とうとう、大晦日(おおみそか/おおつごもり)になっちゃいましたね。
殆ど、愚痴やストレス発散、つまらぬ日記なのに、読んで下さる皆様に支えられ、私も意欲を持って書き綴る事が出来る様になって参りました。有難い事です。
皆様のご多幸を祈りつつ、新しい年を迎えられます様、願ってやみません。ご愛顧下さり、私も幸せです。有難う御座いました。厚かましい様ですが、来年も宜しくお願い致します。帰省されている方も居られると思いますが、高速道路も事故渋滞が発生していると聞き及びます。呉々も事故等にはお気をつけて下さいませ。
早速、私らしく少し毒突きたいと思います。「門松は冥土の旅の一里塚」と申します。正月の門松も立てる毎に歳を取るから死に近付くしるしであり、目出度くもあり、目出度くもなしと、一休和尚の言葉とされています。正月を迎えるにあたって、縁起もないと思う方も居られますかね。
その一休和尚、顔は槇原敬之さんに無精髭をあしらったら凄く似ていたりします。頓智咄で有名ですが、それは江戸時代の創作で、僧であり乍ら仏教の戒律も守らず、形式に捉われない人間臭さが江戸時代の庶民の共感を呼び、「一休咄」が生まれました。
仏教の戒律を守らずとは、飲酒、肉食、女犯(にょぼん/性行為)のみならず男色もしたそうで、正月には髑髏(され/しゃれ-こうべ)をあしらった杖を突いて、「ご用心、ご用心」と練り歩く奇行も多く、然れど、それは風狂(ふうきょう)と云い、仏教の常軌を逸した行動は悟りの境涯を現したものと肯定的に取られています。
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」と、仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、伝統化や風化に警鐘を鳴らす人でした。私に似ているなと思ったりもしますが、一休和尚に私が似ているなと思うのは皆様方の判断にお任せします。
一休和尚の言葉を借りますと...
「南無釈迦じゃ 娑婆(しゃば)じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ」
京都に生まれ、社寺仏閣には縁が御座いましたし、酬恩庵(しゅうおんあん/一休寺)にも行きましたが、私は無信心で御座います。父親が亡くならなければ大谷高校を受験していたやに思います。仏教の修行は煩悩や執着を絶つ事、坊主がベンツに乗ったりしているのを見ますとシラケてしまって。東・西本願寺の争いや、善光寺貫主の法廷闘争やら見て来ますとシラケてしまって。
さて、数年前までは近所の邸宅には毎年門松が飾ってあったのですが、最近とんと見掛けませぬ。
今朝も薄暗い6:25に家を出る。ゴミ拾いを終らせ、Yさん宅の縁石も片側片付ける。ケンさんもやって来て、綺麗になったと喜んでくれた。今日はビニール紐を持って行き、道路側に迫り出した木槿(ムクゲ)の木を起こそうとしたが、敢えなくビニール紐がブチ切れ失敗に終った。もっと丈夫な紐を用意して、また今度にする。
紫陽花の下草取りをしていたら、カイさん、ヨっちゃんと温かい缶コーヒーを差し入れしてくれた。有難いねぇ。
四阿も散らかっていて、池のゴミを掬っていた時、時折顔を会わせる体操しに来る老夫婦は奥さんが「毎日掃除して下さってるのにねぇ」と散らかっている様子を嘆いた。「子供だから仕方ないですよ」と返事をしたが、本当はその返事に「大人にモラルが無いから、それを見て育つ子供に責任はないですよ」と付け加えて於きたかったが、嘆く対象が子供に向っているので、言っても通じないだろうと言わなかった。
主治医曰く「うつ」になる過程の期間ほど治癒に時間が掛かるとは、私も体験中。子供には気安く叱る大人が、大人の悪さには叱らない。そんな弱さを持った人に言ってみても、長年そうして来た人達に気付かせ、行動させるのは難しい。時間が掛かる。
私が手入れして来た紫陽花も、新芽が出ている枝をポキポキ折られる。今朝も酷かったし、それは子供とて残念でならない。が、雑草だらけで荒れ果てていると子供も興味を引かない。私が雑草を根こそぎ取り、綺麗にしてこそ子供の興味を引くのは織込み済みなのだ。淡々とまた綺麗にするのみ。何時しか綺麗な事に、喜びが芽生えるのを私は待つのだ。勝手連の縄張りとの対比がその効果を増す。
一昨日のエントリで記した池の浄化もそう云った難題がある。汚い池には子供も入らないが、綺麗にすると池に入り水遊びする。事故も起き兼ねない。常に、メリット・デメリットが生ずるから、そのバランスを考慮しなくてはならないし、バックアッププランを練らなければならない。
それが出来ていないから、原発事故は起きたのだ。
良いお年をお迎え下さいね。
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福島民報「全県民に商品券案」政府、住民賠償「対象外」支援 - 基金420億円充当か
枝野経済産業相は22日、福島県民に対する賠償として「商品券」を配布する考えを表明した。同商品券は福島県民全員に配布されるが、県内でしか使用出来ないと云う。