山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

花古屋城②

2018-12-14 20:15:07 | 山城ー信州
曲輪4から南尾根を下ってゆきます。


曲輪4

曲輪4から本丸方面を見返しています。

曲輪5

曲輪6、虎口

虎口を曲輪7から見ています。

曲輪7

曲輪7の虎口

虎口を曲輪8から見ています。

曲輪8

縄張り図は「信濃の山城と館」上田・小県編より

虚空蔵山・太郎山は村上義清の勢力下でした。

村上義清
生涯①
文亀元年(1501年)3月11日、村上顕国の子として葛尾城に生まれる。
永正12年(1515年)3月15日、元服し、右京権亮を称し、諱を義清とする。この頃、父の顕国は支配下にあった小川氏が背いたため隣接地の高坂氏と大日方氏にこれを討たせたと伝えられるが、他の事蹟が明確ではなく、このため家督継承前後の義清の動静も明確ではない。
永正13年(1516年)3月、従五位下に叙位。佐渡守に任官。
永正14年(1517年)に、父より葛尾城を譲られ、永正17年(1520年)に病没した父の後を受けて家督を相続し、当主になった。一方、父の顕国が死去したのは大永6年(1526年)という説もある。
大永元年(1521年)10月、従四位下に昇叙し、左衛門佐に転任。大永7年(1527年)1月、左近衛少将に転任。天文5年(1536年)1月、正四位上に昇叙。
当時の村上家は、北信濃では越後長尾氏と関係の深い名族井上氏や水内郡の高梨氏と争い、東信濃では関東管領上杉家を後ろ盾とする小県郡の海野氏を押さえ込み、信濃の守護代であった佐久郡の大井氏を下して甲斐の武田氏と抗争を続けていた。義清は佐久郡を武田氏に奪われるが、武田信虎・諏訪頼重と結んだ天文10年(1541年)5月の海野平の戦いにおいて、海野棟綱・真田幸綱(幸隆)らを駆逐して、小県郡を完全に掌握することに成功している。
信虎を追放した武田晴信(武田信玄)の攻勢を受け、天文17年(1548年)、小県南部へ侵攻した武田勢を上田原の戦いで撃退する。この戦いで義清は武田方の初鹿野伝右衛門を討ち取っている。また、村上方の安中一藤太の一槍で倒れた諏訪郡代・板垣信方は上条織部に討ち取られた。この他に武田方は、甘利虎泰・才間河内守などの家臣を失うことになった。ウィキペディアより


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。