山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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氏族の追跡(長野氏)③

2016-05-07 09:48:16 | 氏族の追跡
長野業政の長男吉業の墓がある善竜寺


善竜寺、長野氏の開基にも拘らず寺の家紋は武田菱、これには理由があります。

お堂裏にある長野吉業の墓

旧群馬町(現高崎市)教育委員会の説明板。紅葉が邪魔をしています。

善竜寺と内藤塚(箕郷町史)

善竜寺は満行山と号し曹洞宗である。その昔箕輪城主長野業政公は施主となり、先代信業公の供養と笛吹峠の戦没者慰霊のために顕山敬応上人を開山として迎え、神明山善竜寺を創立した。次いで弘治二年福田五郎左衛門は大檀越となり、父菅谷城主(旧群馬町菅谷にある浄眼寺周辺、後日写真を添付します。)長野吉業公の病気平癒の祈願寺として新たに堂宇を再建、その師松枝補陀寺(松井田町)十二世的応守的大和尚を請迎して二世開山とした。
 永禄年間になって武田信玄は幾度か上州の地を襲い箕輪城主長野業盛は激戦の末永禄六年二月二十二日に自刃し落城した。善竜寺も落城前の同年二月十日に兵火により焼失、五郎左衛門も寺内に於いて陣没した。落城後信玄は重臣、内藤修理之亮藤原昌豊をして箕輪城を始めとし一帯の管理に当たらせ、善竜寺の再建を命じ寺号を満行山と改めさせた。かくて昌豊は善竜寺の再建に勤めたが、やがて武田勝頼に従い出陣、長篠で信長・家康の軍勢と戦い大敗し討死した。時に天正五年五月であった。その子昌月は戦列に加わらず統地を守っていたが父の遺骸を奉じ、この地に葬った。今の内藤塚である。



墓の奥に見えるお堂が善竜寺、内藤氏が寺の再建に力を尽くしたにもかかわらず、供養塔は寺の敷地外にあるのが、何か意味しているものがあります。

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