山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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唐沢山城⑤

2017-11-06 19:23:21 | 山城ー野州
花屋敷(長門丸)・金の丸・杉曲輪・北城へ


南城の建物から東に下る道があります。





車井戸から尾根に出て

長門丸(お花畑)から本丸東城壁を見ています。

長門丸

長門丸は弓場になっています。

長門丸東城壁を見ています。

金の丸西虎口

曲輪には建物が建っています。

金の丸東虎口

杉曲輪

杉曲輪東虎口

杉曲輪東虎口を見返しています。

北城西虎口

北城(キャンプ場となっていて改変されています。)

北城から北尾根と東尾根曲輪群

佐野昌綱・宗綱・房綱

永禄元年(1558年)、下野国の戦国大名・佐野氏第13代当主・佐野泰綱(一説には兄・佐野豊綱)の子として誕生。
はじめ兄で第15代当主・佐野昌綱に仕えた。昌綱には弟が二人おり、その天徳寺(房綱)と遊願寺の両人は、武者修行のために諸国を回り、遊願寺は武田信玄に仕え、次に上杉謙信に千貫で召し抱えられ、与力と歩弓を預けられ、謙信公の長刀の師範とされたが、直江山城守に謀殺されたと伝わる[1]。また房綱も武田信玄、上杉謙信に面会したが、両人とも厳しくゆるみない様子であり、顔をあげて対面しようとしたものの、威に打たれてできなかったと伝わる[2]。
佐野宗綱の時代
天正年間前期、昌綱の子・佐野宗綱の代に出奔し、織田信長に仕えたとされる[3]。ただし、天正5年(1577年)に上杉謙信の家臣・蓼沼日向守に書状を送り、天正7年(1579年)には北条氏政から書状を送られ、その後も佐竹氏や結城氏との外交文書のやり取りを交わしており、出奔せず宗綱の下で佐野氏の外交を担っていたとする説もある[4]。
天正10年(1582年)の甲斐武田氏滅亡により上野国に織田氏家臣の滝川一益が入国すると、同年4月これに同行/伺候し、太田資正・梶原政景父子や里見義頼と織田氏の間を取り持つなど一益の与力として活躍した。しかし同年6月2日本能寺の変が起こり一益が伊勢へ脱出すると、房綱は宗綱の元に戻り、これを補佐した。
佐野家の家督問題
天正13年(1585年)元旦、嫡子のいない当主・宗綱が長尾顕長に敗れ討死すると、佐野家中では御家安泰のために、北条氏康の六男北条氏忠を養嗣子に迎えて家督を継がせようという意見があった。これに対し房綱は佐竹義重の息子を迎えることを主張し、山上道及らと共に佐竹派を形成した。この過程で道及は上洛、天正14年(1586年)5月25日に羽柴秀吉から惣無事令を入手、使者として奥州、関東の領主の元に使者として赴いている(秋田藩家蔵文書)。この対立は11ヶ月にも及んだが、北条氏は4月と8月に佐野攻めを行っており[5]、11月10日には北条氏忠が正式に佐野氏を継承し[3]、宝衍・道及は佐野家を出奔し中央に出て秀吉に仕えている。
なお5月25日の書状において羽柴秀吉は「佐野のことについては異議がないことは尤もである」と述べているが、これについて、5月25日の文書は羽柴秀吉は佐竹氏の佐野家家督継承を認める裁定と惣無事令を関東諸将に伝えるものであったという説[5]と、山上道及は既に出奔して秀吉に仕えており5月25日の文書は秀吉家臣としての立場から北条(佐野)氏忠の佐野氏継承を認める裁定を関東諸将に伝えるものであったという説[4]とがある。> ウィキペディアより