Landscape diary ランスケ・ ダイアリー

ランドスケープ ・ダイアリー。
山の風景、野の風景、街の風景そして心象風景…
視線の先にあるの風景の記憶を綴ります。

セラピスト / 最相葉月

2016-11-15 | 

 

心の健康は難しい。

身体の不調が精神のバランスを損なうように、

心の病は、神経伝達回路で繋がった身体の機能を損ねてしまう。

何度も云うが、身体の機能と人の営む暮らしが等身大である頃までは、

可視出来る範囲内の世界のルールの中で、その共同体に帰属していれば良かった。

もちろん度重なる天災や諍い、それに日々の暮らしは貧しかったでしょう。

でも個人という自我の概念から遠かった近代以前の人の暮らしは、

心身の乖離感に居場所を失うようなストレスを、こんなに大勢の人が抱え込むこともなかったでしょう…

人が文字や言葉を持って共同体を維持するようになって、

手足の延長である道具(ツール)から実体のない頭の中で作られたツール(言語)で世界を飛躍的に広げてきました。

だから物事を単純に落とし込むと、

私たちを取り巻く社会は、周囲の自然環境と違って実体のない脳内の共同幻想です。

私たちが抱える心の病は、そのまま現代という人が創り上げた社会(共同幻想)を映す鏡である。

(例えば、70年代から2000年代にかけて、その時代に顕著な症例は見事に変遷しています)

と云えないでしょうか?

 

ずいぶん前置きが長くなりました。

最相葉月の文庫版「セラピスト」を読み終えました。

単行本化の時に高い評価を受けた書評に違わず、丹念に日本における精神医療の実態を

取材した読み応えのある内容でした。

まず精神医療には、医師としての脳神経や精神科の領域と臨床心理士としてのカウンセリングの領域があることを理解してください。

医療行為として需要が飛躍的に増しているのに、治療に携わる医療者の供給が需要にまったく追いついていないのは、

他の医療分野と同じです。待ち時間1時間以上、診察時間3分という状況も。

そして医師はPCの画面を見るばかりで患者と向き合わず薬を処方するだけなのも。

だから自分に合った医療者を見つけるのに5年かかると云われています。

幾つもの病院やクリニックを受診するたびに診断される病名がまるで違うという実態も。

(これにはDSMという症状の世界標準規格の導入による個人差を度外視した弊害もあります)

これら精神医療の現状は、この本の後半で紹介されることになるのですが、

最相葉月が前半で多くのページを裂いて向き合いたかったのは、

日本における心理学と精神医学の巨星、河合隼雄と中井久夫の存在だったのでしょう。

特に中井久夫とは、治療者と被験者として長い時間を向き合うことになる。

その絵画療法の過程は、逐語録として息を呑む内容。

著者である最相葉月自身が深い心の病を抱えていることをカミング・アウトすることになる。

河合隼雄、中井久夫の口から語られる言葉は、それぞれの心療行為の中で、

魂の深いところまで降りてきた人の重みと含意を感ぜずにはいられない。

その言葉を並べるだけで本の紹介は終わってしまうだろうし、

その言葉を胸の内で何度も反芻すると、すーっと気持ちが楽になるでしょう。

だから本を手に取った皆さんが御自身で向き合ってください。

そして稀代のセラピストは、構えず風に揺れる柳のように、飄々と融通無碍なところも同じ…(笑)

こういう人に私たちは心を開くのでしょう。

 

セラピスト (新潮文庫 さ 53-7)
最相 葉月
新潮社

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5 コメント

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存在のかなしみ (ランスケ)
2016-11-16 11:50:48
人の魂と深く係わってきた人の言葉は、沁み入るように胸の内に落ちてきます。

あえて今回は、セラピストの語る言葉を羅列することを避けました。
こういう手法は、自己啓発本で、あざとく使われることへの嫌悪感もありました。

それでも、やっぱり、この言葉だけは紹介したいと思います。
河合隼雄の言葉…

「人間の心の底に“存在のかなしみ”ってあるのではないか」
晩年の河合隼雄は、そう語っていた。

「人間関係を個人的な水準のみではなく、非個人的な水準まで広げて持つようになると、
その底に流れている感情は、感情とさえ呼べないものがありますが、
“かなしみ”と云うのが適切と感じられます。
もっとも、日本語の古語では、「かなし」に「いとしい」という意味があり、
そのような感情も混じったものと言うべきでしょう」

