日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

勝海舟『氷川清話』(28) )由比正雪でも西郷南州でも、自分の仕事が

2020-01-02 21:52:04 | 勝海舟

勝海舟『氷川清話』(28)由比正雪でも西郷南州でも、

 

由比正雪でも西郷南州でも、
自分の仕事が成就せぬといふことは、知って居たのだヨ。
 おれも天保前後に随分正雪の様な人物に出遇ったが、
この消息は、
俗骨には分らない。

 つまり彼等には自然に権力が附き纏うて來るので、
何かしなくては堪へられない樣になるのだ。
 併し西鄕は、正雪の様には賢くない。

 ただ感情が激しいので、
三千の子弟の血管を湧した以上は、
自分獨り華族樣などになって済まし込むことが出來なかったのだ。
 それを、小刀細工の勤王論などで以て攻撃するのは野暮の骨頂だ。
 賢くないとはいふものゝ、
勤王論ぐらゐは西郷も知って居る。

 だから戦爭中も自分では一度も号令を掛けなかったといふではないか。
 おれは、前からそれを察して居たから、
あの時岩倉さんが聞きに來たのに、
大丈夫だ、西郷は決して野心などはない、
と受け合ったり又佐野などにも西郷の心事をくはしく説明してやつたが、
その為めに一時に飛んでもない疑ひを受けたこともあった。

 併し何にしてもあれ程の人物を、
弟子の為に情死させたのは、
惜しいものだ。

 部下にも棡野とか、
村田とかいふのは、
なかなか俊才であった。

 西郷も、もしあの弟子がなかつたら、
あんな事はあるまいに、
おれなどは弟子がないから、
この通り今まで生き延びて華族様になって居るのだが、
もしこれでも、西郷のやうに弟子が大勢あつたら、
獨りでよい顔もして居られないから、
何とかしてやったであらう。

 併し、おれは西鄕の様に、
之れと情死するだけの親切はないから、
何か別の手段を取るヨ。

 兎に角西郷の人物を知るには、
西郷くらゐな人物でなくてはいけない。
 俗物には到底分らない。
 あれは、政治家やお役人ではなくて、
一個の高士だものを。

 

 おれは幕末から明治の初年へかけて、
自分に當局者でもなく、
また成るべく避けては居たけれど始終外交談判などを手傳はせられた。
 長州征伐の時にもあまり出過ぎた為にお上から叱られ、
オロシヤが來た時にも荷蘭と交渉し、
列國か下の関砲撃をした時にも長崎で談判を開き、
薩長軋轢の時にも中に立ちなどして、
長らくの間、天下の安危を一身に引き負うたが、
そのうちには色々の人物に接した。

 そして日本人の間では憎まれ者になったけれども、
是でも大院君や、季鴻章には、隨分持てるのだ。

 先般斃去せられた島津公の如きも、
三代以前から懇意である。
 おれはこれ程の古物だけれども、
併し今日までにまだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。
 どうしても西郷は大きい。 

 妙な処で隠れたりなでして、
一向その奧行が知れない。
 厚顔しくしくも元勲などと済まして居る奴とは、
とても較べものにならない。

 今年の二月に鹿見島へ南州の碑が建つについて徳川公も下向せられるといふから、
おれは詩を書いて送って置いた。

  俯七十六 嘯傲大江東 知否九泉下 海内亦濛々 

 この知否と云ふのは、後から改めたのだ。

 

世の中の事は、時々刻々変遷極まらないもので、
 機來り機去り、その間 実に髮を容れない。
 かういふ世界に処して、
萬事小理窟を以て、
之れに應せうとしても、
それはとても及ばない。

 世間は活きて居る。理窟は死んで居る。
 此の問の消息を看破するだけの眠識があったのは、
まつ横井小楠木、
この間に処して所謂気合いを制するだけの胆識があったのは、
まづ西郷南州だ。

 おれが知人の中で、
殊にこの二人に推服するのは、
つまりこれが為めである。

 

是迄民間に潜んで居た若手も、
 おひおひ天下の実務に當るやうになって來たのは、
如何にも結搆だが、
今の若い人は、どうも餘り才気があって、
肝督な胆力といふものが抜けて居るからいけない、
幾ら才気があっても、
肝心な胆力がと無かつた日には何が出来るものか。

