山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

山崎城②

2017-11-01 19:20:55 | 山城ー武州
二の丸へ


二の丸

二の丸東側に土塁と二つの虎口

東側の空堀

二の丸北側先端部から空堀を見ています。

空堀の外側から二の丸を見ています。

三の丸から(仮に)二の丸城壁を見ています。
三の丸(仮に)

三の丸北側虎口

管理棟、土塁にも見えます。

公園から延長して空堀が北へ伸びています。

疎林地帯にある空堀



古鎌倉街道が走っていたとすれば、ますます武田氏か上杉氏の陣城ではないかと思われます。


長尾景虎の越山

 上杉憲政を庇護した景虎はその要請を入れて、永禄三年(1560)秋、憲政を擁して関東へ出陣した。このとき、それまで北条氏康に従っていた成田長泰ら関東の諸将は景虎のもとへ参陣し翌四年の小田原城攻撃に加わった。このとき、謙信は上杉陣営に来属してきた関東の武士の氏名と陣幕の紋を書き上げた『関東幕注文』を作成した。
 そのなかに、武州衆の統率者として成田下総守すなわち長泰と一族、配下の幕紋が記録されている。それによれば、成田氏は「武州之衆」を率いる大名として把握され、成田下総守「月ニ三引りやう」を筆頭に親類の同尾張守・同大蔵丞の「三ひきりやう」、ついで、同越前守・田中式部少輔・野沢隼人佐・別府治部少輔・別府中務少輔らが「同紋」とされ、以下、須賀土佐守「二かしらのともへ」、鳩井能登守「かたくろ」、本庄左衞門佐「団之うちニ本之字」、山田豊後守「かたはミ」、田山近江守「かたはみ」などが記され、成田氏の勢力の大きさがうかがわれる。
 一方、景虎の陣に加わった長泰に対して氏康は「成田下総守、年来の重恩を忘れ、度々北条の誓句血判の旨に背き、忽ち逆心を企つ事、誠に以って是非なく候」と厳しい批判の言葉を述べている。たしかに氏康にしてみれば、謙信に走った長泰の行為は「不忠」そのものであった。しかし、長泰にしてみれば、謙信が山内上杉憲政の跡を継いだ以上、古くからの山内上杉氏との関係からこれを支持するのもまた当然のことであった。しかし、長泰は小田原城攻撃のあと間もなく、謙信から離反し、ふたたび氏康のもとに走っている。
 『相州兵乱記』などによると、長泰の謙信に対する礼の作法が無礼であるとして謙信に扇で烏帽子を打ち落とされたのに腹を立て、謙信を離れ、後北条氏に味方するようになったのだという。事の真相はともかくとして、以後、成田氏が後北条氏に属するようになったのは事実である。
 かくして後北条氏の麾下に属した長泰は、永禄五年三月、謙信が下野佐野城を攻めた時、ただちに北条氏照へ通報し、氏照とともに佐野城救援の軍を出している。翌年、謙信が下野・上野・武蔵などの後北条氏方の諸氏を攻めたときにも、氏康・氏政方に立って謙信と戦った。しかし、永禄五年にいたって謙信の力の前に屈し、氏長の室に太田三楽の娘を迎えている。


山田豊後守が山田城主であったと思われます

次回 栃木県 唐沢山城