二の丸へ
前回記事の第三虎口を登って、この林道とぶつかります。
林道からの登り口から50m北へまわるとこの縄張り図があります。
「図説 中世の越後」の縄張り図もこれと同じに描かれています。しかし、専称寺から登り道を紹介してきましたように、大手に沿って多くの郭が存在しています。後日、搦め手の道も紹介しますが、これの道の片側にも多くの郭が存在しています。掲載している縄張りは半分しか表していないと見てください。
二の丸の南下に位置する曲輪群のひとつです。
第四虎口を登り
第四虎口を見下ろすと大手を両側に曲輪があると分かりますが薮です。
第五坂虎口、空堀を両側に配して堅固に作られています。
坂虎口の右手下には馬繋ぎ場があります。
坂虎口を登って腰曲輪
郭
その上に大きな曲輪
第六虎口、二の丸にはまだ届きません。
北条城について
築城時期は不明だが毛利時元によって築城されたとされる。
時元の祖父である毛利季光は、大江広元の子であるが、宝治元年(1247年)の三浦の乱で三浦泰村に味方し敗北を喫し、一族共々滅びる危機に立たされたが、名族大江氏の末裔であることもあり季光の子の毛利経光が助命され、越後の所領の領有を許された。経光の子孫の一部は安芸に移り安芸毛利氏となるが、越後に残った毛利基親の一族もおり、時元は基親の子である。時元の子の毛利経高の代に越後毛利氏は分裂し越後北条氏、安田氏となる。以降、北条城は代々越後北条氏の当主が城主となる。
戦国時代の城主は北条高広となっていた。高広は長尾景虎(上杉謙信)に仕えたが、天文23年(1554年)に武田晴信と内通して北条城を拠点として景虎に謀反を起こすが、天文24年(1555年)に景虎側に北条城を包囲され落城し、高広は許しを請い景虎にまた仕えた。高広は後に上野厩橋城の城主となるが、北条の所領は引き続き領していた。
天正6年(1578年)の御館の乱(上杉家の家督争い)で高広は子北条景広と共に上杉景虎に味方し、越後国で上杉景勝軍と奮戦するが、子・景広は戦死し、北条城もまた落城した。その後高広は武田勝頼に仕え、滝川一益にも仕えたとするが判然としていない。ウィキペディアより
前回記事の第三虎口を登って、この林道とぶつかります。
林道からの登り口から50m北へまわるとこの縄張り図があります。
「図説 中世の越後」の縄張り図もこれと同じに描かれています。しかし、専称寺から登り道を紹介してきましたように、大手に沿って多くの郭が存在しています。後日、搦め手の道も紹介しますが、これの道の片側にも多くの郭が存在しています。掲載している縄張りは半分しか表していないと見てください。
二の丸の南下に位置する曲輪群のひとつです。
第四虎口を登り
第四虎口を見下ろすと大手を両側に曲輪があると分かりますが薮です。
第五坂虎口、空堀を両側に配して堅固に作られています。
坂虎口の右手下には馬繋ぎ場があります。
坂虎口を登って腰曲輪
郭
その上に大きな曲輪
第六虎口、二の丸にはまだ届きません。
北条城について
築城時期は不明だが毛利時元によって築城されたとされる。
時元の祖父である毛利季光は、大江広元の子であるが、宝治元年(1247年)の三浦の乱で三浦泰村に味方し敗北を喫し、一族共々滅びる危機に立たされたが、名族大江氏の末裔であることもあり季光の子の毛利経光が助命され、越後の所領の領有を許された。経光の子孫の一部は安芸に移り安芸毛利氏となるが、越後に残った毛利基親の一族もおり、時元は基親の子である。時元の子の毛利経高の代に越後毛利氏は分裂し越後北条氏、安田氏となる。以降、北条城は代々越後北条氏の当主が城主となる。
戦国時代の城主は北条高広となっていた。高広は長尾景虎(上杉謙信)に仕えたが、天文23年(1554年)に武田晴信と内通して北条城を拠点として景虎に謀反を起こすが、天文24年(1555年)に景虎側に北条城を包囲され落城し、高広は許しを請い景虎にまた仕えた。高広は後に上野厩橋城の城主となるが、北条の所領は引き続き領していた。
天正6年(1578年)の御館の乱(上杉家の家督争い)で高広は子北条景広と共に上杉景虎に味方し、越後国で上杉景勝軍と奮戦するが、子・景広は戦死し、北条城もまた落城した。その後高広は武田勝頼に仕え、滝川一益にも仕えたとするが判然としていない。ウィキペディアより