イスラエル国家の矛盾

2024年04月12日 22時00分59秒 | 社会・文化・政治・経済

【10日 詳細】米大統領 イスラエル首相の対応を批判

アメリカのバイデン大統領は9日放送されたメディアのインタビューで、ガザ地区での軍事作戦を続けるイスラエルのネタニヤフ首相の対応について「彼のしていることは間違いだ。彼のやり方には賛成できない」と述べて批判するとともに、直ちに停戦に応じて十分な食料や医薬品などの搬入を行えるよう、対応を強く求めました。

※イスラエルやパレスチナに関する日本時間4月10日の動きを随時更新してお伝えします。

バイデン大統領が批判「彼のしていることは間違い」

ガザ地区ではイスラム教の断食月ラマダンが明け、本来なら「イード」と呼ばれる祝日の期間に入り、祝いの雰囲気に包まれますが、地元のメディアは10日、前日の夜から朝にかけてイスラエル軍による空爆などがあり、中部では14人が死亡したと伝えています。

イスラエルの軍事作戦で人道危機が深まる中、アメリカのバイデン大統領は事前に収録され9日放送されたアメリカのテレビ局、ユニビジョンのインタビューで、イスラエルのネタニヤフ首相の対応について「彼のしていることは間違いだ。彼のやり方には賛成できない」と述べて、批判しました。

そのうえで「イスラエルには、直ちに停戦に応じ、今後6週間から8週間、食料や医薬品をすべて搬入できるようにすることを求める。人々に必要な医薬品や食料を届けないことに弁解の余地はない」と述べて、対応を強く求めました。

バイデン大統領は今月4日のネタニヤフ首相との電話会談で、民間人の保護などでイスラエル側の対応に変化が見られなければアメリカの政策を見直す可能性があると警告するなど、圧力を強めています。

イスラエル首相府 “支援物資をガザ地区に搬入”

一方、イスラエル首相府の報道官は9日、これまでで最多となるトラック400台以上の支援物資がガザ地区に搬入され、物資は足りているなどとしたうえで「国連が分配に失敗し、ハマスが盗んでいる」などと述べ、責任は国連とハマスにあるとの主張を展開しました。

イスラエル首相 ラファ地上作戦 実行を強調

イスラエルのネタニヤフ首相は、多くの避難者が身を寄せるガザ地区南部のラファへの地上作戦について、あくまでも実行する考えを重ねて強調しました。

イスラム組織ハマスが戦闘の休止などをめぐる交渉で示された提案について検討するとしている中、ハマス側に圧力をかけ揺さぶるねらいもあるとみられます。

ガザ地区 “死者さらに153人増える” 現地の保健当局

ガザ地区では、イスラエル軍が南部ハンユニスからの撤収を明らかにしたあとも空爆などが続き、地元のメディアは9日、南部や中部で複数の死傷者が出たとしています。

現地の保健当局は、これまでの死者はさらに153人増え、3万3360人になったと発表しました。

米国務長官 “来週 イスラエルと協議する場設ける見通し”

イスラエルのネタニヤフ首相は9日、「世界中のいかなる勢力もわれわれを止めることはできない」と述べ、多くの避難者が身を寄せるガザ地区南部のラファへの地上作戦について、あくまでも実行する考えを重ねて強調しました。

これについて、アメリカのブリンケン国務長官は9日、記者会見で「イスラエル側から伝えられた日付けはない」と述べ、来週、作戦をめぐってイスラエルと協議する場を設ける見通しだと明らかにしました。

その上で「協議の前に何らかの行動がとられるとは考えていない」と述べ、すぐに作戦が実行されることはないという見方を示しました。

ハマスは、戦闘の休止と人質の解放などをめぐる交渉で、示された提案について検討するとしていて、イスラエル側としてはハマス側に圧力をかけ揺さぶるねらいもあるとみられます。

トルコ イスラエルへ輸出制限措置 イスラエルは対抗措置の考え

トルコの商務省は9日、イスラエルに対し、主な輸出品となっている鉄鋼材のほか、セメントやジェット燃料など、54品目の輸出を制限する措置をとると発表しました。

発表では「イスラエルがガザ地区での即時停戦を宣言し、十分な量の人道支援物資を途切れることなく届ける許可を出すまで、措置を続ける」としています。

一方、イスラエルのカッツ外相は、自身のSNSへの投稿で「エルドアン大統領はハマスの殺人者たちを支援し、トルコ国民の経済的利益を犠牲にしている」と反発したうえで、「トルコへの輸出を止める製品のリストの作成を命じた」として、対抗措置をとる考えを示しています。