 天下の事は、口頭や筆端ではなかなか運ばない。
 何にしろ今の世の中は、
胆力のある人が一番必要だ。

 

武士的氛風は、
 日を逐ふて頽れて來る。
 是は固より困った事には相違ないが、
併しおれは今更のやうに驚かない。

 それは封建制度が破れれば、
期うなるといふことは、
ちゃんと前から分って居たのだ。
 今でもおれが非常な大金持であったら、
四五年の内には屹度この風を挽回して見せる。

 それは外でもない。
 全体封建時代の武士といふものは、
田を耕すことも要らねば、
物を売買することも要らず。

 そんな事は百姓や町人にさせておいて、
自分等はお上から祿を貰って、
朝から晩まで遊んで居ても、
决して喰うことに困るなどといふ心配はないのだ。
 
 それ故に厭でも応でも是非に書物でも読んで、
忠義とか廉恥とか騒がなければ仕方がなかったのだ。

 それだから封建制度が破れて、
武士の常禄といふものがなくなれば、
随って武士気質も段々衰へるのは當り前のことさ。
 
その証拠には、今もし彼等に金を呉れてやって、
昔の如く気楽なことばかり言はれるやうにしてさへやれば
屹度武士道も挽回することが出来るに相違ない。

 

おれ程苦しんだものはあるまい。
 維新の際には僅か五十万圓の金を以て十五万人の大勢を養ったが、
人間といふものは飯を食はせなければならないから、
おれも実に閉口した。

 その時露西亜から金を貸さうと申し出たけれども、
おれは断然謝絶したのだ。

 何に、あの時札幌をでも抵当に入れれば、
五百万圓位は喜んで貸したのだから、
その内を百万圓も着服すれば、

おれは一生安楽に隠居が出来たのだ。
 併しおれはそんな悪漢ではないから、
本當と思ってはいけないヨ。

 

田舍へ行て見ると、
 金持の屋敷のまはりに植えてある樹木なども、
身代が左前になる、
どんな大木でも何となく勢いがなくなって見える。

 人間もその通りで
元気の盛んな時には、
頭の上から陽炎の様に焔が立つて居るものだ。

 然るにこの頃往来を歩いて見ると、
どうも人間に元気が無くて、
みんな悄然として居るらしい。
 これは国家の為に決して喜ぶべき現象ではない。

 

何時かおれは、紀州候の御屋敷へ上った帰り途に
 裏棚社会へ立寄って、
不景気の実情を聞いたが、
此の先四五日の生活が績かうか心配して居るものが諸方にあったよ。
 畢竟社会問題と云ふものは、
重もにこの辺から起るのだから、
為政家は、始終裏棚社會に注意して居なければいけないヨ。

  新米や玉を炊ぐのもおもひあり
  落栗やしうとと孫の糧二日 
  唐茄子に一日は餓をいやしけり

 

今とは違って、昔は世の中は物騒で、
 坂本も廣澤も斬られてしまひ、
おれも廔々危いめにあつた。
 

 けれどもおれは、常に丸腰で以て刺客に応対した。

 ある時長刀を二本差して來た奴があるので、
おれは、お前の刀は抜くと天井につかへるぞいって遣ったら、
その奴は直ぐ歸ってしまった事があった。

 またある時は既に刀を抜きかけた奴もあったが、
そんな時にはおれは、
斬るなら美事に斬れ、
勝は大人しく居てやる。

 といふと、大抵な奴は向ふから止めてしまふ。
 かふいう風におれは一度も逃げもしないで、
とうとう斬られずに済んだ。
 人間は胆力の修養がどうしても肝腎だ。

 

幕府には、
 三河気士の美風を受けた正直な善い士があったヨ。
 岩淵肥後、小栗上野、河村對馬、
戸川播磨などはよい人物だったが、
惜しいことには皆死んでしまった。

 

近頃世間で時々西郷が居たらとか
 大久保が居たらとかいふものがあるが、
あれは畢竟自分の責任を免れる為の口実だ。
 西鄕でも大久保でも、
假令生きて居るとしても、
今では最早老耄爺だ。
 人を當てにしては駄目だから、
自分で西郷や大久保の代りを遣ればよいではないか。

