日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

勝海舟『氷川清話』(29) 死を懼れる人間は、勿論談すに足らないけれども

2020-01-02 21:53:48 | 勝海舟

 勝海舟『氷川清話』(29) 死を急ぐ人も、また决し誉められないヨ


死を急ぐ人も、また决し誉められないヨ。
 日本人は、一体に神経過敏だから、
必す死を急ぐか又は、死を懼れるものばかりだ。
こんな人間は、共に天下の大事を語るに足らない。


 元龜天正の間は、實に日本武士の花だった。
併し當時に、ただ死を輕んするばかりを、
武士の本領とするやうな一種の数育が行はれて、
遂には一般の風が、
事に臨んで死を急ぎ、
とにかくに一身を潔うするのを以て、
人間の能事が丁ったとするやうになつたのは、
実に惜しいものだ。

 

 萬般の責任を一人で引き受けて、
非常な艱難にも堪へ忍び、
そして綽々として餘裕があると云うことは、
大人物でなくては出來ない。
 こんな境遇に居っては、
その胸中の煩悶は、
死ぬるよりも苦しいヨ。

 併しそれが苦しいといって、
事局の知何をも顧みず、
自分の責任をも顧みず、
自殺でもして當座の苦しみを恐れようしとするのは、
必竟、その人の腕が鈍くて、
愛国愛民の誠がないのだ。
 即ち所謂屑々たる小人だ。

 かういふ風な潔癖と短気とが、
日本人の精神を支配したものだから、
この五百年が間の歴史上に逆境に処して、
平気で始末をつけるだけの腕のあるものを求めても、
おれの気にはいるものは、一人もない、
併し強いて求めると、
まあ大石良雄と山中鹿之助との二人サ。

 山中鹿之助が、貧弱の小国を以て、
凡庸の主人を奉じ、屢々失敗して、
ますます奮発し斃れるまでは己めなかつたことや、
大石良雄が、若い者の議論を壓へて、
容易に城を明け渡し、
山科の月を眺めたり、
祇園の花に酔うたりなどして、
復讐の念は、何処へか忘れたやうであつたけれども、
遂には四十七士を糾合して、
見事に目的を達した事などは、
かの世間の少しの事に失望してにて自殺したり、
又は歳月と宴安とに志気を失ってしまつたりする奴とは、
大した違ひだ。


支那は、流石に大国だ。
 その国民に一種気長く大きな所があるのは、
なかなか、知気な日本人なども及ばないヨ。
 たとへば、日清戦争の時分に、
丁汝昌が、死に処して従容迫らなかったことなどは、
実に支那人の美風だ。

 

 この美風は、萬事の上に願はれて居る。
 例の日清千艘の時に、
北洋艦隊は、全滅せられ、
旅順口や、偉海衛などの要害の地は、
悉く日本人の手に落ちても、
彼の国民は一向中平気で、
少しも驚かなかったが、
人はその無神経なのを笑ふけれども、
大国民の気風は、
却ってこの中に認められるのだ。

 

 丁汝昌も、何時かおれに謂ったことがあった。
 我が国は、貴国に較べると、
萬事につけて進歩は鈍いけれど、
その代わり一度動き始めると、
決して退歩はしないといつたが、
支那の恐るべき処は、
実にこの辺にある。

 こなひだの戦争には、
うまく勝つたけれども、
彼是の長所短所を考へ合はして見ると、
おれは将来の事を案じるヨ。

 顧みれば、幕末の風雲に乗じて起こり、
死生の境に出入りして、
その心坦を練り、
窮厄の域に浮き沈みして、
その清節を磨き、
つひに王政維新の大業を仕遂げた元勲は、
既に土になつて、
今はその子分ど共が、政治を執つて居るけれども、
今十年も後の国政を料理する責任は、
現在学校などに居る書生の肩にあるのだ。

 どうだ、今の書生の中にこの大責任に堪へるだけの者があるか。

 

おれの見た所では、今の書生輩は、
ただ一科の學問を修めて、多少智慧がつけは、
それで滿足してしまって、
更に進んで世間の風霜に打れ、
人生の酸味を嘗めると云ふ程の勇気を以て居るものは、
少ない様だ。

 こんな人間では、
とても十年後の難局に當って、
さばきを付けるだけのことは出来まい。
 おれはこんな事を思ふと心配でならないヨ。

 

