山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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小野城④

2017-11-15 20:14:50 | 山城ー野州
北東尾根へ、ちなみに北西尾根はするすみの道でした。

本丸から北東帯曲輪を見下ろしています。かつて訪れたとき、尾根下を覗くと、高低差があり何も見ることがなかったため下りませんでしたが、今回、もしかすれば縄張りされているかもしれないとセンサーが働きましたので下りて見ました。

下りて見てよかった。北東尾根第一腰曲輪

第一腰曲輪を見返しています。

不思議な表情を持つ岩がある第二曲輪

尾根を下り、第三腰曲輪、その下に第四腰曲輪

北東尾根第一堀切

第一堀切を見返しています。(敵はここを攻め上ってゆかねばなりません。)

第二堀切

第二堀切を見返しています。

北東尾根の空堀

最下段の第四曲輪と帯曲輪
北東尾根を縄張り図に描いているサイトは少ないです。登られる方はお見逃しなく。

次回 ぜんげんの道を下って終了です。

小野城主 小野高吉について
小野高吉【おのたかよし(15??~1584)】

佐野宗綱家臣。飛駒城主。1584年、「須花坂の戦い」では、小野高吉が討死し、これに激怒した佐野宗綱が突撃を敢行したため討死した。1590年、京都聖護院の令旨により飛駒に大学院という修験道場を開いた。1584年、足利長尾顕長の家臣小曽根筑前に謀殺され小野城は落城した。戦国武将録 戦国下野刻人名辞典より


須花坂の戦い
天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原北条氏攻めに際して、豊臣軍の関東への案内役を務めたのが、佐野天徳寺宝衍です。
天徳寺は、須花坂の戦いで討ち死にした佐野宗綱の弟(叔父との説有り)で、この時には、佐野を離れて上方(京都)で、秀吉の側近として、秀吉と関東の諸大名との間を取り次ぐ重要な役割を担っていました。
この天徳寺が、北条方から唐沢山城を奪還するのは、小田原攻めが始まった後の、同年4月末のこととされています。
しかし、地元に残されている覚書きなどのなかには、同月初旬に行われた豊臣軍による北条方の皆川城(栃木市)攻めに、すでに佐野勢が加わっていたことを記しているものもあります。
このことから、唐沢山城はもっと早い時期に、北条方の支配を離れ、天徳寺の影響下にあった可能性も考えられます。
同年7月、3カ月におよぶ籠城戦の末、ついに小田原北条氏は開城・降伏し、秀吉の天下統一事業は大きく進みます。
この時の功績により、天徳寺は秀吉の許しを得て、佐野家の家督を継ぐことになります。佐野市HPより


飛駒城は別名小野城の事です。