日本国内の生活組織を改造しなければならぬ。現実の日本は、台湾・朝鮮をさえも其の生活に組織し得ぬ日本である。したがって満州国を見事に消化するが如きは、現実日本の到底企及し得ざるところである。

 満蒙は、しばしば繰返さるるごとく、之を国防の見地からしても、之を経済の点からしても確実に日本の生命線である。この生命線が脅威された故に吾等が敢然として起こってその脅威の本源たる満州軍閥を掃蕩した。満蒙三千万人民衆も多年軍閥の虐政の苦しみを嘗め来れるものなるが故に、この好機に乗じて独立する新国家を建設し、永久に軍閥再興の禍根を立ち去った。

  而して生まれたばかりの新満州国は、
其の補導者として日本の提撕を待っている。満蒙をして日本の生命線たる事を挙げしめるためには、最初に立言せる如く、之を日本の生活に組織化しなければならぬ。そのためには軍事同盟及び経済同盟を結んで、日本と満州国とを有機的に一体ならしめねばならない。

 若し之を能くせずば、満蒙は遂に日本の生命線たり得ざるのみならず、実に朝鮮―従って日本の脅威となる。日清、日露の役は、取りも直さず其のために戦われたのである。それ故に日本は万難を排してこの目的を遂げねばならぬ。 

 然るに日本は、此の目的を遂げる上に於て、
内外二重の障礙に当面している。即ち、満蒙を日本の生活に体系化するためには、必然現在の経済機構と撞着扞格するが故に、之を依持することによって利益を得つつある階級、取りも直さず財閥と而して政党とが、あらゆる妨害を試みるであらう。

 彼らは唯旧式なる植民政策を墨守し、満蒙に対して植民地的搾取を主張するであらう。かくするこは暫くの間だけ彼等のみには利益を与へるであらう。而も其の利益は永続すべくもなく、やがて彼らと日本とを共に破滅に導くであらう。故に吾等は先ず此の敵と戦ひ、日本の経済機構改造して、内には国民の多数を彼等の搾取より救ひ、外には満蒙の国民的消化を可能ならしめねばならぬ。

 第二の障礙は国外より迫る。
それは日本の隆興を喜ばざる列強が、若し日本にして満蒙の勃興きわめて可能なるを信ずるが故に、極力その進出を阻止せんとしつつあるが故である。
 イギリスは、恰も戦前のドイツが新興工業国として台頭せるに対すると同様の警戒と嫌悪とを吾国に対して抱いて居る。日本の発展を妨げるとするイギリスの外交政策は、リットン卿が旅先で機嫌を良くすると悪くするとに関せず、一貫不変である。アメリカの対日政策が甚だしく非友好的のものなることは言ふまでもない。

 而してロシアは、日本の満蒙進出によって、その太平洋政策の根底を覆へされることを恐れ、戦争までに至らざる程度に於て、即ち出先官憲に責任を帯びさせ得る範囲に於て、吾国の満州政策を極力防止するであらう。

 列強は虎視眈々と常に乗ずべき機会を覗って居る。此の内外の国難は、同時に迫りつつあり、また同時に解決せらるべきものである。吾等は日本の今日が、真に文字通り「非常時」なることを明確に認識し、これに処するの覚悟を一層堅固ならしめねばならぬ。
     (昭和七・五・十五日「月間日本」)

 

満蒙問題の重大性 
 満蒙問題は今や空前の重大性を帯びてきた。
外、国際的圧迫が非常の勢いを以て加はらんとするに先立ち、内、満州新国家そのものが動揺不安の状態に陥り、建設の歩みよりも崩壊の歩みが急速に進みつつあるかに思はれる。若し形成がこのままに推移するならば、誰が今度の満州事件がまたもや「シベリア出兵」乃至は「山東出兵」の轍を踏まぬと断言し得やう。

 満州問題の適切なる解決は今や日本を内外の難局より救ふ無二無三の途となって居る。従って其の解決の成否は直ちに国家の運命そのものに影響する。若し満州を失ふ如きことあらば、吾国はロシア・支那・アメリカ三国に圧迫せられ、列強の限りなき軽侮を満身に浴びつつ、永久に浮かぶ瀬もなき小国として、恰もベルギーがヨーロッパに於て占むるが如き憐れなる地位を、かろうじて極東の一角に保ち得るにすぎぬこととなるであらう。それは断じて吾等の忍び得るところではない。

 国民は満州問題の解決が如何に非常の努力を必要とするかを十分に知って居ない。
吾等は日露戦争に於て、実に三十億の国帑を費やし、三十万の生霊を犠牲にして、僅かに満鉄と関東州の租借権とを獲得した。然るに今日は、自国に二倍する広大なる満州全土に亘りて、その治安を維持し、その統治に助力し、その資源を開発し、三千万の住民に幸福と安寧を与えつつ、満州新政府と協力して、一個の楽土を実現とするのである。それは非常の事業である。
 これによって得らるべき結果は、日露戦争のそれに数倍する偉大なるものである。以上の確認をとることなくしては、この大業は成就することは考ふべくもない。

 然るに国民は、大業のために、
日露戦争にあらゆる努力と犠牲の十分の一をさえ払はうとしない。単に之を経費の点だけについて見るも、日露戦争当時の二十億円は、恐らく今日の六十億円乃至八十億円に相当するであらう。
 当時の国富と国民所得を以てしても、君国のための屹度必要であると覚悟すれば、其れ程の無理算段も出来たのだ。それであるのに今日は、満州問題のために費やされた軍事費以外、一億の金さえも出そうとしない。

 嘗て予の談話筆記が某雑誌に発表されたが、
そのうちに予が満州開発のためには、三十億円以上の資金を投ぜねばならぬと言へるに対し日本論壇の雄として日頃尊敬して居る
若宮卯之助翁さへ、極めて冷笑的なる批評を加へたことがある。其他の人々の見識押して知るべしと言わねばならぬ。

 日本の国富は、内閣統計局の調査で大正十三年末に約一千億円、これは今日と雖も減じて居る筈がない。国民所得は大正十四年に約百三十億円と推算されて居り、これは若干の減収ありとするも、尚百億円内外と見て宜しからう。三年間に三十億円を支出するとすれば、国民所得の一割に四か当たらない。これをソヴェート・ロシアが国民所得の四割を取立てて五か年計画の遂行に充当しつつあるのに比ぶれば毫も驚くに足らない。