イスラエルの中央統計局によりますと、去年イスラエルはトルコからの輸入額が46億ドルで、中国やアメリカなどに次いで5番目の規模でした。

トルコでは、エルドアン大統領がイスラエルを「テロ国家だ」などと繰り返し非難しながら、貿易を続けていることに対して、「パレスチナへの裏切りだ」とする声もあがっていて、輸出制限はこうした国内世論を意識したものとみられています。

 

シオニスト運動への態度
イエスが聖地に帰還するというキリスト教徒の信仰はシオニズムとイスラエルの支配層に深く根ざしている。

ユダヤ系アメリカ人社会におけるシオニズムに対する支援は小さなものだったが、1912年に結成されたFederation of American Zionists[訳語疑問点]のルイス・ブランダイスが関与を始めると[3]、1914年にはProvisional Executive Committee for General Zionist Affairs[訳語疑問点]が創設され、「シオニスト問題が改善される時が来るまで取り組む」とされるシオニスト機関によって地位の向上が図られた[4]。

1917年のイギリスのバルフォア宣言は当時のシオニスト運動を前進させ、公式な正統性を与えた。

ウッドロウ・ウィルソンは苦境にあったヨーロッパのユダヤ人に同情的であり、彼は1919年にアメリカの政策はバルフォア宣言に従うと繰り返し述べたが、シオニズムを公式に支持することはなかった。[5]

しかしアメリカ議会では、パレスチナにユダヤ人の国家を建設することを支持することが述べられた最初の共同決議であるロッジ=フィッシュ決議[6] が1922年9月21日、議会を通過した。[7][8]。

同日、イギリスによるパレスチナの委任統治が国際連盟の理事会によって承認された。戦争中の議会による2つの試みにもかかわらず、追従政策は第二次世界大戦後まで続いた。

戦争のさなかのアメリカの外交政策の意思決定はしばしば日和見的であり、議決は戦時の需要によって左右されていた。

1942年5月のビルトモア会議において、シオニスト運動は伝統的なシオニスト政策から根源的な新たな出発点を迎え、「パレスチナにユダヤ人の共同体を建設すること」を求め[9]、その目標を述べた[10]。

戦争が終わり、「新しい戦後時代は干渉しない態度を取った戦前の特徴とは対照的に、アメリカの中東における政治的、経済的問題に対する徹底的な関与を目の当たりにした。トルーマン政権のアメリカはソビエトの脅威、イスラエルの建国、そして石油という3つの課題に直面し、この地域におけるアメリカの利害について、これら3つの問題すべての根源的原因に対する政策を明確にせざるを得なくなった」。[11]

イスラエルの国家の承認
それまでのアメリカの大統領は、ユダヤ人の祖国建設計画を支持する国内の市民グループや労働組合、政党とともにアメリカと世界のユダヤ人のコミュニティーのメンバーからも活動的な援助を受け、勇気づけられていたが、1917年のイギリスのバルフォア宣言について言及されると、彼らは公式に「追従」を続けた。

ルーズベルト、トルーマン政権を通じて旧陸軍省と国務省はソビエトとアラブ諸国の関係とアラブ諸国によるアメリカへの石油供給の制限の潜在的可能性について認識しており、アメリカがユダヤ人に代わって調停を行うことの危険性について助言した[12]。

この地域における紛争は続き、ヨーロッパにおけるホロコーストの生存者の人道的な状況も悪化したため、1947年11月29日、アメリカの支持を得て、国連総会においてユダヤ人とアラブ人の国家を建設するとする決議181号(パレスチナ分割決議)が採択され、イギリスの撤退に影響を与えた。後にトルーマンがシオニストの支持者による激しいロビー活動が行われていたと述べた[13]。 決議は、アラブ諸国から拒否された。


