他者を理解する

2018年10月24日 16時40分06秒 | 社会・文化・政治・経済
自分を理解するために、他者を理解する。
自分の考えだけに固守していると、おのずと世界が狭くなる。
そして、時には自分の進むべき道が見えなくなる。

友を思う慈悲から智慧が生まれる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐々木隆興先生を偲ぶ

2018年10月24日 16時21分13秒 | 医科・歯科・介護
佐々木 隆興(ささき たかおき、1878年5月5日 - 1966年10月31日)は、日本の医学者。
専門は、生化学、内科学、実験腫瘍学。文化勲章受章者。
生前、1935年・1936年・1939年・1941年にノーベル生理学・医学賞の候補に4回も挙がっていたものの、受賞を逸している。


吉田富三先生

財団法人癌研究会癌研究所長
財団法人佐々木研究所長

先生は去る十月三十一日、八十八才余の御生涯を閉ぢられた。
私としては一言、痛惜に堪えないといふ言葉以外にない。
正直に言って、今は多くを語りたくないし、その方が先生に対する礼であるとも思ふが、また編集者の要請を強く断るのも如何かと思はれる。
よって次の様な愚文を草して責をふさぎ、先生のお許しをも得たい気持である。
佐々木隆興先生は異例の学者であった。
類例の少ない存在であったと思ふ。
学者として、先生のやうに純粋な人物が、これから先も、そんなに多く現はれるだらうとは思へない。
先生は偉大な学者であったにかかはらず、世に一般に知られるところが少なかった。
これは先生自身が名聞を求めず、却ってこれをおそれる風があったことにもよると思ふ。しかし、いはゆる知る人ぞ知るで、学界に於ては、その学業の真価とその高潔な人格、高邁な学究精神は、正しく評価され、尊敬を受けて居たと思ふ。
そのことは次の事実に現はれてゐるといへやう。
・大正十三年「蛋白質及び之を構成するアミノ酸の細菌による分解とアミノ酸の合成に
関する研究」により帝国学土院恩賜賞。
・昭和十一年「オルト・アミドァツオトルオールの経口的投与による肝臓癌成生の実験的
研究」により再度の帝国学士院恩賜賞。
・昭和十四年、帝国学土院会員。
・昭和十五年、文化勲章受章。
これらの栄誉は、名聞を求められず、とくに虚名の世に高くなることをおそれられた先生も、快くお受けになったものと思ふ。
先生が学者、研究者として特異な存在であったといふことの一つは、先生が「町医者」
でありながら、同時に稀に見る学者・研究者であった事だと思ふ。
町医者といふのは少しく過言のやうであるが、先生があるとき「私の家は代々町医者です」とお書きになった通
り、先生は杏雲堂病院といふ代々の私立病院の院長の家に人と成られ、職業といふ言葉を
使へば、その院長が先生の職業であった。
大正二年から五年まで三年間(先生の三十五才から三十八才まで)特に望まれて、当時の京都帝国大学の内科の教授を勤められた他は、杏雲堂病院の院長であった。
その間、これも当然ながら全く私立の、いってみれば先生個人の書斎の延長のやうな佐々木研究所で、倦むことなく、「医学」の「実験研究」を続けられたのである。
ここで「医学」といふ意味は、先生の研究は有機化学、生化学、細菌学、病理学等、広い範囲にわたるが、総ての研究は、先生の医師としての立場、医学の立場を離れることなく、そこに発想があったからであり、また「実験研究」といふ意味は、先生の研究は、実験による実証と、実験による体得的理解とが、その主体であるからだと解してよ
からうと思ふ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今に生きる吉田富三博士の心

2018年10月24日 16時13分42秒 | 医科・歯科・介護
明治36年、福島県浅川町生まれ。
 東京帝国大学医学部卒業後、佐々木研究所において,佐々木隆興と共にオルトアミド・アゾトルオールを用い経口投与法により初めて癌 (ラット肝臓癌)作成に成功。
 昭和11年,「アゾ色素の経口投与によるラット肝癌の発生」により佐々木隆興と共に帝国学士院恩賜賞を受賞。
 ドイツ留学後、長崎医科大学教授時代に移殖可能なラット腹水癌を発見,後に癌学会で「吉田肉腫」と命名され,癌の基礎的研究材料として多用された。