 日露戦争によって得たものより、
幾層倍も偉大な結果を収めるのに、その十分の一にも足らぬ努力で目的を達しうるかの如く考えて居ることが、実に満州問題に対する吾国の根本的なる心得違いである。左様なことは決して有り得べからざることである。

 個人と言わず民族と言わず、努力と犠牲の大小に応じて収穫にも大小がある。言ふに足らぬ努力と犠牲を以て、莫大なる結果を掴もうとするが如きは、天人倶に許さぬところである。日本は直ちに此の根本的なる心得違いを改め、日露戦争以上の緊張と覚悟を以て、満州問題の解決にあたらねばならぬ。

 この問題の徹底せる解決のみが、能く日本を当面の経済的窮境より脱却せしめ、能く天業を恢弘する基礎を築くことを得せしめる。国民の金鉄の如き決意を要求する所以である。

                            (昭和七・六・十五日「月間日本」)


大川周明 「日本的言行」 第八 軍人と政治家よりの教訓

2016-10-23 19:38:13 | 大川周明

大川周明 「日本的言行」 
 第八 軍人と政治家よりの教訓



一 武門政治の国家的寄与
 
 頼朝以来七百年年、武士軍人と政治家を兼ねて来たのであります。いわゆる部門政治とは、全国にわたり、恒久的に戒厳令を布きながら、攻城精神を以て国民を治めたのであります。従って其の『官庁』はすなわち『城』であり、その『官吏』が『武家』であったのであります。

 徳川時代における町奉行、勘定奉行のごときは、今日の警察官などに比ぶべきものでなく、むしろ憲兵司令官や主計官に比ぶべきものであります。而して当時の武家は、各々その藩主に分属し、藩主のために戦うことを以て義務とセルが故に、公の為に生死すべき生命を有して、私の為に生死すべき生命を有たなかった野であります。

  さればこそ、徳川家康の好敵手として最後まで彼と戦へる石田三成は、常に『武士は君主から受ける物を残してはならぬ、これを残すものす者は盗人であり、使ひ過ごして借金する者は愚者である』と言って居た。これは武士の原則が原則として君主の倉庫を有して自家の倉庫を有すべからざることを力説したものです。
 まことに武士の生活は、武士全体の生活と分かつべからず一体をなし、一藩の武士は、悉く其の利己放縦の『私』を棄てて、秩序峻厳の『公』に帰一し、かくして実現せられたる統一組織の力を以て、内は藩民を治め、外は他藩に備えたのである。 
 

 この統制ある共同生活が、日本民族に寄与したる精神的訓練の価値は、実に非常なるものがあります。武士に愛藩の念が盛んであったのは、彼らが『全体』を尚び『統一』を重んじたる精神を示せるものであります。
 それ故に他日彼等が日本国の位置を知るに及んで、この精神を日本国民に拡充し、その藩を愛する心を以て此国を愛し君公に捨てる生命を天皇に献げたのであります。若し我国に藩なるものなく、藩の共同生活なく、武士的訓練なかったなrば、恐らく公戦に勇にして愛国の情に濃かなる日本民族を見ることが出来なかったと思はれます。
 

 徳川幕府を倒した維新政治家は、政治の範を訪米に採り、欧米の制度にならって近代国家を組織することに努力したのであります。これを当然至極の行程で、もとより一点非難すべきところがありませぬ。
 ただ当時の政治家が、仮令止むなき騎虎の勢ひなりしと言へ、旧日本の政治的伝統に殆ど一顧盻だに与へず、旧藩の政治は徳川の政治なりとして、悉く之を打倒しやうとした事、並に欧米の組織制度を採用すれば、直ちに欧米に於けると同様の成績を挙げ得るもののやうに考へたことは、之を今日より顧れば明白に失策であったとは申さねばなりませぬ。

 

二 軍人と政治家との分化 
 明治維新と共に先ず軍人と政治家とが分化したものであります。これを固より当然のことであります。而して 明治日本の軍人は、ヨーロッパの軍制を採用しながらも、単なる兵略戦術以外に日本の武人としての精神的鍛練を重んじ、武士道の本領を護持するために非常なる苦心を払って居ります。
 そは全力挙げてヨーロッパの組織を取り入れ、且つ其の科学を利用したものであります。

 ヨーロッパの最も著しき特徴は、実に組織と科学との二つに外ならぬのであります。而して此等の二つを学ぶことに於て、軍人の如く徹底果敢也氏物は他に在りませぬ。それにも拘らず軍人はその精神に於いて飽迄も日本の武士たることに心懸けたのであります。
 日本軍隊の武勇は、疑いもなく此点に由来するのであります。今や軍人の間にも世間の指弾を受ける将軍を出だし、軍隊について幾多非難の声を聴くけれど、之を全体として見るときには、軍人並びに軍隊は今日といへども吾国の如何なる他の階級よりも遙かに堅実であります。

 

三 現代政治の堕落 
 然るに政治家の場合は軍人の如くでなかった。政治家も武士の分身でありましたが、武士道うぇおば軍人にのみ委ね明治維新に武士が必ず心懸けねばならなかった為政者としての人格的鍛練を放棄したのであります。
 而して世間もまた政治捲に対して特別なる、道徳的要求を有たなかったのであります。従って事務の才幹あり、法律制度通じて居りさえすれば、誰でも政治家となり得るもののように考え、ついには『政治とは策略のことだ』とさえ信こうぜられるようになったのであります。

 今、仮に軍人が収賄又は贈賄の嫌疑を受け、または之によって刑に処せられれたとすれば、如何に名称の器であろうとも、其人は帝国の陸海軍から葬り去らなければなりません。然るに政治家の場合は、殆ど左様の心配がない。

 巧に悪銭を捲上げることが、却って政治家の誉れある腕とされて居るのであります。さり乍斯様な政治家が政治の局に当たっていては、国民は安堵し得るものではありませぬ。孟子が『君子なくんば以て治まるなし』と申したことは、少なくとも少なくとも東洋に於ては千古不磨の政治的真理であります。
 日本国民は欧米人と違って、外面的制度に従って、器械的又は自治的に行動することに慣れて居りませぬ。言換へれば道徳と政治を明確に分離させて居ないのであります。

 従ってきた合理性と訴えたからという、自動的に立派な政治家が行われ、立派な国家が実現するようなことは思ひも寄らぬ話であります。その利害得失は兎もあれ、ひとり日本と言はず東洋諸国に於ては、荀子が申したやうに『治人』ありて『治法』なしと言ふことが出来ます。