1951年5月8日、ダヴィド・ベン=グリオン首相(右)とアバ・エバン(中央)と会談するトルーマン大統領
委任統治の終わりが近づいていたが、ユダヤ人の国家を承認するかどうかについての論争は続き、トルーマン大統領とトルーマンの内政および選挙対策アドバイザーであるクラーク・クリフォードと国務省、国防総省との間で大きな意見の相違が認識されるようになった。トルーマンはシオニストに対し同情的であったが、ジョージ・マーシャル国務長官はアメリカがユダヤ人の国家建設の後押しをするのはムスリム世界との関係に悪影響を及ぼし、中東の石油へのアクセスを制限し、地域を不安定化させるのではないかと考えていた。

1948年、トルーマンはオーヴァル・オフィスでマーシャル国務長官、ロバート・A・ラヴェット国務次官、クラーク・クリフォード大統領顧問ら数人と会い、パレスチナの状況について話し合った。クリフォードは新しいユダヤ人国家の建設を国連の分割案に基づいて行うべきだと主張した。マーシャルはクリフォードの主張に反対し、彼らが選挙を行った後の国内的な政治決断に基づくべきだとした。マーシャルはもしトルーマンがクリフォードの助言に従い、ユダヤ人国家を承認するならば、選挙でトルーマンの対立候補に票を投じると語った。

トルーマンは彼の意見を話し合いの場では明確にしなかった[14]。2日後の1948年5月14日、トルーマン政権のアメリカはイスラエルの事実上の承認をする最初の国になり、11分後、イスラエルは単独で独立を宣言した。

この予期せぬ決定の後、アメリカのウォーレン・オースティン国連大使は彼の国連におけるオフィスを後にした。マーシャル国務長官はアメリカの代表団がすべて辞職してしまうことを避けるため国務省の職員を国連に送った。[14] 法的な承認は1949年1月31日だった。

アメリカ人のラルフ・バンチによる国連における調停とそれに続く1949年の停戦合意によって、1948年から続いた第一次中東戦争は終結した。停戦の執行に関連して、アメリカはイギリス、フランスとともに三国宣言に署名した。その中で、国境地域での暴力行為や休戦ラインを引くことを国連の内外で回避することが誓約され、この地域において平和と安定をもたらすためにとる関与政策の概要が規定され、暴力の行使や脅迫に対する異議、この地域における軍拡競争に対する異議が繰り返し述べられた。

地政学的状況が急速に変わっていく中、一般的なアメリカの中東政策は、アラブ諸国の独立、産油国の開発を支援し、軍拡競争を防ぎ、アラブとイスラエルの紛争に対して中立を守りながら、ソビエトの影響力がギリシャ、トルコ、イランに及び、足がかりになるのを防ぐことだった。当初、アメリカの政策立案者は海外支援をこれらの目的の支援のために利用した。

アメリカ政府の外交政策
アイゼンハワー政権(1953-1961)
イスラエルが建国当初の困難な時代にあっても、アメリカはイスラエルに対する少なからぬ経済的支援を与えた。そのほとんどは基本的な食料であり、無償ではなかった。西ドイツからイスラエルに国家の歳入の大きな割合を占める程の賠償金が支払われると、それらは国内の開発のために使われた。

フランスはこの頃のイスラエルの主要な武器供与国となり、イスラエルに進んだ軍事的な装備と技術を与えた。この支援は1955年9月、チェコスロバキアと軍備協定を結んだガマール・アブドゥル=ナーセル大統領のエジプトの脅威にイスラエルが対抗するためだと思われた。1956年のスエズ危機の間、フランス、イスラエルとイギリスはナーセルのスエズ運河奪還とその国有化を防ぎ、シナイ半島の西部を一部占領してアカバ湾の自由な航行を保証することなど様々な理由を背景としたセーヴル秘密協定を締結した[15]。これに反応してアメリカはソ連の協力を得て、エジプトの代わりに国連が介入し、イスラエルを撤退させた。その後、ナーセルはアメリカと緊密な関係を作りたいと願望を表明した。この地域への影響力を高めることやナーセルのソ連への接近を防ぎたい願望はあったが、アメリカの政策は中立を保ち、イスラエルとの同盟関係を強めすぎることはなかった。1960年代初頭、アメリカはホーク対空ミサイルを含む先進的ではあるが防衛的な兵器をイスラエル、エジプトとヨルダンに売却し始めた。

