中之条町歴史と民族の博物館では「真田氏と戦国時代の吾妻」と題して企画展を行っています。
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中之条町博物館地図
岩櫃城について
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郷土史家、久保田氏の論拠、関東幕注文にある岩下衆が斎藤氏であり、斎藤氏の本拠地は岩櫃城ではなく岩下城である。ゆえに岩櫃城は真田幸隆によって築城されたという説を述べている。これは大きな誤りです。今回企画展で、この説の誤りを文書で示しています。
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真田幸隆が永禄六年(1563)岩櫃城を攻め、これに従い戦った折田将監への武田信玄の領地安堵状です。信州にはこの際に真田幸隆に武田信玄の感状が遺されています。これらの古文書は後世の俗説をすべて吹き飛ばす、歴史的事実です。岩櫃城は大野氏から斎藤氏が奪い取り城主となっていたからこそ、この古文書が遺されているのです。こうした事実がなければ、真田氏の家臣であった「加沢記」の加沢平次左衛門がその顛末を書くわけがないでしょう。
真田幸隆のもとで活躍した吾妻の忍者がいます。歴史博物館ではこれらの人物の紹介と活躍を展示しています。
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池波正太郎氏の「真田太平記」を読まれた方はご存知でしょう。割田下総守重勝の墓です。詳しく知りたい方は博物館内で小冊子を売っています。
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真田忍者とありますが、出身は中之条町横尾です。
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もう一人吾妻出身の忍者、唐沢玄蕃
割田重勝・唐沢玄蕃の墓地図
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中之条中学校を過ぎると親切な案内が出ています。奥に見える山は嶽山です。
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今後、越後の山城と併せて、真田氏の関係した城址を再び巡ります。
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中之条町博物館地図
岩櫃城について
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郷土史家、久保田氏の論拠、関東幕注文にある岩下衆が斎藤氏であり、斎藤氏の本拠地は岩櫃城ではなく岩下城である。ゆえに岩櫃城は真田幸隆によって築城されたという説を述べている。これは大きな誤りです。今回企画展で、この説の誤りを文書で示しています。
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真田幸隆が永禄六年(1563)岩櫃城を攻め、これに従い戦った折田将監への武田信玄の領地安堵状です。信州にはこの際に真田幸隆に武田信玄の感状が遺されています。これらの古文書は後世の俗説をすべて吹き飛ばす、歴史的事実です。岩櫃城は大野氏から斎藤氏が奪い取り城主となっていたからこそ、この古文書が遺されているのです。こうした事実がなければ、真田氏の家臣であった「加沢記」の加沢平次左衛門がその顛末を書くわけがないでしょう。
真田幸隆のもとで活躍した吾妻の忍者がいます。歴史博物館ではこれらの人物の紹介と活躍を展示しています。
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池波正太郎氏の「真田太平記」を読まれた方はご存知でしょう。割田下総守重勝の墓です。詳しく知りたい方は博物館内で小冊子を売っています。
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真田忍者とありますが、出身は中之条町横尾です。
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もう一人吾妻出身の忍者、唐沢玄蕃
割田重勝・唐沢玄蕃の墓地図
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中之条中学校を過ぎると親切な案内が出ています。奥に見える山は嶽山です。
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今後、越後の山城と併せて、真田氏の関係した城址を再び巡ります。