 治人ありて治法なしとは、政治上に於ても最も重んずべきものは政治家の人格であって、決して法律や制度ではないといふ意味であります。そはヨーロッパにおける『治人』よりも『治法』を重んずる思想と鮮明なる樹立をなしております。然るに其のヨーロッパに於いてさへ、高貴なる品性が政治家の重要なる資格とされて居るのに、日本では殆ど此事がないのであります。

 

四 政治家としての鍛練
 旧幕時代の武士は、必ず経史の学を修むべきものとなって居ました。経学は宇宙人と人生とを教へる哲学であり、史学は治乱興亡の跡より帰納演釈したる政治学であります。昔の武士は是くの如き素養を以て政治の実際に当たらうとしたのであります。然るに今日の吾が国の政治家は、稀有の例外を除けば、想ひを形而上の学問に潜め、心を道念の長養に凝らすといふようなことが有りませぬ。

 当代第一流の政治家諸公、打見たるところ多くは会社の重役たるに適はしいけれども、君国の大臣樽の徳を具えて居りませぬ。而も今日の国家生活における諸社会現象は、実は複雑多端を極めております。此の複雑多岐なる現象に当面して、よく全体的判断を下し得るものでなければ、真個の政治家たる資格は断じてないのであります。

 而して其の全体的判断の主たる要素を構成するものは、事務的判断でなく、広義における道義的判断であります。これは精神的鍛練を経たる者のみが能くするところであります。政治家は哲人でなければならぬとは、名高きプラトンの主張でありますが、プラトンを待つまでもなく、東洋思想は古来厳正に政治家に対し、哲人の要素を要求して居るのであります。

 わたくしは現代日本の政治的堕落に、いろいろの原因を認めまするがそのも最も根本的なるものして、政治家が精神的鍛練を軽視し、世間もまた之を求めなかった一事を挙げたいのであります。
 私は軍人と政治家と比較し、殊にこの感を深くするものであります。

 等しく欧米の制度を採用しながら、軍隊は世界に誇る精鋭無比のものとなり、政治は恥ずべき腐敗堕落を極めて居る。両者の由って岐るるところ実に日本的自覚の有無強弱にあります。吾々の深く省みなければならぬことと存じます。





大川周明 「日本的言行」 第二 洋意の出離 四 現代改造論に潜む洋意

2016-10-21 14:09:15 | 大川周明

大川周明 「日本的言行」 
 第二 洋意の出離 

 四 現代改造論に潜む洋意 

 然るに世界戦は、
これまで自他ともに唯一無上なるかの如く考へし欧米文明が、その幾多の欠陥を明らさまに様に暴露した。かくて西洋人自身が彼らの誇れる文明について反省しは始めたのであります。彼は自己の文明が果たして正しき文明であるか、果たして人間を社会的には幸福ならしめ、道徳的には健全ならしむる文明であるかについて、深刻なる疑問を抱くに至った。
 

 世界戦後に公にせられる英独仏の学者の著書にして、近代欧羅巴文明の末路を説き、その結果を指摘するものが、寡聞予の如き者の目に通せるだけでも六七種を数へます。就中シュペングラーの『西洋の没落』は、非常なる刺戟を思想界に与えた。ベンジャミン・キッドの『力の学』も、また近代欧羅巴文明の非を挙げて新しき進路を指示せるものであります。 

 かくの如く欧米人自身が近代文明の価値を否定し始めたために、日本の知識階級の間にも漸く洋意を出離せんとする者が現はるるに至りしは、当然でありながら喜ぶべき傾向とせねばなりませぬ。而も現在に於いては、是くの如きは尚未だ一個の兆候に止まり、思想界の大勢は依然として欧米追従を事としております。 

 西洋崇拝が国民の『心の地』となり居る証拠は、
まず先ず改造論に現れております。社会改造の思想は、世界戦の最も重大なる所産の一つであり、苟も文化の花咲くところ、総じて改造運動を見ざる無きに至った。そは旧きものが旧きままに存続し得ざる時代に到達したるものなるが故に、改造運動の起こるは当然至極と言はねばなりませぬ。日本もまた一切の方面において改造を必要とします。従って改造論が唱えられ、改造運動が台頭しくることに何の不思議もありませぬ。

 唯だ吾等の最も遺憾とするところは、
今日の改造論が概ね欧羅巴に行われたる改造を日本において模倣せんとするものに過ぎざることであります。或る者はロシアを模倣しようとして無我夢中である。或る者はイタリーを模倣しようとして和製黒シャツ組を造ろうとする。その実現せんとする理想、これを実践する手段、乃至改造を叫ぶ動機は、両者の間に白雲万里の懸隔あるとは言へ、異邦に倣わんとする一点に於ては全く同一であります。或る者は純乎たる理論に立脚して日本を改造すべしと主張します。而もその理論なるものを点検し来れば、ついに欧羅巴の経済学、政治学、社会学的議論の埒外を出でず、まさしく西洋的論理と呼ばるべきものであります。
 

 吾等の信ずるところによれば、
改造の原理は之を内に求むべくして外に求むべきものでない。それ故に日本の改造とは取りもなおさず純乎として純なる日本に復帰することであります。日本国家は天地と共に無限なるべき荘厳なる生命である。

 此の国家に於て改造を必要とするに至るは、内外幾多の事情によって、国家的生命のうちに潜む善なるものの力弱り、悪なるものが横行跋扈来りて本来の面目を蔽ひ去る故に他なりませぬ。故に日本の改造は、この生命の奥底より善なるものを復帰し来り、之によって現に横行する悪を折伏し、かくして純正なる日本を改造すること以外にある筈がありません。 

 今日の吾が国の改造論者は、
日本の悪を認めることに於て正しくして鋭い。まことに現代日本は、政治界でも、実業家界にも、教育界にも、宗教界にも、決して此の侭には捨て置かるべくもなき幾多の悪が横行して於ります。
 

 吾等は此悪を責むることに於て、
一切の改造論者と共に鼓を鳴らすものであります。さり乍ら吾等は、彼等の如く他国の善なるを借り来りて此悪と戦はうと思はない。吾等の善は、之を外に求めずして内に求めなければなりませぬ。吾等が日本的生命の裡に美なるものを把握し、之によって現前の悪を打倒しなければなりませぬ。かくしてのみ真個の改造が可能であります。此の精神によって、然る後に他国の長を採るは可い。本末主客の顛倒は許されるべくもない。



