山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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戦国の争乱と榛名地域(榛名町史)

2016-04-12 21:55:48 | 歴史資料
第一節 関東の戦乱と山内上杉氏

長野氏は長野業政の活躍が、武田信玄との攻防によって多くは知られています。しかし、それ以前の長野氏については、あまり取り上げられることもなかったため史料を読む機会もなかったのですが、榛名町史を読む事が出来て、かなり詳しく書かれており紹介していこうと思いました。

一、享徳の乱と長野左衛門尉
享徳三年(1454)十二月二十七日、鎌倉公方足利成氏は関東管領上杉憲忠を鎌倉西御門の自邸に招き、憲忠主従二十三名を殺害した。これによって関東では大乱が勃発する。この争乱は文明十四年(1482)の都鄙の和睦まで続くが、始まった年号から享徳の乱と呼ぶ。主を失った上杉方は、越後から憲忠の弟房顕を迎え、家督に据えた。幕府は成氏の行動を謀反と断じて房顕を支持し、成氏を討つために越後から上杉房定、駿河から今川範忠を関東に侵攻させた。そのため成氏は鎌倉を脱して、下総古河に御座所を移した。(古河公方)成氏を支持したのは下野の小山・宇都宮・那須・長沼・常陸の小田・下総の結城・千葉氏などの東関東の有力豪族層であり、古河はその中心にあったためである。これに対し上杉方は武蔵五十子に陣所を設けて対抗した。
 上野では新田荘に勢力を張る岩松持国が成氏方となり、西上州を基盤とする上杉方に対抗したため、東上州一帯が合戦場となった。一進一退の攻防が続いた。この間に新たな公方として、将軍義政の弟政知が伊豆堀越に赴任した。(堀越公方)また房顕が陣没すると越後から顕定が新関東管領として迎えられた。
 文明三年(1471)四月、上杉軍は大攻勢をかけた。足利に集結した上杉軍は、成氏方が支配する佐野を席巻し、佐貫御厨の立林城、舞木城を落とし、六月には束の間であるが古河を攻略したため、成氏は千葉氏を頼って逃れた。幕府はこの戦いの褒賞として活躍した武将たちに感状を下している。

関東の事、連々忠節せらる旨、上杉四郎(顕定)註進の趣、これを聞こしめされおわんぬ、尤も神妙、いよいよ戦功を抽んずるべく候なり。   小幡右衛門尉殿  長野左衛門尉殿

小幡右衛門尉と長野左衛門尉の二名が、上杉顕定の注進によって将軍義政から感状を下されたことがわかる。この二名は上野の武将の中の有力者で、功を挙げたのであろう。上杉方の軍事力は白旗一揆の面々であり、二人は一揆の旗頭となっていたものと思われる。

次回 長尾景春の乱

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