昭和28年、「吉田肉腫の病理学的研究」により再度の日本学士院恩賜賞受賞。東大教授,佐々木研究所長,癌研究会癌研究所長, 国際癌会議(東京)会長などを歴任,癌研究の体制整備,対ガン運動にも貢献した。
昭和34年、文化勲章受章。
昭和48年没、70歳。



今に生きる吉田富三博士の心 人間はいい仕事をするものだ

内田 宗寿さん

昔の話になります。

東京の岩下保氏(国語問題協議会事務局長)から、吉田富三博士に関する資料を送っていただいた。
その中の会報「国語国字」七十七号「吉田富三先生追悼特輯」昭和四十八年八月一日発行の内容に感動しました。
全編に溢れる博士への惜しみない称賛と、人間愛に貫かれた博士の生涯が私の心に深く残った。

博士は生前、いい仕事をしていれば必ず後継者がでてくるものなんですよ。といわれていたそうです。
(岩下氏の手紙より。)この言葉はまさに博士の生き方そのままのを現わしています。

追悼号特輯で、田邊萬平氏(元東京学芸大学教授)は博士が話されたこととしてつぎのように回想されています。

「癌研究の所長になってから、癌は死に結びつくので、癌だと患者は怯える、これではいけないという話を聞いたので、そのときなんと言われますかときいたら、私はいつもそうですけれども、人間はいつ死んでもいいのだ、いい仕事をやれば、誰かが必ず受け継ぐに決まっている。
だから生きていたら、一日でもいい仕事を多くするのだ、自分はそれしか考えないということをいうと死に怯えている患者の顔が紅潮してきて、生き甲斐を感ずるような表情になる。
一番大事なことを皆が忘れるから死が怖いので、一日でも生きたらいい仕事をすると、必ず誰かが受け継ぐ。
忘れられても、十年後、百年後には受け継ぐ人があるに決まっている。こう力強く言われた。」

博士はこの言葉のとおりに生涯を送った人でした。
しかもこのことは、国語問題協議会の会長林武氏(画家)が博士への弔辞のなかで、「吉田さん貴方は癌の治療の黎明期に當って、貴い生涯を後輩諸氏に残しました。やがて貴方の悲願を達成する日が來ることでせう。」

林氏の言葉の通り、博士が開いた癌の科学療法の技術は、現在では素晴らしい進歩を遂げています。
まさに人間はいい仕事をしていれば、それを受け継ぐ人がいるのです。

また博士は、「法隆寺も薬師寺も誰が作ったか誰も知らんだろう。それが人間の理想なんだ。」と話されたということを、博士の十三回忌の挨拶の中で吉田直哉氏が話されたが、このことにも、博士の心が現れていて、私は感動を覚えます。

ただ名誉だけを追い求める者の愚を戒められる博士の目を感じるからです。

博士が逝去されて四十年。博士の偉業は益々光輝くでしょう。

(吉田富三記念館 名誉館長)



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「明治創業世代が抱いた志と夢」

2018年10月24日 15時39分58秒 | 社会・文化・政治・経済
岩倉使節団

現代の「世界の中の日本」を考える上でヒントになる
あの時代の人たちが今の日本を見たらどう思うだろう、とよく考えます。
太平洋戦争後、日本は多くの面で「アメリカナイズ」されます。
その典型が安全保障面でしょうね。
豊かで便利な時代になったのはいいといて、失ったものも多い。
モラルや礼節が廃れ、家族や共同体の絆が弱くなった。
政治家やジャーナリストの質も低下しています。
もっと「明治創業世代が抱いた志と夢」を見つめ直せ、と言いたい。
NPO「米欧回覧の会」代表 泉三郎さん

岩倉使節団とは、明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年9月13日)まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された大使節団である。岩倉具視を正使とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。