大川周明 「日本的言行」 第二 洋意の出離 三 知識階級の欧米崇拝

2016-10-20 22:27:51 | 大川周明

大川周明 「日本的言行」
第二 洋意の出離 


三 知識階級の欧米崇拝

 日本は明治政府の努力により、
とにもかくにも欧羅巴が其の実現のために三世紀を要せる文明を僅々半世紀の間に習得しました。それは或いは皮相を学びて骨肉に達しないとも言へるでありませう。さり乍ら少なくとも当座の役に立つまでに欧米文明を学び得たことだけは事実であります。かくて先ず日清戦争に勝ちて世界諸国と対等の地位を占め、次で日露戦争に勝ちて、一躍強国の班に入り、更に世界戦争に僥倖して世界三大強国の一つとなりえたのであります。是くの如き国際的躍進は、主として西洋文明の摂取によると考へ来れば、国民の間に欧米崇拝の念が高まるのをまた当然至極と言わねばなりませぬ。
 

 加ふるに明治初年には 
政府当局こそ崇拝の旗頭であったとは言へ、国民は地方の老先生から日本的乃至東洋的精神を鼓吹されて居た。しかるに今や大学又は師範学校において、西欧至上主義の教育を受けたる教師が次第に其数を増してきたのであります。此等の新しき教師が老先生に代わって国民を教育するに及び、西洋崇拝の傾向は全国的となった。教育を受けた者ほど、欧米崇拝の度が高くなった。この新興知識階級は欧米のものは『欧米のものは皆善し』と思ふようになってきたのであります。
 

 私自身の経験に顧みましても、
私の中学時代に於いて国語漢文の教師は、常に英語講師よりも重んぜられなかつた。英語の授業時間は他の学科に比して法外に多かった。高等学校時代に於いても、英語語学の時間が殆ど自余一切の科目の時間と指摘するほどであった。英独の最も通俗低級の雑誌でさえ、恰も英独文学の研究なるが如く同窓に語り得る有様であったのであります。

 当時私は主として哲学宗教に関する書籍を貪り読んで居たのでありまが、其頃の哲学者思想家かと言われし諸先輩は、概ね力を欧米思想の紹介祖述に傾け、日本思想に関する学術的論文の如きは、絶えてなく無くして稀に存在に過ぎなかったのであります。其等の学者の総てを包む雰囲気は、恰も徳川時代の儒者が志那を尚美タルト同じック、西欧殊に独逸哲学に対する崇拝の念であったのであります。
 


 私は今日尚ほ明瞭に記憶しております。
井上哲次郎博士の著書に、徳川時代の儒者の思想を紹介せる3冊の本があります。博士は其本の中で、西洋哲学者の名には、『氏』を附けてソクラテス氏、スピノザ氏、カント氏、ヘーゲル氏などと呼び、日本の儒者には伊藤仁斎、山鹿素行、荻生徂徠などと総て呼捨てにしております。
 また日本の学者の思想を批判するのに、例えば徂徠の政治論はポップス氏の思想に似ている。其れだから偉い。仁斎の理気一元論はパウルゼン氏の精力説に似ている。其れだから偉いという風に、すべて西洋思想が判断の標準にとなって居ます。井上博士の名は、今日の青年に対してこそ何の権威もないが、私の青年時代には異軒先生と言へば哲学界の第一人者として重んぜられて居たのであります。


 その学者の態度が既に是区の如しとすれば、吾々青年が真理は横文字の中にのみ薄めるかの如くに考えたのであります。その学者の態度が既に是くの如しとすれば、吾々青年が真理は横文字の中にのみ薄めるかの如くに考えたことも、また無理ならぬ始末であります。 

 かような次第でありますから、わたくしの学生時代には、
東洋殊に日本思想を叙述せるものに真個学術的の名に値する著書がなかった。私の知る限りに於ては、村岡典嗣氏の『本井宣長』を唯一の除外例とし、其他は説明して核心に触れず、叙述して体系を成さず。唯西洋哲学に倣って形式的に組織を立てた古人の著書より抜抄せる章句を之に従って羅列しただけの物であった。井上博士の諸著の如き、当時に於て異類出色の物でありましたが、遂に此例に洩れなかったのであります。


 私は哲学を学ぶ者の義務として、
一応は諸著を渉猟しましたけれど、私の若き魂は殆ど何等の感激をも之によって与えられなかったのであります。
 

 加ふる当時の吾国の万国史、又は十八史略に比すべき日本史がなかった。その学術的価値はもとより論外でありますが、パーレーの万国史は小説を読む興味を以て之読了させる魅力を有し、十八史略に至っては少年をして血湧き肉躍らしめるに足るものがあります。然るに私は日本史にかような著作を探り得なかった。

 竹腰与三郎氏の『二千五百年史』は 稀有の好著でありますけれども、青少年の読み物としては大部過ぎて居ります。其他のものは徒に考証に追われし専門家にのみ必要なる史書か、然らずば政治的事件の箇条書きに類し、唯地名人名年代の羅列をもって若き記憶を苦しめる教科書的の国史のみでありました。

 この国民全般の好読物たるべき日本史なかりしことも多くの青年をして日本其者に無関心たらしめた一因と存じます。かくて日本の知識階級は専ら欧米の思想文明を謳歌して来たのであります。 

 私は最近『国史回顧会』に於ける三上文学博士の講演筆記を読みまして、
実に驚くべきことを知り得たのであります。博士の講演によれば明治十六年に大学予備門で、一週一時間新井白石の読史余論を教科書に用ゐまで高等学校程度の学校に於て国史を教へなかったということであり、而も此時に国史を教えるようになったのも、一独逸人教師の忠告によれるものだといふことであります。 
 

 博士の講演は、右の外にも明治初年の教育に関する大切なる事柄を述べて居られますから、前節と重複の嫌いもありますが、其の一部を特に下に引用させて戴きます。 


 『然るに王政復古の我が国の政治は
御承知の通り攘夷の時代から急転直下して外人崇拝時代となりました。これは攘夷といふ事に裏面の意味のあったにも由りますが、要するに既に国是を一変して世界の列国と交際し其文物制度を採用することになったからであります。即ち五箇条の御誓文の一に広く知識を世界に求めらるる意味のことが仰せられてあるのであります。
 ただ維新政府のなす所を見れば、余りに外国の文物制度を採用するに急にして、自国のものは、一概に因循なり固陋なりとして排斥し過ぎたのであります。吾国古来の文化にも到底他国の追随し得べからざる程の長所もあり美点もあることを忘れて之を排斥せんとした傾きが多いのであります。


