この本も東北の旅からの帰途、東京駅での待ち時間に八重洲ブックセンターの店頭で目に留まった。
いつものようにパラパラ流し読む過程で引っ掛かるものがあった。
あまりジャンルに拘らず読み散らす私が、「あれは本ではない」と手にしないビジネス本の類だった。
購入してから読み始めるまで、少しブランクがあった。
インスピレーションのような触感に応じて買った割には、「やっぱりビズネス本はなぁ~」と敬遠(笑)
その間、養老孟司の本や、深沢七郎の「みちのくの人形たち」や
あの「忘れられた本の墓場」のバルセロナのゴシック迷宮へ容赦なく引き摺り込まれるカルロス・ルイス・サフォンの「風の影」の続編、「天使のゲーム」。
それに、ちくま文庫から復刊された津原泰水の初期短編集。
これらの本も紹介すれば良いのかもしれない。
でも、やっぱり面倒だ。以前にも書いたが本の紹介とは、それをもう一度翻訳し直す作業だから。
さて、いつものように前置きが長い。本題に入りましょう。
この本には、3.11以降の私たちの生き方を示唆する色んなヒントが提示されています。
マーケティングの世界では、もはや常識となっていることかもしれないけれど。
1995年の阪神大震災以降、確実に人の経済活動や消費に対する目線は変わってきました。
バブル崩壊以降の失われた10年を経て、それまでの果てしない欲望の蕩尽であった消費が、
ある種、消費の成熟ともいえる「第四の消費」へと移行しつつあります。
これが2011年3月11日の東北大震災以降、大きな転換点のうねりとなるかもしれません?
そんな可能性を充分に孕んだ清新さが見えてきます。
まず三浦展氏は、日本における消費の動向を、4つの段階に分ける。
第一の消費は産業革命以降、日本においては近代化の始まった明治の日露戦争勝利以降そして日中戦争まで。
第二の消費は、敗戦、復興を経て高度経済成長期からオイルショックまで。第一の消費が国家重視の洋風化だったのと較べて、こちらは家や会社を重視した大量消費へ。
第三の消費は、オイルショックからバブル金融破綻、小泉改革を経ての格差の拡大。こちらはより個人へと消費は差別化へ。
そして第四の消費は、リーマンショックを経て2つの大震災。不況は長期化し雇用の不安定化、収入や人口の減少、高齢化。
2005年以降を第四の消費とするその特徴は、個人やモノから「人との繋がり」を重視。
地域社会へと目線を向けたソシアルでシンプルなノンブランド志向そしてモノを共有するシェア志向。
欧米ブランドではなく日本の伝統的な手造りの良さや、東京一極集中から地方が本来持っている価値に目を向ける。
こういった動きは、現在各地で顕在化しているようだ。
その動きを牽引しているのが、子供の頃から環境教育を当たり前のように学んできた「エコ・ネイティブ」といわれる世代。
彼らはコピーを使うとき裏紙を使うのは当たり前。裏紙でないことがかえって気持ち悪い(笑)
地産地消であったり、エネルギーを遠くから運んでくるとロスが多いということだったり、
フードマイレージ、バーチャルウォーター、エコなライフスタイルやスローフードといったことが基礎教育として
読み書きそろばんのように、ごくごく自然に入ってきている。
モノが溢れていることを前提とした、あらかじめ欲望を去勢されたような世界に生きてきた子供たちは、
「食べることを面倒くさい」と答えるそうだ。
欲求の源泉が不足であるならば、人は足りないから欲しいと感じるわけだ。
いつも有り余っている状態で暮らしていると正常な食欲を維持していることは難しいだろう。
前述のエコ・ネイティブな子供たちと相反するようだが、実はアンチノミー、二律背反だ。
彼らは欲望の飽和の先に、ある意味「消費の成熟」を迎えたようだ。
果てしもない欲望の消尽を繰り返してきた親たちの世代を目の当りとしてきた彼らは、
私有することから、それぞれの欲しいモノをシェア(分配)する方向へ向かった。
住む場所も日用品も家電も車も。
