梅雨の時期は、博物館へ出かけて見てはいかがですか。
本丸へ
西尾根の堀切を越えてきて、三の丸
段差があって二の丸
切岸の上が本丸
本丸
本丸南側景色
天文の頃、北魚沼郡一帯の領主として記録に出ているのは、長尾政景に属する発智左馬亮長芳・金子尚綱・穴沢新右衛門尉の三人と小千谷の薭生城主平子孫太郎で、金子は守門村須山に在住し、穴沢は入広瀬村穴沢に在住していたことが「越後野誌」に出ているが、発智のみは在住地がはっきりしない。天文十九年から二十年にかけて長尾政景が景虎に反抗した時、景虎方の兵が度々発智の居城を攻めており、これに対して政景方では金子にその都度発智の応援に行かせている。景虎が関東へ進撃するには、上田の坂戸城を支配下にする必要があり、景虎方の古志長尾(栖吉)・平子の軍にとっては発智の城は前面に立ちはだかるものであった。天文二十年三月十四日、景虎方が発智の城を攻め、政景の臣栗林長門守が発智の奮戦を讃えている文書に板木の地名があるので、板木城が発智の城と言える。(図説 中世の越後 大家 健氏著)
本丸にある縄張り図
次回 出雲崎町 小木ノ城
本丸へ
西尾根の堀切を越えてきて、三の丸
段差があって二の丸
切岸の上が本丸
本丸
本丸南側景色
天文の頃、北魚沼郡一帯の領主として記録に出ているのは、長尾政景に属する発智左馬亮長芳・金子尚綱・穴沢新右衛門尉の三人と小千谷の薭生城主平子孫太郎で、金子は守門村須山に在住し、穴沢は入広瀬村穴沢に在住していたことが「越後野誌」に出ているが、発智のみは在住地がはっきりしない。天文十九年から二十年にかけて長尾政景が景虎に反抗した時、景虎方の兵が度々発智の居城を攻めており、これに対して政景方では金子にその都度発智の応援に行かせている。景虎が関東へ進撃するには、上田の坂戸城を支配下にする必要があり、景虎方の古志長尾(栖吉)・平子の軍にとっては発智の城は前面に立ちはだかるものであった。天文二十年三月十四日、景虎方が発智の城を攻め、政景の臣栗林長門守が発智の奮戦を讃えている文書に板木の地名があるので、板木城が発智の城と言える。(図説 中世の越後 大家 健氏著)
本丸にある縄張り図
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