 私一個の経験に就いて申すことは如何でありますが、
私が小学校の生徒であった時からこのかたさながら亜米利加の児童として明治政府から教育せられたものであります。小学校の初めに『イト』『イヌ』『イカリ』等の単語図を学び、続いて連語図を学んだのでありまが、其文句は『神は天地の主宰にして人は万物の霊長なり』『酒と煙草は衛生に害あり』等から学んだのであります。酒と煙草は衛生に害ありは其通りで少しも変なことはありませんが、其神というのは『ゴッド』の直訳であったと云ふことを後で承ったのであります。


 それから修身書を学びましたが、
其教科書は亜米利加のウエーランドの著したものの翻訳書であって無論基督教主義の徳育でありました。歴史を学べば小学校の初めから外国歴史であって、日本歴史は教へては貰はなかった。地理を学べばミッチェル氏世界地理書で日本に関することは一ページか二ページより書いてなかったと思ひます。中学以上に於ては英語の教科書を多く用いましたから一層外国の少年らしく教えられたのです。


 大学予備門即ち後の高等学校に於て
明治十六年に初めて一週に一時間新井白石の独史余論を教科書として国史を教へられましたが、これが高等学校程度の学校に於て国史を教えられた嚆矢であります。それをドイツ語のお雇教師グロート氏が、予備門長杉浦重剛さんに向かって各国共此程度の学校にては其国の歴史を授くるものであるに、此学校にはそれがないのは甚だ不思議であると注意したので予備門長も成程と思はれ、
 そこで私共のクラスから国史を置かれたのであります。
 予備門長がかの国粋主義の杉浦さんであったからこそ早速グロート氏の忠告を容れられたのでありましたが、若し滔々たる其当時の人々であったならば、其の忠告も或は容易に受入れられなかったであろうと思ひます。 
 

 併し私共は他の一面から観れば、
小学校より帰り途に漢学の先生位の所に立ち寄って国史略、日本外史、十八史略、大学、論語、等を教へられましたので、政府の手に由っては亜米利加児童らしく教育せられましたけれども、幸に私塾で所謂はば補習教育によって日本人らしい教育を受けたのであります。私共より稍後れたる或る時代の人は学校に於ても国史及び之に近い学科の教育を受くること少なく、私塾に於ても右の如き補修の教育を受けなかった場合が頗る多いのであります。

 明治天皇も早くより教育上の此欠陥を御軫念あらせられまして、
外国の知識は必要である。然しながら自国のことを疎かにしては相成らぬ、教育には本と末の区別のあるべきことの御趣旨のことを毎々仰せられたのであります。
 斯様な本末を顛倒した教育を受けた国民が間違った思想、間違った感情を懐くやうになるのは誠にやむを得ないことであります。今日朝野共に憂ふる所の思想問題の由って来る所も、世界大戦後の人心の変動を初めとして原因はいろいろありますが、一つは斯様な頗る変わった教育を受けて、思想的伝染に罹り易い身体になって居ったに由るとも思ひます』



大川周明 日本的言行 第二 洋意の出離 三 知識階級の欧米崇拝

2016-10-20 22:27:33 | 大川周明

大川周明 日本的言行 

第二 洋意の出離 

三 知識階級の欧米崇拝

 日本は明治政府の努力により、とにもかくにも欧羅巴が其の実現のために三世紀を要せる文明を僅々半世紀の間に習得しました。それは或いは皮相を学びて骨肉に達しないとも言へるでありませう。さり乍ら少なくとも当座の役に立つまでに欧米文明を学び得たことだけは事実であります。かくて先ず日清戦争に勝ちて世界諸国と対等の地位を占め、次で日露戦争に勝ちて、一躍強国の班に入り、更に世界戦争に僥倖して世界三大強国の一つとなりえたのであります。是くの如き国際的躍進は、主として西洋文明の摂取によると考へ来れば、国民の間に欧米崇拝の念が高まるのをまた当然至極と言わねばなりませぬ。

 

 加ふるに明治初年には政府当局こそ崇拝の旗頭であったとは言へ、国民は地方の老先生から日本的乃至東洋的精神を鼓吹されて居た。しかるに今や大学又は師範学校において、西欧至上主義の教育を受けたる教師が次第に其数を増してきたのであります。此等の新しき教師が老先生に代わって国民を教育するに及び、西洋崇拝の傾向は全国的となった。教育を受けた者ほど、欧米崇拝の度が高くなった。この新興知識階級は欧米のものは『欧米のものは皆善し』と思ふようになってきたのであります。

 

 私自身の経験に顧みましても、私の中学時代に於いて国語漢文の教師は、常に英語講師よりも重んぜられなかつた。英語の授業時間は他の学科に比して法外に多かった。高等学校時代に於いても、英語語学の時間が殆ど自余一切の科目の時間と指摘するほどであった。英独の最も通俗低級の雑誌でさえ、恰も英独文学の研究なるが如く同窓に語り得る有様であったのであります。当時私は主として哲学宗教に関する書籍を貪り読んで居たのでありまが、其頃の哲学者思想家かと言われし諸先輩は、概ね力を欧米思想の紹介祖述に傾け、日本思想に関する学術的論文の如きは、絶えてなく無くして稀に存在に過ぎなかったのであります。其等の学者の総てを包む雰囲気は、恰も徳川時代の儒者が志那を尚美タルト同じック、西欧殊に独逸哲学に対する崇拝の念であったのであります。

 

 私は今日尚ほ明瞭に記憶しております。井上哲次郎博士の著書に、徳川時代の儒者の思想を紹介せる3冊の本があります。博士は其本の中で、西洋哲学者の名には、『氏』を附けてソクラテス氏、スピノザ氏、カント氏、ヘーゲル氏などと呼び、日本の儒者には伊藤仁斎、山鹿素行、荻生徂徠などと総て呼捨てにしております。また日本の学者の思想を批判するのに、例えば徂徠の政治論はポップス氏の思想に似ている。其れだから偉い。仁斎の理気一元論はパウルゼン氏の精力説に似ている。其れだから偉いという風に、すべて西洋思想が判断の標準にとなって居ます。井上博士の名は、今日の青年に対してこそ何の権威もないが、私の青年時代には異軒先生と言へば哲学界の第一人者として重んぜられて居たのであります。

