日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

勝海舟『氷川清話』(26) おれの処へは、幇間や、遊人や、藝人が沢山やって来る

2020-01-02 20:38:36 | 勝海舟

勝海舟『氷川清話』(26)
   おれの処へは、幇間や、遊人や、藝人が沢山やって来る



おれの処へは、

 幇間や、遊人や、藝人が沢山やって来るヨ。
 藝人などが沢山来るヨ。
無心で熟慮した結果、一道の悟りを得たものが多い。
併し自分では、その事を覺ゐないけれども、
おれがそれを推して説明して聞かすと、
彼等は何れも驚いて、おれをひどく 烱眼だといふヨ。
 近頃の人は、皆自分でゑらがり、
議論ばかりしてうるさくて仕方がない。
それゆゑ、理屈を書いたものをむと癇癪に障るから、
ただ人情本や、古書などを読んでゐるヨ。
 何時か作った文がある。

   先哲の書を見る詞

 元和偃武以來國内の趨勢漸く文化に向ひ、豪傑英俊の士等文學に從事す。
 元祿前後に到て、殊に傑出の輩不少。
或は經綸の才誠を具せし者、或は高踏超几なる者、
或は往昔の古調を脩むる者、或は印度の古義を明解する者、
共他みな不撓の精神を以て、
其道を自得し、有為の學者たるは不耻。
我が殊に賞賛數輩、今にしてその人不可見といへども、
其の手譯の存する者あるを以て、幽爵無聊の時に於てて展覧、
古人の境遇如何を追懐すれば、不言中胸懐の快然たるを覺ゆる也、

 

(明治三十一年)の七月であつたか餘り久しく雨が降らなかったから、
おれはかういふ歌を詠んで、三圍(みめぐり)の神へ奉納させた所が、
丁度その日雨が降ったよ。
實に不思議ではないか。
おれの歌も天地を助かし鬼神を哭かしむる程の妙がある。
小野小町や實井其角にも決して負けない。

 七月十九日より雨なく暑さ烈しけれは詠みて奉る 
                        物部安芳
 三圍の社に續くひわれ田を
        神はあはれど見そなはさすや

 歌詞などはまづくっても、誠さへあれは、鬼神は感動するよ。
今の世の中は、實にこの誠といふものが欠けて居る。
政治とか経済とかいつて騷いで居る連中も、
真に国家を憂ふるの誠から出たものは少ない。


 多くは私の利益や、名誉を求める為めだ。
 世間のものは勝の老ばれめがといって嘲るか知らないが、
実際おれは国家の前途を憂へるよ。

 

おれは何時もつらつら思ふのだ、
 凡そ世の中に歴史といふものほど六ケしいことない。
 元来人間智慧は未来の事まで見透すことが出來ないから、
過去のことを書いに歴史といふものに鑒(=鑑)みて將來をも推測せいといふのだが、
然る所この肝腎の歴史が容易に信用せられないとは、
実に困った次第ではないか、
見なさい、幕府が倒れてからかに三十年しか經たないのに、
この幕末の歴史をすら完全に伝えるものが一人もないではないか。

 それは當時の有様を目撃した故老も未だ生きて居るだらう。
併しながら、さういふ先生は、
大抵當時にあってでさへ、
局面の内外表裏が理解なかった連中だ。
それがどうして三十年の後からその頃の事情を書き伝へることが出来やうか。

 況やこれが今から十年も貳十年も経て、
その故老までが死んでしまった日には、
どんな誤りを後生に伝得へるかも知れない。
歴史と云ふものは、實に六ケしいものさ 

  * * * * * 

書生だの浪人だのと云ふ連中は、
 昔から絶えず己れの所へやって来るが、
時には五月蠅いと思ふこともあるけれど、
併しよく考へて見ると、
彼等が無用意に話す言葉の内には社会の形況や、
時勢の変遷が、自然に解って、
なかなか味ふべきことがあるよ。
 匹夫匹婦の言も、
虚心平気で之を聞けば皆天籟だ。

 

若い時の遣り損ひは、
 大概色慾から来るので孔子も『之を戒むること色に在り。』と云はれたが、
實にその通だ。
  併し乍ら、若い時には、この色慾を無理に抑へやうとしたって、
それはなかなか抑へ付けられるものではない。

 處が又、若い時分に一番盛んなのは、功名心であるから、
この功名心と云ふ火の手を利用して、
一方の色慾を焼き尽すことが出来れば甚だ妙だ、
そこで、情慾が盛に発動して来た時に、
ぢつと気を静めて、英雄豪傑の伝を見る。