明治4年(1871年)11月12日(陰暦)に米国太平洋郵船会社(英語版)の蒸気船「アメリカ(英語版)」号で横浜港を出発し、太平洋を一路カリフォルニア州 サンフランシスコに向った。
その後アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約8か月もの長期滞在となる。
その後大西洋を渡り、ヨーロッパ各国を歴訪した。
使節団はキュナード社の蒸気船オリムパス号に乗船して、1872年8月17日にイギリスのリヴァプールに到着した。
ロンドンから始まり、ブライトン、ポーツマス海軍基地、マンチェスターを経てスコットランドへ向かう。スコットランドではグラスゴー、エディンバラ、さらにはハイランド地方にまで足を延ばし、続いてイングランドに戻ってニューカッスル、ボルトン・アビー、ソルテア、ハリファクス、シェフィールド、チャッツワース・ハウス、バーミンガム、ウスター、チェスターなどを訪れて、再びロンドンに戻ってくる。
1872年12月5日はウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見し、世界随一の工業先進国の実状をつぶさに視察した。
1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。
ヨーロッパでの訪問国は、イギリス(4か月)、フランス(2か月)、ベルギー、オランダ、ドイツ(3週間、独語版)、ロシア(2週間)、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア(ウィーン万国博覧会を視察)、スイスの12か国に上る。
帰途は、地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各地にあるヨーロッパ諸国の植民地(セイロン、シンガポール、サイゴン、香港、上海等)への訪問も行われたが、これらの滞在はヨーロッパ各国に比べ短いものとなった。
当初の予定から大幅に遅れ、出発から1年10か月後の明治6年(1873年)9月13日に、太平洋郵船の「ゴールデンエイジ」号で横浜港に帰着した。留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が争われ、使節帰国後に明治六年政変となった。
元々大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定だったが、政治的思惑などから大規模なものとなる。一国の政府のトップがこぞって国を離れ長期間外遊するというのは極めて異例なことだったが、直に西洋文明や思想に触れ、しかも多くの国情を比較体験する機会を得たことが彼らに与えた影響は大きかった。また同行した留学生も、帰国後に政治・経済・科学・教育・文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとしたことによる留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸と大久保の不仲などの政治的な問題を引き起こし、当時「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と狂歌に歌われもした。
使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。
日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪。以後は洋装に改めた。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

輪子の競輪日記 中川誠一郎選手を軽視

2018年10月24日 14時46分56秒 | 未来予測研究会の掲示板
平競輪場でのオールスターGⅠレースの中川誠一郎選手は、初日6着、2日目4着で3に目から欠場した。
そして前橋競輪場の寛仁親王牌・世界 選手権記念では、1日目5着、2日目1着、3日目7着で決勝戦を逃している。
輪子は肝心な時に、中川選手から期待を裏切られ悔しい思いをした。
このため、熊本記念(久留米競輪場)の12レース決勝戦では中川選手を軽視する。

本命は6-2-4-8の関東ライン。
対抗するのは3-5-9の東北ライン。
穴人気が1-7の九州・四国のライン。

27歳の横山選手がS斑の36歳の平原選手を引っ張る。
後ろに4人も着くので主導権を取りに行く。
これに対して24歳の新山選手は、準決勝戦で10秒9の上がりタイムを計測。
「スピードのあるレースは好き。後の2人に迷惑をかけないよう主導権をとりたい」と関東ラインに一歩も引かないとのコメント。
S級S斑の2番平原選手は「どんな時でも後輩が頑張ってくれるけど、いつも残したい気持ちがある。これは(自分の)性格なので、お客さんにも分かってほしい」と先行選手をギリギリまで庇う信条を述べていた。
早めに抜き去ると6番横山選手は惨敗する。
何時も先行する選手が先輩のために犠牲を負うばかりでは気の毒。
先輩を勝たせるための後輩の自己犠牲的な走りが目立つ競輪競争。
本来なら6-2の並びなら2-6にしたいはず。
でも、庇い過ぎると後に着ける選手に差されてしまう。
4-2となる。
この点が微妙。
6-2-4-8の4人で上位を独占できれば理想的。
9人の選手らラインを形成して競技する。
並んだままゴールすることはほとんどない。
レース展開と位置取り、そして勝負どことで仕掛けるタイミング。
特に賞金が高いGⅠ、GⅡ、GⅢレースでは、9人皆が勝ちたいはず。

この日の1着賞金は360万円。
2着234万円
3着156万円
4着103万円
5着119万円
以下省略

1番 中川誠一郎 85熊本
2番 平原康多 87埼玉
3番 新山響平 107青森
4番 芦澤大輔 90茨城
5番 佐藤慎太郎 78福島
6番 横山尚則 100茨城
7番 小倉竜二 77徳島
8番 神山雄一郎 61栃木
9番 和田 圭 92宮城

結果は以下
2車単1-2 790円(2人気)= 1番中川-2番平原
3連単1-2-4 3170円(7人気) =1番中川-2番平原-4番芦澤
1着の中川選手は何と!
10秒8の上がりタイム(捲くり)