そして本当に欲しいものは、手造りのシンプルで長く使えるものへと。
またそれは親たちが血道を上げた欧米のブランド商品ではない。
日本の素朴で伝統的な手造りの工芸品(柳宗悦のように)や古民家へと。
でも、こういうラブ&ピースの共同体幻想を経過してきた私たち世代としては、「本当に?」と懐疑的になってしまう。
家族ではなく目的にあった他人同士が公共性を持った住居をシェアして住み分けるという形態を以前、TVで観た。
これは若い世代だけでなく過疎の進んだ地方でも進行している現象のようだ。
ただし、このシェア志向の前提となるのは、昔の棟割り長屋のようなものとは少し違うようだ。
他者とのつながりを求めながら、それは同質化や集団主義的な押しつけがましさはない。
あくまで前提は、それぞれの個人主義的な価値観を尊重するものだということだ。
だから住人ばかりか色んな人が、その場所には往来する。
高齢化が進行すると若者一人が大勢の老人を支えるのではなく、
複数の老人が一人の若者を支えるのだという発想の転換も必要となる。
これもそれぞれが繋がり支え合っているわけだ。
例えば隠岐の離島へ嘱託職員として赴任した若者は、月給が12万しかない。
でも彼女は毎月10万を貯蓄している。
過疎の村で暮らする老人たちは日用品の調達に事欠く。
それをすべて彼女がインターネットで調達してあげる。
老人たちは、そのお礼に地元でとれる新鮮な食材を、いつも届けてくれる。
家賃も数千円だ。2万円もあれば一カ月の生活には事欠かない。もちろん都会暮らしではこうは行かない。
エコ志向の彼女にとって自然に囲まれたこの場所は天国だ(笑)
こういう事例が今、全国に広がっているようだ。
はっきり言ってメディアで報道されるものは、紋切型で一面的な内容が多い。
東日本大震災時に実質的に活躍したのはツイッターやインターネットを介した不足物資や行方不明者の消息情報だった。
大手メディアは完全に報道管制の下、沈黙したり与えられた報道ばかりだった。
官邸前の自主的なデモもツイッターやフェイスブックによる呼びかけだった。
さてエコ・ネイティブの若者たちへの期待は膨らむが、問題は以前として消費の奴隷から解放されない彼らの親たちから上の世代だ。
ある意味、私たちが原発に代表されるグローバル経済や過剰なエネルギー政策を支えているのかもしれない。
第四の消費 つながりを生み出す社会へ (朝日新書) | |
三浦 展 | |
朝日新聞出版 |
http://www.nhk.or.jp/special//detail/2012/0815/index.html
サッカーのベネズエイラ戦を観ていた皆さん、お気の毒様。
NHKは終戦特集になると、やたら内容の濃い番組を放送する。(2チャンネルより)
今夜は珍しく7時のニュース以降、NHKの番組をずっと観続けていた。
この番組はヤルタ会談のソ連参戦を日本は知らなかったという歴史的事実がロンドンの公文書保管施設から発見された文書によって覆されるされるところから始まる。
内容の詳細についてはNHKのオンデマインドでも観てください。
日本が滅びるかもしれないという最悪の状況においても、政治家や官僚たちは現実を直視しない。
(ある意味、これで菅直人の直接介入が正当化された)
講和条約を無視して中立だったソ連が参戦する情報を(複数の)事前に察知しながら、それを有効に活用しない。
それは、そのまま原発事故以前と最中の官僚や東電の対応そのままであり、リオ+20におけるムヒカ大統領のスピーチでも指摘する、資源は限られているのにグローバリゼーションの波は全世界に果てしない消費を波及させ欲望を煽り続ける。
中国やインドそれにブラジルが先進国並みの消費を繰り返せば、当然地球の資源は枯渇する。
それを判っていながら止められない。
目の前に迫る危機を察知しながら、止められない。
なんだろう?
このレミングの集団自殺のような人類の行動は?
不気味だ。