 さうすると何時の間にやら、
段々功名心は驅られて、
専心一意、外の事は考へないやうになって来る。
かうなって来れば、もらしめたものだ。
 今の書生連中も、試みに遣って見るが善い。
 决して損はないよ。

 

昔し本府に、
 きせん院といふ一個の行者があって。
 其の頃流行した富籤の祈祷がよく云ふので、
非常な評判であつたが、己れの老父が。
 夫れと親しかったものだから、
おれも度々行ったとがある。
處で越前守が出て来て、
矢ケ間敷富などの取締をせられてからは忽ら、
流行らなくなつた。

 

 それから段々とおちぶれて、
後には汚い長屋に住んで居たが、
誰れも末路といふものは、
憐れなもので気の毒だから、
昔ななじみのものは時々野菜などを持って行ってやった。

 

 この行者も元は中々のもので、
肉食妻帯は愚か、
間男なんか平気なもんで、
一種太い所を持って居たが。
斯う落魄してからは、
身體も氣分も段々と弱り込んで来た。

 或る日のこと。
 己れは例の如く何か持って見舞ひに行ったが、
彼れはおれに向ひ、
『貴下は末だ若いが、
中々根気が強くって末頼母しい方だによって、
私が一言御話をして置さますから、
是非覚えて居て下さい。
必ず思ひ當ることがあります。

 一体私の祈祷が當らなくなつたに就いては、二つ理由があります。
 一つの理由は、或日一人の婦人が、富籤の祈祷を頼みに遣って來ました。
 所がそれが素敵な美人であったから、
覺ゑ煩悩驅られて、それを口き落し、
それから祈祷をして遺りました。

  所が四五日すると、其祈祷に効驗があって、
當籤をしたといって禮に来ましれから、
それ口説き掛けると彼の美人は恐ろしい眼で睨み附け、
『亭主のある身で不義を事をしたのも、
亭主に富籤を取らせたい切な心があつたばかりだ。
それに又候不義を仕掛けるなどとは、
不屈千万な坊主めが。』と叱った。

 その眼玉と叱声とがしみじみ、身にこたへた。

 それから今一つは、
難行苦行をする身であるから、
常に何か生分のある物を喰って、慈養を取って居ましたが、
或る日の事、両国で大きなすっぽんを買って來た。

 所が誰も怖がって料理をする者がないから、
私が自分で料理をせうすると、
彼のすっぽんめが首を持ち上げて、
大きな眠王をして私を睨んだ、
私はなー!と云ひつつ、
首を打ち落して料理して喰って見たが、
併し何となく気にかかつた。

 此の二つの事が、始終私の気にかかつて居て、
祈祷も何時となく次第に當らなくなつたのです。
 夫れと云って、
何も此の二つが『たたるいふ訳でもあるまいが、
つまり自分の心に咎める所があれば、
何時なく気が緩んで来る。
すると鬼神と共に働く所の至誠が乏しくなって來るのです。
そこで、人間は平生踏む処の筋が大切ですよ。』と云って聞かせた。

 

 是の話を聞いて、己れも豁然として悟る所があら、
爾来今日に至るまで、常に此心得を失はなかった。
全体己れがこの歳をして居りながら、
身心共にまだ壯健であるといふのも、
畢竟自分の経歴に顧みて、
聊かたりとも人間の筋道を路み違へた覺ゑがなく、
胸中に始終此の強味があるからだ。
此の一個の行者こそ、
おれが一生の御師匠樣だ。

 

人間長壽の法と云ふも外にはない。
 俗物には、伏食を摂して、
適度の運動を務めなさいと云へば、それで善いが、
併し大人物にはさうはいかない。
見なさい、己れなどは何程寒くっても、
こんな薄つべらな着物を着て、
こんな煎餅のやうな蒲団の上に坐わって居るばかりで。

 別段運動と云ふことをするでもない、
それでも気血は、
ちゃんと規則正しく循環して若い者も及ばない程達者ではないか、
さあ此所が所誚思慮の転換法といふもので、
即ち養生の第一義である。

 詰り綽々たる餘裕を存して、物事に執着せす拘泥せず、
圓轉豁達の妙境に入りさへすれば、
運動も食物もあったものではないのさ。

何にしろ人間は、身体壮健でなくてはいけない。
 精神の勇ましいのと、根気の強いのとは、
天下の仕事をする上にどうしてもなくてはならないものだ。
 そして身体が弱ければ、此の精神と此の根気とを有することが出來ない。
つまり此の二つのものは大丈夫の身体でなければ宿らないのだ。