 併し今困るのは、
差當り、世間を承知さするだけの勲功と経歴を持って居る人才が居ないことだ。

 けれども人才だってさう誂へ向きのものばかりは何処にもないサ。
 太公望は国会議員でも、
演説家でも、
著述家でも、
新聞記者でもなく、
只だ朝から晩まで釣ばかりして居た男だ。

 人才などは騒がなくても、
眠玉一つで何処にでも居るヨ。

 天下の事に任ずる位のものは、
今日朝野に何んな人物があるかといふことは、
常に知って居なくて
困る。
 おれなどは予めそのを辺を調べて、
手帳に留めて置いた。

 すると瓦解の際におれの向ふに立つた奴は、
西郷を始め皆な手悵の中の人物に洩れなかったヨ。
 天下に人物の居るか居ないか位の事は、
座ながらにして知れる様でなくては、
とても天下の大事に任ずことは出来ない。

 

主義といひ、道といって、
 必ず是れのみと断定するのは、
おれは昔から好まない。
 單に道といっても、
道には大小厚薄濃淡の差がある。

 然るにその一を揚げて他を排斥するのは、
おれの取らない所だ。
 人が来て●(不鮮明、読めず)々とおれを責める時には、
おれは,さうだらうと答え置いて争わない。
 そして後から精密に考へてその大小を比較し、
この上にも更に上があるだらうと想ふと、
実に愉快で堪えられない。
 
 もし我が守る所が大道であるなら、
他の小道は小道として放って置けばよいではないか。
 智慧の研究は、棺の蓋をするときに終わるのだ。
 かういふ考を始終持っていると実に面白いヨ。

 

世の気運が一轉するには自から時機ある。
 昔し西洋人は七の数を以て之を論すると聞いたが、これは眞だらう。
 何時か、おれはかういふ文を作った。

  人心移転潮せんとする前先づその機動くの兆顕然として生す。
  機先轉じて漸く顕著ならんとす。
  此際人心穏やかならず、
  論爭紛々、
  彼我得失を争ひ、
  誹謗百出、
  舊主改良を論ずるもの三四年、
  或いは五六年究極なきを、
  或いは有力者あれば其説に附和雷同して団結の勢を生す。

 

気運といふものは、実に恐るべきものだ。
 西郷でも、木戸でも、大久保でも、個人としては、
別に驚く程の人物でもなかったけれど、
彼等は、王政維新といふ気運に乗じてきたから、
おれも到頭閉口したのヨ。

 併し気運の潮勢が、
次第に静まるにつれて、
人物の値も通常に復し、
非常にえらくみえた人も、
案外小さくなるものサ。
 

人はどんなものでも決して捨つべきものではない
 如何に役に立たぬと云っても、
必ずか何か一得はあ
るものだ。
 おれはこれまで何十年間の経験によって、
この事のいよいよ間違ひないのを悟つたヨ。

 人を集めて党を作るのは
、一つの私ではないかと、
おれは早くより疑っているヨ。
 人は皆さまざまにその長ずる所、
信ずる所を行へばよいのサ。
 社會は大きいから、
あらゆみものを包容しても毫も不都合はない。
 卑近の例だが、
酒屋も餅屋も芸術家も高利貸も、
差別なく貸家に住まはせてよいと同じだ。
 大屋はただ家賃を取り、
適當に監督すれば、それでよいのサ。

 世の中の事でも、ただ機会と着手と、

この二つをさへ誤らなければ、なに物でも放任して置いて差支はない。

 

おれは一体日本の名勝や絶景は嫌ひだ。
 皆規模が小さくてよくない。
 試に支那へ行って揚子江河口に臨むと、
實に大灘のやうに思はれる、
また、米国へ行って金門にはいっても氣分清々する。