仏教的な無常観は、河合隼雄の中に一貫してあったようです。
「クライアントが症状に悩むとき、それを解消することにも意味があるし、
解消せずにいるのも意味があると思っています。
そして、おそらくそのどちらを選びかは、クライアントの個性化の過程に従うことになると思います」
返信する
答えさがし (ホッホ)
2016-11-16 12:50:47
9月19日に姉が66歳で亡くなりました。
死因は、心筋梗塞で、糖尿病からの
併発だと思われます。

姉とは確執があり19年間音信不通でした。

存在の悲しみですか、姉には「かなし」「いとしい」
という気持ちもあり、相反する気持ちもあります。

最相葉月・河合隼雄・中井久夫の著書を読んで、
自分の気持ちの整理をすれば、ある程度の
答えがでてくるかもです。
でも、それはその時にでた答えであって時が経つと微妙に変化すでしょうね。

永遠に答えはないかもしれませんが、・・・
これからも考えて行くと思います。
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お悔み申し上げます (ランスケ)
2016-11-16 13:15:09
そうでしたか…お悔み申し上げます。

ホッホさんと親族の経緯は以前に訊いていましたね。
どういう形であれ、逝ってしまわれると、
残された者には後悔が残ります。
それはホッホさん自身で時間の経過の中で解決していってください。
私も、そうしてきました。

この本を読んでいると、
私のように白黒つけたがるのも善し悪しのようです。
心の病は、治ることが正解とは限らないからです。
それと向き合うことは間違っていないと思いますが、
その傷が癒されたから救われたとは言えないからです。
長い時間をかけて病を克服した人が、その後に自死してしまうケースも報告されています。

人の心は、本当に難しい。
そして、その存在自体がかなしい。
それは悲しいでも哀しいでもなく、悲哀とは別のかなしい、だと思います。
返信する
惜別 (ホッホ)
2016-11-16 21:36:08
姉のお通夜の夜、お参り頂いた皆さんが帰られて、
姉2人と、姉の子供たちだけになりました。

暫くして納棺の時間がきました。

表面上は普通に接していましたが、心は空虚なままでした。
納棺の前にみんながお別れをしていきます。
私は、無表情に感情を押さえていましたが、動かない土色をした姉の顔を見ていると涙が溢れてきて嗚咽し号泣してしまいました。
距離をおいていた、姉や甥、姪っ子たちも、つられて、声にだして泣いていました。
お別れは、複雑な経緯があっても最後は、「惜別」というかたちになりました。

生き物の存在自体が「もののあわれ」なんでしょう。
英語の「エクスタシー」は、小さな死という意味もあるそうです。
喜びや哀しみや怒りそして楽しい事を繰り返し生きていくことが薔薇色の十字架を背負った私たちの幸せなのでしょうか。
返信する
もののあわれ (ランスケ)
2016-11-16 22:42:58
そうですか…姉弟ですからね。
わだかまりを持ったまま先に逝かれると、その空隙を埋めることは、もう叶いません。
色々あったでしょうけど、
やっぱり長い時間を一緒に過ごしてきた姉と弟です。
もう二度と会えないということを認めることは痛切です。
その感情を抑圧する必要はありません。
吐き出せる時に吐き出してしまいなさい。

その通りですね。
私も夕方の散歩の途中で、「かなしみ」の正体は「もののあわれ」だと思いました。
「かなしい」という言葉には「いとしい」という意味もあります。
本居宣長の謂う情趣よりも衆生の無常観を込めて。
ユングも河合隼雄も仏教思想への傾倒が顕著です。
諸行無常は生命現象の本質でもあります。

変わり続けること。代謝することが生命の本質です。
だから私たちも風に揺れる柳のように融通無碍に(笑)
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