Landscape diary ランスケ・ ダイアリー

ランドスケープ ・ダイアリー。
山の風景、野の風景、街の風景そして心象風景…
視線の先にあるの風景の記憶を綴ります。

父の一周忌、母の百ヶ日忌

2011-04-18 | 家族
 
 ここ数日、晴れの予報なのだが、すっきりしない空模様が続く。
 日曜の朝も、その例に洩れず高曇りのぼんやりしたお天気。

 父の一周忌と母の百ヶ日忌が、ちょうど四月中に前後するので、
 この日に合わせて一緒に法要をすることになった。
 私にとっても、父母の死にひとつの区切りをつける大事な一日となった。

 
 
 

 弟の怪我も、ほぼ全快したので車にて菩提寺へ向かう。
 男兄弟というものは、照れ臭さもあって社会へ出ると(巣立ちの後は)
 なかなか一緒に行動する機会が少くなって来る。
 弟とも長い間、没交渉の期間があった。
 それが昨年の相次ぐ父母の死と、その後の葬儀や法事をひとつひとつ片付けてゆく過程で、
 お互いの気持が、両親や親戚を介して通い合うようになった。
 面と向かうと、まだ照れ臭いので、そんな直截的な言葉をかけることはないが(苦笑)

 早めに到着したので、まず墓周辺の清掃を済ませておく。
 境内の枝垂れ櫻が見事だ。
 ちょっと花の盛りを過ぎてはいるが、境内が桜の華やかさに色めく。
 桜と対をなすハナミズキの紅をさした薄桃色も色を添える。
 山門の裏に安置されている菩薩像に惹かれた。
 龍の口から立ち上がられた水神の化身のような佇まいと、そのお顔の柔和さ。

 法事前に、和尚さんのお話をしばらく聞く。
 仙台周辺は臨済宗の寺院が多く、ずいぶん被災されたようだ。
 まず何よりも水を断たれて困窮している。飲料水を送ってほしいとの要請。
 臨江寺周辺は鬼ヶ城や篠山を源とした豊かな湧き水に恵まれている。
 そして寺の裏山は鬱蒼とした照葉樹林の森。(今回は絶えず鹿の声が聴こえていた)
 大量の水を被災地へ送られたようだ。
 
 但し、水の配送に関しては一筋縄では行かない障害もあったようだ。
 大手の運送会社は、それが水であるという証明をしてほしい(灯油等の危険物でない)
 となかなか受け付けてくれないらしい。
 やっと地元の運送会社が「うちで引き受けましょう」と快諾してくれた。
 今回の被災地でのエピソードでは、ひとりひとりの個人の善意というか心意気を強く感じた。

 先日NHKで放送されたマイケル・サンデルの、被災地の「正義」をめぐる番組は、
 正直虚しいだけだった…彼らの論争からは現在のシステムを変えようという意識が
 まったく視えて来なかった。

 
 
 

 正午過ぎに法事も終え、再び墓所で父母や先祖に黙祷。
 「またお遍路の途中で寄るからね。そして5月からのお遍路は一緒だよ」

 今日は、これから父方の親戚と母方の親戚を訪ねることになる。
 この旅はその後、ちょっとロードムーヴィ風な展開が待っていた。

 父の故郷である吉田町立間は、私たち兄弟にとっても、
 小学生低学年の夏休みを過ごした想い出の場所。
 ほとんど四国で過ごしてきた弟にとっては、今も交流の続いている場所だが、
 私は高校卒業後、ずっと四国を離れて暮らして来たので何十年ぶりに立つ場所だろう?

 線路を渡ってJR立間駅前から谷沿いの山道へ入ると、
 その民家の軒並み、狭い川沿いの道と(舗装はされているが)
 ほとんど記憶の中の佇まいと変わらない…
 「変わらないなぁ」完全に声のテンションが上がってくる。
 「昔、川を堰き止めて泳いだよね」想い出の風景が鮮やかに蘇る。

 車を停めた父の生家も、かなり建て替えられてはいるが、
 全体の佇まいは大きく変わっていない。
 迎えてくれた叔父さん叔母さんとは母の四十九日忌以来。
 母屋の居間にて、用意してくれたお昼ご飯をご馳走になる。
 とても食べ切れないほどの料理が食卓に次々運ばれる。
 う~ん本当に、この人たちの無条件な善意にはいつも頭が下がる。

 蜜柑をくれるというので蜜柑山まで食後出かける。
 父は死期を意識してか亡くなる前の年に「故郷の山を観たい」と望んだ。
 弟に頼んで、一日を父の我儘に付き合ってもらった。
 帰宅後、目を細めて「良かったのぉ~」と繰り返し想い出を噛み締めていた顔が
 今も忘れられない…これが唯一、私が父にしてあげられた孝行だと思っている。
 その父が最後に観た(そして観たかった)風景を、目の当たりにしている。
 眼の前の風景が滲んでくるのを抑えることが出来ない…

 叔父さんは、四国遍路を5回も廻っている。
 「わしは車遍路だ。歩き遍路はもうようせん」「お遍路の途中で、必ず寄ってくれよ」
 と私に念を押し、また沢山のお土産を頂いて笑顔で送る二人に別れを告げた。

 
  
 
 

 トンネルを抜けると、密柑山の向こうに穏やかな光をたたえた法華津湾。
 峠を越えて卯之町(父母にとって宇和町でも西予市でもない)の田園地帯を抜け、
 水郷、大洲へ降り立つ。
 母の実母は、この大洲のお姫様に仕えた旧家出身だと聞いた。
 アルバムに残る色褪せた写真は、途轍もない美人。