 その学者の態度が既に是区の如しとすれば、吾々青年が真理は横文字の中にのみ薄めるかの如くに考えたのであります。その学者の態度が既に是くの如しとすれば、吾々青年が真理は横文字の中にのみ薄めるかの如くに考えたことも、また無理ならぬ始末であります。 

 

 かような次第でありますから、わたくしの学生時代には、東洋殊に日本思想を叙述せるものに真個学術的の名に値する著書がなかった。私の知る限りに於ては、村岡典嗣氏の『本井宣長』を唯一の除外例とし、其他は説明して核心に触れず、叙述して体系を成さず。唯西洋哲学に倣って形式的に組織を立てた古人の著書より抜抄せる章句を之に従って羅列しただけの物であった。井上博士の諸著の如き、当時に於て異類出色の物でありましたが、遂に此例に洩れなかったのであります。

 私は哲学を学ぶ者の義務として、一応は諸著を渉猟しましたけれど、私の若き魂は殆ど何等の感激をも之によって与えられなかったのであります。

 

 加ふる当時の吾国の万国史、又は十八史略に比すべき日本史がなかった。その学術的価値はもとより論外でありますが、パーレーの万国史は小説を読む興味を以て之読了させる魅力を有し、十八史略に至っては少年をして血湧き肉躍らしめるに足るものがあります。然るに私は日本史にかような著作を探り得なかった。竹腰与三郎氏の『二千五百年史』は 稀有の好著でありますけれども、青少年の読み物としては大部過ぎて居ります。其他のものは徒に考証に追われし専門家にのみ必要なる史書か、然らずば政治的事件の箇条書きに類し、唯地名人名年代の羅列をもって若き記憶を苦しめる教科書的の国史のみでありました。

 この国民全般の好読物たるべき日本史なかりしことも多くの青年をして日本其者に無関心たらしめた一因と存じます。かくて日本の知識階級は専ら欧米の思想文明を謳歌して来たのであります。

 

 私は最近『国史回顧会』に於ける三上文学博士の講演筆記を読みまして、実に驚くべきことを知り得たのであります。博士の講演によれば明治十六年に大学予備門で、一週一時間新井白石の読史余論を教科書に用ゐまで高等学校程度の学校に於て国史を教へなかったということであり、而も此時に国史を教えるようになったのも、一独逸人教師の忠告によれるものだといふことであります。 

 

 博士の講演は、右の外にも明治初年の教育に関する大切なる事柄を述べて居られますから、前節と重複の嫌いもありますが、其の一部を特に下に引用させて戴きます。

 

『然るに王政復古の我が国の政治は御承知の通り攘夷の時代から急転直下して外人崇拝時代となりました。これは攘夷といふ事に裏面の意味のあったにも由りますが、要するに既に国是を一変して世界の列国と交際し其文物制度を採用することになったからであります。即ち五箇条の御誓文の一に広く知識を世界に求めらるる意味のことが仰せられてあるのであります。ただ維新政府のなす所を見れば、余りに外国の文物制度を採用するに急にして、自国のものは、一概に因循なり固陋なりとして排斥し過ぎたのであります。吾国古来の文化にも到底他国の追随し得べからざる程の長所もあり美点もあることを忘れて之を排斥せんとした傾きが多いのであります。

 私一個の経験に就いて申すことは如何でありますが、私が小学校の生徒であった時からこのかたさながら亜米利加の児童として明治政府から教育せられたものであります。小学校の初めに『イト』『イヌ』『イカリ』等の単語図を学び、続いて連語図を学んだのでありまが、其文句は『神は天地の主宰にして人は万物の霊長なり』『酒と煙草は衛生に害あり』等から学んだのであります。酒と煙草は衛生に害ありは其通りで少しも変なことはありませんが、其神というのは『ゴッド』の直訳であったと云ふことを後で承ったのであります。

 それから修身書を学びましたが、其教科書は亜米利加のウエーランドの著したものの翻訳書であって無論基督教主義の徳育でありました。歴史を学べば小学校の初めから外国歴史であって、日本歴史は教へては貰はなかった。地理を学べばミッチェル氏世界地理書で日本に関することは一ページか二ページより書いてなかったと思ひます。中学以上に於ては英語の教科書を多く用いましたから一層外国の少年らしく教えられたのです。

 大学予備門即ち後の高等学校に於て明治十六年に初めて一週に一時間新井白石の独史余論を教科書として国史を教へられましたが、これが高等学校程度の学校に於て国史を教えられた嚆矢であります。それをドイツ語のお雇教師グロート氏が、予備門長杉浦重剛さんに向かって各国共此程度の学校にては其国の歴史を授くるものであるに、此学校にはそれがないのは甚だ不思議であると注意したので予備門長も成程と思はれ、そこで私共のクラスから国史を置かれたのであります。予備門長がかの国粋主義の杉浦さんであったからこそ早速グロート氏の忠告を容れられたのでありましたが、若し滔々たる其当時の人々であったならば、其の忠告も或は容易に受入れられなかったであろうと思ひます。 

 

 併し私共は他の一面から観れば、小学校より帰り途に漢学の先生位の所に立ち寄って国史略、日本外史、十八史略、大学、論語、等を教へられましたので、政府の手に由っては亜米利加児童らしく教育せられましたけれども、幸に私塾で所謂はば補習教育によって日本人らしい教育を受けたのであります。私共より稍後れたる或る時代の人は学校に於ても国史及び之に近い学科の教育を受くること少なく、私塾に於ても右の如き補修の教育を受けなかった場合が頗る多いのであります。

 明治天皇も早くより教育上の此欠陥を御軫念あらせられまして、外国の知識は必要である。然しながら自国のことを疎かにしては相成らぬ、教育には本と末の区別のあるべきことの御趣旨のことを毎々仰せられたのであります。斯様な本末を顛倒した教育を受けた国民が間違った思想、間違った感情を懐くやうになるのは誠にやむを得ないことであります。今日朝野共に憂ふる所の思想問題の由って来る所も、世界大戦後の人心の変動を初めとして原因はいろいろありますが、一つは斯様な頗る変わった教育を受けて、思想的伝染に罹り易い身体になって居ったに由るとも思ひます』



