山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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前山城

2019-01-12 18:59:54 | 山城ー信州
前山城は長野県佐久市前山にあります。

前山城地図

国道141号線の信号野沢西から県道145号線で西に1.2kmほど進み前山局を過ぎて、北に300mくらいでグランドがあります。グランドの西山が前山城址です。

グランドに向かう途中に登り口があります。


山道10分

大手を守る曲輪が大小幾つも確認できます。

リンゴ畑ですが、当寺は曲輪群が階段状に作られていました。奥に見える雪山は浅間山です。「

大手の両側は階段状に曲輪が両側についていますが笹薮です。

本丸

本丸北、物見櫓

佐久市街が見渡せます。

本丸を南に歩き

米倉

本丸を北に見ています。

本丸南下の米倉曲輪

米倉に立って、本丸南城壁を見上げています。

次回 二の丸

伴野氏④
伴野氏の滅亡、その後
 こうして伴野氏は前山城主として武田氏に仕えたが、天正元年、武田信玄が病死し、そのあとを継いだ勝頼は天正三年、三河国長篠で織田・徳川連合軍と戦って壊滅的敗北を喫した。以後、武田氏の勢力は急速に衰退していき、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって滅亡した。その結果、織田信長に接収された武田氏領は信長の部将がそれぞれ分け与えられ、佐久郡・小県郡は滝川一益が与えられた。ところが、同年六月、織田信長は明智光秀の謀叛によって京都本能寺で殺害されたため、甲斐・信濃の織田諸将は領地を捨てて上方へ去った。以後、甲斐・信濃は後北条・徳川・上杉の草刈り場となってしまった。
 後北条氏は氏直に七万の大軍を率いらせて上州に軍を進め、家康はかくまっていた依田信蕃に命じて甲斐の旧知の武士たちを味方に付けさせ甲斐へ送り込んだ。信蕃のもとには三千の甲斐武士が集まり、信州小諸へ入った。一方の後北条氏は碓氷峠を越えて信濃に入り依田信蕃と対決せんとしたが、信蕃は蓼科山の山中に入って要害を構え、後北条軍は小諸を押えて大道寺政繁を城主とした。真田氏、望月氏、阿江木氏らは後北条方に従い、岩村田城主の大井氏、相木・岩尾らの大井一族、そして前山城主の伴野氏らもこれにならった。
 これは、同じ武田氏遺臣である依田信蕃が徳川家康に属して佐久統一をすすめているのに対し、もともと大井氏の家臣であった依田氏の下風に立つのを快しとしなかったためであったという。そのような伴野信守に対して依田信蕃は前山城攻略の軍を進め、信守は父子君臣ともに城を死守して抗戦に努めたが力尽きて自害した。このとき、信守の嫡子貞長は城外に出て戦っていたが、城中火に包まれたのをみて残る兵を集めて敵軍に突入して戦死した。ここに小笠原伴野氏は滅亡した。貞長の弟信行は、武州八王子に逃れたがその終わりは不明である。
 『寛政重修諸家譜』に、伴野時長六代の孫貞元を祖とする伴野氏がおさめられている。それによれば旗本伴野氏は、能登守貞守が武田信玄・勝頼に仕え、その子貞吉も信玄・勝頼に仕えたが、天正十年武田氏滅亡後徳川家康に属し、家康の関東入国ののち上野国に采地を賜っている。慶長五年(1600)、家康の上杉征伐に加わり、関ヶ原の合戦にも参陣している。その後、家康の命によって信濃国上田城を守備した。ことが知られ、子孫は数家に分かれてそれぞれ徳川家旗本として続いた。

【参考資料料:佐久市志/南佐久郡志誌(長野県立図書館蔵書)ほか】武家家伝より








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