 天下は、大活物だ。
 区々たる殆歿學問や、小智識では、
とても治めて行くこは出來ない。

 世間の風霜に打たれ、
人生の酸味を嘗め、
世帯の妙を穿ち、
人情の機微を究めて、
然る後、共に経世の要務を談ずることが出來るのだ。
 小學問や小智識を鼻に掛けるやうな天狗先生は、
仕方がない。

 それ故に、後進の書生等は、
机上の上の學間ばかりに疑らず、
更に人間萬事に就いて學ぶ、
その中に存ずる一種のいふべからざる妙味を噛みしめて、
然る後に、机上の學間を活用する方法を考へ、
又た一方には、心坦を練って、
確に不抜の大節を立てるやに心掛けるがよい。
 かくしてこそ、始めて十年の難局に処して、
誤らないだけの人物となれるのだ。

 かへすかへす、後進の書生に望むのは、
奮ってその身を世間の風浪に投じて、
浮かぶか沈むか、
生るか死ぬるかの処まで泳いで見ることだ。

 この試験に落第するやうなものは、
到底仕方がないサ。

 

天保の大飢饉の時には、
 おれは毎日仏暁に起きて、
剣術の稽古に行く前に徳利搗(つく)といふことをやつたヨ。
 これは、徳利の中へ玄米五合ばかりを入れて、
その口へはいる程に削った樫の棒で、
こつこつ搗のサ。
 おれは毎朝掌に豆の出来るほど搗いてこれを篩でおろし、
自ずから炊いて父母に供したことがあるヨ。

 これは、白米は高くて
『とても買われず、
且は玄米にすると、
糠や粉米が出来るから、
小身者の皆することだ。
 世間には、また、
かういふ風にした米の研げ汁を貰ひに来る細民もあつたヨ。

 

 當時幕府では、
上野広小路へ救小屋を設けて、
貧民を救助したが、
餓孚路に横はるといふことは此時実際にあつたヨ。

 又、幕府は浅草の米倉を開いて、
籾を貧民に頒けたが、
その時、最も古いのは、六十年前の籾で、
其の色が真っ赤だつたヨ。
 これより下りて五十年前位のは、
随分沢山あつたツケ。

 赤土一升を、水三升で溶いて、
これを布の上に厚く敷いて、
天日に曝し、
乾いてから、生の粉などを入れて団子を作り、
又た松の樹の薄皮を剥がいで、
鰑のやうにして、
食物にしたのも此時だ。

 おれもこの土団子を喰って見たが、
随分喰へば喰はれたヨ。
 併し、余り沢山食うと黄疸の様な顔色になるといふことだつた。

 又さし搗といふこともやつたことがある。
これは一番米が減らないよ。
 元来おれは貧乏だつたから、
自分で玄米を買つて来て、
そしてこのさし搗きをやつたのサ。

 この頃は妻と二人暮しだったから、
妻が病気でもした時には、
おれは味噌漉を下げて、
自分で魚や香の物を買ひに行つたこともあるヨ。

 今の若い者等が、
時にはおれの処へ来て、
無心を云ふから、
その時はおれの昔話をして聞かせるとノ、
それでは飯が食へませんといふヨ。
 まあ呆れるではないか。


人間生きて居るほど、
 面倒臭いものはない。
それならといって、
真逆首をくくつて死ぬる訳にも行かず、
伯爵の華族様が、
縊死したとでも新聞に出されると恥だからノー。
 

 無為にして閑寂たるといふことは、
大に為すあつて、
然る後に遣るべきものか、
おれは少し惑ふが、
併し、今の人は、
何故こんなに擾々として、
自ずから事を為さうとするものが多いだらう。
 

 何事も知らい風をして、
独り局外に超然として居りながら、
而かも能く大局を制する手段のあつたのは、
近代では只だ西郷一人だ。

 

末路に処するといふことは、
 実にむづかしいものだ。
 大久保(甲東)でも生きて居たなら、
藩閥政府の末路も、今少しは活気があるだらうヨ。
 大久保の時から見ると、
世は非常に進歩したから、
昔しの大久保も、
今日の我輩には迚も及ぶまいなと思ふ天狗先生も居るが、
困ったものサ。

 

 先年(三十一年三月二日)徳川慶喜公が参内せられたのは、


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