大川周明 [日本的言行] 第二 洋意の出離 ニ 明治日本の欧化主義

2016-10-19 10:11:33 | 大川周明

                              大川周明 --ウィキペディア   

大川周明「日本的言行」 

第二 洋意の出離 


二 明治日本の欧化主義
  

 日本の欧米崇拝は、
明治維新このかたのことであります。もっと明治維新は儒教の大義名分の思想と、国学によって簡明せられたる国体観念の把握とが、思想的根拠となって行われたる改革なりしとは言へ、愈々幕府を倒して天皇を中心とする政治を行わんとするに当たりては、今更支那の制度に倣ふべくもなく、さりとて上代日本の制度をそのままに復活すべくもない。

 それ故に明治維新の指導者が、今や新たに交わりを結んで強大恐るべきを知れる欧米諸国を模範とし、制度文物をみな之に則らんとせることは、固より当然の径路でありました。彼らは日本を富強ならしむるためには、西洋文明を取り入れるほかに別途なしと考へたので、徹底せる日本の近代化、あとは日本の西洋化に着手したのであります。

 そは実に驚くべき急激なる変化であったと言わねばなりません。維新以前わずか十五年、ペリーの黒船が初めて浦賀に来たりし頃まで、国民は西洋人を野蛮視して居た。当時の入出金や草双紙には、犬の如く片脚をあげて放尿せるして西洋人の姿を描いていたほどであります。西洋人は暴力を以て開国を強要せる故を以て攘夷運動が激成せられ、開国を迫られて承認せるを許すべからずとしての倒幕の気勢が揚がり、遂に王政復古の世になったのであります。

 然るに今や昨日まで上衣倒幕に夢中なりし志士が、
君子豹変して欧米文明の随喜者となり、日本の欧米化に死力を傾倒し始めた。わけても当時欧米を巡歴せる人々は、其の事々物々に魂魄驚駭して、日本は果たして彼に伍して独立を保ち得べきか否かをさへ憂うるようになりました。木戸孝允の如き、欧米を一巡して特に此憂を深くし、帰来極度の神経衰弱に陥ったと伝へられております。福沢諭吉の時も、また日本の独立を危ぶめる一人でありました。

 

 日本は欧米の登用によって開国したのであるが、
当時の日本の国力弱かりしために、極めて不利なる条約を欧米各国と結ばざるを得なかったのであります。この不利なる条約を改正して、欧米諸国と対等の交際をなすためにも、日本欧米諸国の如き『文明開化』の国たらしめねばならぬということが、明治政治家の切なる願いでありました。
 而て文明開化の民となるためには、政治法律は言ふまでもなく、産業の組織、教育の制度、みな悉く欧米に倣わねばなると考へました。明治初年に日本の教育行政を担当する森有礼の如き、日本語は文書としては意味曖昧、口語としては演説に適せずとの故を以て、これを廃して英語に替へえるがよいと考えて居た。実に日本の言語までが、当時の政治家によって斥けられんとしたのであります。

 

 事情かくの如くなるが故に、
明治初年の吾国の教育方針は
、国民を西洋人に造り替えることを主眼としたと言ふを妨げませぬ。現に文部省が最初に全国に造りしものは、英学校であり、英学校が後に師範学校となったのであります。予は昭和二年夏、岩手県に趣きました時、盛岡師範学校最初の校長の教育方針を、当時学生たりし土地の古老に聞くことを得ました。

 この古老の語るところによれば、校長は西洋の学問をするためには衣食住をも洋風にしなければならぬとして、五十前後の初老の婦人教師にまで洋服を強ひ、生徒には洋食を食わせたとのことであります。但し其の洋食は、生徒が食に堪えずとして強硬に抗議せしため、後には和食に改めたとのことであったが、こは当時の教育方針を物語る絶好の一例であります。森有礼はかくの如き教育によって教師を養成し、全国に小学校を立てて、国民に無教育者なからしめんと努力したのであります。

 

 当時の国民の知識状態を顧れば、
政府が焦慮したのを無理なかったと思われます。徴兵制度を布いて国民に血税の義務を教えれば、血税とは文字通り血を絞ることと考え一揆を起こした。田畑に電柱を立てると、偶々其年が凶作であったので、罪を電柱に帰してこれを抜き棄てた。初めて戸籍調べを大阪で行ったときは、之を以て日本の少女に西洋人の人種(ひとだね)を植え付けるためだとして十二三歳の少女にまでお歯黒を着けさせた。小学校立てると、それよりは真宗の説教所がよいと言って騒動を起こした。

 宛として今日の支那の田舎に見る知識程度であります。当局が焦慮したことは何の不思議もない。かくして一日も早く同胞を文明開化の民たらしむべく、しきりに各地に学校を立てたのであります。

 一体学校は、
教師ありてしかる後に校舎あるべきものであります。然るに吾国においては、この順序を顛倒するのを常としております。5日でさえ学校の新設に際して、第一に考慮せらるものは金であり、最後に考慮されるのは教師であります。それ故に真に良い教師を得るのに困難して居るが、明治初年にしては尚更のことであります。学校は立てたものの教師は容易に得られるべくもない。でき得るならば同胞を西洋人に育て上げる教師を、日本の津々浦々に配りたいのが当局の希望であったらうが、これは当時に於いて到底不可能であった。かくて止む無く旧藩の学校の先生、学問ある士族、乃至は寺の住持や村学究などを、校長なり教師なりに採用して当面の急に応じたのであります。

 

 こは政府としては不本意であったとしても、
日本のためには真に幸福なことであった。若し政府の希望せる資格を具へし教師が、全国に於いて一斉に同胞を西洋人たらしむべく教育したとすれば、今日の日本人は如何なるものになって居たか。幸いにも此等の村学究先生は、政府当局と事変り、毫も西洋を尚び又は恐れることがない。彼らは紅毛碧眼の徒を眼中に置くこともなく、専ら漢学または国学を以て鍛えし旧き思想を少年に鼓吹し、日本は神国であり、文明国は支那のみなるかの如き思想し、純真なる少年の頭脳に刻みこんでくれた。

 
 これは日本にとり、思い儲けぬ幸福であったと言わねばなりません。
中央政府は飽く迄も日本を第二の欧米たしめる方針を以て進み、国民生活の一切の方向を欧米化せんと努めたるに拘わらず、国民が能く日本的自尊と自覚を維持し得たのは、外向的に日清日露の両役によつて強烈なる国民意識を喚起されたのであるが、内面的には此等の老先生に負ふところが最も大であります。



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福澤諭吉 「学問のすすめ」

 