 母は結婚後、再会した実母との時間を取り戻すかのように、
 実母の暮らす街、長浜で数年間を一緒に過ごす。
 長浜は大洲から愛媛県一の大河、肱川を下った河口の街。
 新婚の母は、実母の住む家から少し離れた場所に新居を構えたらしい。

 その母方の親戚、母の義弟にあたる人が、今もこの街に暮らす。
 ツトム叔父さんと私たちが呼んでいた人は、
 私たちの松山の生家、祝谷の家にも、よく顔を見せていた。
 この人も、子供心にハンサムな叔父さんだったと記憶している。
 先天性の小児麻痺だったのか、いつも足を引き摺りながら歩いていた。
 私たちが、この人に好印象を持ったのは、その整った顔立ちばかりではなく、
 人懐っこい笑顔によるところが大きかったと思う。

 
 
 

 ツトム叔父さん夫婦は、高齢のため母の葬儀には参列しなかった。
 この叔父さん夫婦とも交流を続けている弟から事前に連絡を入れ、
 その日の5時に訪ねることになっていた。

 ほとんどシャッターを下ろした商店街から路地を入ったところに
 旧い時計屋の店構えの家はあった。
 「叔父ちゃん~叔母ちゃん~」と弟が声をかけても返答はない。
 留守なのかと携帯を鳴らしても応答はない。
 「居ないなぁ。帰ろうか」と扉に手をかけるとドアが開いた。
 薄暗い店内に入った弟が何やら話している…

 ちょっと、この先は書けない。
 二人暮らしの高齢者が陥った孤独な暮らしがあった。
 周囲との交流も避け、一人っ子の息子は遠い横浜で親を顧みない。
 それでも、その息子を庇い続ける言葉を老いた母親は吐き続ける。
 ひょっとしたら、私たちの父母も同じような境遇に陥ったかもしれない姿、
 私が東京から帰って来なかったら、たぶん…

 夕御飯でもと、引き留める叔母さんの言葉を振り切るように、
 その家を辞した…
 かなり辛い旅の結末だった。

 

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4 コメント

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原風景 (鬼城)
2011-04-18 20:23:01
南予の原風景を見事捉えられています。
お父さんのご出身は吉田町だったんですね。
それで津島と・・・
長浜にもご親戚があるとか。
また大洲藩で謁見できないようなお女中もお祖母さんの御家系とか。
ランスケさんの南予に関する知識の深さの理由が分かりました。

100ヶ日、一周忌ぼ法要済まされたようですね。
ご両親のご冥福をお祈り申し上げます。

男兄弟は私もですが、ランスケさんが言われるとおりです。
口数は少ないが、意思伝達はできると行った具合でしょうか。
弟も先に逝って今年の10月で3周忌です。
車遍路でしたが兄と弟の供養は済ませました。

肱川からの大洲城、素晴らしいです。
返信する
もっと光を (ランスケ)
2011-04-19 00:23:26
なんだか桜が散ってから、すっきりしない空模様が続きますね。
日曜のこの日も、気温は高かったものの。、ぼんやり高曇りの一日でした。
もっと光を…と写真の陰影を求める私としては言いたかった(笑)

旅の一日を、ブログ記事として書き上げるのに時間がかかります。
それに写真を選択し、全体の構成を考えるのも…
この調子では、お遍路の毎日の記事を書き上げ掲載する時間がありません。
もっと簡潔に一日のエピソードをまとめなければ。
また課題ですね。
返信する
ひんやり~ (misa)
2011-04-19 08:51:23
花冷えの朝、全戸配布50部運動がてら軽く汗をかきました
いつのまにかマイク片手に太鼓持ち?が板に付いてきて事務所で戴く炊き出しの食事の美味しい事!しっかり体重元に戻りました
殆ど家では食事をとれてなくて主人や両親の顔もろくに見てませんが、何も言わずに後援会newsに目を通してくれます
数年前までは原稿を書く前は何からどう書こうかとあまりにも文章が短くて困ったのに
今はうまくまとめられないのかストレスからなのか書く事がとめどなくあふれ出てそれこそ困ったものです
一枚の写真が多くの心を動かす事もあるんです
一生一品・・・いつかはそんな写真を撮りたい

行ってきます
返信する
信じられないことばかり (ランスケ)
2011-04-19 16:00:19
misaさん、市議選頑張ってください。

その後の原発に関するアンケートを見ても、
原発容認派が大勢を占めているのが現状です。

彼らは、現在の生活レベルを維持したいと言います。
この過剰な電力消費の現状を維持したいと、まだ幻想を抱いているのでしょうか?

原発の放射能汚染で福島の人たちが、周辺で農業や酪農、漁業に携わる人々が
どんな思いでいるのか、自分の身に置き換えて考えることができないのでしょうか?

現在稼働中の原発に対する安全対策も、非常用の電源確保のみで終わるつもりでしょうか?
10mを超える津波は、決して千年に一度の災害ではありません。
20mを超える津波は過去の南海地震でも起きているし、
スマトラ沿岸地震でも20mを超え、あの北海道奥尻島では33mの津波でした。
明治三陸地震の38mだけが例外的な数字ではないのです。
福島原発を襲った14mの津波を超える津波は、この20年くらいの間で幾度も起きているのです。
彼らは、その事実に目を背けるつもりでしょうか?
そんなリスクを放置して原発の現状維持なんて信じられない。

先日の新聞では、巨大地震の活動期に入っていると警告しています。

あんな圧倒的な自然の猛威を目の当たりにしたのに、それが我が身に降りかかることを
想像出来ない人たちが大勢を占めることが一番信じられない?
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