 処が日本人は、五十になると、
もうぢきに隠居だとか何だとか云って、
世の中を逃げ去る考を起すが、
どうもあれでは仕方がないではないか。

 

 併し島国の人間は、何所も同じことで、
兎に角其の日のことよりほかは、
目が付かなくなって、
五年十年の先きはまるで黒暗同様だ。

それも畢竟、局量が狹くって、
思量に餘裕がないからのことだよ。

 もしこの餘裕といふものさへあったなら、
仮令五十になっても六十になっても、
まだ勿々血氣の若武者であるから、
此の面白い世の中を逃げるなどと云ふやうな、
考へなどは决して出ないものだ。

 それであるから、昔の武士は、
身体を鍛へることには、餘程骨を折ったものだよ。
 弓馬槍劍、扨は柔術などと云って、
色々の武武芸を修業して鍛へたものだから、
そこで己のやうに年は取っても身体が衰へず、
精神も根氛もなかなか今の人たちの及ぶ所でないのだ。

 

尤も昔の武士は、こんなに身体を鍛へることには、
 余程骨を折ったが、併し學間はその割にはしなかったよ。
それだから、今の人のやうに、
小理窟を云ふものは居なかったけれども、
その代り、一旦国家に観九急あるは、
命を君の御馬前に奉げることなどは平生ちゃんと承知して居たよ。

所謂君辱しめらるれば、臣死といふ教えが、
深く頭の中に染み込んで居たから、いざといふ場合になると、
腹一文字は搔き切ることを何とも思わなかったのだ。

 然るに、學問に疑り魄まって居る今の人は、
聲ばかりは無暗に大きくて、
胆玉の小さきことは実に豆の如しで、
成張りには成張るけれども、
まさかの場合に役に立つものは始ん稀だ。
 みんな縮み込んで了ふ先生ばかりだよ。

 

全体何事によらず氣合云ふことが大切だ。
 この呼吸さへよくみ込んで居れば、
仮令死生の間に出入しても、决して迷ふことはない、
併し是れは單に文字の學問では出來ない。

 王陽明の所謂事上磨練、即ち屢々萬死一生の困難を經て始めて解る。
 戦争などは、何よりよい磨練だ。

 この氣を制するどいふことはゑらいもので、
例へば関ケ原の戦争を御覧、
三成もなかなかの英物で、志麻といふ参謀が扣へて居り、
其の上、将校にも東軍に譲らない程の豪傑が揃て居った。

 それで遂に勝たなかったといいふのはつまり家康に其の気合を制せられて、
頭から呑み込まれて了って居たからである。

 また、明智左馬之介といふ男は、實にとらい人物で、
本能寺の變の時、流石の光秀も最初は幾らか遅疑逡巡する所があって、
腹心の者二三を集めて議をした。
 するご左馬之介は、
『評議も何もない、明日直ぐにやるがよい。』と云った。
 此の一言で、光秀も直ちに决心しのだが、
時の英雄信長が、光秀に遣られたのも、ただ此の決断の力だ。 

 所で気合と呼吸といっても、
口ではいはれないが、凡そう世間の事には、
自づから順潮ど逆潮とがある。
 随って気合も、人にかかってる時と、
自分にかかって來る時とがある。

 そこで、気合が人にかかったと見たら、
すらりと横にかはすのだ。
 もし自分にかかって來たら、
油新なくづんづん推して行くのだ。
 併し此の呼吸が、所謂活學問で、
とても書物や口頭の理窟ではわからない。

 

活學問にも種々仕方があるが、
 まづ横に寢て居て、自分のこれまでの經歴を顧み、
之を古来の實例に照して、
徐かにその利害得失を講究するのが一番近路だ。

 さうすれば、屹度何萬の書を讀破するにも勝る功能があるに相違ない。
 區々たる小理窟は、
誰れか學者先生を執へて一寸聞けばすぐ解るこどだ。
 箇中の妙味は、又一種格別のもので、
おれの學間と云ふのは、大概此寢學問だ。