久留米競輪上がりバンクレコードは?
10秒7 友定祐己選手(2011年7月14日)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寅彦先生に学ぶ天災展

2018年10月24日 12時14分41秒 | 医科・歯科・介護
吾々は平成あまりに現在の脆弱な文明的設備に信頼し過ぎている。
驚くべきことに、この作品「石油ランプ」は関東大震災が起きた1923年(大正12年)9月1日の朝に書きあげられたものである。
その日の昼に地震が起きて東京は大きな被害に見舞われ、まるで予言のような内容になった。
「文明に頼り切ってはいけない」
95年前に書かれたこの言葉は古びるどころか、むしろ現在のほうが大きな意味を持つようだ。
北海道の地震や台風被害に遭った静岡で、長時間の停電が起きたことは記憶に新しい。
高知県立文学館 主任学術員 川島禎子さん
寅彦先生に学ぶ天災展
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「天災は忘れた頃に来る」

2018年10月24日 12時00分01秒 | 医科・歯科・介護
物理学者 寺田虎彦と天災

天災は忘れた頃に来る」という言葉を言い出したのは寺田寅彦であるといわれています。寺田寅彦は現在においても人気者であり、寺田寅彦随筆集(岩波文庫)を新たに入手すると、例えば、第一巻は2002年5月第86刷発行」となっています。
また、「松本哉著 寺田寅彦は忘れたころにやって来る 集英社新書 2002」のような本が出版されるのも相変わらぬ寅彦の魅力のためと思われます。

寺田寅彦の関東大震災への関わりをよく示しているものとして、大正十ニ年二十九日付けでドイツに滞在していた小宮豊隆(寺田寅彦随筆集の編集者)に宛てた書簡に次のような記述があります。
一部は、上記の伝説の警句に示しましたが、改めて示すこととします。
・・・ 今度の地震は東京ではそう大したことはなかったのです。
地面は四寸(十センチ少々)以上も動いたが、震動がのろくていわゆる加速度は大きくなかったから、火事さえなかったら、こんな騒ぎにはならなかった。死傷者数の大多数はみな火災のためであります。
火災を大ならしめた原因は風もあるが、地震で水道が止まったこと、地震のために屋根が剥がれて飛び火を盛んにしたこと、余震の恐怖が消防を萎微させたことなども大きな原因のようです。
 僕らは今度の火災のことの調査を引き受けて毎日毎日焼け跡をしらべて歩いています。夜寝ると眼の前に焼け跡の光景ばかり浮かんで、焼死者や水死者の姿が見えて仕方がない。頭の中まで焼け野原になったような気がする。
 帝都復興院という尨大なものが出来るらしい。
相変わらず科学を疎外した機関らしいようです。
 新聞に出るようなことは一々申し上げません。
 調査の必要から昔の徳川時代の大震火災の記録を調べているが、今度われわれがなめたのと同じような経験を昔の人が疾(とう)になめ尽くしている。
それを忘却してしまって勝手なまねをしていたためにこんなことになったと思う。昔に比べて今の人間がちっとも進歩していない。進歩しているのは物質だけでしょう。
かえって昔の政府や士民のやり口が今より立派なような気もします。 ・・・ 
(松本哉著 寺田寅彦は忘れた頃にやってくる 集英社新書より)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虐待死 前年度比で13人増の84人

2018年10月24日 11時52分03秒 | 医科・歯科・介護
昨年度対応した虐待の件数は13万3778件(速報値)。
統計を取り始めた27年連続で増加。
児童福祉司を2022年まで約2000人増やす。
これまでの約3200人から大きく増える。
一人でも多くの命が救われるように、取り組みが期待されている。
虐待死数は?
児童虐待、相談件数が過去最多に -虐待死も84人と前年度より13人増
厚生労働省は8月17日、子ども虐待による死亡事例等の検証結果や虐待相談対応件数について発表。全国の児童相談所が2016年度に対応した児童虐待件数は、過去最多の12万2,578件(速報値)となり、前年度より1万9,292件増えた。
虐待死は、前年度比で13人増の84人だった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月は虐待防止推進月間