ケネディ、ジョンソン政権(1961-1969)

エルサレムの森にあるジョン・F・ケネディを追悼して建設されたヤド・ケネディ。外観は木の切り株のような形をしており、彼の短い生涯を示唆している。
リンドン・B・ジョンソン大統領のアメリカでは、イスラエルに対して全幅の信頼を寄せていたが、その支援に際し、全く疑いがないわけではなかった。1967年の六日戦争の前、アメリカの政権は偏愛主義が現れるのを避けるよう注意を払っていた。ジョージ・レンツォウスキーは著書『アメリカの大統領と中東』の中で、「ジョンソンの不幸な、事実、悲劇的な大統領時代」と述べ、「アメリカの中東における態度」について、米以関係およびアメリカとアラブ諸国の関係が転換期を迎えたと記した。 彼はアメリカの中東認識について1948年以前の「西洋世界の最もありふれたもの」から変化して、「魅力は薄れたものの、スエズ危機におけるアイゼンハワーの忍耐は中東の多くの穏健派を納得させ、もし実際には愛すべきものでなかったとしても、アメリカは少なくともフェアな国として扱われていた。このアメリカの公平と不偏いう視点はケネディが大統領だったときもまだ優勢だった。しかし、リンドン・B・ジョンソンが大統領になると、アメリカの政策は明らかに親イスラエルのほうへ向きを変えていった」と述べた。1967年の6月戦争はこの印象を確信させ、「1967年から(書いていたのは1990年のとき)アメリカは中東において実際には嫌われていた国ではなかったにせよ、最も信頼できない国だということが明らかになった」と書いている。

戦争に至るまで、アメリカの政権は外国の攻撃から自国を守るというイスラエルの必要性に同情的だったが、アメリカはイスラエルの反応が行き過ぎたものになることや地域が不安定になる可能性を懸念していた。イスラエルとヨルダンの間に起きたサム事件はアメリカにとってとても厄介なものだった。なぜならヨルダンもまた同盟国であり、その後別の事件で破壊された東ゴールメイン運河の建設のために5億ドルを受け取っていたからである。

ジョンソン政権が抱いていた当初の懸念は、この地域で戦争が勃発し、アメリカとソ連がそれに巻き込まれることだった。この地域の国々とソビエトによる、初めはホットラインも使われた外交的な激しい交渉も戦争を回避することはできなかった。イスラエルがエジプト空軍を先制攻撃したとき、外交的な解決方法が可能だと感じていたディーン・ラスク国務長官は失望してしまった。

1966年、ソ連製のMiG-21戦闘機に乗っていたイラクのパイロット、ムニール・レドファはイスラエルに着陸し、乗っていた航空機についてすぐさまアメリカと情報を共有した。

六日戦争でイスラエルのジェット機と水雷艇がエジプト海を航行していたアメリカ海軍の技術調査艦リバティーを攻撃し、34人が死亡、171人が怪我をした。イスラエルはリバティーをエジプトの補給艦エル・クセイルと間違い攻撃したと主張し、同士討ちの実例となった。アメリカ政府は多くの論争はあったもののそれとして受け入れたが、いまだに多くの者が故意であったと信じている。戦争が終わると、ワシントンは多くのアラブ諸国(特にエジプト)が恒久的に親ソビエトに向かったと認識した。1968年、議会の強力な後押しを得て、ジョンソンはファントム戦闘機のイスラエルへの売却を承認し、イスラエルの近隣諸国に対する軍事的優位が確立された。しかし、アメリカはソ連製の武器がこの地域に浸透するのを防ぐため、レバノンやサウジアラビアのようなアラブ諸国に対する武器の供与も継続した。

イスラエルとエジプトが消耗戦争を繰り広げる中、イスラエルのコマンド部隊はロースター53と名付けられた作戦において、ソ連が建設したP-12レーダーの基地を占領した。それ以前には知られていなかった情報がその後アメリカに共有された。

1967年にフランス政府がイスラエルに対する武器の禁輸を課したとき、イスラエルはダッソー・ミラージュ5のデザインをスイス系ユダヤ人の技術者から諜報活動によって入手し、これを基にクフィル (航空機)が製造された。これらのデザインもまたアメリカに共有された。

 

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