 然し俗物には、この並味が解らないて、
理窟づめに世の中の事を處置せうきするから、
何時も失敗の仕績けで、
さうして後では大騷ぎをして居る。

 實に馬鹿気た話ではないか。
 己れなどは、理窟以上の所謂呼吸といふものでやるから、
容昜に失敗もせね、
 
萵一さういふ逆鏡にでも陥った場合には、
じっと騒がずに寢ころんで居て、
又後の機曾が來るのを待って居る。

 そしてその機曾が來たならば、
透さずそれを執まへて、
事に應じ物に接して之を活用するのだ。
 つまり、是が真箇の學間と云ふものさ。

人は何事によらず、

 胸の中から忘れ切るといふことが出來ないで、
始絡それが気にかかるといふやうでは
勿々溜まったものではない。
 所謂座忘とって、何事も総て忘れて了って、
胸中濶然して一物を留めざる境界に至って、
始めて萬事萬境に應じて、
横縦自在の判断が出るのだ。

 然るに始終気掛りになるものがあって、
あれの、これのと、心配ばかりして居ては、
自然と気が餒ゑ神が疲れて、
とても電光石火に起り來る事物の応接は出來ない。

 全躰、事の起らない前から、ああせうのと、
かうせうのと心配する程馬鹿気た話はない、
時と場合に応じてそれぞれの思慮分別は出るものだ。

 第一自分の身の上に就いて考へて見るがよい。
 誰でも始め立てた方針通りに、
きちんとゆく事ことなどが出來るか、
出来れば楽はしない。

 元來人間は、明日の事さへ解らないと云ふではないか。

 それに十年も五十年も先きの事を、
畫一の方針でもって遣らうと云ふのは、
抑も間違の骨頂だ。

 それであるから、
人間に必要なのは平生の工夫で精神の修養といふことが何より大切だ。
 所謂心を明鏡止水の如く磨き澄まして置きさへすれば、
何時如何なる事が襲うて來ても、
其れに処する方法は、
自然と胸に浮んで来る、
所謂物来りて順應するのだ。

 おれは昔から此の流義で以て、
種々の難局を切り抜けて来たのだ。 

 それ故に人は、平生の修行さへ積んで置けば、
事に臨んで决して不覚を取るものでない。
 劍術の奥意に達した人は、
決して人に斬られることがないと云ふことは、
さきにも云った宮本武蔵の話しにて合點であらうが、
實にその通りだ。
 己れも昔し親父から此の事を聞いて、
窃かに物かに疑って居たが戊辰の前後、
屢々萬死の途に出入して、
始めての此の呼吸が解った。
 かの廣島や品川の談判も、
必竟此の不用意の用で遣り通したのさ。

それから又、世に處するには、
 何んな難事に出っても臆病ではいけない。
 さあ何程でも来い。
 己れの身躰が、
ねぢれるならば、ねぢって見ろ、と云ふ了簡で、
事を捌いて行く時は、
難事が到來すればする程面白味がいて居て、
物事は雑作もなく落着して了ふものだ。
 何んでも大胆に、無用意に、打ちかからなければいけない。

 どうせうか、かうせうか、
と思案してかかる日には、もういけない。
 六ケしからうが、昜からうが、そんな事は考へずに、
所謂無我といふ境地に入って無用意で打ちかって行くのだ。
 もし成功しなければ、成功する所まで働き続けて、
决して間があってはいけない、
世の中の人は、大抵事業の成功するまでに、
はや気が尽きて疲れて了ふから、
大事が出来ないのだ。


 

根気が強ければ
 敵も逐には閉口して、味方になって仕舞ふものだ。
確乎たる方針を立て、
决然たる自信によって、
知己を千載の下に求める覚悟で進んで行けば、
何時かは、わが赤心の貫徹する機会が来て、
從來敵視して居た人の中にも、
互に肝胆を吐露しあふ程の知巳が出來るものだ。
 区々たる世間の毀貶を気に懸けるやうでは、到底仕方がない。

 其処へ行くと、西鄕などは、どれ程大きかったか分らない。
高輪の一談引で、おれの意見を通してくれたのみならす、
江戸鎮撫の大任までを一切おれに任せておいて少しも疑はない。
 その外六ケしい事件でも持ち上がると、
直ぐにおれの処へ負せかけて、
勝さんが萬事くはしいから、
宜しく頼みますなどと澄まし込んで、
咋日まで敵味方であったといふ考は、
何へか忘れでしまったやうだつた。

 その度胸の大きいには、おれもほどほど感心したよ。
あんな人物に出曾ふと、
大抵なものが、知らす識らずその人に使はれてしまふものだ。
 小刀細工や、口頭の小理窟では、
世の中はどうしても承知しない。

 

然し人間の精根には限りがあるから



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