2018年10月24日 11時42分15秒 | 医科・歯科・介護
2018年

 児童虐待に関する相談対応件数は依然として増加傾向にあり、子どもの生命が奪われる重大な事件も後を絶たないなど、深刻な状況が続いています。
児童虐待は早急に解決すべき問題であり、子どもの「命」と「権利」、そしてその「未来」は社会全体で守らなければなりません。
厚生労働省では毎年11月を「児童虐待防止推進月間」と定め、家庭や学校、地域等の社会全般にわたり、児童虐待問題に対する深い関心と理解を得ることができるよう、期間中に児童虐待防止のための広報・啓発活動など種々な取組を集中的に実施しています(平成16年度から実施)
平成30年度も、この取組の一つとして、児童虐待問題に対する理解を国民一人一人が深め、主体的な関わりを持てるよう、意識啓発を図ることを目的として、標語の募集を行った。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里親制度が養子縁組制度と混同

2018年10月24日 11時34分44秒 | 社会・文化・政治・経済
里親制度が養子縁組制度と混同しているなど、制度がきちんと知られていないため、子供の親が里親家庭に子供を預けるない。
戸籍の移動はないので、実の親が、再び子を育てていくことができるよう支援していくことも目的の1つです。
日本では今まで、社会的養護が必要な子どもの8割以上が乳児院や児童養護施設で育てられ、その「施設偏重」ぶりが海外から批判されてきた。
はたして改正児童福祉法は、里親増加に向けたカンフル剤になるのか?
わが国の里親制度は戦後の一時期隆盛が見られたが、その後 今日に至るまで停滞 している。
「里親制度について、聞いたことはあるけれど詳しくは知らない」。
そんな⽅が、今の日本ではほとんどだと思います。
それくらい、里親制度は知られていません。
様々な理由で親と暮らせない子どもたちを、家庭環境の下で養育する制度です。
家庭での生活を通じて、子どもが成長する上で極めて重要な特定の大人との
愛着関係の中で養育を行うことにより、子どもの健全な育成を図ります。
長期的に施設での生活を続けることはあまり良いことではありません。
幼い頃から施設で育った子どもたちは、「家庭」での暮らしを知りません。
「わたしだけを、ぼくだけを育てくれる大人」の存在を知りません。
そうすると、自分が家庭を持つときにどう子育てしていいのか分からず、子育てが難しい状況になってしまいます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

~10月は「里親月間」です~

2018年10月24日 11時20分44秒 | 医科・歯科・介護
親と暮らせない子を育てる
虐待や経済的事情などで、全国で約4万5000人以上に上る。
虐待に関する相談が増加。
社会全体が受け皿となって育てる「社会的養護」の必要性は高い。
新しい家庭で育てる里親制度の普及が進んでいない。

里親制度の課題
里親月間
平成30年度里親月間 ~10月は「里親月間」です~
厚生労働省では、毎年10月を「 里親月間」と位置づけ、里親制度やファミリーホームを推進するための集中的な広報啓発を実施しています。
里親月間を中心に、区市町村と協力し、養育家庭の子育て体験などを聞くことができる「養育家庭(里親)体験発表会」を都内各地で開催します。
里親などへの子ども委託を推進するために、さまざまなイベントや取り組みが集中的に展開されます。
10月は、さまざまな事情で自分の家族と暮らせない子どもたちを新しい家庭環境で育てる制度を広める「里親月間」。
「里親には子どもの生活費として養育費が支給される」ことを知っている人が、わずか1・9%(日本財団の調査)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フロー状態

2018年10月24日 11時04分29秒 | 社会・文化・政治・経済
フロー (英: Flow) とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。
無我の境地、忘我状態とも呼ばれる。

シカゴ大学のチクセントミハイ教授がまとめた、心理状態の定義です。

スポーツ選手などが、競技のプレー中、最高のパフォーマンスを展開している時などに、
しばしば入る心理状態などとして、人口に膾炙されています。
そこでは、意識が変性し、
「あたかも時間が止まっているかのように」
「ボールが止まっているかのように」
物事が鮮明に、見られるとも、言われたりします。
ZONE(ゾーン)などとも、呼ばれたりしています。

私たちも、普段の生活の中で、最高にノッていて、
何か物事に、集中・没頭している時に、このような状態に入っています。

チクセントミハイ教授は、
語ります。

「…これらの条件が存在する時、つまり目標が明確で、
迅速なフィートバックがあり、そしてスキル〔技能〕と
チャレンジ〔挑戦〕のバランスが取れたぎりぎりのところで活動している時、
われわれの意識は変わり始める。
そこでは、集中が焦点を結び、散漫さは消滅し、時の経過と自我の感覚を失う。
その代わり、われわれは行動をコントロールできているという感覚を得、
世界に全面的に一体化していると感じる。
われわれは、この体験の特別な状態を『フロー』と呼ぶことにした」
M.チクセントミハイ『フロー体験入門』大森弘監訳(世界思想社)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本物の幸福とは

