山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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宇佐山城

2017-11-26 10:59:23 | 滋賀県の山城
宇佐山城は滋賀県大津市南滋賀町にある宇佐八幡宮をめざします。

宇佐山城地図

宇佐山城は織田信長が森可成に築城させたと伝えられています。

近江神宮の案内板を左手30mに

宇佐八幡宮の案内があります。

参道口、薮となっている参道右手の尾根は曲輪が階段状に連なっています。おそらく屋敷群ではないかと思います。

奥の院から下りてきて左手にある曲輪、この曲輪群が麓まで続いています。

京阪電鉄、南滋賀駅の北側の道から見た遠景

階段を登れば奥の院、右に曲がれば宇佐山城へ

トタンの折れた案内がある登り道

奥の因へ参って登山の安全を祈って出発です。

治歴元年1065 源頼義がここに居館を建て、宇佐八幡を勧進したという。

登り口に入って大きな曲輪、どうやらこの曲輪を基点に下方へ曲輪が連なっているようです。

山道を30分ほど登ると(小学生の案内板が所々にあります。)

空堀

本丸東下、石垣の痕跡

本丸北下の石垣

次回 本丸・二の丸へ

宇佐山城の戦い
摂津で勃発した野田城・福島城の戦いで織田軍主力が投入されている中、浅井・朝倉連合軍は信長の背後を突くべく行動を開始。城主・森可成は近江にいた野府城主・織田信治、青地茂綱らと共に交通の要所である坂本を先に占領して街道を封鎖して連合軍の進軍妨害を試みた。
浅井・朝倉連合軍は3万兵が坂本口に進軍、9月16日に森可成軍1千兵は宇佐山城を下り坂本の町はずれで合戦となる。緒戦では浅井・朝倉連合軍3万を相手に森軍1000は少々の首を取り勝利をおさめた。しかし、石山本願寺法主顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、翌9月20日にさらに数の膨らんだ連合軍が再度侵攻を仕掛けた。森可成軍は先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せるが、浅井対馬・玄蕃の2千が側面から攻撃を仕掛け、また朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったためついに崩壊した。可成、織田信治、青地茂綱の3人は討ち死にした。
連合軍は同日宇佐山城の攻城に取り掛かったが、城兵の強固な抵抗にあい落城は免れた。代わりに大津の馬場、松本を放火し、翌21日は山科まで焼き払った。22日には摂津の信長にも知らせが届き、近江の情勢を知った信長はこの浅井・朝倉連合軍との対決を優先。23日に摂津から織田軍主力を撤退させた。その間、宇佐山城は坂本で連合軍の猛攻を受けていたが可成の家老である各務元正らが城兵を指揮して頑強に抵抗。24日に信長が大津から坂本に兵を進め救援に現れるまでついに落城しなかった。[1]24日の戦いで浅井・朝倉連合軍に死者1千名以上が出たという。この時信長は宇佐山城に入城したと思われ、翌25日追いつめられた浅井・朝倉連合軍は、壺笠山城や比叡山などに封じ込まれる格好となった。ウィキペディアより






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