 国が小さけれは景色も小さく、人間の心も小さい。

 舊時代でも、御改革か御倹約とかいふと、
一番早く結果の顕れるのは、小大名だ。

 大々名ほど手間がとれる。
 支那などは、何時何をするのか、
別に目にはつかないけれど、
何かやって居るに相違ないのだ。

 この日本は、全体誰が背負うかといふに、まづ国会だらう。
 而してこの国会は、少しの金で如何やうにもなるではないか。

 寝とぼけて居る時勢後れの実業家にすら、左右せられるではないか。
 そん小さい胆玉では、仕方がないワイ。

 併し日光は稍々な規模が大きから、
欧米の土地を踏んで來た人に見せても决して耻かしくない。
 将来屹度繁昌するだらうヨ。
土地の人も、繁昌すれば火事の恐れがあると思って、
先年数萬坪の公園を作ったが、
石碑はその公園の真中にあるのだ。
 文も字も皆なおれの手際だ。
 字体は竹添など調べてくれたが、
書き慣れぬ字だから、中々骨が折れたヨ。
 石は石の巻の産だが、
こんな大きな石は決して他にないさうだ。
 特別の汽車で送つたのだが、
建立までには確かに七千人も人夫を使ったであらう。
 人間の力も集めると大しものサ。
(かくて碑面の石摺を示さる。その大さ十畳の座敷に溢る。)

 

世の中に不足といふものや、
 不平といふものが始終絶えぬのは、
一概にわるくもないヨ。
 定見深睡といふ諺がある、
これは西洋の翻訳語だが、
人間は、とにかく今日の是は、
明日の非、
明日の非は明後日の是といふ風に、
一時も体ます進歩すべきものだ。

 苟くも之で澤山といふ考でも起つたらそれは所謂深睡で、
進歩と言ふことは、
忽ち止まると戒めたのだ。

 實にこの通りで、
世の中は、平穏無事ばかりではいけない。
 少しは不平とか、
不足とか騒ぐもののある方がよいヨ。

 是れも世間進歩の一助だ。
 一個人についても、その通りだヨ。
 おれなども、終始徒らに暮らすといふことは決してない。
 併し世間の人の様に、
内閣でも乘り取らうといふ風な野心はないヨ。

 だが折角人間に生れたからは、
その義務として、臨むべき所までは進まうと思って、
始終研究して居るのサ。

 

世の中は議論ばかりでは行かない、
 実行が第一だ。
 国が乱れて来たら、誰がこの日本を背負ふだらふ。
 国が乱れると、金が入用から、
今の内に金を貯へるのが大切だヨ。
 併し除り急ると邪魔が出るから
何時松を橋ゑたか、杉を稙ゑたか、
目立ないやうに百年の大計を立てるが必要サ。

 

凡そ一家の風波といふものは、金から起るのだ。
 五六年前の相馬家だって、
もし無産の家ならば、
あんな大騷も起らなかったであらうに、
金があったが悪るかったのサ。

 舊華族の失敗は、大抵家令家扶が本になり、
新華族の失敗は、主人自から之を招くのが多いヨ。
 そこへ持て行くと、流石は徳川氏だ。
 門葉殆ど天下に遍しといふ程だけれども、
宗家をはじめ、
分家のに至るまで未だ甚しき風波のないのはまづ目出度いのサ。

 

には、すべての事が真面目で、
 本気で、そして一生懸分であったヨ。
 なかなか今の様に、首先ばかりで、
 智慧の出しくらべするのと違って居たヨ。
 何人も萬一罷り違ったら、
自分の身體を投げ出す覚悟で仕事をしたヨ。

 功労など、人のものまで自分のだといひ、
過失なら、自分のものまで人のだといふ様な事は、
流行らなかったのサ。

 

躬から手を下さずと人がするままに任し、
 自から我が功を立てすど、
人に功を立てさする程、
気楽な事はまたと天下にあるまいヨ。

 一身の榮辱を忘れ、世間の毀誉を願みなくって、
そして自から信ずら所を断行する人があるなら、
世の中では、たとへその人を大悪人といはうが、
大奸物といはうが、おれはその人にするヨ。
 
 つまり大事を仕遂げる位の人は、
却って世間からは悪くいはれるものサ。
 おれなども。
 一時は大悪人とか、大奸物とかいはれたッケ。
 併しこの間の消息が分かる人は甚だ少ないヨ。

 

死を懼(おそ)れる人間は、勿論談すに足らないけれども、



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