大川周明 「日本的言行」 第二 洋意の出離 一 「洋意を去れ」

2016-10-19 00:25:20 | 大川周明

大川周明「日本的言行」
第二 洋意の出離 


一 「洋意を去れ」
 
 「漢心とは、漢国のふりを好み、かの国を貴ぶのみをいふにあらず、大方世の人の万の事の是非善悪を論ひ、物の理(ことわり)を言ふ類、すべてみな漢籍(からふみ)の趣きなるをいひなりさるば漢籍を読み人のみ然るにはらず、書といふもの一つ見たること無き者までも同じことなり。

 そも漢籍を読まぬ人は、
さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢籍を善として、彼を学ぶ世の習ひ千年にも余りぬれば、おのずからその意(こころ)世に行き渡りて、人の心の底に染みつきて、常の地となれる故に、我は漢意もたずと思ひ、これは漢意にあらう当然の理なりと思ふことも、なほ漢意を離れ難き習ひぞかし。

 そもそも人の心は皇国も外国も異なることなく、是非善悪に二つなれば別に漢意といふいこと有るべくもあらずと思ふは、一わたり然る事のやうなれば、此の意(こころ)は除こり難き者になんありける。人の心の何れの国も異なること無きは、本の真心にこそあれ、漢籍にいへる趣きは、みな彼の国こちたきさかしら心もて、偽り飾りたる事のみ多ければ、真心にあらず、彼が是とすること実の是にあらず、非とすること実のにあらざる類も多かれば是非善悪に二つ無しともいふべからず。

 また当然の理と思ひ取りたる意も、漢意の当然の理にこそあれ、実の当然の理にあらざること多し。大方これらの事、古き書の趣きを能く得て、漢意といふものを取り去れば、おのずからいとよく分かることを、おしなべて世の人の心の地、皆漢意なるが故にそれを離れて悟ることのいと難しきぞかし。」

 
 この本居宣長の言葉は、
徳川時代の止度なき支那崇拝に対する痛烈な警告であります。徳川幕府は幾多の動機から熱心に儒教を奨励しました。そのために徳川時代に於いては、学者といへば漢学者、学問といへば漢学をいみするほど、儒者が盛んになったのであります。
 儒教が盛んになれば孔孟が崇拝されるのは言ふまでもない。而して之に伴いて総じて支那のものを尚ふ傾向を生むのもまたやむを得なき径路であります。

 かくて徳川時代の儒者のうちには
支那を中夏と崇拝し、吾国を東夷と卑下するものさえ少なくなかったのであります。太宰春台の如きは、孔孟の教えが伝えられるまで、日本人は禽獣の如き無道徳の生活を営んで居たとさえ極言S他野であります。


 かくの如き時代に於いて本井宣長が、漢意を去れと高唱したことは、非常なる卓見と言わねばなりません。漢意を去れとは、取りも直さず日本精神に復れといふことであります。
 宣長以前に於ても国学者荷田春海は

   ふみわけよ大和にあらぬ唐鳥の 
     跡を見るのみ人の道かわ 

 と詠じて、荻生徂徠一派の支那崇拝を排撃し、加茂真淵もまた 太宰春台の妄論を憤激し、名高き『国意考』を著して日本古来の荘厳を力説し、中華至上主義を論難しました。而もこの古学機運を受けて、之を集大成したのが実に本井宣長であり、この思想を抱いて街頭に善戦し、日本精神の確立に心を砕いたのが平田篤胤であります。
 此等の偉人の排出によって、これまで学問と言えば漢学を異にして居たのが、皇国本来の思想文学を研究する学問が、科学又は国学の名に於いて初めて漢学と拮抗するやうになったのであります。


 さて今日の吾国には、
最早徳川時代の如き支那思想崇拝が影を潜めてしまった。啻に影を潜めたるのみならず、志那の善なるものさえ無視して、之を侮蔑する傾向になって来ました。坤為地の日本は支那を去って欧米についたのであります。

 而して当時の儒者に劣らぬ多くの欧米崇拝者が、我国の思想界に時めいて居ります。吾等は本井宣長が、徳川時代の思想界に向かって「漢意を去れ」と警告せる如く、現代日本お思想界に向かって「洋意を去れ」と警告せんと欲する者であります。

 今日の日本人は、宣長の言葉そのものに、
総じて西洋的に思索し処断せんとして居ります。欧米の書籍を読まぬ人すら、かくのごとき雰囲気の中に在るが故に、知らず識らず西洋的に思ひ且つ行わんとして居ります。まことに「おしなべて世の人の心の地、みな洋意なるが故に」之を離るることは至難の業となったのであります。


 


大川周明 「日本的」言行 第一 日本的言行 四 日本的自覚の確立

2016-10-17 21:27:56 | 大川周明

  大川周明 「日本的言行」 
第一 日本的言行 


四 日本的自覚の確立
 

  吾等は決して異邦思想乃至文明の接取を拒むものではありませぬ。
啻に拒まざるのみならず、声を高くして之を主張する者であります。唯吾等の極力戦わんとするところは、魂を異邦精神に売ること、換言すれば本末主客を顛倒し去る事であります。

 日本歴史が最も力強く教ゆる如く、
国民的自覚が強烈であり、日本精神が堅確に把握されて居さえすれば、外来思想文明が、常に国民的生活の口上充実に寄与し来れるのみならず、其等の異邦文明並に思想は、吾等の精神に統一せらるることによって、真個の意義と価値を附与されてきたのであります。 
 

 之に反して国民的自覚鈍り、日本精神の動揺を見るときは、
曾て国民に貢献せし同一外来思想並びに文明が、常に却って災厄の因となって居ります。故に禍福は彼に非ずして吾にある。
 例えば現在に日本の政治と軍事とを比較するが宜しい。ともに、同一日本国民が、等しく欧米の制度に倣ってたつた仕事ではないか。然るに一方吾が陸海軍は世界に誇るべき成績を挙げて居るのに、他方吾国の政治は言語道断の不始末であります。吾等はこの相違の由来するところを切実深刻に反省せねばなりません。 
 

 之には大小幾多の原因が重畳しておるであろう。
而もその最も根本的なるは、実に日本精神を把持すると否とに在ります。もしくは其の強弱に由ります。今や日本は其の独自の精神に復帰して、一切を純乎たる日本的立脚地から批判せねばならぬ時となった。


 経済上の組織も、政治上の制度も、社会的の施設も、悉く行き詰った。之を打開して新路を開拓するためには、異邦的に考へ且行ふことを許しませぬ。実に純乎として純なる日本的思索と日本的行動とに俟たねばならぬと信じます。