山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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阿土山城②

2017-11-10 22:12:06 | 山城ー野州
曲輪10から曲輪4へ


その東に腰曲輪で守り

その上に、南に一段低く、その右手に

曲輪10

その先に大堀切

曲輪10の東、堀切を越えて、この斜面が現れる

斜面を登ってゆくと、曲輪8

腰曲輪を上から見下ろすと虎口です。

虎口の下の曲輪8、この下に大堀切があります。

俯瞰図は「余湖くんのお城のページ」より

東斜面の中段ににある段曲輪

その上に曲輪5

東斜面の頂部が見えてきました、標高371m

東斜面を登り、見下ろすと、細かい腰曲輪で容易に登れないような工夫がされています。

東斜面を守る腰曲輪、図では曲輪4

天徳寺宝衍(ほうえん)佐野房綱のこと
兄で第15代当主・佐野昌綱に仕えた。昌綱には弟が二人おり、その天徳寺(房綱)と遊願寺の両人は、武者修行のために諸国を回り、遊願寺は武田信玄に仕え、次に上杉謙信に千貫で召し抱えられ、与力と歩弓を預けられ、謙信公の長刀の師範とされたが、直江山城守に謀殺されたと伝わる[1]。また房綱も武田信玄、上杉謙信に面会したが、両人とも厳しくゆるみない様子であり、顔をあげて対面しようとしたものの、威に打たれてできなかったと伝わる
 天正13年(1585年)元旦、嫡子のいない当主・宗綱が長尾顕長に敗れ討死すると、佐野家中では御家安泰のために、北条氏康の六男北条氏忠を養嗣子に迎えて家督を継がせようという意見があった。これに対し房綱は佐竹義重の息子を迎えることを主張し、山上道及らと共に佐竹派を形成した。この過程で道及は上洛、天正14年(1586年)5月25日に羽柴秀吉から惣無事令を入手、使者として奥州、関東の領主の元に使者として赴いている(秋田藩家蔵文書)。この対立は11ヶ月にも及んだが、北条氏は4月と8月に佐野攻めを行っており[5]、11月10日には北条氏忠が正式に佐野氏を継承し[3]、宝衍・道及は佐野家を出奔し中央に出て秀吉に仕えている。
なお5月25日の書状において羽柴秀吉は「佐野のことについては異議がないことは尤もである」と述べているが、これについて、5月25日の文書は羽柴秀吉は佐竹氏の佐野家家督継承を認める裁定と惣無事令を関東諸将に伝えるものであったという説[5]と、山上道及は既に出奔して秀吉に仕えており5月25日の文書は秀吉家臣としての立場から北条(佐野)氏忠の佐野氏継承を認める裁定を関東諸将に伝えるものであったという説[4]とがある ウィキペディアより