2018年10月24日 11時00分06秒 | 社会・文化・政治・経済
ウェルビーイングとは

単に「良好な状態」や「人生の満足度」を意味するだけでない。
広く充実した生き方や有意義な人生。
本物の幸福とは何かを問い掛ける。
1「ポジティブ感情」
自己肯定的で前向きな感情。
2「エンゲージメント」
これはフロー状態や没我状態とも呼ばれる。
仕事や研究、好きなことに没頭できる、集中することが得られる。
3「関係性」
心から楽しめる、感動を覚える、喜びを実感できる場合には、必ずと言っていいほど、周りに人の存在がある。
人間は関係性の中で、生きがいを味わうことができる。
4「意味・意義」
真の幸福感は、人生に意味や意義を見いだせることと深く関係している。
宗教的な信念に象徴されるように、自分より大きいと信ずる存在と時間や空間を共にすることで、確かな充実が得られる。
そして、もう一つが「達成」。
目標を成就し、物事を成し遂げることで大きな幸福感を味わえる。
これらを支える要素は人間の「強さ」である。
アメリカの心理学者セリグマン
---------------------------------
個人の権利や自己実現が保障され、身体的、精神的、社会的に良好な状態にあることを意味する概念。
1946年の世界保健機関(WHO)憲章草案において、「健康」を定義する記述の中で「良好な状態(well‐being)」として用いられた。
最低限度の生活保障のサービスだけでなく、人間的に豊かな生活の実現を支援し、人権を保障するための多様なソーシャルサービスで達成される。
一部の社会的弱者のみを対象とした救貧的で慈恵的な従来の福祉観に基づいた援助を超え、予防・促進・啓発といった、問題の発生や深刻化を防ぐソーシャルサービス構築に向けての転換が背景にある。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

散歩の友

2018年10月24日 06時29分16秒 | 日記・断片
午前3時30分に目覚めた。
街灯のLEDは道路を明るく照らしているので、水溜りが見えた。
新聞はビニール袋に入っている。
一部が濡れている。
午前2時過ぎに配達されるので、約1時間30分前まで雨が降っていたのであろう。
空を見上げると黒い雲間が見える。
星が一つ見えた。
金星と思われる。
1時間後に、西田さんと鈴木さんに出会う。
鈴木さんは約10分体操してから、ベンチに座り缶コーヒーを飲む。
何時ものルーティーン。
西田さんの体は柔らかく、膝を伸ばしたまま、地面に指が着いた。
若いころは、手の平も着いたそうだ。
76歳である。
78歳の鈴木さんの体操を見て分かったが、やはり体は柔軟であった。
無人のガソリンスタンドの看板が変わっていることに西田さんが気付く。
経営者が代わったのでろうか?
「ガソリン高いのではないですか」と運転しない当方が問う。
「高くなっているね」と西田さんがいうので、エネルギー問題が話題となる。
西田さんは原子力発電の仕組みに詳しい。
それから、火力発電や太陽光発電の話となる。
「電気自動車はどうかな。長い目で見て安いのかな」と西田さん。
ちなみに、赤峰さんは電気自動車の新車を買う。
2台目の電気自動車である。
家人に電気のミニバイクを勧めたが、故障して全く同じバイクを買ったので、誰も新車と気付かない。
エネルギーの話から株価の話となる。
当方は過去に、株で失敗したことがあるので、株の話は聞き流す。
「上海から株の動きが始まる時代となった」と西田さんが言う。
中国の株を買っていた亡き歯科医師の阿部さんのことが頭に浮かんだ。
仕手戦で敗れた元通産省の官僚で歯科業者の遠藤さんのことも頭に浮かぶ。
別れ際に鈴木さんが、「これから仕事に行くのに、今日はだるい」と言う。
「何時に家を出るのですか?」
「7時30分のバスに乗って、9時に水道橋駅に着く」と西田さんが微笑む。
絵手紙をスマホで見せてくれたが、カラスウリとなめこであった。
散歩から午前5時30分帰宅した。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10月23日(火)のつぶやき

2018年10月24日 03時17分00秒 | 医科・歯科・介護
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする