あなたがいて 私がいて この世は廻るの ...
キャンディーズ「あなたに夢中」より
前エントリの冒頭で紹介した歌詞「さよならノストラダムス」にある様に、僕ら「最高の被害者」としたのは五島勉(ごとうべん)氏が執筆した「ノストラダムスの大予言」である。それを信じた者が多かったのは否めないし、オウム真理教の終末思想もその影響であろうと云う見方もある。かくいう、私も「ノストラダムスの大予言」は全巻読んだ。
2000年を迎え「ノストラダムスの大予言」も外れ、終末思想家達はマヤ文明の暦を持ち出し、今年の冬至頃にその暦が終るからと、またもや終末論を語り出す。私が好きな「X-FILES」も最終回はマヤ文明を絡めているし、製作総指揮のクリス・カーターは「ミレニアム」と云う終末論を絡めたサイコサスペンスドラマも手掛けた。
映画「アルマゲドン」やら、地球を危機から救う題材は確かに面白いしスリリングである。が、他人が書いた脚本であり、エンターテイメントであるから、信じるとカルトと呼ばれる。
カルト(Cult)はラテン語(Cultus)由来で、崇拝・礼拝を意味し、決して現在の様な異様な団体を意味するものではなかった。私に言わせれば古来からの宗教もカルトである。私が無信心なのは、物事の捉え方を狭めるのが嫌で、客観性を失うからである。何故なら、疑問に対する答えが用意されているからである。
人間は答えを知りたがる。その欲求は自然だし否定しないけれど、答えを求めるプロセスを省く事は、己を無力化すると信じている。苦難であっても自分で答えを導き出せなければ、個性を持たない無味乾燥な人生を送るだけだと思う。故に、疑問を投げかけると何でも答えを教えてくれる宗教は嫌いなのである。宗教で救われる人も居るのだから、宗教を否定はしないし、私自身その教えも参考にするし、正論だと思う事さえある。
以前も記したと思うが、どんな宗教も原典は一つでも宗派がある。それが意味するのは、言葉の解釈が異なるからで分派する。精神を言葉にしても、心・精神は十人十色で言葉の受け手側の解釈が異なるのは至極当たり前の事である。
私の「神」の解釈は、存在しないもので、万物に感謝を込める抽象的概念だと思う。「神」と同様に霊魂や幽霊なども信じていない。
私は今の年金制度はねずみ講だと申した。それが保険料であれ税金であれ、何れにしても高齢者が遊んで暮らせる時代など終わりだと思っている。故に、最低限自立の生活として自給自足の生活を考える。年上にそう云う話をしても、足腰が悪くなれば田畑など出来ないと笑われるが、例え車椅子でも田植え出来る構想は持っている。そりゃ、現状の稲作を想像したら足腰が弱れば物理的に出来やしない。既成概念に捉われていれば無理だと相成る。ただ、それを実現するまで足腰が保ってくれるのを祈るのみ。其れこそ神のみぞ知るだ。
仏教では輪廻転生と云う概念があるが、私は無信心で霊魂を信じないから、元々地球上にある物質から構成された身体、地球に返るとしか思わない。厳密に云うと輪廻は魂が動物などの形で生まれ変わる事で、転生は人間として生まれ変わる事だから、魂は扨置き、転生を信じない。生命とは植物も含むと考えるから、輪廻は魂を除き或る意味合点のいく話である。
この世の行いで来世が決まるのだ。に対する私の解答は映画「The Bucket List」でジャックニコルソン演じるエドワードの台詞が適当だ。「そこが判らんのだよ。例えばカタツムリは現世でどんな努力をすりゃ良い?真っ直ぐ這うとか?」
それは単なる戒めの言葉だと思う。人間は努力に対する褒美を求めたがるから、現世で褒美がなくとも来世が素晴らしいものになるんだよと云う慰めの言葉だろう。
宗教も思想や人生哲学の一環だと思えば、良く理解出来ると思う。故に、宗教も参考にはする。が、それを決して鵜呑みにはしないし、自分の脳みそで咀嚼して考える。
人間だけではない、動物もそうだ。経験・体験を通して得た知識や知恵を子孫に、未来に、役立てる為、コミュニケーションを取るし、言語を生み出した。それは、大きな意味で愛情から派生したものだと思うのだ。なのに、争いの道具として言葉を使うのは如何なものか。建設的とは思えない。
特に政治家の言葉には愛情を感じないね。そう云う人達にこう言って於こうか。
「成仏せ~よっ!」
( ´ー`)yー-~
Q. : Why couldn't the Buddha vacuum a sofa?
A. : Because he had no attachment.